打ち砕け!
私は小走りで街中を駆け抜け、大学へ戻る。
だんだん、いてもたってもいられなくなった。
ハルシアは今、20歳。
まさに彼が自殺する予定の歳だ。
そう思ったら、こうしている間にもハルシアの命が削られていくような錯覚におちいった。
一刻も早く彼のもとへ戻らなければならない気がした。
私は息をきらせながら、いつのまにか全力で走っていた。
本当に、ハルシアは物語のように死んでしまうのだろうか。
この世界での人物像には小説とはちがう点がたくさんある。
ヤヒナルルーシュカは、悲劇のヒロインなのに破天荒な自由人だ。
弟のアニヴァルメアは自分の足で歩き、騎士団にまで所属できる健康体だ。
ベルサタン王子はクールなオレ様の設定なのに、ぜんぜんクールじゃない。
ハルシアも、もしかしたら。
もしかしたら……。
そんな淡い期待がわく。
でもそれ以上に、ハルシアの後ろにちらつく暗い影が気になってしょうがない。
彼はなぜ王族から除籍を申し出ているのか。
なぜ王族なのに、大学の研究棟に閉じこもっているの?
王宮で華やかな生活はしないの?
――彼の笑顔がたまに、仮面のように見えたのはなぜ。
「わからない。でも、ハルシアが教えてくれていないことがあるのはわかる」
彼を知りたい。
それなら私はその努力をすべきだ。
どうして教えてくれないの、なんて不貞腐れている場合じゃない。
物語の創作者として、ハルシアの過去をあれこれ知っているようには振る舞えない。
けれど友達としての私が彼を理解できれば、きっと彼の力になれる。なってみせる。
アニーヴの未来も変えられたのだ。
私は、彼を救いたい。
北の棟を脇目も振らずに通り過ぎて、私はハルシアの研究棟へ行こうとした。
けれど、北の棟の丸庭で私を待ち構えていた人物がいた。
その人は、走っていた私の腕をいきなり掴んで、引き止めた。
「クレーツィア! どうして逃げるの!?」
「ひ!」
急に引っ張られて、倒れこみそうになる。
その人はそれをしっかり受け止めてくれる。
優しい匂い。
ハルシアの匂いだ。
私はハルシアの腕の中へ、横向きに倒れ込んでしまったわけで。
あわわわわ!
ちょっと、いつになく接近しすぎ!
「ハルッシャア!?」
噛んだ! しかも全然かわいくない噛み方した!
「ごふっ!」
ハルシアが深刻な顔のまま吹き出した。
うん、そりゃ笑うよね。
ハルッシャアだって……へへっ。自嘲だわ。
驚きすぎて、裏返ったすごい声だったし。ああ、恥ずかしい……。
「 っげほ、くくっ……ごめん。何度も声かけたのに走って行こうとするから、君、僕から逃げてるのかと。そうじゃなくて、今の声が聞こえなかったのかな? 少し離れていたし」
笑ってるのか困ってるのか、悲しそうなのか、ハルシアはわけのわからない表情になってしまっていた。
めずらしく綺麗な顔が崩れてる。
「だめだ。ちょっと待って」
そう言ってハルシアは顔をそむけて、ひとしきり肩を震わせて笑ったあと、気持ちを立て直したようだ。
真剣な顔になって、ようやくこちらを見た。
「クレーツィアに謝りたくて来たんだ」
「……ちょっと台無し」
「うん。自分でもそう思うよ」
ハルシアが苦笑いになった。
ごめん、私が噛んだりしたせいで。
「それで、何を謝りにきたの?」
「うん? 僕がさ、婚約者のことは君に関係ない、大丈夫って言ったのに、この前思いきり迷惑をかけたよね。君をまきこんだ。……だから怒ってたんでしょう? 違うの?」
ああ、そのこと。
そういえばそうだ。
ハルシアに婚約者がいるって判明した時に、それでも私がいても大丈夫って、ハルシアは言ってくれたんだ。
私は別に、そのことで怒っていたわけじゃないけど。
「そうね」
ちょうどいいから、そういうことにしておこう。
ハルシアは言いにくそうに続けた。
「彼女がまさか大学まで乗り込んでくるとは思わなくて」
「私、浮気相手あつかいされたわ」
「ごめん」
「2回も叩かれた。ハルシアは彼女が叩くのを止めてはくれなかったわ」
「弁解のしようもないよ。本当にごめん」
あ。思い出したらちょっとムカついてきた。
だって、ハルシアはあの人を抱きしめただけで、私を守ってはくれなかった。
被害者なのに!
しかも浮気相手の濡れ衣がぶせられたのに!
それなのに本人たちは、ぎゅーぎゅーいちゃついてたとか。よく考えたらひどいわ。
「2回分よ。歯を食いしばって」
「え?」
とりあえず、私は腕を大きく振りかぶって、知ってる技を繰り出した。
流星のような右ストレート。
続いて、すくい上げるような鋭いアッパー!
頬、顎、とハルシアの顔に吸いこまれるようにヒットした。
まぁ、軽くだけど。
ハルシアはストレートでは持ちこたえたものの、アッパーは予想外だったのか、2発目で簡単によろける。
あ、と思った時には、彼の足元にあった小さな人工池に倒れこんでいた。
大きな水音が響く。
「ハルシア!」
私は池に突き落としてまで制裁を加えようとしていたわけじゃないから、ちょっと慌てた。
ハルシアは、浅い池の中に尻もちをついて私を見上げている。
頬に手を当てて、まだ不意打ちから抜け出せていないのか唖然としながら、つぶやいた。
「……僕、女の子にグーで殴られたの初めて」
「私も人にアッパーしたのなんて初めてよ」
肩をすくめてちょっと笑って見せるしかない。えへ。
いつまでもハルシアを池の中にいさせるわけにもいかず、手を差し出した。
「これで許してあげる、ハルシア。私たちの友情は元通りよ」
いろいろとこれで精算しよう。
いつか、彼が黙って死んでしまうかもしれない、許せない未来も。
全部なかったことにしてあげる。
まだ起きてもいない未来のことで腹を立てていたのは、間違っていた。
私がそんな未来をぶち壊せば済むはなしだ。
ハルシアは破顔した。
「僕は君のその潔さがとても好きだよ、クレーツィア」