水も滴るイイ……
ハルシアは差し出した私の手をにぎったけど、助け起こしたのは形だけで、彼は自分の力で立ち上がる。
私の力で立とうとしない。
そういえばこの人、男の子だった。なんて、その仕草でふと感じたりする。
ハルシアは白衣の裾をしぼりながら話した。
「ちなみに婚約は、ほぼ解消できたんだ。マリアの家に行ったり、王宮に呼び出されたり。なんだかんだで丸々一週間もかかった。あとは事務的な処理をしてもらうだけ」
「ずいぶん大変だったのね」
「だって、いちおう王族の結婚だからね」
彼は茶化すように答えた。
ハルシアが王族だって私はもう知ってるから、ひらきなおってるみたい。
「いずれ僕たちの婚約なんて、自然と解消されるって考えてたのが間違いだった。マリアのことを考えたら、僕がはっきりさせるべきだったんだ」
びしょ濡れの髪をかきあげながら、ぽたぽたと水を滴らせて、どこか遠い記憶をめぐるような目を一瞬だけしていた。
なにか、彼の頭に思い浮かぶ過去の情景があるのだろう。
「……あの子さ、僕なんかが好きなんだって」
首を傾げて悲しそうに笑った。
「ハルシアは? マリアさんのこと好きじゃなかったの?」
「嫌いじゃないよ。でも、彼女に特別な何かを感じることはできなかった。嫌い、じゃないだけだったんだね。たとえ結婚したとしても、マリアと同じ感情はその先もきっと返せないってわかってた。だからこそ、せめて誰より一番大切にしようと思ってた」
あの日、真っ先にマリアさんを抱きしめに行ったハルシア。
好きだから、ああしたんじゃなかったのか。
私が叩かれたあの時、彼女の前で私を守るようなことをしなかったのは、婚約者という立場の彼女を優先したからなんだろう。
婚約解消だと言いつつ、最後まで婚約者であろうとした。
ハルシアは誠実でいたかったんだ。
好きじゃないからと突っぱねることができない、彼の優しさ。いつだって自分の気持ちは後回し。
バカだなあ。
この人はわりと損をするにちがいない。自分ではそうと気づかないうちに。
一見、世渡りが上手そうにも見えるけど、人から見えないところで思い悩む性格なんじゃないかな。
しんみりしそうになった私は、腰に手をあててわざと高飛車に言った。
「それで、いつまで池の中に立ってるつもり? タオルとお茶くらい出してあげるから、寄っていきなさいよ」
すぐそこにある私の研究室を目線でしめす。
「ありがとう。この服で、どうしようか考えてたんだ。乾かさせてくれる?」
……ごめん。もちろんです。
そういえば私が突き落としたんだった。
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研究室をあけ、ハルシアにタオルを渡して、今度はお湯を取りに行く。
そうして部屋に戻ると、ハルシアはびしょ濡れのシャツを脱ぎ、窓辺で絞っていた。白衣はすでに干してある。
さすがに下の黒いズボンは履いたままでいてくれた。
というわけで、上半身は裸。
うわあ。
ほどよく引き締まったイイカラダしていらっしゃいますね……。
思わず唾を飲みこみそうになって、慌てて目をそらした。
だって、学者のくせにひょろひょろじゃないとか予想外でしょ!
でもムキムキってほどでもないのがハルシアっぽいけど。
目をそむけたくせに、そうそう見る機会のないだろう肉体美を拝んでおきたくなって、こっそりと横目で二度見する。
おお、腰のラインが色っぽいです。
腹筋はほんのりとだけど割れていらっしゃる。
背中とか、わりと広くて綺麗なんですね。
「あの、クレーツィア……。見るなとは言わないから、せめて普通をよそおって。おねがい」
見ていたの、バレバレでした!
ハルシアは口もとに片手の甲をあてて隠し、眉をしかめている。困惑と照れが入り混じった様子だった。
見てもいい、なんて言わせるほど、私は見たそうにしていたみたい。
痴女だと思われてるかも!
恥ずかしいうえ、申し訳なくなって、ベットのタオルケットを押し付けるようにハルシアへ渡した。
もう十分に見たので隠してください。これ以上は目に毒です。
私は話題をあからさまに変えようと、机に置いた紙袋を指さした。
「私ね、街でベルサタンに会ったの。一緒にプツェロを食べたわ。ハルシアの分もあるの。ベルサタンが持っていけって」
「……プツェロ?」
するとハルシアは一瞬だけど、子供みたいな顔になった。泣き出しそうな子供の顔。
でも、すぐに眉をさげて笑う。
「……あいつ、まだあの店に行ってるの?」
嬉しそうで、どこかさみしそうなハルシア。
ベルサタンとハルシアの間でしかわからない、懐かしい出来事があるのかもしれない。
ハルシアもきっとあのお店のプツェロが好きなんだろう。それだけは私にもわかった。
「あ、冷製スープもある。クレーツィアの分も入ってるよ。プツェロは冷めちゃってるから温め直して食べよう?」
「私の分も入ってるの?」
ベルサタンは私の分じゃないって言ったくせに、蓋付きのカップに入ったスープはたしかに2つ出てきた。プツェロも2枚。
あの王子、憎まれ口たたくくせに結構いいヤツなんだ。
「でも、私ほぼ2枚食べてきたから」
正直、今はいらない気分だ。
そう言って断ろうとすると、ハルシアはにやりとする。
「そう? でもまだこのパウダーは試してないでしょ」
紙袋のそこから、さらに小さな包みが出てきた。
なんですか、その秘密の特製パウダーは!
3枚目も食べれちゃいそうな予感がする。
やりおったな、ベルサタン。