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65.「白村江(はくすきのえ)」の大敗と『朝鮮式山城』

 このところアジアを中心に知的放浪の生活を送って来たので、『東アジア三カ国』の一つである日本に戻って「倭国」称した大和朝廷最後の時代の東アジア三カ国の国際関係に関連して倭国で建設された『朝鮮式山城』に触れてみたいと思っている。

 その背景となったのは、日本史上、初めての国際紛争に於ける大敗戦である「白村江の戦い」であり、その収集策だったのである。


 日本には戦国時代を中心に約四万余の城と城跡が残っていると考えられているが、本稿で触れたいのは大和朝廷末期の「天智天皇」時代の『朝鮮式山城』の成立過程とその目的の学習である。

 加えて、次稿では、出来れば平安時代初期に東北で建設された国府を含む一連の『城塞群』に触れてみたいと想っている。

 この広域に分布する国家が総力を挙げて建設した城塞群建設の目的と成果について、非力ながら、その末端に触れてみたいと以前から考えていた。

 その為、できうる限り、その時代を実感してみたいと対馬の「金田城」や福岡県の水城を守るように建設された「大野城」等にも幾度か足を運んで城門跡や山上から周囲を俯瞰しながら考えたことも少なくなかった。

 一方、陸奥・出羽の両国に残る「蝦夷」と政府軍の抗争地であり、中央政府との相互理解の現場である「多賀城」や「秋田城」もできる限り広範囲に歩いて、当時の蝦夷人と官軍の錯綜しながらも理解しようとする両者の意識を想像してみたのだった。


 この二つの古代日本国が総力を挙げて建設した『城塞群』は規模の壮大さと建設地域の大きさは有力戦国大名の城や砦を凌駕する物があることに驚かされるだけでなく、7世紀や9世紀の古い時代に建設されたとは思えぬほどの規模と整然たる建設計画が感じられるだけでなく、東北に建設された国府や準国府である「秋田城」等は、平安京の中枢部をまるで縮小したような整然とした建設計画を感じるのだった。

 さて、それでは、古代倭国の未曾有の大敗戦だった「白村江の戦い」から始めたい。但し、天皇の呼称等も当時は大王おおきみだったはずだが、いつものように使い慣れた後代の呼称である「天皇」を使用させて頂いた。


(「白村江の大敗」:日本史上最初の衝撃)

 大陸から離れた列島に居住する日本人にとって、強大な大陸の軍隊が海を渡って攻め寄せてくる実感はいつの時代でも希薄だった気がする。

 その非現実的危機に最初に日本民族が遭遇したのが、「白村江の大敗」直後の天智天皇の時代だった。

 大国の「唐」と「新羅」の連合軍に攻められて都を攻略されて亡国の危機に遭遇した盟友「百済」を救援すべく、朝鮮半島に未曾有の四万余の大軍を送ったのが、この戦いの始まりだった。

 

 しかし、百済復興軍の内部分裂もあって、百済・倭国連合軍の連係動作に欠けた行動が目立ったのに対し、大軍を有する唐・新羅連合軍は軍略に長け、白村江の干満の時間を慎重に読んだ作戦を立てて待ち構えていたのである。

時に、天智天皇2(663)年8月のことだった。

連合軍は唐の大船を中心に周到な準備で待ち構えていただけでなく、火計も用いて蛮勇の倭国の小型船団を撃破、倭国の兵は白村江を血に染めて壊滅、殆どの将星を失っただけでなく兵船の半数を失い、捕虜多数を出して惨敗したのだった。


 その結果、残存する倭国軍と亡命を望む百済遺民は這々の体で倭国になんとか撤退している。

 この敗戦により、朝鮮半島の形成は大きく変化、長年「唐」に抵抗を続けた「高句麗」も5年後に滅亡(668年)、同半島の実権は、最も小国だった「新羅」が掌握する方向に変わっただけでなく、広大な「東アジア」全域で、唐に敵対する勢力は「倭国」一国となってしまったのだった。

 一方、国内から観ると、大国唐と新羅連合軍による倭国上陸の可能性が急激に高まっていったのである。

多くの有能な将軍や兵を失った西国の諸豪族の天智天皇に対する水面下の反発も強く、天皇の権威の維持と祖国防衛体制に確立に大和朝廷は苦慮することになるのだった。


(天智天皇の「恐怖感」と「防衛策?」)

 母親斉明天皇の全面協力もあって長年独断専行で朝政を主導してきた皇太子の中大兄皇子だったが、今は、その頼りになる斉明天皇も没し、側には寵臣の中臣鎌足と弟の大海人皇子が居るのみだった。

 彼にとって、白村江の敗戦直後の西暦663年秋から、665年に掛けての期間が最も焦燥と苦慮に責め苛まれた期間だったのではないだろうかと想像している。

 強力な意思を持つ独裁的な中大兄皇子は天皇に即位しない「称制」のままで、祖国防衛策を次々と立案実施することになるのだった。

中大兄皇子の天皇即位時期に関しては諸説あるが、5年後の668年と一般に伝えられている。

 そんな逼迫する国際情勢の中で、皇子と近臣は、


『唐の属国となる危険性の回避策は?』

『有効な祖国防衛策は存在するのか?』

『自分達大和朝廷の威信と権威を保つ外交手段は?』


 と、次々と現れて来る幾多の疑問に苦悩したろう事が想像される。

その結論として天智朝が導き出した答えが、次の三つだったようだ。


一)緊急時の通信手段としての『烽火とぶひ』の設置と『防人』の手配

二)筑紫内陸部の防衛拠点としての『水城』と『大野城』の建設

三)対馬から北九州、瀬戸内、近畿の各地に朝廷防衛の為の『朝鮮式山城』の建設


(天智天皇が行った「唐・新羅連合軍」に対する『倭国侵攻対策』の実態)

 上記した二項目に付いて、まず、簡略ながら触れてみたい。

 『烽火とぶひ』は白村江の敗戦の翌年、新羅や唐の入寇に備える緊急通信手段として、対馬の8カ所を初め、壱岐、筑紫の各重要地点に設置された烽火を用いた通信施設のことである。

 一方、『防人』は、最前線の防衛兵力として、白村江で大打撃を受けた西国の軍勢に替わって、北九州防衛のために、遠く「東国」から呼び寄せ、3年間の軍役を努めた兵士達のことである。

 当時の道路事情は不明だが、朝廷の一方的な命令によって、千数百キロの遠方から呼び寄せられて北九州一帯の防備をになった人々の苦労がいかばかりであったろうか!

 往路の食料は与えられたようだが、帰国時には食料の供給も無く路傍で餓死する人々も多かったと伝えられている。天智朝の役人達は人間としての愛情を欠落した人々だったしか思えないのである。

防人の家族との交情や労苦は「万葉集」を読むと、痛いほど解るが、この東国の人々にとって最悪の防人が漸く有名無実になったのは、遙か後代の延喜年間(901~923年)の事らしい。そうなると約240年に渡って九州から遙かに遠い東国の住民達は苦難を受け続けたのである。


 さて、次の防御施設の『水城』と『大野城』だが、同年、新羅・唐連合軍の侵攻に備えて、筑紫の内陸部を守るように長大な(全長約1.2km)の土塁と水濠を備えた『水城』を建設している。

 更に翌年、現在の太宰府を守るように朝鮮式山城の『大野城』と「基肄城」を建設して、万全の守備体制を整えている。

 「太宰府」がいつの時代に建設されたのか寡聞にして知らないが、古代から朝鮮半島の倭国の窓口として重要視された「那津なのつ」、現在の博多は、海岸に近く交易に至便の地ながら、余りにも海岸に近く、新羅・唐連合軍の入寇を考えると、危険極まりない地に感じられた為、内陸の太宰府に九州全体を指示命令できる大和朝廷の出先機関の建設を急いだ結果のような気がする。

 そう考えないと大野城と基肄城の位置関係が、理解できないし、各地に建設された朝鮮式山城の中でも最大の規模を誇る城塞の存在が説明できそうにもないのである。

 大野城を細かく歩いてみても、那津に向いた谷間に厳重に構築された城門の配置や壮大な百間石垣、脆弱部を補う版築土塁の堅固さをみても、天智政府が、この地に膨大な資材と労働力を惜しみなくつぎ込んだ様子が実感できるのである。


(対馬の『金田城』に始まる朝鮮式山城建設の意義)

 大野城に代表される「朝鮮式山城」は前述の通り、対馬を初め北九州、瀬戸内海、近畿地方に広く分付している。

 その名称や建設時期が史書に記載されている山城もあれば、全く歴史から忘れられている城塞も多い。

 そこで、最初に新羅との最前線に建設された対馬の「金田城」について触れてみよう。


 対馬は南北に細長い島で、中央に「浅茅湾あそうわん」が西から大きく切り込んでいて、湾の周囲には断崖絶壁も多い。

 その一つに「金田城」は建設されており、海上からみる石垣の壮大さは、写真からでも理解できるほどだが、実際に登ってみると、急峻な地形に工作機械も無い古代に尽力だけで良くここまで構築出来たものだと感銘を受ける。

 確かに、浅茅湾に入った唐や新羅の船から見上げた「金田城」の印象は強烈だったかも知らないが、不思議なことにこの城塞が守るべき港湾は城の近くには全く存在しないのである。

 天智3年に厳原が正式の国府となり、天智6年に金田城が築かれたと伝えられているが、厳原から金田城への道は車で行っても相当あり、とても、国府を守る山城とは思えない位置関係にある。

 対馬には先に挙げた有名な「防人」が配置されていたとはいえ、対馬全島を守備するほどの充実した人員は持っていなかったはずだし、国府と金田城だけの守備にしても、両者を同時に守備する意義は、余り見いだせない感じがするのは私だけだろうか?

 どうもこの城の存在意義は、唐と新羅の人々に見せることが重要な、見せるための城だったような気が個人的にはしている。


 続いて、岡山県の「鬼ノ城」について触れてみたい。

 同城は、岡山県総社市にある朝鮮式山城で、近年、西門や角楼が復元されているので、一般の人の見学先としては好適な印象を受ける。復元された版築の城壁の眺望も雄大で、外周2.8kmに及ぶ城壁各所の保存状態も好ましく、他の朝鮮式山城が未完成部分を含んでいる感じを受けるのとは対照的な存在である。

 しかし、この城の場合も金田城と同様な疑問が付きまとう。確かに眺望が優れた城で眼下に総社平野を含め海まで遮るものの無い位置関係は解るのだが、瀬戸内海を進む唐と新羅連合軍の軍船が、鬼ノ城を無視して河内や大和の大和朝廷の本拠地を目差して進んだ場合、どんなに大兵力を鬼ノ城に集めても軍事的に効果があったとは思えない城塞なのである。

 強いて推論すれば、瀬戸内海の奥、大阪湾に向けて侵攻した敵国両軍の背後を脅かす存在を誇示する城塞だったのかも知れない?


 このように三つの朝鮮式山城も歩いてみても、侵入する唐・新羅連合軍に対して効果がありそうなのは水城とその背後の大野城位なもので、他の朝鮮式山城の場合、緊急時の食糧倉庫程度の機能しか望めそうも無い位置関係も含めた印象だった。

 どうも、多数造られた朝鮮式山城は天智天皇の恐怖心を癒す効果と自己満足はあったかも知れないが、実戦経験に疎い最高軍事指揮官の失敗作にしかみえない点がおぼろげに浮かび上がってくるように感じられた。

 山頂からの眺望を楽しんだ翌日、麓の平野部から鬼ノ城を遠望してみたが、遙かに遠く高い山上を守備する無害な敵軍を用も無く攻める無能な軍事指揮官は多くないだろうと散策しながら思った次第です。


 この各地の朝鮮式山城を観ていると当然ながら白村江の敗戦により行き場を失い倭国に帰化した百済の人々の監督や指導の下に建設されたとの説が実感される。

 確かに、このいくつもの壮大な石垣部分も多い山城が倭国単独で建設されたとは考えにくい構造物ですし、この後の時代に、同系列の石垣や城壁が建設された事象も耳にしないので、天智朝時代で、この事業は終了して、人々の記憶から消去されていったと理解するのが順当のような気がしている。

 そうなると「神籠石」等の呼び方で各地に散在する古代山城も朝鮮式山城と同系列の城跡として理解しても大きな過ちとならないような気がしている。

 例えば、福岡県行橋市とみやこ町に跨がる「御ヶ谷神籠石」等でも、中々見所のある構築物が多く存在する。特に同所の、中門付近左右の石積みは見事であり、確証は無いが古代百済の特徴を残しているようにさえ感じて感動した記憶がある。

 しかし、この「朝鮮式山城」が建設された九州から近畿に至る地域を考えると、朝鮮出兵の大動員によって、多くの兵員と家人を失って大打撃を受けた地域でもあったのである。当然、天智朝の企画した大城塞群の建設に対しても膨大な資力と人員の提供を求められて現地の人々は長く苦しんだとしか思えないのである。

 この連年の圧政に対して、表面はともかく、民の怨嗟の声は静まらず、「壬申の乱」勃発時の帝の後継者である大友皇子の呼びかけに対して、西国の兵が求めに応じることが少なかった事実が思い起こされるのである。


(天智朝の「反省」と『改善策』)

 この様に、天智天皇を筆頭にした倭国の首脳陣を悩まし続けた恐怖の「唐・新羅連合軍」の倭国侵攻は、実際には実現しなかった。

 その最大の原因は、連合国であった唐と新羅両国の戦勝後の不和が要因であった。両国共に占領した旧百済と高句麗の旧領を自国の勢力範囲と固執した為、戦闘に発展しただけで無く、執拗な小競り合いも繰り返された結果、異民族である唐の軍隊が旧三カ国の領域から追い出された結果、朝鮮半島のほぼ全域が新羅の勢力範囲となったのだった

 そうなると唐、新羅両国共に仇敵である倭国を味方に引き入れるべく倭国との外交交渉を強化した結果、天智朝は両国との友好関係を早い時期に復活できたのだった。

天智にとって、国際関係の変化が幸運をももたらしただけでなく、偉大なる先進国「唐」との交流を重ねることによって、唐の政治機構の根底を支えている「律令制」の重要さを理解することも出来たのだった。

先進文化や先行する技術に常に強い憧れを抱いてきた倭国の首脳陣は、「唐文化の基盤である「律令制度」の吸収と国内での徹底に向けてのめり込んでいくのだった。

天智天皇と側近の藤原鎌足等によって強力に推進された律令化は道半ばで天智が没してしまったが、壬申の乱を勝ち抜いた天武とその後継となった持統の両天皇によって、完成を目指すべく国家を挙げて推進されたのである。


古代倭国以来、日本人は自分達よりも優れた「先進文化」や「諸制度」、「最新技術」の導入と国内化に異常な執着と努力を傾ける国民性を発揮する傾向が強かった。

天智天皇が始めた唐からの「律令制度」導入は、歴代天皇によって、強力に推進され、古代日本の骨格として定着し、「奈良」、「平安」の時代を形成する強力な基盤となったのである。


 最後に私事で恐縮だが、九州各地の「朝鮮式山城」の詳細な探訪には、福岡県在住の義兄夫妻の協力無しでは出来なかった成果なので、ここに、心から厚く御礼申し上げたい。


(参考文献)

1) 『天智朝と東アジア』    中村修也    NHKBOOKS  2015年


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