66.律令制度完成期の朝廷が造った『東北の城柵群』
前稿で律令制度を基盤として強力な大帝国を築いた「唐」との戦いに苦慮した天智朝の姿に触れながら、その時代に急遽、対馬から近畿に連なって築かれた『朝鮮式山城』について、天智朝の東アジアに於ける国際感覚も含めて述べさせてもらった。
実際には天智天皇や重臣達が恐れた「唐と新羅連合軍」の日本上陸は無かったが、侵攻軍への対応策は長期間維持されて、全国の人民を苦しめる事となったのである。
中で東国から招集されている『防人』の負担は大きく、無事、三年間の防人の任を終えて帰国することになっても、東国までの長い旅程を食料の支給も無しに帰り着くのは並大抵でなく、路傍で餓死する防人の数は多かったという。
一方、律令制の実施により中華帝国としての覇権の確立に成功した「唐」と朝鮮半島の実質的統一に成功した「新羅」の侵攻を幸運にも回避できた日本政府は、その後、独立国家としての国際関係に於ける自国の立場の確立に奔走することになる。
当然ながら、唐は宗主国として両国に「進貢国」としての礼を尽くすように要求、統一新羅は唐を宗主国として尊重しながらも、日本国よりも臣下である進貢国上位の地位を長安で維持すべく画策するのだった。
一方、列島が派遣した日本使節は本国政府が指示した唐との対等関係を維持すべく苦悩したと想像される。即ち、表面上は進貢国としての礼を執りながら、重要な国書に唐の年号を記載しない、決して唐の臣下であることを公式に認めない頑な態度を維持したのだった。
いうなれば、厩戸皇子と隋の煬帝の関係を維持し続けたのが天智天皇以降の以降の歴代の日本政府の基本姿勢だった。
唐の持つ近代文明はのどから手が出るほど欲しかったが、唐の求める臣下の礼は極力拒否したいのが歴代天皇家の希望であり強い意志だったのである。
その背景にあったのが、歴代奈良朝の天皇と朝廷が抱いた「東アジアの自立国家」としての権威の確立であり、中国とは別個の対等な王権を自他共に認めさせる為の闘争の開始でもあったのである。
天皇家と朝廷貴族にとって、「四夷を平定して日本国統一」する幻想は大きく、その為には、『異民族である敵の存在』と「でっち上げ」を抜きにしては実現不可能な夢であった。
一方、『自由を謳歌していた古代東北人達(蝦夷人)』にとって、朝廷のこの露骨な征服欲は迷惑以外の何ものでもなかったのである。長かった縄文時代から続く「のびのびとした自由な部落単位の生活」を破壊する中央の好ましからざる横暴に対して、我慢の限界を超えた瞬間、闘争する強固な意志を、彼ら蝦夷と呼ばれた古代東北人は保持していたのである。
(『奈良時代』日本の国際感覚と『蝦夷』の位置付け)
天武天皇以降、「唐・新羅連合軍」による日本本土侵攻の驚異が薄れた結果、膨大な国費と人員を費やして建設した「朝鮮式山城」の存在意義は急速に失われただけでなく、国防よりも東アジアの大国としての意識が急速に高まっていった点は上記した通りだが、その背景には、日本の律令化が進んで、大和朝廷時代とは異なる国家としての体裁が整備されただけでなく、遣唐使の派遣による東アジアの最新の国際情報が朝廷に伝わるようになった時代でもあったのである。
即ち、唐朝の主導した「進貢制度」と「封建体制」の魅力が天皇制の体制整備と共に、極めて魅力的な国際関係として朝廷首脳部に浸透していった時代だった。
唐としては「新羅」を含む東アジア全域の周辺国全てが、臣下である冊封国であり、日本も当然のように、その範疇に入る列国の一つに過ぎなかったと理解されていたのだった。
一時は、領域問題で対峙した新羅にしても、早い時期に唐とのにらみ合いを終結させて、唐の主催する東アジア世界に於ける秩序に参画して、忠実な進貢国として唐に奉仕していたのだった。
しかし、列島に位置する離れた小国である日本は、頑なに独立した大国であるとの自己主張を撤回せず、大国唐を「隣国」と呼び、新羅を従属国である「藩国」と侮蔑的に呼んでいたのだった。
奈良朝の朝廷の横暴と強烈な自己顕示欲は、それだけではなかった。
壬申の乱」以降、ほぼ安定した国内事情を無視して、征伐すべき敵を求める愚行を画策し始めたのが、奈良時代だった。
当時の日本では、九州の「隼人」も既に朝廷に屈服しており、南にも東にも敵は居らず、残るところは、『敵ではないが、未だに融和しない東北の蝦夷』が存在するだけだった。
その結果、朝廷としては、平和に暮らしている古代東北人を夷狄に分類して東夷と呼んだだけでなく、「朝敵」として露骨な敵意を現わす対象に位置付けたのだった。
(『まつろわぬ民、蝦夷』)
古代縄文時代から、部落単位で穏やかな生活を送っていた「古代東北人」にとって、朝廷から、『まつろわぬ民、蝦夷』や「東夷」と呼ばれ敵視される根拠は毛筋ほども存在しなかったのである。
国威の発揚を望む天皇家と朝廷の有力者達の自分勝手な欲望の対象(被害)者とされた、『蝦夷人』にとって、迷惑以外の何ものでもなかった点は上述した通りである。
この時代、朝廷の権力は現在の東北地方南部である福島県に及び、残るところ現在の東北北部の現在の県名で挙げると、宮城、山形、岩手、秋田、青森に過ぎなかったのである。
朝廷は、この未開拓の北辺の地域を、太平洋岸の「陸奥」と日本海側の「出羽」両国に選定して確実な支配体制を徹底することを夢見ていたのだった。
そこに居住する『蝦夷』と呼ばれる集団は、習俗の異なる日本人と同じ民族ともいわれ、狩猟や採取を主として生活を営み、騎乗と弓射を得意とする人々だった。
長年に渡って、自分達の土地で自由に生きてきた蝦夷人にとり、朝廷の東北地方進出と臣従の強要は迷惑以外の何ものでもなかったのである。
勝手に人の土地に「国府」と称するや巨大な「城郭」を建設する横暴な行為は、多くの現地の蝦夷人の反発を招くに十分であったし、それ以外の城柵建設も頻繁に行われるようになったのである。
朝廷支配の徹底はそれだけではなかったのである。強大な権力を持つ「鎮守府将軍」や「征夷大将軍」を任命して、陸奥を中心にした朝命の浸透を図るべく軍事行動をちらつかせて、古代東北人の全面的な屈服を要求したのだった。
(朝廷の「陸奥攻略準備」と『桓武天皇』の即位)
古には、倭国内で「大王」と呼ばれていた我が国の国王の名称も奈良時代を通じて、
『天皇』へと大きく替わり、次第に定着をみたのだった。
万葉集にも、「大王は神にしませば!」という表現が登場するように、古代の有力豪族の代表者的立場から、聖武天皇の時代には東アジアの有力な国の君主としての意識と威信が確立されていったのだった。
養老二(718)年、出羽や渡島の蝦夷78人が、馬千頭を朝廷に献納した記録が残っているように、古代東北人の人々の間にも朝廷の存在が大きくなっていった時代だったのである。
そんな中、神亀元(724)年、東北攻略の拠点として朝廷は、後に陸奥の国府となる「多賀城(宮城県南部)」を建設している。
その建設と改修の経緯は「多賀城碑」によって明らかであり、これ以降、多賀城は東北地方に居住した『蝦夷』に対する大規模な「征夷」の拠点として何度も登場することになるのである。
昔からの平穏で自由な生活を楽しんでいた古代東北人にとって、遙か遠い都から派遣された官僚達の横暴と指図は、決して我慢できるものではなかったのである。
ちなみに、このとき築かれた多賀城は、緩やかな丘の上部に約100m強X約170mの方形の「政庁」が置かれ、その周囲を広大な八町強(約900m弱)四方の不整形の外郭から構成されていた。政庁と外郭は築地塀と柵列で堅固に防御され、政庁の正殿は朝廷の威を誇示するに十分な豪壮な建築物であった。
これ以降、多賀城は何度も増改築が行われ、陸奥統治の拠点として、奈良・平安期を通じて長期間使用されている。
多賀城の築城によって、陸奥に於ける大規模な軍事行動拠点の建設を終えた朝廷は、これ以降、本格的な蝦夷征討に乗り出すのである。
その陸奥南部に於ける朝廷勢力が確立した時代に、老齢の光仁天皇に替わって即位したのが、庶子である山部親王(桓武天皇)であった。
同親王の母「高野新笠」は百済系渡来人の子孫であり、皇族が多い代々の皇后の系譜と比較すると、桓武天皇の生母の身分は低く、新任の天子である桓武にとっても自己の存在に引け目を感じていた可能性が高かった。
そのような背景もあって、桓武には、大きな事業を興して、自分の実力を周囲に認知させたい情熱と精神的衝動が内在していた印象がある。
その第一が、旧態依然たる「平城京」からの脱出である。
初めに企画した「長岡京」への遷都は推進者である藤原種継の暗殺によって失敗したものの、次の「平安京」の建設に成功して、桓武天皇の建設した平安京は千年の古都として、今でもその存在は輝き続けている。
そして、第二の目標は、奈良朝以来の北辺での『国威の発揚』だった。四夷を制覇することによって天皇の存在と朝廷の威信を内外に示す好機だったのである。
(『蝦夷』に対する和戦両様の展開)
ここで、若干歴史を遡って、歴代朝廷による陸奥、出羽両国に於ける『古代城柵』の建設経過を覗いてみると、8世紀半ばの、「天平宝字年間」には太平洋側に、「桃生城」、「伊治城」が築かれたほか、日本海側にも「雄勝城」を築いて、現在の宮城県と秋田県南部以南の掌握に朝廷は成功している。
雄勝城は現在その所在地が不明とされているが、秋田県大仙市にある「払田柵」をその比定地とする説が有力である。
これらの城柵の多くは、基本的に陸奥の国府である多賀城と同じ広大な方形の外郭と、その中央部の政庁からなる国府あるいは、その出先機関としての官庁としての機能を優先した構造を持っているのに対し、「払田柵」と「秋田城」の一部は現地の小丘の起伏を活用して防御戦に適した実務的な構造となっている。
この二つの城柵をつぶさに歩いてみると、国府である多賀城や出羽柵とは異なり、蝦夷に対する朝廷の最前線基地としての緊迫感をより強く感じる。
当然ながら、蝦夷への圧力の強化は、現地の人々の大きな反発を買うことになる。宝亀五(774)年、桃生城を攻撃した海道の蝦夷は、同城の西郭を破り、鎮守府将軍大伴駿河麻呂の軍によって掃討されている。
同年の古代東北人による「桃生城」攻撃から始まる朝廷との抗争は、「38年戦争」とも呼ばれ、終了したのは弘仁二(811)年に至る両者にとって長期の戦いとなったのである。
宝亀十一(780)年には、陸奥守紀広純が郡司伊治砦麻呂に殺され、多賀城が炎上する大事件が起きている。砦麻呂は朝廷に帰順して郡司に任用されたものの、周囲の侮蔑に耐えかねて猛反発した結果の行動と考えられている。
奈良時代を通じて、帰順する北東北の豪族も多かったが、蝦夷人なるが上での冷遇も多く、中央の主張する権威に対する不満も現地では鬱積していったのである。
(『桓武天皇』の征夷と『征夷大将軍坂上田村麻呂』の起用)
そんな中、桓武天皇は、即位三年後の延暦三(784)年、早くも大伴家持を「征東将軍」に任じて、北辺の安定と天皇家の威信の浸透を図っているし、続いて、同七年にも紀古佐美を「征東大使」に任命して多賀城以北に対する朝廷の権威の確立に努力している。
しかし、現実には国府や城柵に参向する蝦夷達には、懇ろに「酒食」を与え、友好を図る好意を官人は示したが、結果的にみて、大きな成果を挙げることは少なかったと考えられる。
この様な背景の中、漸く、蝦夷征討の適任者として登場したのが、「坂上田村麻呂」だった。田村麻呂は、延暦十三(794)年、副将軍として初めて歴史に登場している。
一方、古代東北人側では、陸奥国胆沢の豪族「大墓公阿弖流為」を中心に決起、桓武天皇の激励に答えて進軍した「征東大使」紀古佐美の率いる大軍を迎撃、征東軍側は数百人の死傷者と千人を超える溺死者を出して敗退している。
現地の地形を知悉している阿弖流為側の作戦が見事に成功した瞬間だった。
しかし、十分な後方支援がある官軍に対し、自分達の居住地を中心に戦乱に巻き込まれた蝦夷側の負担と損害は大きく、抗争が長期化するにつれて古代東北人の疲弊は増大していったのである。
その点、統一政府である朝廷は、蝦夷人への圧力を徐々に増大させて、ジワジワと、最前線基地である城柵を次々と建設して、朝廷の勢力圏の拡大に成功するのだった。
阿弖流為の反撃にも拘わらず胆沢地方を平定した朝廷は前進基地「胆沢城」を建設、征夷大将軍「坂上田村麻呂」を特派して占領地域の安定を図っただけでなく、関東地方からの数千人の移住者を投入して占領地の王化を促進する策も実施している。
現在、胆沢城跡を歩いてみても、平坦な水田と畑に過ぎず、峻険の地を求めなかったところにも、政府軍の自信が感じられた。
ここに至り、阿弖流為と盟友の母禮は、配下の五百余人を率いて田村麻呂に降伏、田村麻呂は両人を従えて上京、両名の助命を嘆願したのだった。
しかし、堂上の公卿達の賛同を得ることが出来ず、両人は河内国において処刑されている。
この朝廷の一方的に非情な処置によって、阿弖流為の乱を最後に、陸奥に於ける古代東北人の大きな反乱は収束するのだった。
その後も田村麻呂は、「志波城」の造城使となり、朝廷勢力の北進に注力しているだけでなく、延暦二十三年にも再度征夷大将軍に任ぜられている。
(東北の『大城柵群』)
志波城(盛岡市)は、東北の『大城柵群』の中でも発掘復元が進んでいる古代城柵で、外郭南門から入城して内郭の政庁に進むと、その壮大さが良く実感できるし、築地塀の要所に構築された防御用の櫓の配置からも最前線だった城柵の緊張感が伝わってきて、田村麻呂の与えられた現地での任務の大きさを感じさせられる。
面積だけから比較しても、志波城は陸奥の国府である多賀城や対阿弖流為最前線の城塞である胆沢城や後方基地である徳丹城に比較して、格段に規模が大きく、その圧倒的存在感に驚かされる。
一方、出羽国の最前線基地である「秋田城」や「払田柵」を陸奥の諸城柵と比較すると、多賀城(緩やかな丘陵城に内郭は位置している)以外の城柵が比較的平坦地に建設されているのに対し、丘の上の位置する自然地形を出来るだけ生かした防御を優先した地形選択している様子が覗える。
秋田城の場合、外郭「東門」周辺の発掘修復と復元工事により、往事の姿が復元されている点が好ましい。加えて、当時の渤海からの使臣用と思われる施設(厠)も復元されており、古の日本文化の一端を学ぶことができる。
払田柵の場合も同様で、外郭主要部は平地に建設されているが、政庁のある内郭は低いながらも丘陵の頂上部に位置しており、その他の主要な建築物跡も丘の上に位置している。
政庁跡から外郭を観ると眺望も優れており、もし敵に攻撃されるような事態になっても、包囲する敵の動きを瞬時に把握できそうな地形であった。
陸奥の城柵群と出羽の城柵群の大きな相違としては、積雪の少ない陸奥では「築地塀」が主流なのに対し、雪の多い出羽の城郭は、雪に強い「木柵」によって構成される部位が主要部分を占めているという。
城柵が建設された地形も、陸奥の諸城柵や山形県の「出羽柵」の印象が、平地に建設された関係もあって、朝廷の威を現地の人々に浸透させる点を重視して構築されているように感じるのに対し、秋田県内の城柵は、上記のように何処か戦闘を意識した印象を地形的に受ける。
一方、全体的な印象としては、出羽に比較して陸奥の城柵の数の多さを考えると、太平洋岸の古代東北人の抵抗の大きさを感じざるを得ない。
そうはいっても、日本海側の出羽の古代東北人の抵抗が少なかった訳では無かった。
時代が遙かに下がって、陽成天皇の元慶二(878)年、秋田の蝦夷の反乱により、秋田城が略奪と炎上する被害を受けている。「元慶の乱」である。
しかし、反乱の直後に出羽権守に任ぜられた藤原保則と鎮守府将軍小野春風の現地の民意を汲んだ寛大な対応策により、短期間で反乱の鎮撫と民心の安定に成功していることは、両者にとって幸いであった。
この様に長い年月に渡り、朝廷と古代東北人の軋轢と抗争が続いたが、嵯峨天皇(809~823年)の時代、
『蝦夷を夷俘と蔑称することを禁止する』
との勅命を発せられて、『東北人』を同じ日本人として扱うという朝廷の意思統一が表明された結果、桓武天皇の主導した夷狄討滅の言いがかりの時代が終わったのだった。
それと共に、東北各地に建設された『古代城柵』の時代は終了し、陸奥国府である「多賀城」や出羽の有力な政府機関である「秋田城」を除くと、多くの城柵は放置され消滅の道を辿った可能性が高いようである。
しかし、その一方で、蝦夷征討は思わぬ遺産を日本人の歴史に記憶されることになるのだった。
『征夷大将軍』
の存在である。
源頼朝以降、武家の棟梁は、その職に就くことを目標として行動し、征夷大将軍に任ぜられて初めて全国の武士の総大将は、《実質的な、その時代の日本政府の代表者》としての地位を公に認められる存在となるのだった。
その結果、東アジア三カ国の中で、『日本人』は中国や朝鮮と異なる政治機構を持つ、独自の国家を造り挙げて行くことになるのである。
(参考資料)
1) 『志波城跡パンフレット』 盛岡市教育委員会
2) 『史跡秋田城跡パンフレット』 秋田市教育委員会




