王子がいた
「ポット借りるよ」
お茶を入れるために、ハルシアがお湯を沸かしに行こうとする。
私の研究室にはハルシアの研究室みたいに別室のキッチンはないから、ポットを持ってわざわざ外に出なければならない。
この北の棟には、2階と4階に火を扱える給湯室のようなものがある。それがいつも利用する簡易キッチンだ。
私の研究室は3階。
なので2階と4階どちらに行くとしても階段を使わなければいけないから、面倒をかけるんだよね。
「クレーツィア、紅茶の葉ってまだある?」
「あ、きれてる。このあいだ買ってきた紅茶の葉を寮に忘れたわ。取ってくるついでにお湯も持ってくるから。待ってて」
ハルシアには留守番していてもらおう。
「そう? なんか悪いな。僕も行こうか?」
「ありがとう。でもけっこうよ。研究室ならまだしも、寮の私室に男の人は入れられないわ」
「まるで無防備なんだと思ってたけど、ちゃんとその線引きはあるんだ」
ハルシアは気を悪くすることもなく、むしろ安心したように言った。
私の研究室はここだけれど、居住空間として与えられた寮の部屋は同じ棟の中に別にある。
まあ、ここに住んでいるって言っても過言じゃないほどだけど。
研究室ってなんとなく秘密基地っぽいし、親しい友達とは共有していい感覚でいる。
それに対して、さすがに友達とはいえ寮の一人暮らしの部屋へ男の子をあがらせるなんてことはできない。
私はいちおう、良いところのお嬢さんなので。
「ついでにお茶うけのお菓子も持ってくるから楽しみにしていて。最近ハマってるジャムとビスケットがあるの」
私はそう言ってハルシアを残し、研究室を出た。
留学生がいる北の棟は隣接した二つの建物になっている。
渡り廊下を使ってもいいが、丸い庭を挟んで向かい側にあるため、庭を通った方が早い。
私は少し早歩きだった。
一人で勉強する時間はとても大事だ。
そのためにこの国に来たし、あと二年足らずで必ず叶えなければならない望みもある。
でもハルシアとの時間はとても好きだ。
この国で唯一、心が休まるときだった。
不思議と、ルーシュカやアニーヴといる時のように、ほっとする。
彼は不安でたまらないときに効く、安定剤のようだった。
彼といるのは、楽だ。
早く戻って一緒に過ごそう。
話したいことがたくさんある。
私は紅茶とお菓子を抱えて、もと来た道を急いだ。
「ちょっと、あなた。よろしいかしら?」
振り向けば、儚げな美女がいた。
とても細くて、白い。
「私ですか?」
見知らぬ人だし、ドレスは豪奢だし、この大学には似つかわしくない人に見える。
話しかけられたことにびっくりした。
「あなた、殿下とどのようなご関係なの?」
「殿下?」
殿下って、サタン王子のことだろうか。
まさか王子殿下を馬鹿呼ばわりしたのがどこかからもれたの?
でも違う。
私は心の中で馬鹿王子と呼んでいただけで、本当に口にしてたのはハルシアだ。
濡れぎぬ。
濡れぎぬ。ごまかそう。
「どんな、と言われても……。遠い身分のお方ですわ。お言葉をかわすのも恐れ多いです」
「嘘をおっしゃい!」
はい、ごめんなさい! ホントは私があんな奴を考えた張本人です!
あんなに馬鹿だとは思わなかったけど!
儚げ美人がほろほろと泣き始めた。
私はぎょっとした。
「殿下とあなたがつれあって街へ降りたことを、わたくしは知っていますの! その上、北の研究棟に殿下が出入りされていると噂がたっています! この棟の留学生を訪っていらっしゃると! それはあなたのことでしょう! 正直に申しなさい!」
サタンと街へ?
サタンがあたしの研究室へ?
なにかの間違いだろう。
私はサタンとあれ以来会っていないのだから、とんだ人違いだ。サタンが誰か別の人と出かけたりしたのだろう。
「違うと思うのですが……」
「まだ知らばくれるというの!」
儚げ美人は、かっとなったように手を振り上げた。
えっ、ちょっと!
顔面狙い!?
目をつぶりそうになったとき、視界の端に飛び込んでくる第三者がいた。
「クレーツィア!」
ハルシアの声だ。
駆けつけてくれたのかも。さすがイケメン!
無条件に、彼が守ってくれる気がした。
身をすくめていれば、バシンっとこぎみよい破裂音がした。
私の頬だ。
あれ?
痛い。
きょとんとして頬をおさえて目をひらくと、私の前にハルシアの姿はなかった。
儚げ美人の後ろにいた。
彼は彼女を、ぎゅっと抱きしめていた。
なるほど、私は普通に叩かれたわけだ。
期待した手前、半目になりそうだ。
彼女は泣きながらまだ私を殴ろうとしている。
私がまだ唖然としていたせいで、バシッと頭に手が当たった。
普通、こういう場面で2発目をくらうかな!? 痛いし!
「マリア、落ち着いて」
いつもの穏やかな笑顔を彼女に向けている。
「ハルシア殿下……っ」
「僕はもう殿下じゃないよ。そう呼ぶのはやめてくれる?」
あっさりとハルシアが答えれば、毒気を抜かれたように美女は暴れるのをやめた。
ハルシアは腕をほどいて、彼女を覗き込んだ。
「王族からの除籍を申し出ているんだ。そう簡単にはいかないだろうけど。少なくとも今に、君の婚約者じゃなくなる。それをお互いにわかっているよね? もう僕が誰といようと、マリアが激昂してはおかしいよ」
「ハルシア様! それでも、わたくしはあなたと!」
「マリア、ダメだよ。君にはベルサタンがいる。彼は次期王位継承者だよ。君たちの結婚は、もう内々に決まっている」
「ベルサタン様はあなたではないわ! 結婚なんてできません!」
「そう? でも、ベルサタンは僕の弟だ。髪色を変えてみたら、僕ら兄弟はわりと似ているから、試してもらったらいいよ」
ハルシアは困ったように笑みを浮かべている。
いつもの笑顔だ。
すべてを覆い隠す、波のたたない海のような笑顔。
彼は誰?
「弟?」
私のつぶやきは小さすぎて、かき消えた。
――僕の弟。
ハルシアの言葉が私の頭に響き渡る。
――僕の弟。
「ハルシア様、そんなことでわたくしが納得できると、本気で思っていらっしゃるの?」
「勘違いをしてはいけないよ。これは王族の結婚だ。可哀そうだけれど、君の意思も理解も、関係ない」
2人の会話が遠く感じた。
――僕の弟。
ベルサタン王子の兄王子――?
それは物語の設定上に存在した人物だ。
なんということだろう。
気づかなかったなんて。
ここにもいた。
私が、運命を決めてしまった人。
笑顔の裏に、すべてを隠してしまうハルシアの深淵がようやく見えた。
彼は殺される。
彼自身に。