表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
63/67

63.古代中国人の『歴史哲学』と「宗教観」

 ヨーロッパの「地中海文明」と『古代中国文明』を比較して考えていると、「相互に刺激し合って成長した文明世界」と「強大で素晴らしい文明ながら、孤立した文明世界」を感じる時がある。

 古代ヨーロッパ文明を牽引した「ギリシャ文明」にしても、メソポタミア文明やエジプト文明の何らかの影響を受けて成長しているし、地中海文明を大きく成長させた『古代ローマ文明』にしても、古代ギリシャ文明の存在なしには、果たして短期間で巨大な「古代ローマ帝国」を建設できたのか疑問である。

 その点、「黄河」と「長江」の二つの大河を背景に成長した『古代中国文明』は、近隣に影響し合うような古代文明もない独立した存在ながら、あれだけの高度で多彩な文明が創造された点は驚きしか感じられない。

もちろん、少し遠くはあるが『仏教』を生んだ「印度文明」の存在があったが、印度仏教が中国人に大きく影響を及ぼすのは、遙か後代の玄奘三蔵が活躍した「唐」の時代になってからであり、それ以前の紀元前に古代中国人の『歴史哲学』と「宗教観」は出来上がっていたように感じている。


 それからもう一つ、地中海文明と古代中国文明を比較して、大きな差異を案じるのが、民族的な「宗教観」の東西での大きな相違である。

 若干時代の違いがあるので、問題があるかも知れないが、「ユダヤ教」を出発点とした『キリスト教』が古代ローマ帝国後半から帝国の多くの階層に浸透している事実があるのに対し、あれほど多様な思索が行われた「春秋戦国時代」の中国に於いて、有力な宗教の勃興と成長がみられなかった点である。

 その背景には、東アジア独特の民族的感覚の違いや単独で徐々に屹立する巨大国家に成長していく中華帝国の祖型と歴史に対する古代中国人の素直な理解があったとしか考えられない。

 そこで、本稿では、古代中国人が宗教よりも『歴史哲学』と呼んで良いような「歴史的な国家観」を重視した背景とそれに比較して後発な「宗教観」の関していつものように勉強してみたいと思っているので、宜しくお願いしたい。


(恵まれた「中華大陸」の自然環境)

 ユダヤ教やキリスト教、イスラム教が生まれて成長した初期段階の地理的環境を振り返ると、イスラム教が「砂漠の宗教」と呼ばれるように、決して、恵まれた自然環境に彼ら民族が置かれていないことを前提条件として考えなければならない。

 大河の少ない中東では飲料に適した泉の数も少なく、増して、農耕に適した耕作地も限定されていた。その結果、当然のように先住民との闘争に勝利するためには、自分達の強固な団結を絶対条件とする『一神教』が成立した予感がするのである。

 宗教を伴う民族闘争に於いて、強固な「規約」に基づく団結力は、周辺の自由人に対して優越する存在を提供し続けた可能性が高い。


 その点、視点を変えて中国大陸の地形と自然環境を観察すると、大陸の西側が高く、東の海側に向かって低くなっている階段状の地形を呈し、加えるに、黄河と長江という二つの巨大な河が西の山岳地帯から東の海に向かって流れているのである。

更に「黄河」の中下流域では、細流が編み目のように広がって、堆積した黄土が広い平坦地を形成し、畑作に向いた耕作可能な土地が際限なく広がっていたし、一方、黄河以上に中下流域が広がっている「長江」では、気候が黄河の流れている河南省等に比較して温暖で、稲作農業に向く低湿地と広大な湖沼地帯が広がっていたのである。

この中東に比較すると懸絶する優れた自然環境が、「古代文明」を生み出し、『漢字』という中国独特の象形文字を出現させるのだった。

「中原」と呼ばれる黄河中流域での文字の発達は、歴代の王家や有力諸侯間の命令の伝達や意思の疎通に役だっただけでなく、時代と共に多くの知識階級の思索の手段として大きく貢献している。


(「地中海世界」と「中国」の『地理的相違点(続)』)

 それでは、上記の東西二つの文明が育った『地理的相違点』をもう少し詳しく比較してみよう。

 地中海は「海」とはいいながら、その99%以上をヨーロッパ大陸とアフリカ大陸に囲まれた内海であり、櫂を主な推進力とする古代のガレー船でも隣国に容易に行ける環境にあった。

 一方の中国の場合、文化が生まれた内陸は海から世界的な大河である「黄河」や「長江」の中流域まで遡った内陸の平野だった点も大きく相違している。

 黄河文明にしても長江文明にしても文明発祥地の周囲は広大な平原であり、多くの他民族が虎視眈々と「王家」の所在する中心地を略取しようと隙をうかがっていたのである。

 その点、紀元前5~4世紀に全盛期を迎えた古代ギリシャ文明発祥地にしても、ペロポンネソス半島やエーゲ海の島々で成長した文明だったし、続いて全盛期を迎えた古代ローマ文明にしてもイタリア半島中部の都市国家「ローマ」を中核として大発展を遂げた文明だった。

 狭い地域で開花した文明が、地中海と陸路によって伝搬発展したのが『地中海文明』だったのである。


 一方の古代中国では、中原で政権を握った歴代の「夏王朝」や「殷王朝」、「周王朝」が文明の発信地であり続けた感がある。

中国大陸の南北に位置する「朝鮮半島」や「ベトナム」へも次第に中華文明は伝搬しているが、周辺諸国に中国文明を調節することは遂になかった。

ヨーロッパ文明の場合「古代ローマ帝国」に始まって、今世紀に至るまで最有力国家が何度も交代を繰り返したのに対し、中国大陸の最有力国家は常に「中華帝国」であり続けたのだった。

但し、覇権国家である歴代の中華帝国の寿命は短く、長命だった「唐」や「明」、「清」であっても二百数十年の西欧の王家に比較すると短命の王朝に過ぎなかったのである。


(「宗教」に優先した古代中国人の『歴史哲学』感覚)

 漢字を読み書きする知識人が増えた「春秋戦国時代」になると、周王室の権力は衰退し、諸侯間の抗争は激化する一方だった。

力の時代の到来と共に「古代中国」では権力闘争に勝つための自分達の歴史を背景とした『歴史哲学』認識に沿う「対応思想」が全盛期を迎えたのだった。

 混沌とした諸侯による政治抗争激化の時代、颯爽と登場したのが『諸子百家』と呼ばれる無数の思想家達であった。

彼ら、一群の思想家達と、その著作群の多彩は、現代から見ても驚嘆させられるし、同様の現象が西欧で出現するのが、遙か後代の「ルネッサンス期」のマキャベリ等を待たなければならない点を考えると、中国の春秋戦国時代の驚異的な先進性を考えざるを得ない。


 諸子百家達の著作を読んでいると、古代中国人にとって自分達が属している現実の原始的な「祖先崇拝」に重点を置いた宗教活動よりも、現実の利益に直結する自分達民族の興亡の歴史の分析と繁栄に直結する正しい『歴史哲学』の採用こそが重要課題だったように感じる。

 今も昔も自身の「現世利益」最優先の中国人にとって、自分達が現在置かれている歴史的環境を分析し、これからくる時代の有利な展望を説く先見性を持った「思想家」こそ、宗教よりも当時の中国人にとって有用な存在だったのである。

何故ならば、思想家達が説く相手は、有力な諸侯や貴族達であり、彼らに対しては自家の存亡に直結する政治指針を提供してくれる存在が諸子百家だった。

 そこにはいまだ未成熟だった古代中国の「祖先崇拝」をベースにした宗教思想が入る余地は大きくなかったと想像される。


 その傾向は、孔子以外の、老子、荘子、墨子、孟子、荀子等の同じ時代の多彩な思想家達の無数の著作群を通じて、現代に至る中国三千年の歴史に偉大な影響を与え続けた点は明瞭であり、そこには「一神教」が示した『庶民の心の救済』よりも、中国独特の『歴史哲学』に基づいた中華帝国体制を補強する『色彩が濃厚になっていくのだった。

 即ち、初期段階の「儒教」では、葬儀の儀礼が主体だったという説を拝見したことがあるが、時代と共に「宮廷儀礼」の整備に儒教の主体が移り、漢の武帝の時代には儒教は「官学化」に成功しただけでなく、その後の「国教化」に道を開くなど、儒教徒は政治との一体化に努めることによって、自分達の活動範囲の拡大に成功していくのだった。


(『儒教の国教化』と「道教」)

 「春秋戦国時代」に歴史哲学的色彩を帯びて輩出した多彩な思想家達の活動が帰結した先は二つあったように感じる。

 一つは「中華帝国」強化の為の「国教化」への体質変換であり、もう一つは庶民生活に密着する「道教化」であった。

 覇権第一で「法家思想」の全国民に対する徹底した運用の結果、強大な「秦帝国」は始皇帝の死後、数年で瓦解した惨状を見た漢の劉邦は、自身が嫌いだった「儒教」の導入を決断したのだった。しかし、それは宮廷内の儀礼面での採用であって、前漢初期の儒教は、王朝内部に深く浸透した訳ではなかったのである。


 それでは、儒教が『国教化』して、歴代の中華帝国の内部に浸透するようになったのはいつの時代かというと、いくつかの諸説が存在する。

 早い時期を挙げる人達は、「漢の武帝」の時代の「董仲舒」の献策による儒教の官学化によって、国教化が進んだと考えておられるようだ。

 続いて、「新」の王莽の時代に国家体制への積極的な儒教組み込みが行われた背景もあって、「後漢」の時代に儒教の国教化が大きく前進したと説く説もあるようだ。

 いやいや、儒教の国教化が定着したのは三国時代の後の「東晋」の時代だとする考え方もあるようで、いずれにしても「儒教」の『国教化』は中華民族が長い年月を掛けて達成したと考えられる。


古代中国文明では前述のように早い段階で多彩な思想家が輩出したが、本格的「宗教家」の出現はなかったと個人的には考えている。

中国の古代信仰に連なる「現世利益的」行動として、後漢後期には貧農を中心に「五斗米道」や「太平道」等の民衆活動が起きているし、やがて、全国各地の五斗米道のような行動が、少し、づつ、整備されて、「南北朝」時代には道教として形が整備されていったのではと理解している。

 その間、道士達は各地の土俗信仰との共存化を図って、「老子」、「黄帝」だけでなく、天界の神々や地上の仙人まで広範囲で無数の崇拝対象を持つ宗教に成長していったのだった。

その背景には新しく印度から入ってきた理論体系が整備されている『仏教』の影響が強かったと考えられる。

「唐代」には、庶民の間で発達した「道教」は「仏教」、「儒教」と共に『中国三大宗教』を形成することになるのである。


(『大中華帝国』の限界)

 ここまで、古代中国人の『歴史哲学』と「宗教観」に触れながら「唐代」に於ける『中国三大宗教』の成立期まで私見ではあるが整理してみた。

 しかし、その一方で唐代以前の「五胡十六国時代」から異民族による中国本土、特に黄河流域を中心とした「華北」への騎馬民族の侵入と『異民族王朝』の建国が繰り返されるようになって、中国に於ける「多民族化」が一層推進される状況になっていくのだった。

 特に、「北宋」後半から異民族による中国本土侵攻は激しなり、徽宗の上皇時代に北宋は女真族の「金」によって滅亡させられるのだった。命長らえた「南宋」もジンギスカンの孫「フビライ」によって滅亡している。

 古代、『漢字』を含む大文明を生み出した「中華帝国」だったが、「金」以降は、異民族による「植民地帝国」である「元」や「清」の時代が長く続くのである。

 その元や清にしても百年から三百年弱で亡国の時代を迎えている点を考えると朝鮮半島に立国して朝貢国として中国に忠実に使えた歴代の「統一新羅」や「高麗」、「李朝」の約五百年の王朝の寿命に遠く及ばない点に『大中華帝国』の限界を感じるし、千年前後の長命なヨーロッパの主要王家の寿命と比較する時、孤立した巨大文明の盲点を感じるのである。


 「春秋戦国時代」を代表する書籍の一つに、「詩経」があるがその中に、『溥天の下 王土にあらざるく』という表現がある。即ち、天下の空間全てが中国皇帝の統治する世界だと規定している訳である。

 一方、その同じ時代に中原の人々は周囲の人々に対し、『夷狄は禽獣』と極端に蔑んだ見方をしていた。この視点と周囲の人々(異民族)に対する中国人の感覚は、現代に至っても、そう大きくは替わっていないように感じる瞬間がある。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ