【第二章】マオウ国
「研究棟に入るのはあきらめるわ。でも、研究品は返して。今までどおり、うす暗〜い北の棟で地道に作りあげるから」
私は言葉に嫌味をこめて、広げた手を突き出す。
私がこの大学で、寝食と研究のために部屋を与えられた北の棟は、日陰者の名にふさわしい場所にあるのだ。
もう少し日当たりのいい場所にしてくれたっていいのに、と思っていたりする。
もしかしたら、大きくて綺麗なこの研究棟で私も勉強できるのかな、なんてついさっきまで淡い期待を抱いていたんだけどな。
まあとにかく、数年をかけ完成しかけている注射器だけでも持って帰ってやる。
しかし、門番の男は首を横にふった。
「悪いが、私から研究成果を返すことはできかねる」
「なら、誰に言えばいいの?」
「研究棟の主任格へ」
「じゃあ、いいわ。この棟の主任に会わせて。中にいるんでしょう?」
「この棟は留学生の立ち入りは禁じられている」
こうして振りだしに戻るってね。
不毛なやりとりのループですか!
「あのねぇ!」
私が食ってかかろうとしたときだ。
「――何事?」
まるで澄んだ水のような声だと思った。深みがあるのに低すぎず、それでいて、溶けてしまいそうな柔らかい音。
「これは、ハルシアさま。お騒がせして申し訳ありません」
私と言い争っていた門番が、すぐさま一礼する。
私が振り返れば、そこには一人の青年が立っていた。
白衣を着た、とびきりのメガネ美青年だ。
いいね! 眼福です。
なにより、その声がね!
声が好みにどんぴしゃ。最高!
クリーム色の柔らかそうな髪は、肩につかないくらいの長さ。メガネ美人さんって感じかな。
私と同じく、若手の研究者のようだ。
さま、なんて呼ばれるくらいだし、若くても少しは偉い人っぽい。
私の研究品を返してくれるかも。
「君は?」
「私はクレアツィツィン・エルマ。竜の国からの留学生よ。昨日取り上げられた、私の研究品を返してもらいたいの」
この人の物腰が柔らかいから、私もできるだけ丁寧に返事をしたつもりだ。
なんとなく、話をわかってくれそうだしね。
相手がイケメンで、警戒心が薄れたっていうのもあるけど。
「研究品?」
メガネの青年はおや、という顔をする。
私は、身を乗りだして説明した。
「そう、注射器よ。薬物を皮下へ直接投与するための細い針がついてるの。でもまだ作成途中で……」
「ああ、昨日4階の研究室に持ち込まれてたやつか。僕も見たよ。君が作ったものだったんだね。あれは、うん、確かによかった」
青年は思いあたるものがあったらしく、うなづき、口元をほころばせて評価してくれた。
なんだ、やっぱり良い人だ。
こうして褒めてもらうと、嬉しくなってしまう。
「そうでしょ! 実用できれば、医薬の現場にかなりの改革が起きるわ」
「うん、そう思う」
マ皇国に来ていろいろ苦労しているけど、ほら、ちゃんと認めてくれる人もいるじゃないか。
最近いいことなかったから、気分が良くなる。
あとで注射器が手もとに戻ってきたら、一刻も早く完成させて、竜の国にも送りたい。
“緑斑病”に少しでも備えておかなくっちゃ。
「でも、あれは取り戻せないよ」
穏やかな笑顔で、そいつは言った。