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61.『中国哲学(朱子学)』で五百年間国家運営を通した「李氏朝鮮王朝」

 前稿では、経済学者に「シュウーマッハー氏」の唱えた『相互理解が可能な小さな社会(組織)の重要性』に関連して、古代からの日本人の習慣も含めて日本の歴史に触れてみた。

 そうなると隣国である朝鮮半島の歴代の人々の慣習と歴史についても触れてみたくなったのだが、朝鮮の場合、古代と中世と近世で余りに異なる国民の思考の違いに遭遇したので、本項では日本の南北朝時代後期から明治期までの約五百年間朝鮮を統治した「李氏朝鮮王朝」時代に的を絞って、支配者層(両班)の『朱子学』信奉の状況を中心に触れてみたいと思っている。


 最初に朝鮮半島の統一を成し遂げた「統一新羅」にしても、それに続く「高麗」にしても、古代日本と同様に『仏教』の強い影響を宗教的に受けた国家だった。加えて、政治的には「唐」の『律令制』と政治組織体系である『三省六部』を模倣して国家運営をスタートさせたのが朝鮮半島歴代の国家群だった。

高麗は、それだけではなく中国固有の官僚選出試験である「科挙」や後宮の運営に便利だとする「宦官制度」も採用している点を観察しても、日本に比較して先進国中国模倣が急速に進んでいる印象が強い。

その反面、日本と同様に国家宗教として採用した仏教の国家との癒着と内部腐敗が進んだ結果、仏教の政治介入が深刻な問題となっていったのが高麗末期だった。

フビライの率いる「元」の強力な政治介入もあって、二度の「元寇」に国家の総力を挙げて協力を求められた高麗の国家損失と人民の労苦は甚大なものがあり、国家としての衰退が多くの国民の安寧を脅かす時代が、高麗末期の時代相だったのでる。

そんな中で、中国からの新鮮な儒学思想である『朱子学』を学んだ知識人達は、仏教に替わる新しい国家思想として、同学の導入の検討を始めたのだった。

そして登場したのが、李成桂によって建国された「李氏王朝」だった。


(李朝五百年の概要)

 高麗朝の反省の上に立って建国された李朝は、国際的には元朝を追放して中国全土を統一した「明朝」との友好関係の締結から出発した。

新しい国名の「朝鮮王朝」も形式的には明の下賜による国名であり、一般的には「李氏朝鮮王朝」と呼ばれることになるだが、李朝太祖を取り巻く知識階級は、従来の腐敗した仏教に替わる新しい国家思想として、儒教、それも最先端の『朱子学』の導入による思想的大転換を図ったのだったところにも、新しい中華思想(朱子学)導入の理想に燃えた新生朝鮮王朝を支えた知識人層の情熱とエネルギーを感じる。


 彼らは、新首都である「漢城」を初めとする都市からの仏教寺院の放逐と寺院建築の廃棄を実施することにより、国土の隅々まで朱子学教育の徹底と浸透を図っている。

もちろん、官僚選出に為の国家試験である「科挙」の試験問題も朱子学から選出されるように徹底され、四書五経を初めとする学問を十分に学んだ官僚が李朝政治の中枢を占めるようになるのに時間を要しなかった。


政権が安定した李朝中期になると、自国を『東方君子の国』と自認するほど、李朝の国体は整備され、儒教が社会の隅々まで浸透した国家になっていったのである。

 今まで仏教徒としての心の安寧を寺院や僧侶に求めていた大多数の国民にとって、都市からの寺院の撤去と僧の追放は驚天動地の一大事だったに違いない。日本の明治維新の『神仏分離政策』以上の衝撃があったのではないかと推定するが、両班達にとって李朝に於ける『儒学』第一の国体の整備は誇り高いものになっていったのだと考えられ、未だに仏教に依存する日本は辺境の後進国に思えたことだろう。


 李朝の知識人が自賛した東方君子の「君子」とは漢文が読める上級知識階級(両班)のことであるが、知識階層以外の「中人」以下の大多数の人民は正当な人間扱いを受けない極端な格差社会で生活をしなければならない歪んだ社会構造に追いやられたのが、李朝の身分制であった。

即ち、朱子学の本国である中国や隣国の日本以上に、『朱子学』が社会思想の根幹として規定された結果、下層階級の人間性無視の恐るべき隷属社会が近世になっても維持されたのが李朝社会の実態だったのである。

皮肉を込めて表現すれば、中国の朱子学者達の理想とする社会構造が朝鮮半島の李朝によって実現されたのである。


 その一方で、李朝の科挙合格層は『両班』と呼ばれ、官僚と土地所有者を兼ねた強固な支配者階級を形成していくのである。両班達は支配者階級として、技能職である「中人」や一般的農民や商人である「良人」、最下層の奴隷的立場にある「賎民」の上に君臨して朱子学が教示する絶対的階級意識を振り回して朝鮮社会を牛耳り続けるのだった。

 この様に、朱子学の持つ絶対的な階級意識と極端な差別が、両班達の絶大な権力源となって存在したのが李朝時代だった。


(『朱子学』によって人生が規定された李朝の人々)

 古代の孔子関連の書物を読んでいると、その師弟関係の愛情の深さや孔子の説く倫理観に感動する瞬間が無数にある。

 その一方で、西欧の自由主義世界と真っ向から対立する厳然たる「階級格差社会」是認の強烈な(自分達だけが君子であるという)上流意識に圧倒される。

 孔子とその一門にとって、君子(知識階級)と庶民は、同日に論じることが不可能な懸絶した格差のある階級世界に生きている存在であり、古代に大多数を占めた農民層を中心とした庶民を人間として認めることは、孔子一門にとって不可能だったのかも知れないと思うことがある。

 この庶民と知識階級である「士大夫」層の格差が極端に大きくなったのが宋代だった。その思想体系をそのまま導入して、更に徹底したのが「李氏朝鮮王朝」の国家的儒教思想であり、その実務的推進者が有名な『両班』達であった。


 やがて、李朝内部の「朋党対立」が激しさを増すと共に、李朝各地で「書院」、「郷校」の建設が進み、朱子学の李朝全土での普及と徹底が進行することになる。

権力構造の固定化と共に、朋党政治の健全性は17世紀後半には失われ、権力闘争の拠点としての役割を書院や郷校が担うようになっていった。

 その結果、朱子学による李朝全土の支配構造は強化され、庶民は物心両面で儒教の圧迫を受けることになったのである。

 中国では朱子学以降も「陽明学」等の他派の学問の成長がみられたし、陽明学を輸入した日本でも、明治維新の参画者の中で陽明学を学んだ人士は多かった。加えて、長崎を窓口とするオランダ学との接触により西洋の新分野の知識を吸収・開拓する知識人も多く出現したのに対し、李朝の「実学者」達は、批判と圧迫に晒される運命にあったのだった。

 この時代に徹底された地元の「孔子廟(郷校)」での拝礼への影響は現代でも大きく、宗教的は「キリスト教徒」が半数以上を占めている今日でも、先祖崇拝等の儒教徒としての慣習に従う人々が一般的だと聞く。

 そのくらい、李朝五百年の朱子学徹底の歴史の残像は大きく、今日の韓国社会と北朝鮮社会に影響を与え続けているのである。


 朱子学を未だに大事にしている両国民にとって、儒教を敬わない日本人は、「東アジア世界の基本哲学」を理解していない無知な国民に写っているのかも知れない。

 しかし、古代以来の「神仏」を連綿と続く「皇統」と共に信じる日本国民にとって、困難な事態に遭遇すると『話し合いによって方向性を決める和の精神』の存在が、倫理性を強調する『儒教』よりも大きかったのである。


(李朝の庶民達)

近世から近代に掛けて、李氏朝鮮王朝と日本を訪れた西欧人は、「朝鮮人の身長の高さ」に驚くと同時に、東アジア地域で日本人が「最も小柄」である点を指摘している。

 背が高いといっても北欧の人々のような高身長ではないものの、後ろ姿も日本人と比較して、しっかりしている印象を西欧人達は受けたようだ。

 服装的には、朝鮮国民は『白衣の民』の視感的印象が国際的にあるような気がする。白衣は、「清廉」、「質素」、「純真」を現わす服装として、今日でも韓国の指導者層が何にかの機会に着用して登場するケースも多い。

 逆に見れば、江戸時代に日本の庶民間で大流行した西欧人から「ジャパンブルー」と呼ばれた「藍染め」等の染色技術の浸透が李朝の庶民間で遅れていた印象が個人的にはある。


 それ以外では、江戸時代後期に於ける日本での都市部の庶民層の識字率は世界的に高く、地方でも多くの寺子屋が庶民の初等教育を担っていたのに対し、李朝の「郷教」を初めとする教育機関は両班層のための施設であり、李朝に於ける庶民の識字率は低いままであった。

 その背景には経済環境を含めた色々な面での国家の成長が周辺国に比較して遅れた一面があった。例えば「貨幣経済」について見ると、宋銭の大量輸入によって鎌倉時代には日本の貨幣経済が動き出しているのに対し、李朝の貨幣経済は日本の江戸時代にあたる李朝後期になって、農業生産力の向上もあって、やっと動き始めている。

 また、日本の支配者層である「武士階級」の人口比率が江戸時代初期と後期で、それほど大きく変動しなかったのに対し、李朝の支配者層である「両班階級」の比率は、李朝初期と後期では大きく変動している。

 初期段階で10%に満たなかった両班層が、後期には半分以上を占める異常な事態が出現したのである。この変化は、贈賄を主とする社会的腐敗によって実現した数字と考えられよう。


(日本と「李朝」の関係と影響)

 李氏朝鮮王朝約五百年の間に日朝間の軋轢は三度に渡って繰り返された。

一度目は、「応永の外寇」と呼ばれる応永26(1419)年に李氏朝鮮軍1万7千余の対馬侵攻で、李朝側としては度重なる「倭寇」の侵略に対する報復と本拠地の壊滅が目的だった。

しかし、僅か六百人ほどの対馬在住の武士達に完敗した李朝の大軍は、日本側の提案を受けて短期間で本国へ撤収している。

次の両国の間に発生した最大の国際事件が豊臣秀吉による「文禄・慶長の役」であり、李朝では、「壬申の倭乱」に代表して呼ばれる場合も多い。

この朝鮮全土を戦乱に巻き込んだ悲惨な出来事は、日朝両国にとって大きな傷跡を残したのである。しかし、秀吉の後継者として日本を代表した徳川家康は、自分達関東の兵が一兵も朝鮮に上陸していない点を強調して、両国の和解と国交の回復を図ったのだった。


当時李朝は、現在の中国の東北地方に勃興した「後金(後の清国)」との軋轢も背景にあって、日本へ「通信使」を派遣して、両国の友好を図ったのである。

しかし、日本軍の侵入に懲りた李朝は、自国の通信使が「江戸城」まで挨拶に登城したのに対し、幕府を代行する対馬藩の一行を釜山の「和館」までとして、京城への上京を頑なに拒んだのだった。

しかし、江戸時代を通じて合計十二回派遣された「朝鮮通信使」は両国の文化交流として成果を上げる一方、両国の外交関係の安定と維持に大きな役割を果たしたのだった。


中でも、朱子学後進国だった日本の藤原惺窩や林羅山にとって、朝鮮の本格的な朱子学に接することが出来たのは幸運だった。

惺窩の師というべき存在の「姜沆きょうこう」は、秀吉の朝鮮出兵によって捕虜となって来日し、京都に幽閉された(後に無事帰国)経歴を持つ人物だが、その存在価値は日本にとって限りなく大きかった。

科挙合格者でもあった同人によって、最新の朝鮮儒学(朱子学)に接することが出来た惺窩は、弟子の林羅山と共に近世の日本儒教を牽引することになるのである。


そして、三度目の軋轢が明治政府による強圧的外交交渉の開始だった。清朝を宗主国とする李朝にとって、近代化の進む日本の姿は旧俗を忘れた忌むべき姿に映ったようだが、「日清戦争」の勝敗によって、日本優位となり李朝も西欧の近代化を受け入れざるを得なくなり『朱子学』を国家思想とする国家体制の改革が急務となったのである。


 『朱子学』を国家思想として斬新な設定下行われた清新な李氏朝鮮王朝の出発は、朝鮮民族に新しい時代を与えた。

地理的な隣接関係もあって、李朝では、完成度の高い『朱子学』を直接中国(元・明)から導入できただけでなく、自国の「科挙」の重要教材として徹底的に両班層に普及させた成果は大きかった。

 「中華思想」遵奉を自認する李朝の知識人にとって、その神髄と信じる朱子学の探究は生涯を掛けた大事業となったのである。

 その中でも二人ノ巨星の登場と存在は偉大だった。

 李朝中期の16世紀に登場した「李退渓」と「李栗谷」の二人は『二大儒』と呼ばれ、その影響力は李朝内部だけでなく、彼らの著作は日本でも江戸時代を通じて読まれ、日本の儒教思想に与えた影響も大きかったのである。


 しかし、『朱子学』という東洋哲学に心酔した弊害も近代になるに従って大きくなっていった。

どのような素晴らしい政治哲学であっても、一つの理想論で人類の行動を全て規制できないように、「多様性」に欠けた理想論は時代の変化に対する対応力に欠ける大きな問題点を内在していたのである。

 その点、『朱子学』に占領された後期李氏朝鮮王朝の行動の自由度は悲しいくらいに少なく、世界的近代化の潮流に乗り損ねた印象が強い。

 しかし、五百年間に渡る安定した国家を維持してきた実績と成果は、朝鮮半島に於ける「南北再統一」の暁には、再び光輝を増して朝鮮民族を導くはずだと固く信じたい。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 河井さま いつも興味深い話題と,深い洞察を有難うございます。 前回のシューマッハは,私には難解でしたが,今回は判り易かったです。 61話 中国の儒教は,宋学(朱子学)により大きく変わりま…
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