優しい人
雨が降りやまない。
なんとなく、気分は沈んでいる。
「まだやまないわね」
「やまないね」
外はあいわらず大雨だ。
勢いがますますひどくなったようにも感じる。
ハルシアはエッグトーストを1枚ペロリと食べて、コーヒーを飲んでいた。
私はまだトーストを半分しか食べれていない。そわそわと落ち着きなく窓を見ているからだ。
ハルシアは遠視のようで、本を読んだりするときは眼鏡をかける。
今も眼鏡をかけて、コーヒーを片手に手紙を読んでいた。
今朝方、彼に届いたらしい手紙はけっこう上質な紙。開けるときは厳重な封がしてあったようだ。
「勉強は楽しい? クレーツィア」
ハルシアは何気なく聞いてくる。
気もそぞろな様子の私を思いやってのことかもしれない。
声のトーンが、いつもよりゆったりとしているから。
「べつに楽しくはないわね。私、昔から別に勉強は好きじゃないの」
私は正直に答えた。
頭のいいこの人は嘘をついてもすぐに見抜くだろうから。
ハルシアは読んでいた手紙から顔をあげ、少しだけ驚いたように目を向けてきた。
そして手の甲を口にあてて、くくっと笑う。
「じゃあ君は女の子なのに、どうしてそんな薬学を学びたいの?」
私はフォークを置く。
カチャリとお皿が鳴った。
「女の身で勉強するのはおかしいこと?」
「ううん、僕はそうは思わないけど。でも、この道は君のような女性にとって厳しい。それが世間の見方だ。君みたいな子にはもっと楽で幸せな道が必ずある」
「そうかしら」
「そうだよ。だって事実、君は無理をしてるじゃないか」
「あら、私、勉強は好きじゃないけど、嫌いでもないの。私には合っていないとでも言いたいの?」
なんとなく、むっとした。
お前にはできない、合っていないと言われたような気がした。
「ごめん、そういう意味じゃなくて。……君ってその年頃にしてはかなり分別がつく子みたいだし、たぶん、本当ならこんなことをしたがらない性質だと思ったんだ」
ハルシアがこんなこと、と暗にいうのは、こうして彼の部屋に無理やり押しかけることだろう。
かなり迷惑だとわかっていて、私は今日までここに通っていた。
心苦しくなかったといえば嘘になる。
ハルシアの言うとおりだ。
私は人に迷惑をかけたり、強引に要求を通すのはたしかに苦手だ。
彼に婚約者までいるとわかって、もうさすがに、と気がひけてしまったくらいだ。
私のことだ。きっともうここには来れないだろう。
ハルシアは席を立ち上がって、うつむいた私の傍まで来て、床に膝をついた。
「君は何かに迫られたように必死に見えた。だからなにか、大きな理由があるのかなと思って」
そう言って覗き込んでくる。
――本当に優しい人だ。
ハルシアは私の性格を見抜いていて、そのうえで、我がままを許してくれていたのだ。
私の様子を観察していたのかもしれない。
見上げてくる彼は、薄青い瞳で。
なんだか無性に、泣きたくなるくらい優しい色に見えた。
ダメじゃないか、ハルシア。
金髪碧眼なんて、まるで王子さまじゃない。
そんなに優しいからこんな女に付け込まれるんだよ。
今まで本当にごめんね。
「……助けたい人が、いるの」
声が震えそうになる。
「うん?」
「わたし、必死だよ。死にものぐるいよ。いくらでも他人を利用だってできる、してみせる。大切な……人のためだから」
大切な弟、と言いそうになったけれど、とっさにごまかした。
現段階でアニーヴは病になっていないのだ。未来の弟を救う、なんて頭のおかしいことまで言えるはずがない。
「……そっか。それはがんばらないと、だね」
ハルシアは笑った。
やっぱりいつも通りの穏やかな笑顔だ。けれど、なんでだろう。いつもより少しだけ温かく感じた。
「ねぇ、クレーツィア。目的があって本気で頑張る子へ知識を分けるのは、僕にとって迷惑でもなんでもないんだ。乞われれば喜んで手を貸すよ。それに、君は賢い。僕の知らないことも知っている。君には気の毒だと思うけど、そのうちあの研究品の注射器のことも、本当はもっと聞いてみたい」
ハルシアは、私を気遣って注射器の研究を聞かないでくれていたのかな。
そりゃあ、普通なら、すぐには立ち直れないほどのことかもしれないけれど。
気になっていたなら、聞けばよかったのに。
くすりと笑ってしまう。
「僕にはたしかに婚約者がいるけれど、大丈夫、君には関係のないことだよ。気にしなくていい」
「……つまり?」
「つまりさ、僕たちは今まで通り、お互いに知識を分け合う友人でいるのは、いけないことかな?」
「私はまたここに来てもいいってこと?」
ハルシアはにっこりする。
それが答えだった。
この、えげつないほどのイケメンめ!
我慢している涙腺を崩壊させる気か!
「もちろん、君が来たければだけど……」
ハルシアがそう言葉をつなげようとした時。
隣の部屋で、なにかが割れるような大きな音がした。