過去
当ても無くさまよい歩いた私は、いつの間にか広い川岸に辿り着いていました。
膝丈くらいの雑草が覆い茂った場所には、私一人きり。
その場に腰を下ろすと、私は思いっきり声を上げて泣き続けました。
ウォルフと一緒にいた女性は、私よりも遥かに年上で、さらにウォルフよりも若干年上に見えました。
彼が熟女好みだったなんて!
ようやく子供から抜けた自分なんて敵うはずもありません。
どんなに涙を流しても、悲しい気持ちは消え去りません。ただ、胸をえぐる事実は頭から消えず、苦しみから逃れるように泣き叫ぶだけです。
それは疲れ果てるまで続き、私の身体は草むらの中へ倒れてしまいました。
私は朦朧とした意識の中で昔の事を思い出します。
ウォルフに助けられたのは、今から五年前。
そう、私がまだ領主の子供だった頃でした。
妾だった私の母。田舎には珍しいほどの美貌の持ち主でした。
奉公に上がった領主の家ですぐに父の手付きとなり、私を授かった後には余裕の愛妾人生を歩んでいたのです。
領主の館に私たち親子は一緒に住んでいて、優遇された暮らしをしていました。ですが、私の父である領主が老衰で亡くなった後、生活は一変。腹違いの兄が後を継いだ後、正妻である奥様によって、私たち母娘は領地を追い出されることになったんです。
けれども、奥様も少しは良心が咎めたのか、私たちに行き先を用意してくれました。
私たちの身元を頼んだ先は、亡くなった父の姉のもと。
私にとっては伯母である彼女は、夫に先立たれた後、隠居生活を送っていました。
ですが、そこは領地から遠く離れた場所で、女子供だけで向かうのは物騒でした。何しろ、夜盗、人攫い、紛争などが、頻繁に起こるような世の中でしたので。
そのため、道中の護衛として家人を二人付けてくれることになったんです。一人は髭を生やした中年のフィン、もう一人が青年ウォルフだったのです。
フィンはどこか卑しい笑みを私の母に向けながら「よろしくな、お嬢さん方」と私たちに挨拶をしてくれました。
その一方で「よろしくお願いします」と人の良さそうな笑みを添えて声を掛けてくれたウォルフ。そして、彼は私たちに頭巾を渡してきました。
「あなた達の容姿は目立ち過ぎるので、これで隠して下さい」
「まったく、しょうがないわね」
ウォルフの言葉に渋々といった感じで、私の母は従っていました。
私と目が合ったウォルフは、細い目をさらに糸のように細くして、ふんわり優しく微笑んでくれます。私の中で彼に対する好感がこっそり上がりました。
それからの道中は、ひたすら移動の日々でした。馬車が出ているところは、それに乗り合いますが、移動手段が無い場合は歩くしかありません。
一週間ほど経った頃、慣れない環境は私の身体をあっと言う間に蝕みます。
妾の子として肩身の狭い思いをしていたものの、使用人たちによって恵まれた生活を与えられたお嬢様だったのですから。
その結果、まだ幼い身体は厳しい環境の変化に耐えられなかったのです。
道中熱を出し、倒れて動けなくなった私に皆が困り果てた時。ちょうど間がよく、立派な馬車が背後から近づいてきました。
素早い動きで母は、馬車の前に立ちふさがります。
「どけ、女!」
通行の邪魔をされて馬車を止めた御者が、私の母に向かって叫びます。
「助けて! 娘が熱を出して苦しんでいるの!」
母は大きな声で馬車に向かって訴え掛けました。その時、母は頭巾を取って見せつけるように顔まで晒して。
金色の豊かな長い髪は、太陽の光を受けて輝くばかりに美しく。大きく見開いた深緑の瞳は、思わず引き寄せられる不思議な魅力を備えています。
そして、苦労を知らない肌は、子供を一人産んでいても若々しく艶やか。
遠くから見ても、母の美しさは際立っていました。
思わず御者は言葉を忘れてしばらく見入ってしまったほどです。
「い、医者にでも診せればいいだろう。我々には関係ない! いいから、どくんだ!」
我に返った御者と母は睨み合い、この場は緊迫した雰囲気に。馬の嘶く声だけが辺りに響きます。
そんな時、「待て」という静かな声が。
馬車の中から男が顔を出しました。
身なり素敵な中年の男は、母を頭のてっぺんからつま先までじっくりと見つめて、最後に意味深に笑います。
「お困りなら、お助けいたしましょうか?」
それから男は私たちを馬車に同乗させてくれました。
私は彼の屋敷で看病されることとなり、寝台でゆっくりと休養できるようになったんです。
ところが、一週間が経ち、私が順調に回復した頃、私は母から衝撃の告白をされます。
「あたし、ここで妾として暮らすから、マリーだけで旅をしてね」と。
そう娘に告げた母は、以前父の妾をしていた頃のように美しく着飾っていました。
私の母はすっかり妾人生に慣れてしまい、今更奉公人に戻って誰かに仕えるなんて、まっぴら御免だったのです。
私を若くして産んだ母は、まだ二十六歳と女盛りの最中。
私たちを助けた男を持ち前の美貌で垂らし込んで、すっかり深い仲となっていました。
「あんたも妾を目指すなら、一緒に残ってもいいけど。ま、お勧めはしないけどね」
カラカラと愉快そうに笑う母に、私は何も言い返せませんでした。
落ち込んだ私を二人の男が連れて旅は再開されました。
ところが、街道を通過中に軍隊の行列に出くわして、その物騒さに私たち三人は木陰に姿を隠すことがありました。
物々しい状況に不穏な雲行きを子供だった私も感じるくらいでした。
「一体何があったんだ?」
道中寄った大きな街で情報収集した結果、なんと私たちの故郷が他国に侵略されてしまったようでした。
どうやら領主の変化により情勢が悪くなり、戦争まで発展していったようです。偶然とはいえ、疎んじられて遠ざけられた結果、私たちは幸運にも争いに巻き込まれずに済んだのです。
しかし、私たちは故郷を失くしてしまい、その日の夕餉は言葉無く沈痛なものでした。
次の日の朝、さらに悲しい出来事が待ちうけていました。
なんと、フィンが有り金を持ち逃げして、姿を眩ましたのです。
所持金が無くなり、旅を続ける事が非常に困難な状況に陥った私たち。
私はウォルフにも見捨てられるのではないかと、不安で堪りませんでした。彼の主である領主は既にいません。もう護衛の命令を守る必要は無く、私の身の安全など、他人である彼には関係ありませんから。
けれども、彼は私を無事に伯母のもとまで送り届ける事を約束してくれたのです。
「でも、お金をなんとか稼がないと」
幸いなことに、滞在していた街が活気のあるところだったので、働き口には困りませんでした。
日雇いの仕事で生活費を稼ぐ日々。
ウォルフのお陰で私は飢えずに済み、路頭に迷う事はありませんでした。
苦労の末に路銀を貯めて、やっと目的地までに着いた時、すでに半年もの月日が流れていました。
何事もなければ、半月ほどで着いていたはずなのに。
ところが、更に残酷な運命が私たちを襲いました。
伯母が一ヶ月前に亡くなっていたのです。
父と同じように高齢の為の老衰。すでに葬儀は終わっていて、伯母の財産と遺品は全て片付けられた後でした。
「そ、そんな……!」
もはや私に頼るところはありません。
自分の命運はウォルフが握っているといっても過言ではありませんでした。
どうすればよいのか困り果てて、私はただ泣くことしか出来ず。まだ私は子供だったので、心細くて悲しくて、世の中の終わりに放り込まれた状態でした。
そんな時、ウォルフの一言が、私を救ってくれたのです。
「大丈夫、僕についておいで」と。いつものように人の良い笑みを浮かべながら。
彼は私の手を引き、来た道を戻ります。
彼の優しさ、思いやり、心根の良さ。
何より、彼の手の平の温かさ。
彼の存在を私は感謝せずにはいられませんでした。
そして、この時から私にとって、彼が唯一の人となったのです。