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58.最悪の「進貢制度」、悲惨な『貢女』の歴史

 古代、中国を宗主国とする『進貢制度』は多くの周辺国に中華文明を広め、無数の文化的波及効果をもたらした点で、大いに傾聴すべき歴史的展開を東アジア世界全体に及ぼしている。

 未開だった倭国の「奴の国王」や邪馬台国の「卑弥呼」の使者が後漢や魏の国王に優遇されて『金印』を初めとする中国文明の数々の優品を下げ渡されている史書の記述からみても、未開発国が先進国中国に朝貢するメリットは大きかったのである。

 しかし、時代が進むに従って、超大国中国の進貢制度は宗主国と保護国双方に安寧を与えるだけの平和な外交制度ではなくなっていったのである。

 特に地続きの弱小国である朝鮮と強国中国の関係は常に微妙な均衡の上に成り立っていて、古代中国が謳った外交上の平安が常に保たれていた訳ではなかったのである。


 自国よりも常に強大な大陸国家に接する恐怖は、英国や日本等の海洋国家には到底理解できない恐怖感であり、中世の「オスマン帝国」や「ロシア帝国」に虐待され続けた周辺の弱小国家群のみが理解できる圧迫感かも知れない。

時に従属国が「高句麗」のように蛮勇を振るって大国「隋」や「唐」に立ち向かっても、長期戦になるに従って、国力を消耗し、最後は亡国の悲劇を味わう可能性が高かったのである

そのような悲劇的結末が予想される場合、弱小周辺国の選択の余地は狭く、自虐的に解釈すれば、『少数の尊い犠牲の上で多くの国民が安住を得ることが出来る選択』が、誤った選択とはいえない悲劇が常に存在するのが国際外交の実態であろう。

金銀、布帛、朝鮮人参、鷹を初めとする特産物の進貢品が嘉納されて平安を保っていた時代は良かったが、「隋」や「唐」の国際国家出現と共に「後宮」への『官女』や『宦官』の人的供給源としての朝鮮の存在が浮かび上がってきた処に、歴代朝鮮王朝の悲劇があったのである。


(超大国「隋」、「唐」の出現と『献女外交』の始まり)

久しぶりの中国統一によって出現した超大国『隋』や『唐』は国際国家としての特徴を備えていた。国際都市となった首都「長安」に居住する人種の多様性だけでなく、南の「広州」でも多くの人種が溢れていたのである。広州の富裕な家々では門番としてアフリカの「黒人奴隷」が雇われていた一例をみても、その国際化の浸透度の大きさが感じられよう。

そのような背景もあって、中華皇帝が己の帝国の広大さを実感できる手段として、宮廷の後宮の官女達の多国籍化があったと思われる。


 記録によると新羅は真平王53(631)年に唐の太宗に美女二人を献上している。

賢明な太宗は二人を送り返しているが、同時期の高句麗からも美女二人の献上が行われているので、朝鮮半島を含む中国の周辺諸国からは権力者である中華皇帝の元へ美女を献上する意識が、当時の外交手法の一つとして認識されていた印象がある。

 新羅から唐への美女献上の流れは新羅が強大化した「文武王」の時代になっても変わらなかった。

文武8年、唐の朝廷から美女の献上を禁ずる勅令を受けているし、玄宗の時代にも同様の献上行為が行われ、寵愛する楊貴妃を始め多くの多くの後宮の美女に囲まれていた玄宗はやんわりと断りを入れると共に献上された美女二人を新羅に送り返している。

 もしかしたら、邪推かも知れないが、太宗や玄宗も後年には、異国からの自身の後宮へ対する官女の献納を拒まなかったのかも知れないと思っている。

多くの周辺国の女性達に囲繞される優越感は中華皇帝としての満足感を充足させる有効な手段となり得た可能性は高いし、自国の女性達以外の異国人である朝鮮半島の女性や異域の女性を所望する傾向も純粋な漢人ではない唐人全般にあったようだ。


(モンゴル軍の高麗侵攻と『悲劇的進貢』の実態)

 中華帝国としての度量が残っていた「唐」の時代と大きく異なり、「騎馬民族」特有の略奪と大量虐殺、破壊行為に直面したのが約30年に渡る凶暴な『モンゴル軍』の高麗全土に対する徹底的な侵略であった。

 モンゴル軍はジンギスカンの時代から征服地の貴重品略奪や抵抗する民族の族滅を周辺への恐怖の伝搬目的もあって日常行為としていただけでなく、抵抗した征服地での強姦・暴行も一般化していたのである。

 当然のように、屈服した高麗には監督官「ダルガチ」が派遣され、本国だけでなく出先のモンゴル人への若い女性の供給を高麗政府は強要されたのだった。

 もちろん、金銀、布帛、人参、馬、鷹等々の進貢品の上納はもちろんのこと、「大都」の宮廷へ、多くの処女や宦官達も『進貢品』の一部として厚顔にも要求され続けたのである。


歴代、多数の高麗女性が元の皇帝や重臣に献上されたが、圧倒的権力を持つ東アジア最大の横暴を極める帝国にあらがうすべは高麗王室を含めて朝鮮民族には皆無だったのである。

もちろんそれだけではなかった。「高麗」にとって、大きな負担となったのが、二度に渡る「日本侵攻」時の「軍船」の建造と船を動かす「水夫」及び、戦闘の主力となる「兵士」供給の要求であった。鎌倉武士の強弓の矢面に立たされた高麗軍の多くは、故国に帰還できなかったのである。

『文永・弘安両役』の大きな負担は、「高麗王朝」そのものの存在を揺るがす危険性を増していったが、搾取者である元の皇帝とその周囲の重臣達は、当然のこととして、『進貢品』の強要を続けていたし、非力な『貢女』達を受け入れ続けるのだった。

たが、中には、皇帝の気に入りとなって、順帝の皇后となった奇皇后のように栄達して、本国高麗王朝の政策まで自身が自由に操った怪物まで王朝末期には出現したのだった。


(「明朝」に変わっても悲惨な『貢女』の歴史は続いた)

 高圧的なモンゴル帝国「元」から漢民族王朝「明」に変わっても「高麗王朝」への圧迫は大きく軽減されることはなかった。

 逆に朝鮮半島からの進貢品である『貢女』の規模が最も拡大したのが、高麗末期から李朝前期の時代だったようにさえ個人的には感じる。

 表向きの明側からの要求は『貢女』ではなく、明朝後宮への「女官」の献上であり、同様に「宦官」の献上も強く求められたのが、この時代だった。


李朝の第三代国王太宗の時代、庶民や身寄りの少ない孤児から選ばれていた『貢女』を明に送ろうとして、明の使臣達から「みすぼらし過ぎる」との指摘や容貌に対する度重なる非難が続くと、太宗の8(1408)年、「禁婚令」を出して両班層も含めた美しい処女を強制的に集めて明に送るようになっていったのだった。この年、派遣された明の宦官は選ばれた若い女性三百人を北京に連れ帰っている。

次の世宗の時代になると、それは更にエスカレートして貢女を選ぶための明の「採紅使」の要望に最大限応えるべく、全国で結婚禁止令を徹底させて、未婚の美女を強制的に連行する行為を強化さえしているのである。

毎年明に献上する貢女の数がどの位だったのか不明だが、一説には多い年には三千人だったとの説もあるようで、少なくとも「世宗」の時代に明に献上した『貢女』の数が最大に達したと記録されているらしい。

明に送る女性達の増加は、本人はもちろんのこと、両親を含む国民の悲嘆と動揺もそれだけ激しかったのだった。

それでも強制的に実施された背景には、大国「明」の無言の恫喝に対する世宗以下の恐怖感が庶民の安寧よりも如何に大きかったかで理解されよう。

一方、世宗時代の左議政までなった韓確は妹二人を貢女として差し出しているが、一人は永楽帝の側室となり、一人は宣統帝の奥に仕えている。その功績もあって同人は明国担当の外交を一手に任せられる存在となった結果、 明国との強力なパイプを背景に、国内政治に協力に干渉できる存在となっている。


李朝の内部情報の漏洩は明や清の朝廷の後宮で生活する貢女の権力闘争を生き抜く為の重要な手段だったし、宗主国の機密情報の早期入手は、貢女を送り出した李朝の両班にとって自国の宮廷政治を操るための重要な見返りだったのである。

逆に、宗主国側から観れば、隣国の美女を抱きながら、居ながらにして隣国の弱みや実情を安易に入手できる最も好ましいスパイ網の一つだったのである。

そう考えると朝鮮半島の歴代王朝の中でも唯一、大王と尊敬されている偉大な「世宗」が、汲々として『貢女』制度継続に熱心だった背景が察しられる気もしてくる。

側近の重臣にさえ明国とツーカーの存在が居ては、独立不羈の国家運営など絵に描いた餅に過ぎなかったのである。


本来、老練な国王や周囲の重臣達が対処すべき強大国との外交交渉の重要性は言うまでもないが、その重要な一部を『貢女』によって補ってきた国辱的な過去の行為を朝鮮民族はこれからの国際関係に対する配慮も含めて、心に銘記すべきだと痛感する次第である。

しかも、李氏朝鮮王朝では、徹底した朱子学の理解により、この屈辱的な行為さえ正当化した上、貢女を逆手にとって何度も自己権力の確立に貢女制度そのものを利用する両班が続出した背景もあったのである。

李朝世宗の左議政だった韓確もそうした一人だった。

宗主国「明」との太いパイプが、彼の地位を強化していく最大の原動力となって、主君である名君「世宗」さえ彼に遠慮している状況下に置かれていた節があるのである。

このように、貢女をバネに自己権力の拡大化に成功している両班が存在する一方、最も、悲惨だったのは、国家権力によって異国で性奴隷として屈辱的な生活を送らされた無数の女性達だった。多くは中国の土となった訳だが、ごく一部の彼女達は生き延びて懐かしい故国に帰還することが出来たという。

しかし、九死に一生を得て無事帰郷した彼女達に浴びせられたのが、同国人からの無数の侮蔑的言葉と冷遇だった。国家権力によって青春の一番美しい時期を強奪された女性達に対して、売春婦や節操を自ら失った人非人に向けられるような悪辣な言葉の暴力が浴びせられたのである。

国家によって、凄惨な人生を経験した彼女達を擁護する朱子学者が一人も存在しない点に、半島の民族の持つ人間性に対する深刻な欠陥と深い悲しみを感じずにはいられない。


 ここまで、悲惨な朝鮮半島に於ける『貢女』の歴史に触れてきたが、国際交流に於ける恥ずべき行為の痕跡は我が日本国にも存在する。

京都文化博物館編の『長安―絢爛たる唐の都』によると、宝亀7(776)年、来朝した渤海使に対し日本の官僚が、『舞女十一名』を送っている。翌年、渤海はこの舞女十一名を唐朝に献上しているので、うら若い彼女達は、見知らぬ異国である唐の地で、生を終えた可能性が高い。

 一部の傲慢な政治家の横暴による民族的な被害者は昔も今もどれほど多いことか戦慄すべき事例には事欠かないが、これは、その良い一例であろう。

 我々庶民も、身を引き締めて自国の外交交渉を監視・監督する責務を強く感じる昨今である。


(参考文献)

1) 『朝鮮属国史』      宇山卓栄    扶桑社新書   2018年

2) 『中国が海を支配したとき』  ルイーズ・リヴァシーズ

君野隆久訳  (株)新書館  1996年


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