帰路
私はいつの間にか気を失うように眠っていました。
涼しい風が肌を撫でるので、寒さで身を震わせて目を覚まします。すると、眠る前と状況が変わっていたので驚きました。
自分の想像以上に時間は過ぎていて、辺りはすっかり日が暮れていました。
残映によって、キラキラと照り輝く川面。広大な空は微かに茜色に染まっていて、燃える焔のように赤い街並みが遠くで広がっています。
今まさに陽は沈みかけ、夜の帳が落ちようとしていました。
その光景の美しいこと。私は知らず心奪われ、しばらく見入るほどでした。
この赤く柔らかい夕陽は、冷えていた私の身体を包み込むように仄かに温めてくれます。
ざらざらと醜く荒んだ私の心まで癒してくれるように。
思い出してみれば、ウォルフはお日様のように私をいつも見守ってくれていました。
今に至るまで毎日ずっと。
彼は優しいだけではなく、たまに怒ることもありましたが、それは私に原因があってのこと。物事の道理や理由を面倒くさがらず教えてくれたのも彼でした。
当たり前のように彼の優しさを受け取り、それを失いそうになって、離したくないと求めて縋りつこうとした私。
彼はいつも私のために尽してくれました。それなのに私は。自分のためにお色気作戦で彼を嵌めようと企てて――。
やっと彼が苦労の末に幸せを掴んだのに、私は自分のことしか考えず、こうして泣き喚くばかり。
なんて浅ましかったのでしょう。
今までの可哀想な自分に別れを告げ、私はウォルフのために行動しようと思えるようになりました。
「帰らなくちゃ……」
ウォルフが待つ家に。
家に帰れば、きっと彼から結婚話を打ち明けられるはず。
私は彼のために祝福しようと決心しました。それが今までお世話になった彼に対する礼儀だと思ったからです。
今まで受けた恩を私は忘れてはいません。
お色気作戦はかえって失敗に終わって良かったのです――。もし成功していたら、ウォルフは本当に好きな人と結ばれなかったのですから。
私は立ち上がると、家路を急ぎます。
警備として兵隊が巡回しているとはいえ、暗い道を若い女が一人で歩くのは危険でした。夜になれば、たちの悪い人間がうろついているからです。
家に近づくたびに夕日は儚くなり、辺りを照らす光は消えていきます。
やがて、完全に真っ暗になった時、私は不安で堪らなくなりました。
日中の活気は何処へ行ったのやら。雰囲気がまるで変わり、通りを歩く人は疎らで、不穏な空気が辺りに立ち込めていました。
そんな中、私はただ黙々と走るのみ。厄介な人に出会わないように祈りながら、急ぐだけでした。
ただ、地理的な問題で、どうしても繁華街の近くを通らなくてはなりません。賑やかに並ぶお店の明かりが街路を明るく照らしていても、私の心境は不安でした。何しろ、そこには利用客が辺りを歩いているからです。
私が他人と関わらないように歩いていても、日没後に歩いている女は、商売女として勘違いされてしまう恐れがあります。
「よう、ねえちゃん、俺と遊ぼうぜ」
不安は的中してしまい、柄の悪そうな男が一人、私に声を掛けてきました。
「すいません、急いでいるので」
素っ気ない態度で私が逃げようとすると、男は私の腕を突然掴んできました。
「いいだろ~、ちょっとくらい付き合ってくれても」
からかっているのでしょうか。にやにやとふざけた笑みを浮かべて、面白そうに私を見ています。
私は怖くて、泣きそうになります。
抵抗しても離して貰えず、強引に引っ張られて、何処かへ連れて行かれかけた時。
「マリー!」
聞き慣れた声の主が現れたのです。
「ウォルフ!」
私がその主の名前を呼ぶと、血相を変えたウォルフが私の元へと駆け寄ってきました。
「なんだ、連れがいるのかよ」
ウォルフの姿を見た瞬間、男は私の手を離して、何処かへ消えて行きました。
どうやら相手は揉めごとを避けたかったようです。
突然の登場により、私を危機から救ってくれたウォルフ。けれども、彼は汗びっしょりで顔は疲労の極みでした。
彼はそのまま力尽きたように地面に膝をつきます。
「ウォルフ、大丈夫!?」
私が慌ててウォルフの元へ駆け寄って同じように屈むと、彼によって強引に身体を引き寄せられました。
私はウォルフの腕の中にすっぽりと収まります。
鍛えられた逞しい腕で捕えられて、私の心臓は激しく鼓動します。
一瞬にして私は幸せの興奮に包まれますが、彼の異変にすぐに気付くことに。彼の身体は小刻みに震えていて、私を必死に抱き締めていたのです。
「……ウォルフ?」
彼の様子を気遣った途端、彼は深く息を吐きました。
「――良かった。マリー、君が無事で」
その彼の安堵の言葉に私は我に返りました。
いつまで経っても家に帰らない自分を心配して、恐らくウォルフは辺りを必死に探しまわったのでしょう。
そのため、彼は疲れ切っていたのです。
「ご、ごめんなさい……」
私は謝りながら、再び涙が溢れて止まりませんでした。
自分をここまで心配してくれる人は彼以外にいません。そのことが嬉しくて仕方が無く、さらに彼へ感謝の気持ちが募ります。
「無事なら、もういいんだ。それより、早く家に帰ろう……」
「ええ」
自然と私たちの手はつながれ、そのまま無事に自宅へ戻りました。
ところが、部屋の明かりをつけた直後、目に入って来た室内の光景に私は唖然とします。
思わず立ち尽くしてしまうほどの驚きのために。
一階の台所は、物で散らかり放題。食卓の上は使った食器すら片付けられていません。一日家を空けただけで、酷い有様でした。
「ごめん、なんだか何もする気になれなくて……」
私の横に並んでいたウォルフは、ばつが悪い表情を浮かべています。そんな彼を見て、私は合点がいきました。
ハント様が言っていたことを思い出したからです。ウォルフは彼女に恋愛対象外と言われて思い込んでいたと。そのせいで落ち込んでしまい、気力を失っていたのだと察します。
「でも、今日あの女性が指輪を受け取ってくれて、プロポーズがうまくいって良かったじゃない!」
私はウォルフを祝福するために咄嗟に口にしてしまいました。彼から事実を伝えられる前に。
「え!?」
ウォルフは驚愕の表情を浮かべた後、「一体何の話? どうして指輪のことを知っているの?」と怪訝な顔つきで追及してきます。
私が口にしたことは、彼からしてみれば本来私が知らないはずの出来事でした。
そこでようやく私は自分の失言に気付きました。




