8.事大主義最大の成果(壬辰倭乱:文禄慶長の役)
元と明の危険な王朝交代期を上手に乗り越えた李氏朝鮮(一般的に現在では朝鮮王朝で表現される場合が多いので以下朝鮮王朝に統一して記述)の始祖李成桂は首都を北の開城から、現在の京城に移し、人心の一新を図った。
更に、国号の決定にも大国明の指図を仰ぐ慎重さを示し、中華世界との一体感の形成と新しい朝貢国としての東アジア諸国間での李王家の認知度の向上を図った。
太祖李成桂(父)の後を継承した、三代太宗(子)、四代世宗(孫)の親子三代に渡る王は、幸いなことに優秀な君主が続いたのであった。
思想的にも高麗の国王から一般庶民まで深く尊崇していた仏教から、新王朝らしい儒教への国家思想の大転換が行われている。朝鮮王朝では儒教、中でも朱子学学習の徹底が行われた。加えて、中国と同様の科挙制度の徹底と科挙合格者の高級官僚への登用もあって、「華夷秩序」の考え方が両班層に徐々に浸透して行ったのである。
朱子学による中華思想が一世を風靡すると共に大国明を宗主国とする『事大主義』尊重の影響は昔からの朝鮮の習慣にまで深く浸透していったのである。
古代から続く巫堂(ムーダン:朝鮮土俗のシャーマニズム)の制度は李朝内にも残り、種々の機会に壇を築いて祭礼を行っていた。
巫堂で祭る対象としては、古伝の風神、雷雨や南極老人星、馬神等、原始宗教的な諸神も多く、王家を始め、民間の祭礼としても濃厚に残っていた。
『事大主義』の徹底と共に、その中でも最大の行事が明の太祖を祭る「大報壇」となり、国家的な行事として催行されたのであった。
古からの伝統行事が、事大主義を表象する外交的ピーアール行事の一つとして利用され、昔からの、巫堂祭事の内容が大きく変質していったのである。
ここで、朝鮮王朝の尊崇した華夷思想や事大主義に従って、中国、朝鮮からの視点に立った日本の位置付けを簡単に述べてみたい。
当然ながら、中華帝国が燦然として最上位に位置し、中国に仕える朝貢国朝鮮が次位に位置する。そして、夷狄の国日本は、朝鮮にとっては、その下の中華思想と儒教を教え導かなければならない禽獣の国だったのである。
朝鮮王朝自身は、「朱子学によって思想統一された理想的な小中華で、大国中国に劣らない儒教の邦である」との自覚が国政安定化と共に両班層を中心に醸成され、支配階級の通念として浸透していったのである。
その結果、中華の強国明には従順に従い、
「頬っぺたを殴られても弱小国朝鮮は悔しさを忍んで我慢する」
が、しかし、
「夷狄の日本や中国東北部の女真の無礼な態度には妥協することなく攻撃し、出来れば無知を指摘、教化しなければならない」
と、当に朱子学得意の正討論に立脚した強固な精神的優位の位置に朝鮮王朝は存在していると、王と執政階級を含めて両班は堅く信じていた。
小中華=朝鮮王朝の信念は強固で、壬辰倭乱以後、江戸幕府に派遣された歴代の通信使が、徳川政権の儒教に対する尊崇の低さを慨嘆している。
もっと過激に解釈すれば、中華思想の王道を歩く朝鮮は野蛮な国の邪道な教えを破砕し、正しい朱子学を教え諭す必要を強く感じていたのである。
国家の安定化と共に朱子学は16世紀には朝鮮王朝の政治の主流となっていき、宇宙の根本原理としての「気」を根拠に、学問として更に進化していくのであった。
けれども朝鮮独特の朱子学理論の深化は、他との妥協を許さない先鋭化を促進する結果となってしまったのである。対外的には大明国を尊崇する『事大主義』を益々堅持しつつも、国内的には、他者と一切の妥協を許さない、泥沼の党派党争を生んでしまったのである。
この李朝特有の党派党争は、朝鮮王朝が存続した全期間、約500年に渡って続き、外交では、冷静な実証主義から遠ざかる恐るべき政治的な誤判断を何度も招くことになる。
次に、歴史的な経過から、『事大主義』の素晴らしさと問題点を幾つか考えてみたい。
少し時代を遡ってみると前王朝の高麗末期、政府首脳は南北二つの問題対策に頭を悩ましていた。一つは北のモンゴルからの過重な要求。もう一つが南の日本からの元寇の反動、倭寇の侵入である。李成桂はこの南北両方面での軍司令官として名声を博して、王位に就いたが、朝鮮半島南の海岸地帯の多くは、連年の倭寇侵入と掠奪の恐れから人口の希薄な地帯になってしまっていたといわれている。
中国大陸における明王朝の成立で、北からの圧迫は急速に遠のいたが、南からの倭寇の脅威は新王朝になっても、何ら改善していなかった。
当然ながら、小中華朝鮮としては、決して許せない夷狄日本の振る舞いだった。
事実、世宗即位の翌年(1419年)、実質的な軍権を握っていた上王太宗主導で倭寇殲滅のため李従茂指揮の対馬遠征軍1万7千人を派遣しているし、豆満江周辺の女真族討伐も実施している。
ここでは、日本で『応永の外寇』と呼ばれる対馬侵攻に関して、一部踏み込んで述べてみたい。第一に注目すべきは、後年の「壬辰倭乱(日本でいう文禄慶長の役)」の時点と違って、朱子学の正当性に立ちながらも硬直した外交では無く、柔軟な実情重視の外交を駆使している李朝の姿勢である。最高政治責任者の上王太宗と世宗にしても、国際情勢を正確に把握して機敏に対応している姿は評価されなければならないだろう。
まず、戦争を仕掛ける相手を対馬在住の倭寇だけに限定し、事前に、室町幕府(第四代将軍義持)、九州博多の幕府代表者小弐氏、対馬の宗貞盛と連絡を取りながら、対馬の浅茅湾に侵攻、急襲している。
極力、戦闘局面を限定しながら、局地戦に入っている姿勢は、現在の国際社会を見ているようであり、太宗、世宗の実務家としての手腕を高く評価したい。
数年前に、対馬各地を廻り、白村江の敗戦の後に築かれた金田城やモンゴル軍の最初の上陸地小茂田浜や浅茅湾を廻った。浅茅湾は南北対馬の中間にある複雑に入り組んだ湾で、湾に面した村々の人家の数は今日でもそう多くない。海岸の家々の周囲に広がる耕地は狭く、僅かな農地と人家が散在する集落の後ろが直ぐ山に続いている村落が多かった。
最も記憶に残ったのが、古代の金田城跡から見た浅茅湾の風景で、穏やかな湾内と多島海のような風景で、この穏やかな内海が、魏使や白村江からの敗残軍、元の侵攻軍、応永の外寇の朝鮮軍の船、秀吉の朝鮮出兵軍の艦船の送迎を見続けてきたかと思うと感無量だった。
この時の対馬への侵攻は、朝鮮軍による緒戦の急襲により日本側は百数十人の戦死者を出したものの中盤から後半に掛けては日本軍が圧倒的に優勢だった、が、朝鮮王朝の記録では、小中華思想の故か大勝利と記載されている。
国情の異なる両国が交戦した場合、よく起きる双方の記録の差異である。当時現地にいた(中立的立場の)中国人の記録では、中盤から後半に掛けては、日本側の記録に近い内容だったと発言した記録が残っているようだ。
小中華の朝鮮王朝としては、夷狄に負けるような屈辱的記録は記載しずらかったのだろうし、対馬で保護した中国人を本国へ送還する可否について、事実が中国に伝わる危険を考慮して左議政(政府第二位の高官)から反対があったが、世宗の判断で中国送還された。
この事件を個人的に概観すると東西を問わず勃興期の王朝の実務対処能力の凄みを感じる。太祖李成桂が旧王朝の抱える諸問題と苦闘しながら新王朝を建国する様を見て育った太宗であるが、太宗の場合、単純な息子ではなかった。五男の太宗は兄弟の中でも科挙の合格者であり、太祖が二代目に定めた異母兄弟の王子を暗殺し、兄達を押しのける形で、三代目になった、どちらかというと乱世の姦雄に近い英傑であった。その行動と実行力は、兄弟二人を暗殺して唐の皇帝の位を奪った唐の太宗に近い気がする。
太宗の子の世宗(ハングルの創作と制定で有名)は、余りにも血を流しすぎた父の後を受けて政権を引き継いだが、生涯、絶対権力者である自分と意見の相違する臣下を殺さなかった王であった。この王の下、朝鮮は小中華の体制形成を進め、後継者達は『事大主義』の必要性と明への傾倒を深めていくのであった。
日本の南北朝末期から応永の時代にあたる李朝王朝の三代太宗から四代世宗の時代は、今日、ソウル旅行の観光スポットである光化門を入った景福宮や離宮に当たる昌徳宮、歴代王家の位牌安置所である宗廟が整備された時代でもあった。
李王朝の盛時を思わせる昌徳宮を始めとする多くの宮殿群や南大門、世宗大王の大きな銅像を見て、朝鮮王朝文化の素晴らしさの一端を感じられた人も多かったと思います。
これらの宮殿群を始めとする朝鮮王朝の多くの建築物は、朝鮮王朝初期に整備されている。しかし、ソウル韓国で観光客の目を楽しませてくれる沢山の建造物群は残念ながら建築当初の建造物は少なく、再建された建築が大半を占めているのが、現状です。
古い建物としては、昌徳宮の入り口の門、敦化門(1412年頃建築)くらいで、昌徳宮の主な諸宮殿も、後述する「壬辰倭乱」によって、焼亡あるいは破壊されて、後世に再建された建物なのです。正宮殿の景福宮に至っては、近代の1865年になって、大院君の時代になって再建された建築であり、「壬辰倭乱」以後の朝鮮王朝の政治は、破壊された離宮の昌徳宮を修理再建して、長い間執り行われていた。
この一事をとってみても、朝鮮王家の日本に対する警戒感が尋常でない事実が、感じ取れると思う。
しかし、それらの歴史的な事実を脇に一先ず置くとして、初夏の木漏れ日の漏れる宗廟の正殿に続く石畳道や昌徳宮仁政殿から王妃達の居所として建てられた内殿の楽善齋に向かって歩くと伝統文化の重みと東洋らしい柔らかみのある雰囲気に包まれて、何とも言えず快い感覚に魅了される。
北京の紫禁城の壮大で重厚な宮殿建築とも異なり、ベトナムのプエの王宮の午門を潜った時とも違う、強いて言えば、李朝の白磁の秋草の絵模様の壺を見た時の感覚に近い朝鮮民族独特の印象を受けた。
その一方、建国当初から明国を宗主国として尊重した朝鮮の姿勢は、両国に穏やかな時の流れを提供した。その間、南宋時代に政府から拒否されていた朱子学が明政府の公認となり、同国の科挙受験科目に採用された経過を経て中国の高級官僚層に浸透していった。当然ながら、その思想は、朝貢国朝鮮の王と両班層に中華思想の基本として染み込んでいったのであう。
加えて、中華を正統とする思想が、小中華思想を生み、事大主義外交の成功が、更に、朝鮮国の信念として定着していった時代が、世宗から宣粗に至る約150年(日本の室町時代中期から後期)の時代であった。
もう一つ大切な点を加えると、王朝の安定期の到来と共に、朝鮮王朝特有の党派間の抗争が激化し始めたのであった。結果的に、政治の主導権を執った派閥が、殆どの利益を独占し、反対派閥は没落するか、閑職を維持するのみの朝鮮王朝特有の政治システムが確立された時期でもあったのである。
朝鮮の平和が続いていた、宣粗25(1592)年、日本の慶長元年、明の万暦20年、朝鮮の事大主義を問う重大な危機が突如訪れたのであった。
豊臣秀吉の朝鮮出兵である。
日本国内統一によっても秀吉の征服欲は満足せず、新たな野望の征服地を明国に求めて、征明作戦を開始したのである。4月13日、釜山に上陸した日本軍15万は、瞬く間に北上し、5月2日、首都漢陽を攻略、占領している。
日朝間における元寇以来最大のこの悲劇は、日朝相互の学習不足から始まっている。今日でも国際認識の各国間の誤差は少なく無いが、「壬辰倭乱」の最初は、豊臣秀吉の誇大妄想が原因だったと理解しても大きな誤差は生じないだろう。
旧主織田信長の天下布武の構想を基に天下統一を果たした豊臣秀吉の朝鮮半島に対する認識は、まだ、未征服の戦国大名の領国程度の認識しかなかった。
一方、宣祖としては、秀吉が自分の邦を攻めてくるとは考えず、歴代の朝鮮王朝が室町幕府に求めた倭寇取り締り徹底程度の気持ちしかなかった。宣祖は情報収集を兼ねて、取りあえず、朝鮮通信使を秀吉の元に送っている。
派遣された通信使は聚楽第で秀吉に謁見しているが、秀吉の余りにも誇大な妄想と朝鮮側の情報収集能力の貧弱さから、相互の大きな溝を埋めることは出来なかった。
更に朝鮮側にとって最悪だったのは、朝鮮使節の正使が時の政府の反主流派、副使が主流派の相反する人選だった悲劇である。帰国後、両使節は、相互に相反する報告を行っている。
黄正使が、
「秀吉軍の侵攻の可能性は高く、防備策の実施が急務である」
と報告したのに対し、金副使は、
「日本は恐れるに足らず、来寇の心配は無いので、対応策実施の必要は無用であろう」
と相矛盾する報告をする始末であった。
当然ながら、正福両使の異なる報告内容は朝廷でも大激論となった。結論は、どちらの報告が正確かよりも、党争の力関係によって、決定された。
最終的に、当時の党人争いで主流派だった東人に属している金副使の意見が採用されて、小中華朝鮮王朝は全くの無防備状態で、日本軍の釜山上陸の日を迎えたのであった。
因みに、国家を崩壊寸前まで追い込んだ一端の責任者金副使の大誤報に対して宣祖は何も処罰を行わず、金副使は日本との戦いにおいて義兵の召集に功績があったとして、評価され、天寿を全うしている。党派政治の特徴として政権の主流派に属してさえいれば、国家転覆寸前の危機を招いた臣下でさえ、安泰だったのである。(笑い)
もっとも、日本側の秀吉自身の大誤解も彼の衰弱死に至るまで、解消されなかった訳であるから、当時の東アジアの国際外交に関する齟齬は、両国とも同様なレベルだったのかも知れない。
しかしながら、李朝建設から200年、「応永の外寇」で冷静に対処した世宗大王レベルの外交判断能力が宣祖以下の王と高級官僚には完全に欠落していたのである。世宗時代並みの外交情報収集力が健在であれば、日本からの衝撃に関しても若干緩和して対応出来たかも知れなかった。
世界の歴史が示すように、どの王朝でも創生期を過ぎると九割方そうだが、安泰が生む怠け者と平和による無能集団の増殖が進む。更に、国家の最優秀な学者集団が、主流派に阿諛迎合して、現実を直視する実務集団との妥協を絶対的に拒否し、正論粉砕に協力するのである。
これは、朝鮮王朝だけで起きた現象ではない。歴代中華王朝でも、ヨーロッパの各王国でも、我国の歴代武家政権でも、王朝建設後、百年以上立つと同様に起きている。
『事大主義』の権威に安住した宣祖25(1592)年のこの時ほど、李朝の国家体制が崖っ縁に立たされた瞬間はなかったのである。
日本軍の釜山上陸後、二ヶ月で朝鮮国王宣粗は明との国境の町義州まで逃げて、国外逃亡寸前の窮境にあった。宣祖に遺された道は、宗主国明への哀訴以外、方策しかなかったのである。
亡国の危機に瀕した宣祖の嘆願を受けて、明国は出兵を決意、女真に備えていた遼東の大兵を救援に派遣している。
朝鮮は、宗主国明の李如松4万3千人の大軍勢の来援によって、憎い日本軍の北上を阻止しただけで無く、平壌と漢城を奪還、国内の義軍と李舜臣率いる水軍の活躍もあって、日本軍を半島南部の海岸地帯に圧迫する事が出来た。
当に、この瞬間こそ、『事大主義』による朝貢国の恩恵を朝鮮が享受出来た黄金の時だったのである!
けれども、朝鮮人民は、最初に日本軍の暴虐と掠奪に苦しみ、次に、自国の軍隊による収奪、第三に救援軍明の将軍達の横暴はもとより、下級兵士による掠奪、乱暴の三重苦に苦しんだのであった。
朝鮮国民の苦しみは、壬辰倭乱が終了した後も長く続いた。その後の政府役人による収税、強奪、焼亡した宮殿や官庁の再建と庶民の心は長く傷ついたのである。
侵略者日本にとってもこの戦乱は結果的に絶対的な権力者豊臣家の滅亡を招く遠因となったし、朝鮮王朝にとっても、国勢の回復に長い時間を要したのであった。
加えて残念だったのは、大動乱の原因は秀吉個人の誇大妄想にあったとしても、外交上の反省と学習効果は殆どといって良いほど存在しなかった点である。
宗主国明の恩情によって、亡国の危機から生還した朝鮮は明との友好関係を手厚いものとし、『事大主義大成功』の余韻を噛みしめるのであった。
しかし、激変する国際関係は明との友情を温める十分な時間を李氏朝鮮に与えてはくれなかった。
中国の東北地方で勃興した女真族の「後金(後の清)」と「宗主国明」との抗争は、半島国家朝鮮に常に地政学的に苦悩する立場を用意していたのである。