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67.「中国皇帝」の存在と「日本」

 「白村江」の大敗によって唐・新羅連合軍合同の倭国侵攻に怯えた倭国が『朝鮮式山城』を急遽建設した経過と、奈良時代を通じて、日本なりの律令国家整備を成し遂げた朝廷は、自国の安泰が保証されると対外的に「夷狄」の存在を模索した流れで、東北地方の「蝦夷征伐」に国威発揚の意図を露骨に現わして進出した結果が、陸奥・出羽両国に於ける『古代城柵』の建設であった経緯は前稿までに触れてきた。

 その背景には、「遣唐使」を通じて大唐を中心とした東アジアの政治制度の一員としての地位を対外的に確実にしてきた自信と、奈良時代を通じて律令制度の整備に成功した国内事情にあった。

 その自信もあって、唐とは異なる別個の独立国としての自己主張が天皇を初めとする朝廷の貴族層に芽生えてきたとも考えられる。


 そのような視点から考察すると、長い歴史を持つ素朴な列島国家と、アジアの先進国「中国」と

では、同じ「律令制」を求めながら、その中枢の権力構造を含めて、大きな差異があったような気がするのである。

 そこで、皇帝として初めて登場する「秦の始皇帝」が出現して以降の『中国皇帝』と古代日本の実情について拙いながらも、本稿で比較してみたいと思いついた次第です。


 何故、この両者を比較してみたくなったかというと、古代中国と日本の『権力』に対する民族的な思考方法に大きな差異があるように感じたからである。

 インドもそうだったが、「中国」に於いても、紀元前の「春秋戦国時代」以前から、多様な思想や哲学が輩出した流れで、「中国皇帝」の権威付けについても、「法家」に固執して覇権主義にとりつかれた始皇帝の大きな失敗を乗り越えて、「前漢」、「後漢」を通じて歴代の皇帝や周囲の重臣達によって「徳望」を含む修正を繰り返すことによって、依り安定した皇帝の地位が確立していった経緯があるからである。


 その一方、先進国である「漢」や「唐」の優れた制度や先進技術を吸収・同化することによって成長してきた倭国は、その完成形として、唐の「律令制度」を模倣することに長年、情熱を傾けてきたにもかかわらず、遣唐使の廃止以降、日本独自の「和風化」道を辿ることになるのだった。

 しかし、結果論として観ると、平安期になると、律令制の基軸とは異なる「令外官」が増え、最終的には、辺境の軍事司令官職である「征夷大将軍」が国政の執行者となる『武家政権』が確立されていくのだった。


(『中国皇帝』の誕生と進化)

 しかし、中国で皇帝が誕生したのは、倭国が「大和朝廷」によって統一される遙か昔の紀元前3世紀、長い「春秋戦国時代」の群雄の闘争を経て、「秦の始皇帝」による全国統一された結果だった。

 当に、西欧暗黒時代の主要国を合計したほどの広大な国土を所有していた中国に於いて、覇者としての絶対権力保有者の誕生である。中国の特殊性は、それだけではなかった。

 地中海世界と異なり、隣接する地域に、有力な文化国家が全く存在しない上、周辺の脅威として剽悍な「騎馬民族」の集団が散在するだけだったのである。


その時代の倭国については中国の史書に記載がないので、どのような形態の国情だったのか全く不明である。


一方、国家統一前の中国では、「春秋戦国時代」に多様な思想や哲学が輩出している。「諸子百家」である。

即ち、各国の「君主」に向かって、自己権益向上の為の各種手法を遊説する「知識層」が相当数存在したのだった。西欧の場合、この様な集団の登場がルネッサンス期のマキャベリ等だったことを考えると、中国文明の先進性が理解できる。


各国間の戦闘が激化した戦国時代、強豪国は、西方の「秦」や南方の「楚」に代表される「戦国の七雄」と呼ばれる七つの強国に絞り込まれていたのである。

その戦国の七雄を統一して『中華帝国』を建国したのが、秦の始皇帝だった。

独裁者として絶対的な権力構造を確立、その後に輩出する中国皇帝の原型を造り挙げたのが始皇帝だった。そのカリスマ性と独断専行の魅力は漢の「武帝」を初めとする後代の皇帝の追慕対象となっている。


中国を統一した皇帝の出現によって忘れてならないのが、皇帝から庶民に至る中国人の間の階級格差が急速に広がった点ではなかったかと前々から思っている。

『皇帝』を頂点とする覇権主義の確立に於いて、「絶対的な階級差別」の普及に大きく貢献したのが、孔子を初めとする「儒家」や諸子百家に属する知識階級だった。

孔子の「論語」に於ける指摘ではないが、主君である「君主」と貴族・知識人層である「君子」、そして、良民である「庶民」、最下層の「奴隷階級」を明確に分けることによって、皇帝を初めとする君主階級の関心を得ただけでなく、「階級的差別」を強調することによって、朝廷秩序の主導権の掌握に「儒者」は成功している。

自身が君子階層に属する存在であると自負している孔子にとって、庶民や奴隷は人間ではなかったのである。

この極めて東洋的で、西欧の「自由思想」と大きく異なる考え方は、『中国皇帝』の存在を考える上で重要であり、今日に至るまで中国史の背骨として連綿と権力層に維持されてきたのだった。

 それでは、「倭国」の古代はどのようだったのだろうか!


(中国の史書から「古代倭国」を振り返る)

 まず、最初に、古代史に於いて、東アジア最大の「中国文明」に大きく遅れて出発した「倭国」の中国の史書に記載されている断片を採り上げてみよう。


・前漢武帝の時代   :    百余国に分かれて分立していた

・後漢光武帝の時代  :    光武帝より金印を賜る(「漢委奴国王印」)

・後漢桓・霊の間    :    倭国大乱す

・魏志倭人伝      :    卑弥呼登場

・南朝宋に朝貢     :    倭の五王


この様に通覧してみると、中国が強力な中央集権国家を建設して、「中国皇帝」の権威を確立した時代に於いても、紀元前から紀元後3世紀に至る期間、倭国は小さな国が分立抗争していたことが解る。有名な卑弥呼の推戴も「シャーマン的な要素」が大きなポイントを占めているように感じる。

それでも、漸くまとまりが出来始めたのが、推定ではあるが、「雄略天皇」の時代ではなかったかと思われるのがある。

それも、始皇帝のような絶対的独裁権力者による統合ではなく、有力豪族の連合体の首長による統合ではなかったのかと思せる点も多い。

倭の五王」以降、長い中国との断絶の期間もあったが、7世紀初頭に倭国は久方ぶりに「遣隋使」を派遣し、その後、「遣唐使」に替わって、中国王朝との国交を改善したのだった。


この様に最先端の東アジア文明である「中国文明」に相当遅れて登場した「倭国」は、大きな村程度の小国分立の時代から、中国に使者を派遣して「進貢」姿勢をとりながら、偉大な文明の受用に努力するのだった。


(「中国文化」受用に於ける「日朝の格差」)

 同様に中国「唐」の先進文化である『律令制度』に憧れて、積極的に導入を図った周辺国である日朝両国だったが、そこには、国内化に当たって大きな差異を生じている。

 唐と連合して、ライバルである高句麗と百済を滅ぼした「新羅」は唐の関心を得るために涙ぐましい努力を重ねている。太古から続く朝鮮半島独自の「姓名」を放棄して、中国風の「金」や「李」の姓に全国民を改姓しただけでなく、諸制度もできる限り唐風のものへと変更したのだった。

 9世紀の統一新羅の時代には、中国同様に、去勢した「宦官達」の後宮への導入を行っている。

加えて、朝鮮人宦官は、高麗や李氏朝鮮王朝時代の進貢品としても中国王朝に献上されるのだった。

 この風習は朝鮮以外のベトナムの王朝でも実施されたが、倭国では、遂に採用されることは無かった。古代日本人にとって健全な男子の「去勢」という行為に嫌悪感を抱いていた可能性がありそうである。その点からみても、日本は東アジア文化圏の中でも、特殊な存在感を示しているのである。


 次に、日本が中国文化の中で、採用されなかった一つに、官僚の公開採用試験制度である「科挙」がある。

 科挙も朝鮮半島、ベトナム共に古くから近代まで採用された制度だったが、このシステムも日本政府の採用とはならなかった。

 隋の時代に始まった科挙は、原則的には全国民が官僚の受験資格を持つことができる近代的で公平な制度だった。しかし、その実態は貴族や一部の富裕層の子弟しか受験できない極端な差別制度だったのである。隣国の高麗や李朝に於いては、「両班層」の権益保持の為の制度と考えても大きな誤りではないように感じられるくらい階層格差の固定に大きな役割を果たすのだった。

 一方、氏族社会の集合体だった古代日本では、伝統ある家柄と周囲との血縁関係が最も重要であり、一時、「科挙」の導入が検討されたものの、古代以来の豪族層の猛反対にとって頓挫している。

 藤原摂関家が権勢を誇った平安時代を迎えると、如何に学問に優れていようとも門閥に属さない家柄の出身者の昇進は無視されるケースが増えていき、中国の科挙のような知識階級の救済策は日本では検討されることは遂になかったのだった。


(日本に『律令制度』は定着したのか)

 それでは、古代日本の天皇家が憧れ、定着に努力した『律令制度』は日本に上手く定着したのだろうか!

 天皇家を初め上級貴族達による律令制定着化の努力は、奈良時代、平安時代初期を通じて実行されていくが、古代以来の系譜を持つ、豪族達にとって自身や一族の発言権の維持が、最も重要な判断材料だったように感じられる。

 その中でも「蘇我氏」や「大伴氏」のように、徐々に没落していった貴族と「藤原摂関家」のように

益々自家の勢力を確実なものにしていった家が時代と共に顕著になっていく。

 彼等の政争には、その時の天皇家の有力者を巻き込んだ結果、無実の罪を着せられて、武市皇子の長男、当時、太政大臣だった「長屋王」が自殺させられた事件や、光仁天皇の皇后だった「井上内親王」や皇太子であった「他戸おさかべ親王のように、藤原氏の暗躍によって、その地位を失っただけでなく、生命さえも失う皇族も多くでているのが、日本史の暗黒面といってもよい日本古代史の一面だった。

 自己の政敵に対し藤原一族の歴代は、皇族や藤原一族と雖も寸毫も容赦することなく抹殺する裏面史が奈良朝から平安前期に掛けての藤原氏主導の歴史だった。

彼等にとって、律令制と雖も自己栄達の一手段として利用する価値はあったが、それ以上でも、それ以下でもなかったのである。

第一藤原氏が好んだ「摂政」にしても、「関白」にしても、「三公」を上廻る地位に祭り上げたのは、皇族の縁類として成り上がった藤原氏自身だったのである


それでは、律令制の下級官僚として採用された人々の対応は、どのようだったのだろうか?

最近、この疑問に答えてくれる鹿児島大学名誉教授の虎尾達哉先生の『古代日本の官僚』を拝読することができたので、引用させて頂くことにした。この著書の副題に「天皇に仕えた怠惰な面々」とあるように、彼等は儀式への無断欠席も多く、「勤勉でも職務に忠実でもなかった」ようだ。

 当然なことに、中国皇帝の場合、命令違反者への死刑を含む厳罰の実施は当然の帰結だったのに対し、日本の歴代天皇の事績からも、そのような場合でも天皇は臣下に厳罰を求めることはなかったし、せいぜい、次回の官位昇進時に当事者の昇進が見送られる程度で黙認するのが常だった。

 この様に古代日本国家は中国に比べて、驚くほど寛容な国家であり、強権を発動することは極めて希だったのである。ここに、日本人の古来の民族性の一端を覗えるように感じる。


その後、あれほど盛唐時代の『律令制』に憧れ、律令の国内導入に熱心な日本だったが、律令制の整備に伴い「唐様」から「和風化」の道を辿ることになるのだった。

その背景には、始皇帝に始まる『絶対的権力者』である「中国皇帝」的存在よりもの、縄文時代以来の覇権争奪を目的とした戦闘行為よりも、主に「合議によって政治を運用」してきた倭国独自の国家運用システムが尊重されてきた印象が強い。

加えて、温帯に属する穏やかな自然環境と温順な国民性、海洋に周囲を取り巻かれた外敵侵入の希な地政学的好立地は、幸運なことに、世界でも希な『独立した文化』を育てるのに好都合な理想的環境だったのである。

この結果、中華帝国の『律令制度』に憧れながら、現実には古代大和民族は、独自の『和風文化』創造に至ったのである。


(参考文献)

1)『古代日本の官僚』   虎尾達哉   中公新書    2021年


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