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60.シュウーマッハー氏の『小集団的思考』から考える「日本史」

 ドイツ出身で、英国で多くのことを学び、人間中心の経済学の必要性を説いた経済学者に「シュウーマッハー氏」がいる。

彼の著書の一つに「スモール・イズ・ ビューテイフル」や「同再論」があるが、その中で彼は、『相互理解が可能な小さな社会(組織)の重要性』について触れている。

 今日のように「グローバル化」が叫ばれて久しい国際社会の混沌とした実情を観ていると彼が主張した『会話が十分届く範囲での小規模な繋がりの重要性』を改めて痛感するのだった。

 もちろん、残念なことながら、彼が本来主張する「経済学」分野の知識欠如もあって、彼が主張している経済学的本質を十分理解していない点あって、彼本来の主張とは大きく相違する可能性があるが、『小集団的思考法』の重要性に気付かされたので、歴史的側面から彼の指摘を採り上げてみたいと思った。


 同氏のご主張を矮小化させてしまう危険性はあるが、シュウーマッハー氏の主張する『小集団的思考』の重要性を歴史の世界に適用してみると、ヨーロッパの小国「スイス」やアジアに於ける特異な存在である「日本」の歴史を理解するための重要な因子であるような気がしてならなかった。

 世界最古の伝統ある「君主国」である日本や、同様に世界最古に近い「連邦共和制」国家であるスイスの歴史上の存在価値を考えるとき、『それほど多くない指導集団の意思が、スイスなり日本全体の方向性を歴史的に決定してきた』事実は無視できないように感じるのである。

 もちろん、世界史に触れていると『小集団的思考方法』よりも、『天才的独裁者による判断』や『軍事力を持った暴力集団』が一国の歴史を方向付けるケースの方が歴史上多かったように感ずるのである。

しかし、振り返って身近な日本の歴史を「シュウーマッハー」的観点から見直してみると個人的な偏見かも知れないが、何か、古代から近代に続く日本人の行動原理の一面に『小集団的思考』による歴史的な決定が多いように感じた。

民族的生活基盤が「水稲耕作」に立脚する古代日本人の場合、比較的少数の長老達の合議内容が、村や小国に分立していた倭国の意思統一に至った可能性は高いし、温暖な国土の割に自然災害の頻発する環境は、『小集団的思考』方法から導き出された結果に対しても、集団の統一意思として実行されるケースが多かったのではないかと推測している。


(『神々と共に歩んできた』日本の古代史)

 記紀を読んでいても、中国や古代ヨーロッパ諸国のように、突出した権力者の出現による「覇権構造」の構築の物語というよりは、神同士の話し合いや神の系譜に連なる雄族間の会話によって、古代の日本の歴史が形創られてきた印象が強い。

 その背景には、豊かで豊穣な「大八島豊葦原瑞穂国」と自らが称えた温暖な列島の姿があった。しかし、大陸に比較して格段に温順な恵まれた空間も台風や地震という自然災害の巣窟的存在でもあったのである。

自然の驚異を恐れた人々は、列島の随所に神の姿を感じ、自然への畏怖といつもと異なる予兆に恐怖した結果、無数の神々が列島の随所に生まれたのだろう。

倭国の人々にとって、神に逆らわず、周囲の人々との抗争を出来るだけ避ける行為こそ、自身の平安を達成するための重要な行動原理となっていった印象がある。

そこには、自分達の崇拝する神だけではなく、ライバルの尊敬する神々をも傷つけない配慮が育っていったと考えたい。

当然ながら、多くの地方豪族の尊崇する『神意の尊重』無しには、古代日本の統合は不可能だったろうし、結果的には『小集団的思考』をベースにした大王おおきみを囲む豪族層の『会話』によって、豊葦原瑞穂の国の統合が進行したと考えたい。


(『日本神道』とシュウーマッハーが指摘する『小集団』)

 そこで、「シュウーマッハー」から少し離れて、古代日本人の行動原理を推測する手段の一つとして、『日本神道』を採り上げてみたい。

 世界の大宗教である「キリスト教」や「イスラム教」や宗教の中でも特異な存在感を示す「ユダヤ教」に比較すると、その茫漠とした『神道』の希薄な存在感に改めて驚かされる。

 日本神道独特の精神構造を理解するために、他の宗教には厳然と存在するのに『神道に無いもの』を次に掲げてみよう。


・教  祖

・教  義

・偶像崇拝

・戒  律


 特に地域の中で生活環境の優れた領域が極端に限定される中近東で生まれた「ユダヤ教」、「キリスト教」、「イスラム教」の三つの宗教に於いては、上記の四つの項目のどれを欠いても宗教としての存在意義を失いそうな重要項目である。

 明確な確固たる信仰対象も存在しないのに、近代的な現代社会の荒波にも溶解せずに存在し続ける日本の神道ほど一神教徒の外国人にとって理解しにくい宗教はないだろうし、宗教を否定する「全体主義者」や「共産主義者」にとっても、明確な方向性を示すことの少ない神道の存在は不明瞭そのものにしか映らない気味の悪い不思議な存在にしか感じられないのではないだろうか?


 しかし、古代から現代に至るまで日本神道は、「万世一系の皇統」を信頼して日本人の精神空間を堅持してきた気がしている。

 この世界でも希な一つの皇統の継続は、全ての国民に同一民族としての大きな輝きを与え続けてきたように感じるし、『和をもって尊となす』という聖徳太子の「十七条の憲法」以来の日本人の民族的共感も理解できるように感じる。

即ち、古代以来、最高権力者を中心とした『小集団での合意』と妥協により国家運営が常に決定した不思議な国家形態を維持してきたのが「倭国」の実態だったのではないだろうか!


(『律令制』によって、珍しく同一の政治基盤に立った『東アジア三カ国』)

 その点、紀元前3世紀以前から大中華帝国である中国と歴史の浅い倭国と朝鮮では、国家の形態も政治機構や軍事力も大きく異なっていた。

 その三カ国が珍しく同一の政治基盤に立った切っ掛けとなったのが、政治先進国「隋」「唐」が整備した『律令制度』だった。

三省六部さんしょうりくぶ」と呼ばれる唐の律令制度をいち早く取り入れた「統一新羅」に続いて、日本も天智朝以降積極的に唐の律令制を模倣して未熟だった国家制度の改革を進めたのだった。

その結果、東アジア三カ国は奇しくも同一の政治制度の基盤に立って国家運営を目指す事になるである。当時、最先端の政治システムである律令制の導入は、後進の日朝両国に多大な影響を及ぼしている。

朝鮮半島では、中国の律令体制を「統一新羅」、「高麗王朝」と歴代の王朝が普及充実に務めただけでなく、「高麗朝」の中期には宗主国中国から、『儒教』の導入が盛んになっていった。「科挙」の実施による朝廷の政治機構の整備と共に、後宮内部に密接に繋がる「宦官」等の中国独特慣習も導入されていったのである。


一方、日本では、「儒教」の導入も形式的な倫理面での参考思想程度に止まり、古来の神道と融和した『仏教』がじわじわと貴族層を出発点として庶民階層に普及の度合いを深めていったのだった。

反面、朝鮮が積極的に導入した「科挙」や「宦官」等の中華帝国の文化も導入を拒否しただけでなく、中朝両国では殆ど実例がなかった『武士階級の擡頭』が見られたのが日本史の特徴的出来事だった。


(日本独自の『簡素な政治機構』の登場)

 平安時代の8世紀頃を迎えると本来律令制に無い参議や内大臣、征夷大将軍、検非違使等々の「令外官」が新設され律令制とは異なる現実即応型の政治体制が進行するのだった。

 更に時代が進むと共に日本の律令制度は骨抜きになり)『小集団的思考』重視の「摂関政治」や「院政」が時局の中心となっただけでなく、「平氏政権」とそれに続く「鎌倉幕府」の登場によって、『武家政権』が日本の政治の中軸としての姿を露わにしてくるのだった。

 確かに、「堂上」のくだくだとした長い議論よりも、戦場に於ける征夷大将軍と少数の側近による

即断即決の判断こそ、武人達の心を引きつける魅力に満ちていたし、挙げた軍功と所領地恩賞の直結こそ武士の最も好む出来事だったのである。

 この源頼朝によって整備された武家政権は古代後期から中世、近世を通じて日本の政治を協力に牽引するのだった。


 この簡素で即弾力に富む『幕府という政治機構』と全国に領地を持つ武士集団の存在がなければ、当時の大国難である「元寇」を見事に乗り切ることは出来なかったのかもしれない。

大モンゴルの来襲を「神風」が救ったという論者は多いが、「準重装弓騎兵」である鎌倉武士団の集団的な突撃とその効果無しでは、日本は滅亡していた可能性が高いと個人的には感じている。

いずれにしても、京都の朝廷の優柔な判断力が導くことが出来なかった大きな政治危機を鎌倉幕府の『執権政治体制』は、強力ではあるが即断で、解決したのだった。これこそ、武力集団独特の『小集団的思考方法』による決断だった。


(歴代武家政権による『小集団的思考』方法の維持と発展)

 朱子学を理論背景とした後醍醐天皇による『建武の中興』も全国の武家集団からの賛意を十分得られぬままに、足利尊氏によって、第二次武家政権とも表現すべき『室町幕府』が成立、足利将軍と側近の管領等の少数の有力大名によって幕府は運営されるようになる。

この時代になると朝廷の権力は衰微し、僅かに平安時代の貴族文化を儀式的に継承する存在に成り下がっている。


『応仁の乱』以降、動乱の戦国時代に突入する訳だが、常在戦場が続く戦国大名にとって、戦場での死命を決する「即断即決」の重要性は中華帝国の皇帝や李氏朝鮮王朝の歴代の王には理解しにくい政治判断だったかも知れない。

次々と天下人となった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康にしても戦場での判断は、比較的少数の側近の協力を得て即断しているし、日常運用している政治機構も極めて簡素で実務的な組織だった。

 家康による天下統一後も、将軍と「老中」、「若年寄」等の少数の政治集団によって国家運営の大綱は決定される極めて日本的な『小集団による政策決定方式』が維持されている。

 同じ時代、隣国の李氏朝鮮王朝に於いて、「朱子学」が国粋主義的(一神教的)に信奉されたのに対し、多神教徒の日本人は僅かに長崎からの「日蘭貿易」を通じて入ってくる西欧文明の近代性と多面性を学んだ先賢達も多く、その存在は幕末に向けて開花していくのだった。


(『小集団的思考』方法の維持と日本の政治文化)

 日本の『明治維新』を革命と解釈する選択は別にして、「尊皇」と「佐幕」両派の抗争が外国の革命に比較して極めて少数の犠牲者で済んだ事実は、日本伝統の『小集団的思考』と少数の指導者達による会話での相互理解の結果と考えたい。

 『五箇条の御誓文』に沿った急速な欧米化政策に対しても、大きな反対に遭遇することなく、実施できた背景は、古代からの日本史の伝統に乗っ取って考察すると理解しやすいような気がする。   

勝海舟と西郷隆盛の会談によって「江戸無血開城」が成立した事例も、そう考えると容易に納得できるのが日本人であろう。

 維新後、明治新政府は、古代のカビの生えた『太政官制度』を持ち出し、今まで無力同然だった『天皇』の権威を前面に出すことによって、欧米や中国では考えられない急速な近代化を達成させている。

 その背景には、世界でも希な『長命な天皇家』の存在が大きかったと考えたい。

 何故ならば、天皇家以外の王家を建国以来頂いた経験が国民にとって、有史以来皆無だったからであろうし、『小集団的思考』方法による会話の重視は、『世界的に希な単一王朝下の単一民族』だったから可能となった局面も多かった気がしている。

 加えて、『和をもって尊しとなす』という民族的な伝統も長い日本の歴史全体を通して日本民族の和合に大きく寄与しているように感じる。

そう考えると、「シュウーマッハー氏」の指摘した『理解と会話が容易に可能な小さな集団の重要性』を、日本人は重要な歴史的局面に於いて理解し、実行してきたように考えられてならない。


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