想定外
家の扉をノックする音が聞こえ、次に「マリー」と弱々しく私を呼ぶウォルフの声がしました。
私は間違いなく彼だと確認。すぐに肩掛けを脱ぐと、急いで扉の鍵を開けました。
「ウォルフ!?」
私はウォルフの姿を見て、思わず声を上げてしまいました。
なんと、私の目の前には、泥酔した彼の姿があったのです。目を見張るほどの美男子に肩で支えられて、辛うじて立っているウォルフ。
付き添い人は、なんと上司のハント様でした。
暗がりに溶けた彼の長い黒髪。後ろで一つに束ねているので、顔周りはすっきりしています。そして、彫りの深い目鼻立ちに加え、力強い眼差し。注目されるだけあって、優れた美貌は一目瞭然でした。
そして、騎士として国王に仕えているだけあり、立派な体躯をされています。また、上品な身なりと立ち振る舞いは、庶民とは違う特別な雰囲気を醸し出していました。
ハント様の存在に驚いたものの、今の私には貴人に気を配る余裕はありませんでした。
ウォルフは顔色が真っ赤に染まっていて、身体はぐったりして力が入っていません。目に力は無く、意識が朦朧としているのは傍から見て明らかでした。
ウォルフにしては珍しい醜態です。私は彼の体調が心配で、動揺してしまいます。
「ウォルフ、大丈夫!?」
「マ~リ~、帰ったよ~」
ウォルフはハント様から離れて私に抱きつきます。深酔いしてしまった彼は、私に体重を思いっきり掛けるので、このままでは二人とも床に倒れそうでした。
「ちょ、ちょっとウォルフ! しっかりして!」
私は重くて仕方がありません。本当に酔っ払いには困ったものです。寝かしつけるのが一番だと早々に結論を出しました。
「ウォルフ、今日はもう寝ましょうね!」
私はウォルフを何とか歩かせて、階段まで連れてゆきます。
こんな状態で二階まで連れていけるかと心配しましたが、そこまで辿り着くと、彼は這いつくばるように階段を自分で上がってくれました。
それから私が見守る中、彼はふらふらしながらもベッドに直行。ムニャムニャ言いながら、すぐに寝息を立てて眠ってしまったようです。
待ちに待ったウォルフの帰宅だったのに、肝心の彼がこんな状態とは。
予想もしなかった結末に、私は落胆するしかありませんでした。
「もう、ウォルフったら!」
作戦は未遂のまま終わり、私も寝ようと思い直します。不貞寝ですよ、不貞寝! でも、下から物音が聞こえてきて、私は思い出しました。玄関の扉の鍵を開けっぱなしだったことを。
ここは広大な領地を支配している大国の首都。他国から容易に侵略されず、絶対的な王制によって統治されているお陰で、内政は安定しています。
けれども、決して犯罪が無い訳ではありません。女子供は暗い夜道を出歩かないほど、世の中はまだまだ物騒でした。そのため、常々用心を忘れなかった私は、施錠するために再び一階へ降りて行くことにしました。
すると、私の目に映ったのは、入口で立ち尽くしていたハント様。
ウォルフに付き添ってくれたお礼を述べなくては――。
それに気付いた私は、慌てて彼の元へ近づきます。
「ありがとうございます! ウォルフが大変お世話になりましたぁぁ?」
なんてことでしょう! 私の足がもつれて、体勢を崩してしまいます。しかも、急いでいたため、小走りしていたので、勢い余ってハント様にぶつかってしまったんです。彼の胸に飛び込んでしまい、不可抗力で彼に抱きつく結果に。
そそかっしい私を受け止めてくれた、頑丈なハント様の腕と胸板。さすがはウォルフの上司です。私の身体を余裕で受け止めて、びくともしませんでした。
「も、申し訳ございません……!」
私はすぐに謝ってハント様から離れようとしました。けれども、彼はがっちりと力を入れて私を掴んだまま。さらにどういうことでしょう――。彼は後ろに手を回して私を抱きしめてきました。
私は相手の反応に戸惑い、視線を上に向けて彼の表情を窺ってみると、彼は身動きせず呆然と私を見つめたままでした。
い、いえ、違います――。
私の顔と身体をガン見しているではないですか!
私はこの時、彼の視線によって、やっと自分の素顔を晒していることに気付きます。
さらに、自分の破廉恥な格好を思い出す始末です。
一気に血の気が引いてパニックになり、「きゃぁ!」と品なく叫んでしまいました。
「最近の若い娘は、ずいぶん積極的だね」
ハント様は言いながら、私の頤に手を当てて、「私がもう少し若かったら、確実にこの場で頂いていたよ?」と口元に笑みを浮かべます。
ハント様の目つきには、まるで獲物を狙う肉食獣のような鋭さがありました。
私は身の危険を感じずにはいられず、ゾクリと自分の背筋に寒気が走ります。
「ち、違うんです!」
私は彼の誤解を解こうと否定を即座に口にしました。
ところが、そんな私をハント様は小さく笑います。
「恥ずかしがらなくていい。確か、マリーと言ったね? 君の気持ちはよく分かったよ」
ああ、なんということでしょう!
残念ながらハント様は勘違いをしたまま。
彼は身動きの取れない私に顔を近づけて、軽く頬にキスをすると、やっと私を解放してくれました。
「もう今日は遅いから、大事な話は後日にしよう。では」
ハント様は優雅な身のこなしで、私に頷くように軽く頭を下げると、しっかりとした足取りで我が家から去って行きました。
その直後、私は震える手で扉を閉めて施錠しました。
予想もしていなかった状況に、私の思考は混乱の渦へ落ちて行きます。
よりによって、上司のハント様にお色気作戦を実行してしまったなんて――!
早鐘のように私の心臓は脈打ち、その激しさに動揺して思わず胸に手を当てます。泣きたくても、自分の迂闊さがそもそもの原因で、涙すら出てきません。
不安な胸中を抱えたまま、私は寝付けず――。けれども、いつものように朝日が昇り、一日が始まりました。