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62.「中朝日」で大きく異なった『儒教』の理解と影響

 『朱子学』を国家運営の基盤思想として五百年間政権を維持した「李氏朝鮮王朝」について前稿で触れてみたが、本稿では実力不足を承知で『中朝日の儒教』について、三カ国で大きく異なる理解の程度と影響力につて微力ながら勉強してみたいと思っている。

 まず、第一に、『儒教』の本家である中国では、孔子存命の時代(春秋時代)から約二千五百年の長い歴史があるのに対し、「朝鮮」では、本格的に儒教が導入されたのが高麗王朝と李朝二つの王朝になってからであり、約千年というところだろうか!

 一方、日本の場合、大和朝廷の頃に仏教や道教と共に伝来はしているが、本格的に政治思想面で活用されだしたのは『江戸時代』になってからであり、三百年強に過ぎない。


 この様に三カ国間の国民生活に『儒教』が影響を及ぼした時期や期間が大きく異なる上、各国の人々の受け取り方も国民的思想背景が異なった分、それぞれ独特の経過と定着があった気がする。

 もちろん、各国共に時代毎の政権が持っていた古からの思想背景もあって、儒教に対する対応は大きく異なっている。東アジア全体の儒教の影響を考慮するならば、ベトナムの儒教崇拝の推移は、日本以上に検討する必要を感じるが、ここでは除外させて頂いた。

 何故、ベトナムを採り上げなかったかというと、近代に於ける「フランス植民地」としての大きな影響と痕跡を感じるからである。ハノイの文廟等を散策しているとベトナムの漢字文化や科挙、そして儒教の影響を感じずにはいられないが、儒教自身の現代ベトナムに於ける残存する痕跡を考えると、個人的かも知れないが、朝鮮半島の両国の人々の心に定着している先祖崇拝や『孝養』感覚等よりも心なしか希薄な気がするからである。


 しかし、「中朝日の三カ国」の比較にテーマを絞ったとしても、余りにも広範囲な為、中国の儒教に関しては「宋代」、韓半島に関しては「李氏朝鮮王朝」、我が国に関しては「江戸時代」に絞って学習を進めることにした。もちろん、知識不足から網で水を掬うような愚かな学習態度になりかねないが、小生の浅学を笑いながらお許し頂ければ幸いです。


(儒教の隆盛と「宋代」)

 古くは「漢の武帝」による大規模な『儒教』の国政への導入もあったが、前漢・後漢を通じて漢の国家運営時に儒教は帝室の覇権を糊塗する上で絶大な効果があった為、国家運営の重要手段として次第に定着していったのである。

 「隋」や「唐」の時代を迎えると皆さん良くご存じのように、「科挙」の採用が知識層への『儒教』の浸透を加速させた。しかし、唐代の社会は貴族中心の社会構造であり、玄宗晩年以降の混乱期には「節度使」を中心とする地方の軍事力を掌握した有力者達の専横の時代だった流れもあって、唐の時代は「道教」と「仏教」、「儒教」三教の信仰者が平行して存在していた印象があり、まだ、儒教一強の時代ではなかった。


 ところが、「趙匡胤」によって建国された「宋」は、太祖・太宗二代に渡る武力政治から「文人政治」への切り替えの方針もあって、従来以上に『科挙』出身者が重要視される時代を迎えたのである。

 特に、科挙の最終試験に皇帝自らが試験官となる「殿試」を加えた効果は大きかった。

 形式的には、殿試の合格者全ては、皇帝の弟子であり、皇帝直属の臣下(高級官僚)となったのである。

 ここに、『士大夫』を呼ばれる皇帝に直結する武官に優越する存在の「文官官僚」が出現したのである。

 その間、南宋を含めて儒教自身にも大きな変革があった。

それは、新儒教とも呼べる『朱子学』の出現だった。古代、孔子の主導した「君子の倫理面を強調した古代崇拝主体」の儒教と異なり、仏教や道教に負けない学問体系を確立して、古来の儒教を一新させた朱子学は、次第に士大夫層に浸透・定着していったのである。

その結果、「南宋」、「元」、「明」と歴代王朝が用いる科挙の試験問題が「朱子学」を中心に出題された結果、士大夫層の精神世界で朱子学は強固な社会的地位を確立していったのである。


 表現を変えれば、モンゴルや満州族による異民族による中華王朝簒奪があっても、高級官僚層である『士大夫』層の心さえしっかりと新王朝が掌握している限り、異民族支配は容易に達成できるところまで中華帝国は進化していたのである。

 即ち、中華帝国の国家体制の上で、『士大夫』層なしには、円滑な政治運営さえ覚束ない処まで儒教の地位は不動のものとなっただけでなく、士大夫層に見放された元朝の崩壊は、想像以上に早かったのである。


中華王朝の弱点は、それだけではなかった。中国四千年の歴史を振り返った時、西欧世界のように近隣に自分と比肩する「大文明」が一度も存在することがなかった点が、中華文明最大に悲劇だったように個人的には感じている。 

近代に至って西欧の『資本主義外交』に直面した際に、朱子学を奉じる清国の科挙合格者達が、何一つ有効な策を中国国民に提供することが出来なかった惨状を見る時、多面性を否定し、絶対的階級社会を信奉した儒学者達の限界を強く感じるのである。


(「李氏朝鮮王朝」の儒教)

 統一新羅に続く高麗王朝の光宗の時代には既に「科挙」が実施されたように、韓半島に於ける儒教と中国式政治体制の導入は日本に先駆けて実施されている。

 しかし、半島の儒教化が一気に進んだのが、李成桂による「李氏朝鮮王朝」の創設からだった。それまで高麗王朝が崇拝してきた腐敗した「仏教」を廃棄し、新しい国家思想として儒教、それも最新の『朱子学』を中国から導入した効果は大きかった。

 建国間もない洪武帝の「明王朝」に最初の進貢を図った李成桂は、「朝鮮」という国名まで朱元璋の下賜によった関係もあって、歴代明国皇帝の恩遇と庇護に浴している。


 李朝を創建した太祖李成桂の父祖が女真族系の出身者だった関係もあって、李氏朝鮮王朝の国王と創業に参画した知識人達は、想像以上に歴代中華王朝が最重要視した『儒教』に思い入れが強かった印象を個人的には感じる。

 そこには、建国したばかりの明の洪武帝にとっても慕い依る「進貢国候補」の姿は、可愛く映ったろうし、加えて、明の信奉する『朱子学』を学ぶことに国家を挙げて注力しようとする姿勢は、好ましい限りだったと想像される。

 明の太祖が李朝に贈った典籍だけでも「四書」、「五経」、「通鑑」等の儒家の経典を重視して贈っているし、後の明の皇帝達も儒学関連の書籍や中国の史書を中心に李朝に授けている。

 この様子からも、「小中国」としての朝鮮の位置付けと李朝の「儒教」崇拝の姿勢を嘉している明国皇帝の意思を感じる。

 この精神的な両国の結びつきは進貢貿易時の厚遇となって、李朝を大いに潤したし、両王朝の使節には両国の文化を代表する素養の高い儒臣が選ばれたのだった。


(李朝独特の儒臣『両班』の形成)

 中国の場合、「宋」以降、科挙を受験する『士大夫層』が儒臣を代表する支配的階級として定着した感があったが、一方、「李朝」では、『両班身分』が儒教を熱烈に支持する固定層となっていったのである。

 本来、科挙合格者層を基盤とする両班だったが、「功臣」に下賜された功田を永久に所有したいという官僚達の願望もあって、国家官僚と広大な地主層が一体化して両立する李朝独特の両班層が成立している。

 絶対的権力を掌握した両班階級は、全ての行動が「東洋哲学」である『朱子学』に規定されることを是認して日常を送ることを理念として国家も一般社会も運営したのだった。


 彼らが階級社会を維持するための手法の第一が、『年長者への尊敬と階級社会の是認』であり、年長者に対する『孝』だったのである。元々、「祖先崇拝」は古代の中国人にとって重要なテーマだったが、中国文化を愛した韓半島の人々にとっても共感できる民族意識だった感覚がある。

 儒教が古来、大事にしてきた五つの徳目には、「仁、義、礼、智、信の五常」があるが、それ以上に李朝では年長者に対する『孝』が最も重要視され、主君の命令で指揮官として戦場にある官僚が、父の死去に際し将軍職を辞して帰郷、服喪する姿が美しいと李朝では賞賛されたのである。 

即ち、国家の安危よりも、個人の孝養が大事であり、「秩序が全て」とする道徳世界が李朝両班の属する思想環境だったのである。


飽くまでも個人的印象だが、『論語』その他を読んでいると、「君子」と「その他庶民」を極端に差別しているような印象を受ける。文字が読めない庶民は、人間扱いされない印象が強いのである。そこには、「古代ギリシャの自由市民」のような存在が希薄な東洋的な格差社会を厳然と感じるのである。

李朝の場合でも、「漢文」が読める『両班』までが人間で、中人以下の庶民は、刑罰一つとっても問答無用で苛烈な刑を執行されるのが通例であった。

増して、一般庶民である「良民」以下は、何時、両班に因縁を付けられて妻子や財物を搾取されるか安心できない境遇に五百年以上の長きに渡って置かれていたのである。

即ち、両班階級に絶対服従の都合の良い成長性の低い「階級社会」こそが、李朝の朱子学信奉者達が求めた理想の社会だったのである。


(遅かった我が国での『儒教』の普及と「忠義」)

 この様に、李朝の国家思想としての儒教の普及が、日本の「南北朝後期」から始まっているのに対し、日本での儒教の本格的普及は「江戸時代」を待たなければならなかった。

 もちろん、書籍での伝来は相当古くからあったが、一部教養人の倫理的師表としての理解に過ぎず、国家思想として儒教、特に『朱子学』の徹底に努力した李朝とは大きな隔たりがあったのである。その為、室町戦国時代までは、儒教に興味を示す日本人は極めて少数だった。

 そんな中、壬申の倭乱で捕虜となって来日した科挙合格者であった李朝の「姜沆」の存在は大きい。彼に支持した「藤原惺窩」と惺窩の弟子である『林羅山』によって、日本の儒教は開拓されたといっても良いだろう。

 特に、徳川幕府に使えた歴代林家によって、将軍家を筆頭とする幕府中枢部に浸透した儒教は次第に武家社会全体の安定的な施政方針の基礎教養として存在感を増すのだった。


 李朝では年長者に対する『孝』が重要視されたのに対し、日本では忠孝の内でも『忠義』が最重要視されている。この違いは日本の儒学者が徳川家におもねった結果と考えられる。

 徳川幕府により平和な時代が長く続くと戦場の功名の代わりに、君臣間の忠義が最も評価される日本の武家社会独特の倫理観と社会的通念が浸透していったのである。


その点、注意しなければならない点がある。江戸期になって儒学を信奉する武士層が増えたといっても、日本の武士は「身分」ではあっても中国の士大夫や李朝の両班のような厳然たる階層ではなかったのである。

その背景には、日本では、天皇家を別格として長く続いた階級闘争の産物として、階層間の棲み分けが進んでいた背景があった。例えば、実際の政治と軍事は「武家」が、学問や芸術は「公家」や「僧侶」が、社会生活に必要な商業や手工業は「町人」が担うように変化していたのである。

そこには、「儒教」を政治哲学や政権運用の理論として厳然立つ階級格差を重視した中朝両国と学問としての「儒学」を重視して、武士道を含む人間としての「倫理観念」として重んじた日本人の多様性に対応できる民族としての下地の形成があったのである。


 この様に『朱子学』を含めて儒教が東アジア三カ国の国家と国民に長い年月掛けて与え続けてきた影響は計り知れないくらい大きい。

 元々、「現世利益」中心の中国人は、儒教よりも本心では道教や仏教を信じている人の数が多かったらしいが、実生活の外面では儒教を深く信仰しているように振る舞う場合が民国の時代には圧倒的に多数を占めていたらしい。その様子は、現在の台湾を訪れていると良く解るような気がする。

 一方、キリスト教信者が人口の半数を越えるという韓国でも、先祖供養の習慣や上長に対する慣習を拝見していても、李朝五百年の朱子学が徹底された長い歴史を痛感する瞬間がある。

 その点、「武士の忠義」を標榜した江戸時代の慣習は近代化の進行と共に薄れ、会社への従属意識も希薄になりつつある印象が日本では強い。それでも、儒学を社会の倫理観の規範として尊敬維持した先祖の伝統は、現代でもそこここに残っているといわれている。

 江戸時代、武士の倫理観として幕府から推奨された儒教の教えも幕末から明治の近代化の課程で、その一部を除いて淘汰された結果、残りは一般人の常識的倫理として、日本文化に吸収されたのだった。

 古代以来の神社参拝の習慣や平安時代以来の旧習文化が維持されている日本を観る時、多くの西洋人は古代と現代が絶妙にマッチした瞬間に出会って、非常に驚いているように、今や儒教文化の一部も不完全ながら日本文化の一部として何の区別もなく存在しているのが日本である。


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― 新着の感想 ―
[良い点] ずいぶんと教えられる事が多かったです。 >中華王朝の弱点は、それだけではなかった。中国四千年の歴史を振り返った時、 >西欧世界のように近隣に自分と比肩する「大文明」が一度も存在することがな…
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