7.朝鮮事大主義の萌芽(高麗時代)
前回まで、古代から現代の共産党王朝まで続く中国歴代王朝が、巨大な恐竜の大きなしっぽのような覇権主義の伝統を引きずっている姿を大雑把に考察してみた。古代中国以来の覇権主義は紀元前の秦帝国に始まり、現在の毛沢東創始王朝とでも表現したい中国共産主義王朝に至っている。
もちろん、中国だけで無く、世界中のどの国家も人間の尾てい骨のような古代の痕跡を引きずって生きている面が多少ある。
そこで、今回は古代以来の巨大国家中国を離れて、周辺の国の一つを中国との関係で考えてみたいと思った。
南のベトナム、西のチベット、北の草原地帯の契丹や女真、幾つかの国を思い浮かべてみたが、最終的に朝鮮に決めた。
理由は極簡単で、中国大陸とは不可分の地続きに有りながら、半島国家である朝鮮は、民族も言語も中国とは異なる。かといって朝鮮半島の地政学的な位置から、中国と絶縁して存在することは絶対に不可能な位置関係にあった為である。
次に、何か朝鮮の歴史の中で過去と現代を繋げるような熟語を選んで、半島の歴史を少しではあるが学んでみたいと考えた。この手法は、素人の私が良くやる手法で、新しいテーマに出会って、基礎からの全体学習を行う時間的余裕が無い場合、興味を持った極一部のテーマだけ促成学習してしまし、本番の学習は時間の余裕が出来てからやろうとの安易な考えを持っている習性があるからである。
言うなれば、怠惰な学習手法であり、実際のところ、本格的な学習を殆どのテーマで実施した経験が無い。(笑い)
そこで選んだテーマが、『事大主義』だった。
何故、『事大主義』か、というと、中国大陸に隣接する半島国家の地政学的位置から見て、二千年渡って中国との付き合い方に苦悩し、中華の歴代王朝との外交手法の集大成が『事大主義』になったと考えるからである。
そして、現在の国際社会においても、古来の外交手法『事大主義』を応用しているような節が随所に感じられるからである。
『事大主義』を論じるまでに、朝鮮半島と中華王国間の二千年以上の外交史、興亡史をザッとお復習いしてみたい。
その当時、朝鮮半島は多くの国に分かれていた。朝鮮半島北部には衛満朝鮮という国が有ったが漢との間で摩擦が生じ、結局漢(武帝)は衛満朝鮮を滅ぼし、旧衛満朝鮮の地に楽浪、真番、臨屯、玄菟の四郡を設けて占領政策を実施している。朝鮮にとって最初の異民族による占領政策の開始である。
若干時間が経って、中国が三国時代の頃、中国東北部から朝鮮半島の北で高句麗が起こり、半島の南部では、百済と新羅が勃興している。朝鮮半島の三国時代の開始で有る。
その後、朝鮮半島の三国の中での最強国高句麗は単独で、中華の巨大帝国隋、唐と戦い、黄海寄り南部の百済は日本と結び、日本海寄り東側の新羅は唐と連合して、高句麗、百済と戦争を開始している。
戦いの中盤では、唐新羅連合軍が圧勝し、百済、高句麗は滅亡した。その後、唐は漢の武帝の故知に習って、高句麗、百済の地で占領政策を強行、猛反発した現地の遺民が手を結んだのが新羅であった。新羅は唐と結んで、高句麗、百済を滅ぼした敵国であったが、唐と違いほぼ近似した言語を話し、風俗習慣も唐と違って大きな差異はなかったのではないかとこの事から感じられる。唐という異民族と手を組むより、朝鮮半島内の同族と結びたいとの同一民族意識が、このような行動に出た素朴な出発点ではなかったかと感じる。
半島から唐を追い出した新羅は、初めての朝鮮半島統一国家『統一新羅』となったのである。現在の韓国と北朝鮮両国の基本的な領域が確定した瞬間であったそれまでの半島内が分裂していた状態と異なり、一国として独立の旗を掲げた以上、大国中国はそれなりの対応を新羅に求めたことは当然で有り、新羅の後の高麗、李氏朝鮮にも朝貢と元号の実施を常に求め、従属国としての姿勢を明確に要求している。
さて、本題の『事大主義』についてだが、唯、何となく、『事大主義』が余り古い時代の熟語のような印象は昔から持っていなかった。横着な私は、『事大主義』の発生について詳細に調べた訳では無かったが、直感的に、朱子学が朝鮮半島に伝わって以降の比較的近世に近い時代からの表現に感じたのである。
仮定としてそうであれば、『事大主義』発生の前史に関して調べてみるのも統一新羅時代まで遡る必要はないような気がした。
そこで、何時もの調べる折の横着を今回も決め込んで、統一新羅の後の王朝高麗と李氏朝鮮の二王朝に絞り込んで学習してみることにした。
本来、事大主義の大本の言葉は、春秋期の呉と越の関係を述べた孟子の『以小事大』、即ち、「小をもって大につかえる」から来ていると聞いている。その意味するところが時代と共に大義名分論に大きく変化して、歴代の朝鮮半島国家によって、中国の冊封体制に仕える小国の外交姿勢を現わす言葉として使用されてきた経緯がある。
それもあって、高麗と李氏朝鮮の二王朝に絞り込んだ訳だが、王朝の交代の激しい中国と違って、朝鮮半島の二つの王朝の寿命は双方共に約五百年と長く、両王朝合計で、約千年の間、朝鮮全土を支配していた。
王建が建国した高麗は宗教的には、三国時代以来の仏教王国で、モンゴルの侵攻によって疲弊した高麗から易姓革命によって王朝を引き継いだのが李氏朝鮮である。李氏朝鮮は、高麗の国王から貴族、そして庶民まで厚く尊崇していた仏教王国の流れを廃棄し、国家の思想的理念を儒教に大きく切り替えている。その結果、李氏朝鮮は中国に従順な儒教国家に変身した可能性が考えられる。
何故かというと古代以来中国の本質は覇権国家であり、歴代皇帝の強権に庶民は対抗する対策を考案していた。儒教が表向きの国家思想であれば、庶民に近い宗教が道教であり、仏教であった。中国は古代以来単純な一国一宗教の国家では無かったのである。
もちろん、日本もベトナムも儒教の影響を大きく受けている。ベトナムハノイの文廟や東京湯島の聖廟、再現された室町期の足利学校を見ればそうとも感じられるが、それ以上に日本もベトナムも仏教寺院の方が圧倒的に尊崇され、数も多かった。ハノイの町を歩いても穏やかな湖沼の中島や岸辺に多くの寺院が建立されているし、日本の京都の寺院数の何と多いことか!
それに対して、中国最大の経済都市上海の孔子廟は休日になっても中国人参拝客の数は少なく閑散としていた。逆に、現代中国人にとっても現世利益の霊験あらたかな関帝廟や中国の福建、台湾などの沿海部で信仰を集める媽祖廟の方が人気も高く平日でも多くの信者が群集している光景を御覧になった日本人も多いと思う。
それでは、高麗王朝で全く儒教が浸透していなかったかとみるとそうでも無い。
思想的には、隋や唐の巨大中国王朝と対等に戦った古代国家高句麗の後裔を自称する国家高麗の対中国外交の縦軸に絡むようにして、高麗王朝の中に少しずつ儒教が導入されて行き、徐々にではあるが孔子信仰と科挙を含む中国朝廷の諸制度が高麗の貴族層の中に浸透していったのである。その流れを概観してみたい。
高麗王朝の初期、統一新羅時代からの伝統的な仏教崇拝の国家的な流れがあった。太祖王建以来、国王、王族、貴族層から一般庶民に至るまでの広い国民層に仏教は浸透し、国家国民の基本理念として、仏教は人々に精神的基盤を与えていたのであった。
国家として高麗が安定し始めた第四代光宗の時代、中国の科挙制度を導入、それと共に中華帝国の(表向きの)指導理念である儒教関係書籍も大量に中国からもたらされて、儒教思想が支配層の中に浸透し始めたのである。
中国で千年以上に渡って磨き抜かれた儒教思想は完成度も高く、高麗の首相(門下侍中)を中心とする高級貴族層の心からの賛同を得て、科挙制度と共に高麗政治の中に急速に浸透して行った。
けれども、高麗の一般庶民や支配階層の大部分の中心的な宗教は古代から続く伝統ある仏教であった。知識層や上層支配階級が賛嘆する儒教は、まだ、国民の大多数が支持する仏教に対し、絶対的な優位を確立できない時期が、高麗の後半期と考えられる。それに、この時代に伝来した儒教は漢や唐時代の儒教で、強烈な中華思想や権威思想の鎧をまだ身につけていないか、内在している科挙受験対策を主とする時代の学問であった。
高麗が建国されてから約250年が経た時代は、我国の平安時代末期と同様に戦乱は忘れ去られ、文官が高位を独占して我が世の春を謳歌する時代だった。明宗の元(1170)年、長年、虐げられてきた武臣の鬱積した不満が爆発、武臣は連携して高位の文臣多数を虐殺、政権を掌握した。
武臣政権の発足である。
高麗に於ける武臣の反乱と政権の掌握は、手法としては若干異なるものの源頼朝による鎌倉幕府成立と10年程しか時間差はない。ライバル平家との抗争を格好の政権掌握の手法として、高度な政界戦略家としての能力を発揮して、徳川幕府崩壊までの武家政権を確立した頼朝と近似した時期に日朝両国は、従来歴史に無かった『武臣による政権』を成立させたのであった。
しかしながら、仏教と儒教の優劣を比較する時は直ぐには来なかった。思想の比較よりも先に、恐るべきモンゴル軍が侵入を開始し、朝鮮全土が略奪と殲滅の危機に瀕したのである。高麗の信頼する宋国は中国の南半分に後退して久しく、言語も風俗、食習慣も全く異なる虎狼の民族モンゴルの高麗侵攻は二十八年間に及んだ。
高麗は首都開城の豪華な王宮満月台から海を渡った、小さな島江華島に王宮を移して徹底抗戦を図った。
今日、仁川空港から江華島に向かうと、島に渡る江華大橋がある。橋は水面から相当に高く、その割には想像していたよりも相当に短い。後で資料を見ると694mとのデータがあった。
騎馬民族のモンゴルは、橋の眼下の1kmに満たない狭い海峡でさえ、大きな障害と感じて二十年以上侵攻・上陸出来なかったのである。
しかし、王と武臣、貴族達は島に逃げて延命を図ったが、国王に見捨てられた国民の惨禍は筆舌に尽し難く、一部で義軍の活躍はあったもののモンゴル軍による虐殺、掠奪、拉致、奴隷化は連年続き、朝鮮半島の人口は急速に減少したと想像される。
この時期のモンゴルに徹底抗戦を宣言した東アジアの雄国を三つ挙げるとすれば、朝鮮半島の高麗、インドシナ半島の大越、そして、鎌倉幕府が指導する日本の三ヶ国になる。
この元寇に耐えて戦った東アジア三国であったが、高麗の場合首都を移してまで徹底的に抵抗したが、最終的にモンゴル軍に降伏している。
元の首都大都(北京)と距離も近く、陸続きの地政学的な位置関係を考慮すると二十八年の国家の総力を挙げた力闘を賞賛すべきであろう。
しかしながら、悲しいことに降伏後の高麗は、皆さんご存じのようにモンゴル軍の日本侵略の協力者に成らざるを得なかったのである。第一次及び第二次元寇の高麗からの艦船の建造はもちろんの事、兵員、食料、その他多くの資材の供給地として、高麗は更に甚大な被害を被ったのである。
更に悲惨だったのは、モンゴルとの外交が成立した後でも状況は、大幅に好転しなかったのである。毎年、膨大な金品、軍馬、食料の貢納はもちろんの事、年若く美しい未婚女性を連年数百人も『貢女』として、貢ぎ続ける屈辱的な条件を飲んだ上でのモンゴル軍侵攻の中止であった。
中国朝鮮史からみると古代における高句麗と百済の滅亡以来の中華帝国の圧倒的な武力に押しつぶされた瞬間である。もう少し、高麗を弁護するならば、最初の世界帝国モンゴルによって押しつぶされた瞬間であった。
モンゴル屈服後、高麗の威信と国力は大きく衰えた。人口が激減し、代々モンゴル皇帝の府馬となった高麗王は髪型も服装もモンゴル風に変わり、朝鮮国王であると同時に、元王朝の高級官僚を兼務する立場になってしまったのである。文化面では、従来よりも肉食の習慣が増え、イスラム圏伝来の焼酎が新しい酒として貴族層に浸透し、済州島における馬の飼育もモンゴルの強制によって発展した。
『事大主義』や『小中華思想』の基になる思想の淵源を辿れば、当然ながら『朱子学』に至る。モンゴルに圧迫された南宋に生まれた朱子(朱熹)が唱えた朱子学は、古の漢や唐の時代からの伝統の儒学では解決できない問題を解決できる新しい学問体系だった。
不思議なもので、南宋で芽生えた新しい儒教の体系、『朱子学』は、南宋時代を通じて政権の主流派には採用されず、南宋を滅ぼした元によって、高麗に伝えられた。
朱子学が高麗の先端的な知識人層に浸透する頃、武力国家モンゴルの勢威も衰えを見せ始め、新興勢力朱元璋が南京に建国した明の北伐軍に追われて、元朝は北京を抛棄、モンゴルの草原に逃げ帰っている。
その間、高麗は、1259年の第一次モンゴル軍侵入から、モンゴルへの屈服、そして、1392年の高麗の滅亡に至る約140年間に多くの事を学んだと考えられる。
特に、国家の指導層・知識層が学習したと思われる幾つかの点を上げると、
「中国大陸の巨大国家との抗争は、国と国民に惨禍と焦土しか
遺さなかった事実」
「武力抗争よりも屈服を選び、進貢する財物を外交交渉によって
圧縮する工夫が大事な事」
「大国と交渉するためには、大国と同じ思想と文化を身につける
必要性がある事」
「中国の基本思想である儒教の学習と科挙等の中国王朝の諸制度
の国内導入の重要性」
等になる。
その結果、新しい思想の国家建設を希望する鄭道伝等の知識層と野心を抱いていた重臣層の雄李成桂によって、易姓革命が起きて、高麗は滅び、李氏朝鮮が成立した。
『事大主義』思想の基となる朱子学や中華思想が国民全部に浸透する段階ではなかったが、少なくとも知識層には国家理念として理解され、新しい国家建設の重要なファクターの一つとして鄭道伝等によって、新国家建設綱領の中に準備された。
即ち、後年の『事大主義』の萌芽は、高麗王朝時代に既に準備されていたのであった。