9.事大主義最大の屈辱(仁祖と三田渡)
朝鮮王朝500年の歴史を勉強すると一種異様な世界に感じるのが「朋党党争」である。500年間の朋党党争を読んでみると得た物よりも、失った現実の方がより大きかったと韓国人の識者も一部で認めている記載もある。
韓国ソウルでの会話でも、党派争いは、現在でも盛んで、弊害が利益よりも大きい場合もあると聞いた記憶もある。
『事大主義』を三回に渡って考えているが、その根っこは何処で「朋党政治」と深く繋がっている事実を感ぜずにはいられない。
本家の朱子学と違って、より純粋性を高めた朝鮮王朝の朱子学は、「朋党政治」の惨禍をより増進させる絶大な効果があったと東方の島国から見ると明確に断言できる。
理論的に純度が高まるに従って個々の哲学の切れ味は格段に増すが、その反面、現実政治との乖離が信じられないくらい増大する傾向にある。朝鮮王朝での朱子学探究の結果、精神的な『事大主義』の理論が優先し、現実の政治や外交の実態から眼を背ける事態が生じる場合がままある。
今回は、「壬辰倭乱」で苦労した宣祖の後半から、次の国王光海君、そして、「仁祖反正」に至る三代の『事大主義』の流れを分かり易く理解するために、次の三つに分けて進めてみたい。
(朋党政治の流れと成果)
(光海君とサルフの戦い)
(仁祖反正と三田渡の屈辱)
始める前に、朝鮮王朝を取り巻く当時の東アジア情勢について、お復習いしてみよう。
宣祖の時代、日本軍に攻め込まれた李王朝は崩壊寸前までいったが、明国の救援と秀吉の死によって蘇生することが出来た。幸いな事に秀吉の後、天下を取った徳川家康は、「善隣友好」政策を採り、相互和平の交渉が開始されている。
一方の中国北部では、新興勢力の女真族の英傑ヌルハチが全女真族を統一、加えてモンゴル族や漢族の一部の協力を得て、「後金」を建国、明と対決姿勢を執り始めていた。
そこで問題になるのが、明軍の救援によって国を蘇生させて貰った「再造の恩」である。後金と明の間の対立というやっかいな国際紛争問題に、朝鮮王国は否応なしに巻き込まれていく時期が、宣祖の後を継いだ光海君即位(1608年)からとサルフの戦い(1619年)、「仁祖反正」(1623年)と続く、政治的に極めて緊迫した激動の時代だった。
(朋党政治の流れと成果)
「朋党政治」を考える前に、どうしても考えたい問題がある。それは、儒教あるいは朱子学に対する中国と朝鮮の考え方の違いである。
短命に終った秦の始皇帝が始めた法治主義覇権帝国の問題点を是正すべく、漢の高祖を始めとする歴代皇帝が儒教を用いて、帝国の寿命を出来るだけ延す為の手法として採用したことは、以前述べたとおりである。そして、儒家を覇権国家の公式上の礼装として用いる手段が、歴代の中華帝国によって採用され続けた。
しかし、歴代の皇帝と中華帝国の高級官僚にとって、「儒教」が実際の政治面で利用できる理論だとは、信じていなかった気がする。国民を欺くプラカードとしては、有効な手段で有り、孔子自身の真摯な人柄もあって、人生訓としての価値は極めて高かった。もちろん、どの時代の中国人も現実的で、現世利益の信奉者だった殆どの中国人は、多くの抜け道を用意して、政権運用の潤滑剤として有効に活用していた。
それに反して、『事大主義』を信奉し、「小中華」を自認する朝鮮王朝の王と両班達は、朱子学理論にどっぷりと頭まで浸かってしまい、哲学や学問の領域を越えて、政治の実務的な運用面にまで、現実の外交状況を無視してまで、信奉信してしまったのである。
そうなると、国際政治の中の事象判断でも現実の現象を無視した「理」の判断が優先して、対外交渉情報や相手国の戦闘意志調査結果を全く無視した報告となっていった。その典型例が、前に上げた秀吉の元に派遣された通信使副使の金誠一の報告で、「日本軍の侵入の可能性を全面的に否定し、自国の惨禍を少しでも減少させる努力を怠った上、自分の国を亡国の淵に追い込む協力者の役割を立派に果たした」のだった。
金副使と同じ主流派の東人の中の人格者と呼ばれた左議政の柳成龍でさえ、自派の副使の判断を重視して、誤判断を重ねた上、自己弁護に徹している状況に、朝鮮政治における朋党政治の重大欠陥を感じざるを得ない。
「壬辰倭乱」の一方の主役宣祖が即位する少し前から、李朝で朱子学を遵奉する東人派の流れが政権を握り、倭乱発生時には、東人派の中の大北派によって、政権は運営されていた。
それでは、あれだけの大国難以降、王も上級官僚も大反省をして、党人活動を中止し、外交上の実態把握に努力を傾け、荒廃した国土の復興と内政の充実に努力したかと考えると、朋党の抗争に関しては、激化する一方だった。
国境の町義州まで落ち延びた宣祖の前でも、滅亡寸背の状態の国家と人民の困窮を無視して、「西人だ、東人だ」、と党派党争は益々燃え上がるのであった。
義州で宣祖が慨嘆して造った漢詩の中で、「社稷の復興を強く望みながらも、西人と東人の朋党間の政争」を強く嘆いている句がある。
国家崩壊寸前の絶望時にさえ、主流派(東人)と反主流派(西人)の抗争が孤独な王を悩まし、人民を苦しめている国民性の国なのであった。
宣祖がやっと明軍の支援によって首都漢城に戻った後も、朋党政治による腐敗と陋習は改まること無く、更に酷くなっていくのである。それはもう、朝鮮王朝の宿痾の病根と呼んでも良いくらいの重症の事態であった。
(光海君とサルフの戦い)
日本軍侵攻による戦後の大混乱が完全に収まらない中、宣祖の後を受けて、次男光海君が王の位(1608年)を継いだ。
「壬辰倭乱」以降、王の居る宮殿も無い状態が続いたが、厳しい財政状態の中、光海君は離宮の昌徳宮を再建(1615年)して移り、内政の安定化に努力している。
この時期、朝鮮王朝を取り巻く、東アジアの国際環境は急激な変化の兆しを呈していた。震源地は、鴨緑江北部に隣接する満州の瀋陽、撫順に近い地域である。
瀋陽には、明国の重要拠点が置かれ、撫順の東方には女真族を率いるヌルハチの根拠地が置かれていた。
従来明朝に協力的だった女真族の部族長ヌルハチだったが、近年、女真族とモンゴル族、更に漢族の一部を糾合してハンとなり、後金国を建国して、反明の姿勢を明確にしていた。
反抗するヌルハチを膺懲すべく、明国は10万の大討伐軍を編成、四路からの大包囲網を構築して、ヌルハチを殲滅する戦略を立てていたのである。
その結果として、朝鮮にも支援の大軍の出動を要請(1619年)があった。それは、豊臣秀吉の死去と共に日朝関係が大きく改善する兆しが見えてきた矢先の出来事であった。
明の増援軍の派遣要請に対して、先の戦争で援軍を送ってくれた明王朝への、「再造の恩」を考えると、国王光海君と言えども無碍に断れる問題では無かったのである。万が一要請を拒否すれば、国内の反対派が『事大主義』と「再造の恩」を忘れた忘恩の徒として国王光海君と王を取り巻く与党を攻撃する絶好の口実を設けさせる危険性も孕んでいた。
長い日本との戦乱に苦しんだ光海君は、特に、深い恩讐もない女真族の新興国と戦闘状態に入りたくは無かった。しかしながら、増援軍を拒否した場合の批判を考慮して、朝鮮軍1万を派遣することに決定したのであった。
ヌルハチの根拠地である現在の撫順東方の地を包囲するように、朝鮮軍からの支援軍1万人を含む10万余の明朝連合軍には、先の壬辰倭乱を経験した指揮官も多く、明軍は、日本軍を苦しめた大砲を多く所有している上、朝鮮軍がその後、日本軍の装備を見て改善した鳥銃(日本式火縄銃のコピー品)も多数装備していたのである。大砲と火縄銃の装備率から見ると当時の東アジア有数の近代的な火器を装備した軍隊であった。
総兵力で約四分の一と劣るヌルハチは、四路から攻撃してくる明、朝鮮連合軍に対して、各個撃破の戦術をとった。それも、明軍に包囲攻撃される欠点を長所に変える「内線作戦」を立案、連合軍の火器の防御戦を突破するため、ヌルハチは率いる八旗兵の持つ機動力を最大限に利用し、夕方の視界の悪い時間帯に攻撃を集中して、四路の敵軍を各個に粉砕している。
開戦4日目、東南路の遼陽総兵官劉鋌に支援協力していた朝鮮軍1万は前軍と中軍の二つに分かれて陣を構築、鳥銃射撃により善戦したが、北西の強風を正面から受けて陣形が乱れ、明軍と朝鮮軍の前軍5千は瞬く間に壊滅してしまい、戦場に残ったのは朝鮮軍中営の5千だけとなってしまった。
切羽詰まった中軍の都元帥姜弘立はヌルハチからの降伏勧告に5千人を率いて降伏している。
頼りとするフランキ、虎蹲砲、鳥銃が転倒散乱する戦場で、数倍の敵騎兵の重囲に陥った朝鮮軍の残存部隊5千人の孤独感はどの様なものであったのであろうか?
昨日まで、『事大主義』の優越感に浸り、禽獣に等しい夷狄の女真族と馬鹿にしていた清に我が身の生殺与奪の権を握られてしまった恐怖感と悔いは想像を絶したと思われる。
そんな朝鮮人の心中を察したか、ヌルハチ側から戦意の低い朝鮮軍中軍に降伏勧告したという説がある。いずれにしても、都元帥姜弘立は残りの5千の軍を率いてヌルハチの幕下に降伏している。その結果、同時に降伏した明将は殺されたものの都元帥以下、朝鮮軍の将僚は処刑を免れ、抑留される事となった。
ヌルハチの今後の朝鮮との外交余地を残す賢明な判断だった。
ヌルハチの柔軟な外交姿勢を正確に理解した光海君は、表向き明との友好姿勢を崩すことなく、裏面では、サルフの勝者清との二股外交も開始し、囚われの都元帥姜弘立とも密書の交換を行って情報の収集に努力している。
けれども、内政での光海君と主流の大北派による王権に逆らう者達への容赦ない弾圧は、反対派朋党の中に恨みの大渦を準備していた。
(仁祖反正と三田渡の屈辱)
明と清、両国の興亡を掛けた運命の決戦が迫る中、朝鮮王朝内部では、朋党の抗争が益々激化していた。光海君の治世は、外交的には十分な成果を挙げていたが、内政的には、党派間の抗争の結果、大きな歪みを生んでいたのである。
庶子で長男でも無かった光海君の即位は、最初、宗主国明の承認を得られず、その反動もあって、光海君の地位を固めるため、与党の大北派は光海君の実の兄や弟を死に追いやり、政敵の大妃を10年以上幽閉するなど横暴の限りを尽していた。特に、光海君自身よりも同君を擁立していた朋党大北派の腐敗と横暴は凄まじいものがあったのである。
その結果、主流の大北派によって圧迫されていた反対派の西人は、『事大主義』の旗印を高く掲げて「崇明排清」を標榜して1623年3月13日深夜、クーデターに踏み切っている。
光海君の甥の綾陽君を担いだこの反乱は成功し、光海君は江華島、更に済州島へ配流された。
この事件は、綾陽君の即位後の王名「仁祖」から、「仁祖反正」と呼ばれ、当然のように主導権を握った西人勢力は、「崇明排清」政策を強力に推し進めていくことになる。
「反正」を呼号して即位した仁祖は『事大主義』の旗印を必要以上に鮮明にして、清国との国交を断絶、明国一辺倒の外交政策を展開している。それも、危険なことに明国没落の陰が濃厚になって行く時点での判断であった。
当時の仁祖と与党は、光海君の冷静な外交感覚よりも「仁祖反正」によって得た朱子学的な正統論に立つ小中華朝鮮の「崇明排清」政策の正義感に高揚して、大事な外交的判断を大きく間違ってしまったのである。
「崇明排清」政策を国是とする朝鮮の変心が、強大な軍事国家、清の太祖の後を継いだ太宗にとって、面白いはずも無かった。
1627年、太宗は、部下に3万の兵を与えて朝鮮を攻撃させ、屈服した仁祖に、「清を兄として進貢する」ことを要求、講和を結んで撤兵している。
1636年、瀋陽で満州、モンゴル、漢の三族の推戴を受けて皇帝に即位した太宗は、仁祖に今度は、臣礼をとるように要求、勧告が拒否されると、自ら10万の騎馬軍団を率いて朝鮮に侵攻を開始している。「丙子胡乱」である。
仁祖は攻撃を避けて江華島に逃げようとするが果たせず、南漢山城に兵1万3千と共に逃げ込むが、城内の食料は50日分しか蓄えが無く、仁祖は極寒の中、困窮の生活を45日間送った。
この間、南漢山城では、仁粗を取り巻く重臣達によって長い激論が交わされたが、建前の『事大主義』と『小中華思想』が如何に優れているか主張する非現実主義者の議論が、目の前の清軍の包囲網を解く解決策を導くことは無かった。
万策尽きて、清に全面降伏した仁祖に対し、清の太宗は、三田渡に「受降壇」を高く築かせ、壇上高く座す皇帝太宗に対して、壇下の地面に額ずく仁祖は、三回跪き、九回頭を地面に擦りつける、「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう」」の屈辱的な臣礼をとらされたのであった。
清への屈服はそれだけでは無かった。仁祖が頭を何度も地面に擦りつけて降伏した受降壇に清朝皇帝を礼賛する「大清皇帝功徳碑」の建設を命じたのである。高さ3mの堂々たる石碑は仁祖の恨みを飲んで今日も存在している。
仁祖の選択した『事大主義』、「反正」の親明政策は、従来、夷狄と馬鹿にしていた女真族に全面的に屈服する結果を招いてしまったのであった。朝鮮国はこの「丙子胡乱」の結果、毎年、金百両、白銀千両を含む膨大な量の朝貢を強制された。後年若干、減額されたものの、この宗属関係は、日清戦争により清国が日本に敗北する1895年まで、約260年間に渡って継続されたのである。
現在の韓国は東方の国に対する数十年の屈辱を何度も表明するが、中国から260年に渡って味わった深く、長い歴史的屈辱に対して、何故、反発しないのだろうか?
何とも不思議な気がする。
この辺にも朝鮮半島の国家感を考えるヒントが一つ隠されているように感じる。
いずれにしても文治国家朝鮮王朝には、新興軍事国家清朝に対抗するだけの軍事力を構築する力も内在していなかったし、清と明双方に対しての国家情報収集のための外交的努力も殆ど着手しなかったのである。後年の話だが、清軍の捕虜となって連衡された仁祖の長男の昭顕世子は、清との融和と外交情報の収集に成功しているが、その結果として、長年の拘束から解放されて帰国した3ヶ月後に急に死去している。その死因に対し父親の仁祖による毒殺説が今でも消えていない。
仁祖にとって、敵と融和して友好の実を上げる世子など、実子といえども決して許される後継者では無かったのである。
それだけ、「三田渡」の屈辱は「反正」によって王になった仁祖と朝鮮王朝にとって拭いがたい大事件であったのである。しかし、ながら、仁祖と後継者達は大国との外交失敗への反省と対策もないまま、表面的に清国に従いながら、明国の滅亡まで、「崇明排清」政策を裏面で標榜し続けるのであった。