与えられぬモノ
この男、いい笑顔で人に鉄拳を打ちこめる系男子なのか。
一瞬で、いい人に見えなくなった。
がっかりです。
その青年は、私の失望加減が面白かったのか、くくっ、と笑っている。
「こっちにおいで」
そう言って手招きし、私がついてくるのを確かめもせず、どこかへ歩き出した。
あまり乗り気しないけれど、ここにいても研究品はどうしようもなさそうだから、ついて行くことにする。
「あそこはよく人が通るし、衛兵がいる前で、いろいろ話すわけにはいかないから」
そんな前置きをして、青年は棟の裏手にあった屋根つきの草園に私を連れてきた。
たくさんの珍しい草花が、鉢に植えてあったり、地面に直接生えてたり、または流水装置に浸かっていたりする。
あ、あれ苺っぽい。美味しそう。
「えっと、ここには人がこないの?」
「僕の薬草園だからね」
青年は秘密基地にご招待してくれたみたいだ。
なんていうか、微妙な心境。
昼間だし、声をあげればすぐそこに門番さんもいるけれど。
見ず知らずの人にこういうことされると、ちょっと怪しんでしまうわ。
私いちおう、女の子なんで。
「人気のないところで何を話すの?」
ちょっと顔を引きつらせて私が問うと。
青年は盛大に吹き出した。美人は吹き出しても絵になるのか。
「ごめ、その反応がちょっと新鮮で……。警戒しないで、変なことはしないから」
「わ、わかってるわ!」
私だって、こんな美形が私なんかにちょっかいを出すほど、女に困ってるはずないと思うけど。
「ところで、あなたは?」
ひとまず、何者かは知っておこう。
「僕はハルシア。この研究棟の2階で、主に植物の研究をしてるんだ」
ハルシアと名乗る青年は、かちゃりとメガネを外して白衣のポケットに差した。
メガネを取ると、ずいぶん面立ちの綺麗な彼が、けして女顔ではないのだとわかる。
切れ長の目つきは精悍だ。
ちゃんと向き合ってみれば、私より少し年上に見える。
ハルシア、という名前に覚えはない。
私が書いた小説にはでてこない人なのだろう。
物語の主人公だったクレーツィアのもとを離れてからというもの、私はこうして自分の作った設定にはない事柄に、たくさん触れている。
おかげで、この世界のすべてを知っている気になっていた自分が、ちっぽけに思えたりした。
「で、話したいのは君の研究品についてなんだけど」
ハルシアからそう切り出してくれた。
「そう。なんとかして取り戻せないかしら?」
「いや、さっきも言ったように、もうあれを取り戻すことはできないんだ。正式な申請なしには、この棟から研究成果品を持ち出せないことに法律で決まってる。とはいえ、もちろん、留学生の君にその申請をする権限はない」
「それって……」
「この棟の扉をくぐった時点で、君の研究は盗まれてるってわけ」
やっぱり、そういうことね。
なんだか清々しいくらい姑息だったから、むしろ呆れてしまう。
「大切な研究品は正式に発表するまで、他人に触れさせてはいけないものなんだって、よく教訓にしておくんだよ」
ハルシアは物腰穏やかに教えてくれた。
「ええ、よく覚えておく」
ため息をついて、天を仰ぐ。
まぁ、あきらめも肝心だ。
それに、あの研究品を盗られただけなら、そこまで痛手にならずにすむかもしれないし。
そう考え直していると、視線を感じた。
「なに?」
「いや、実は泣くかなって思ってた」
くすりとハルシアが笑う。
「泣いて、なにか解決するの?」
「しないね」
「そう、しないのよ」
よろよろと泣き崩れて、立ち入り禁止の研究棟に入れるなら、いくらでも泣いてやる。
もし私が泣いて、家族が死ぬ運命から逃れるなら喜んで号泣する。
でも、そんなに甘い世界じゃないってことは痛いほどわかったから。
「それにね、もし私が泣くとしたら、それはあなたの前ではないの」
私はきっぱりと言って、少しだけ微笑んで見せる。
「ああ、君には泣き場所がちゃんとあるのかな」
ハルシアは優しく目を細めて、理解を示してくれた。
私はこの人生で、他人の前で泣いたのはたった一度。
不安と絶望に流れた、私の涙を知っている子がいる。
彼女はあの日、私のことをまっすぐ見ていた。
私がめいっぱい抱えていた不安も絶望も、あっさり受け止めてくれた。
どうしようもなくすがってしまった私を、救いあげてくれたのだ。
――あたりまえだよ。
そう言って。
それ以外に答えはない、当然のことのように。
その言葉はまるで、水面にぽたりと水滴が落ちたように、波紋を残し、私の中に響いて染み込んだ。
私は今でもあの日を思い出す。
それまで手のかかる妹みたいに思っていたけれど、その時から変わった。
照れ臭くて言ったことはないけれど。
私はあの日、心の中で――あの子に忠誠を誓ったのだ。