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64.アジア全体から観た『東アジア』

 ここまで、日本に身近な『東アジア三カ国』に絞って、いくつかのテーマ毎に勉強を続けてきたが、原点に立って振り返って観ると、「アジア全体」について少しも理解が進んでいないし、これまで一度も触れなかったことに驚いている。

奈良や平安時代はおろか、相当時代が進んでも日本人にとって自分達の生きる世界の大国といえば、本朝(日本)と「唐天竺(中国とインド)」の三国だった。そのくらい古代日本人にとっての世界の範囲は狭く、戦国時代に至って、漸く「南蛮人」が登場するのだが、江戸時代になっても

『三国一の○○』

のような、表現が庶民の中に濃厚に残ったほど、日本人の庶民の世界感の中では有力国家群として、自国と唐、天竺の三カ国が意識する世界の全てだったのである。

そう考えると、長い間、『東アジア三カ国』に拘って勉強を進めてきた行為が少し寂しい気もしてくるが、現実に起きた知識不足の実情を否定するのも狭小な感じがするので、今回は思い切って、その枠を『アジア』全体に認識範囲を拡げて勉強することにしてみたい。


広大なユーラシア大陸の中の「アジア」といっても余りにも茫漠としていて、どの地域を限定すべきか迷ってしまうので、取り敢えず次の四つの地域に分けて考えてみることにした。


一) 東アジア    :中国を中心とした地域

二) 中央アジア  :ユーラシア大陸中央部の砂漠と草原地帯

三) 東南アジア   :大陸と島嶼地域から成る地域

四) 南アジア    :インドを中心とした地域


(古代から中世『アジア』の概要)

 アジア全体を上記四つの地域に簡易的に分けてみたが、残念ながら各地域の特徴や同地域毎の古代と中世の歴史を明確に理解している訳では無いので、極めて大雑把に各地域の特徴を自分流にピックアップしてみたることとした。


 それでは、アジアの文明史上に、いつ頃の時代からこの地域の古代文明が世界史的に観てスタートしたのか考えてみよう。

「世界四大文明」を発生年代順に概観すると、エジプト、メソポタミア文明が古く、若干遅れてインダス文明が出現し、最後に黄河文明が登場する順位らしい。

 この様に若干の遅速はあるものの、南アジアの「インダス文明」と「ガンジス文明」が勃興し、続いて東アジアの「黄河・長江文明」が生まれたアジアは世界史的に観ても、文明の開花は早かった地域と考えられる。

宗教的にも、南アジアは世界三大宗教の一つである「仏教」が誕生した地でもあり、その後の「ヒンドゥー教」の普及もあって多くの周辺民族も含めた文明と宗教の源泉の一つといって良いと思う。


一方、宗教よりも政治活動の活発化と歴史記録を重視した中国では強大な王朝が紀元前3世紀には出現しているし、北インドでも「クシャーナ朝」を初めとする王朝国家の出現をみている。

反対に東南アジアでは、東アジアや南アジアのような大きな権力を保持する王朝の出現は古代から中世前半の段階ではなかったし、各地に小王朝が分立する時代が長く続いたのだった。

反対に中央アジアの草原地帯では騎馬民族による軍事集団の消長が激しく、紀元前後の「匈奴」、その後の「契丹」や「女真」の中国への侵攻は続き、最後に中央アジア出身の強力な武力集団「モンゴル族」によって、アジアを含めたユーラシア大陸の過半を支配する大帝国が形成されたのだった。


(『宗教』から観た四つのアジア)

 まず、古代に於ける「文字」の出現は、東アジアの中国と南アジアのインドに於いて確認されている。その一方、自分達民族行動に注視して、克明な歴史記録を残した漢民族に対して、インドの歴代王朝は詳細な自分達の王朝の歴史を残すことは少なかった。

 その中間に位置する東南アジアの群小の諸王朝に至っては、自国の歴史的な記録に興味がわかなかったようで、詳細な記録は殆ど残さなかったようだ。

 この様に、アジア文化圏に於ける詳細な歴史記録は、どうやら『漢字文化圏』である東アジア領域に限定されると考えても大きな間違いではないようである。

 その反面、東南アジアと南アジアでは『宗教』に対する各民族の情熱と思索を感じる遺跡が多い居印象が個人的にはある。


 世界三大宗教である『仏教』は紀元前450年頃インドで広まったとされているが、それから約二千五百年立った今日、世界で約四億人の信者が存在するという。

 その教域はアジア全域に広がっており、内容的には、「上座部仏教(小乗仏教)系」と「大乗仏教系」の系列に分かれている。東南アジア諸国は主に上座部仏教系であり、東アジア諸国は大乗仏教系が浸透している。

 やがて、仏教の誕生したインドでは「ヒンドゥー教」の勃興と共に仏教が衰微し、周辺諸国にもヒンドゥー教が波及していくのだった。

カースト制度(身分制度)を持つ「ヒンドゥー教」の浸透により、今日のインドが形成されたといっても良いような気がしている。信者の数は現在、インドの人口の大半に当たる約11億人以上に達しているという。


加えて中世以降になると、北インドや東南アジアの島嶼部を中心に『人は神の前では平等だ』とする教義の「イスラム教」が伝えられ、その勢力が急速に拡大するのだった。

同教の教義はカースト制度を重視するヒンドゥー教と真正面から対立するもので、南アジアや東南アジア地域の島嶼部で、旧来の宗教との軋轢を重ねながらも拡散を続けた結果、インドネシアでは世界最大のイスラム教徒人口を有して今日に至っている。

この様に現代の南アジアや東南アジアでは、イスラム教とヒンドゥー教、仏教等の信仰が混在する地域が生まれたのだった。

 

 東アジアの主要国中国に於いて信奉されている宗教はというと「儒教」と「道教」、「仏教」の三つが有力である。

 しかし、儒教は世界でも珍しい「国策宗教」的な色彩が強く、科挙を含めた国家に直結する政策面に密接した感覚の濃厚な宗教であり、国家の指導層を牽引する知識階級に歴代信奉された経過もあって、近代でも「漢字文化圏」にしか儒教は浸透せず、中東から来たイスラム教やインドのヒンドゥー教のように東南アジアや南アジア圏の広い地域に伝播することはなかったのである。

 即ち、イスラム教やキリスト教のような一般庶民を対象とする世界的規模の宗教と大きく異なり、

国家の高級官僚層である士大夫層を主対象とした儒教の普及は、極めて限定的であり、アジアの他の文化圏に浸透することはなかったのである。

 道教と仏教が庶民の広い信仰によって支えられていた背景があるのに対し、儒教を信奉する重臣層の中にさえ、自宅に帰ると密かに道教や仏教を個人的祈りの対象とする人が多かったと伝えられているように、儒教の本質が透けて見えるような気がする。

 その点、北方の騎馬民族は支配した民族の宗教には一般的に寛容で、自分達の信仰する宗教を他民族に強要するケースは少なかった。

 ここで、古代日本人の信仰の一部に触れてみたい。


(『天竺』に憧れた日本人)

仏教の伝来以来、日本古来の「神道」との融合が進んだ「日本仏教」では、仏教の本質を学ぶために中国に留学した日本人僧の数も多かった。古くは、「空海」、「最澄」を初めとする真言、天台の名僧を初め、禅宗を希求した僧達も多数、中国に渡っているし、中には仏教の祖国「天竺」を目差した僧も少なくは無かったのである。

 しかし、僻遠の地「天竺」への求法の旅に成功した日本人僧の数は驚く程少なく、完全な成功者というと。どうであろうか? 

有名な「真如法親王」を初め、「明恵」や「栄西」等が天竺への憧れを抱き続けているが、真如法親王は天竺への道半ばで没し、明恵や栄西にしても計画段階で残念ながら諦めざるを得なかったのである。

 実際に天竺の地を踏んだ僧としては、「金剛三昧」という、どうやら密教僧らしい9世紀半ばの僧が居るようだが、その詳細は不明で、果たして彼が故国日本に帰還できたのかさえ分明ではない。


 その点、天竺に憧れ、現地に存在する無数の仏教経典を読み、更に、故国中国に膨大な経典を持ち帰ろうとした中国僧の数は比較的多い。

 その代表的存在が「玄奘三蔵法師」で、帰国後、唐の太宗の庇護もあって、持ち帰った経典の翻訳に一生を捧げて、中国での仏教の普及に大きく貢献している。その経典を保管した場所が、西安の観光地として今に残る「大雁塔」である。そういえば、天竺に替わって「印度」という用語を用い始めた最初の人物が玄奘だったが、日本では主に天竺の方が一般に多用されてきた。

 唐代以降、三蔵法師を初めとする多くの偉人達によって仏教経典の漢訳がなされた結果、漢訳経を通じて無数の日本人求道者達が、仏教の深奥に触れて、仏教の国内化に努力した結果、今日の「日本仏教」が存在するといっても過言ではない。 

 この様に、古代から中世に掛けてのアジアの東西交流は多大な苦難の伴う行為だった。有名な「シルクロード」という表現があるが、軽量な絹織物等の運搬はともかく、大きくて重い物産品の陸上輸送は、決して容易ではなかったのである。


(イスラム教徒の『ダウ船』が開いた「東西交易」の活発化)

 10世紀以降、既にイスラム教徒の交易商人達はインド、インドネシアを経由して中国に到達していた。窓口となった「広州」には、アラブやペルシャ、東南アジアを初めとする多くの外国の居留者が居住し、貿易が発展しただけでなく、中国商人達も「ジャンク」と呼ばれる角形の帆を持つ帆船を操って、東南アジアから南アジアまで進出している。

 しかし、当時のアジアの東西交易の主役は、イスラム教徒の『ダウ船』であり、ダウ船は地中海型の西欧の船や中国のジャンクとも大きく異なる構造を持ち、外板の固定に釘を一切使用せず、紐やタールを用いて組み立てることを特徴とした柔軟な船体を特徴としている。帆柱は1・2本で、それぞれに大型の三角帆ラテンセイルを掲げて帆走効率を上げている全長15m~20mの船が多く、トン数的にも大型船でも300トン程度だったと想像される。

ムスリム商人達はダウ船を操って、長大な交易ルートを維持して東西文化圏の交流と発展に大きく寄与したのだった。


その中間にあって繁栄したマレー系海上交易国家に「シューリヴィジャヤ王国(650~1377年)」の存在も忘れてはならない。

マレー半島からスマトラ島東南部で栄えた同王国は、パレンバンを首都として要衝マラッカ海峡を掌握することによりアラビア半島からインド洋、そして中国と結ぶ重要な中継基地として、広域なアラビアから中国に至る広域貿易の発展に貢献したのだった。

特に、中国の海上交易力が未熟だった唐末から北宋初期の時代、東西両者の繋ぎ目の役割を果たしたパレンバンの存在は国際経済の上からも重要な都市だったことを強く感じさせる。


加えて、インドネシアには、もう一つ触れておく必要のあるヒンドゥー教系の王国がある。(1293~1478年)にジャワ島中東部で栄えた「マジャパヒト王国」である。

初代の国王は、元のフビライが派遣したジャワ遠征軍の力を利用しながら、最終的にはモンゴル軍をジャワから追い出して独立を果たす強かさを持っていた人物で、当然ながらフビライとの関係は悪化したが、彼の没後、両国の関係改善は急速に進み、忠実な進貢国として存在感を高めて、国際的安定期を迎えている。

 後に、シューリヴィジャヤ王国を滅ぼした同国は、マラッカ海峡、スンダ海峡を含む周辺の海上交易ルートを手中に収めて最盛期を迎えるのだった。


(「大航海時代」の到来と共に変容するアジア)

 アジアに於ける東西交易の活発化は、優れた中国製品のヨーロッパへの供給を活発化させたし、東南アジアを主産地とする胡椒を初めとする各種香辛料の輸出は、肉食を好む西欧諸国の貴族層にとって大歓迎の商品となったのである。

 当初、イスラム商人経由で満足していた交易も、地中海貿易を介しない直接取引を望むポルトガルとスペインの航海者達によるアフリカ南端の喜望峰経由のルートを含む新世界との航路が開拓された「大航海時代」の開始と共に、強力な戦闘力を保持する西欧諸国の艦船の脅威に豊かだったアジア全域が晒されるようになったのだった。


 東アジアの大国「明国」にしても、「永楽帝」の指示によって派遣された鄭和の大艦隊が遙かアフリカ東岸諸国まで進出しているが、それも一時的な現象に過ぎず、その後明国自身が、「海禁令」を発令して鎖国体制を強化、国内に引きこもってしまうのだった。

 そうなると それまで、礼儀正しい交易で販路と交易量の増大に努力してきた「琉球王国」にしても、ポルトガルとスペインによる東アジアへの武力進出以降、国力の弱体化が顕著になっていったのである。

 その背景には、アジア諸国の保有する武器や船舶を凌駕する強力で近代的な火器と大型の武装帆船の存在があった。所謂白人による「砲艦外交」によって、全アジアの富は年々、略奪の危機に晒されることになったのだった。

 当然、同じアジアでも西に位置する北インドを初めとする南アジアへの強圧は大きく、次いで東西を結ぶ海峡であるマレー半島地域への西欧の進出が顕著になっていっただけでなく、スペインは、強力な統一国家の存在しないフィリピンを占拠、交易の中継基地として利用し始めるのだった。  

片やスペインのライバルだったポルトガルもインド洋に於いて「マムルーク朝」の艦隊を撃破して、同地域の商業的支配権を掌握する一方、東アジアでは「マカオ」を本拠地としてアジアの植民地政策を進めるのだった。


それまで西洋に対して優位に立っていた東洋の存在が、大航海時代以降、徐々に失われていっただけでなく、ヨーロッパの「産業革命」による近代化によって、列強の「植民地政策」が過激化を増した結果、東アジアの最強国「清国」でさえ、国土を蚕食されるようになっていったのである。

「アヘン戦争」契機として、アジアでの純粋な独立国は、「タイ」、「清国?」、「日本」の三カ国に過ぎなくなったのである。

アジア各国が西欧の植民地化に次々と屈服していった背景には、中国を筆頭に自国を中心とする国家思想に蝕まれた結果、他国との競争に努力を傾注することもなく、排他的自己満足に陥る傾向が強かった点と中国の儒教やインドのカースト制度のように、時代に即応できない古代の慣習を尊重する傾向が強かった点を挙げることが出来る。

ヨーロッパのように常に競争相手の隣国が牙を研いでいる国際環境と違いアジアでは旧態依然たる国家群が、程良い距離を置いて存在する環境に長い間あったのである。


(参考文献)

1)『アジアの国家史』    岩崎育夫   岩波現代全書  2014年


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― 新着の感想 ―
[良い点] アジア各国の宗教事情についてよくまとめられていてとても興味深かったです。 [一言] ただ儒教が世界でも珍しい「国策宗教」的な色彩が強いという指摘についてはやや疑問です。 科挙制度が発達した…
[良い点] 河井さま いつも広範な時間と空間を跨いだお話を,よくぞまとめられるものだと拝見しております。 とても勉強になります,特に明代以降のイスラム世界も含んだ部分は,実際に海外でお仕事をしていない…
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