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57.中国『進貢制度』の朝鮮に於ける明暗

 「琉球王国」の朝貢交易が幸運だった点の一つは、明朝と琉球の中山王国双方共に王朝として草創期の初代国王同士の文書上ながらも出会いから始まった点が大きかったと思われてならない。

中でも巨大な独裁権を確立しつつあった洪武帝の存在抜きにしては、琉球王国の幸せな交易国家としてのスタートはあり得なかったといってもよい。

両国のトップが独断で「進貢関係」樹立に鋭意取り組んだ前向きな姿勢が、この後、琉球王国の国際貿易立国に大きく貢献した好例だと考えている。

14~15世紀には、琉球の存在は南アジアから北は李氏朝鮮、日本に至る広範囲な中継貿易の拠点として理解されるようになって盛期を迎えるのだった。

 実情は疑問ながら、明朝としてもあの強大な「元」にも屈服しなかった離島の王国が、初めて新興王朝である「明」に従う快感は言い知れぬ喜びを洪武帝とその周辺に齎したことだろう。


 一方、前稿の「東アジアの巨星『中華帝国』の実態」で触れたように、覇権国家中国の歴代王朝の強権や圧迫は、二百数十年か三百年も無視していれば、空中の楼閣のように消えていくはかない存在だった。

 その点、海上でしか通交手段の存在しない古代中世の列島の場合、適当に無視していれば、超大国中国の怒声といえども日本政府は無視できる環境にあったのである。

 その点、そうはいえない苦悩が待ち構えていたのが、『地続きの朝鮮半島の諸王朝』だった。

 世界の中心を自称する歴代の巨大国家・中華帝国にとって、周辺の弱小国家群が「貢ぎ物を捧げ、宗主国に臣下の礼」を表す「表」の提出と『進貢制度』は極めて重要な東洋的な国際支配確立のための原則的慣例だったと同時に、地続きの弱小国には信じがたいほどの過度な要求を歴代求め続けた例も多かったのである。


(中国の『朝貢制度』と古代に於ける国境の伸縮)

 中国が世界の(実際は東アジア世界の)中心であるという思想に基づいた『朝貢封建体制』は古代から始まり、漢代、唐代それ以降の、宋、元、明、清と歴代の中国王朝よって継承されてきた揺るぎがたい国家戦略であり、外交制度であった。

 要は、

『世界の中心である中華王朝は、蛮夷である周辺諸国の進貢に対し、

臣下として封建する義務がある』

 との一方的な中国の優越感を顕示する民族思想であり、古くは、進貢国からの献上品に対し、臣下と称するだけで、数倍する下賜品が与えられた弱小周辺国にとっては好ましい制度だった。

 我が国の「国」や卑弥呼の「邪馬台国」が冊封の印としての高価な金印を与えられた背景には、宗主国としての中国の優越感による好意が多分に含まれていたのである。


 一方、時代が進むと宗主国中国の権力の増大と共に弱小国に対する要求も難しいものになっていっただけでなく、中国の国境線の変化が国際関係に大きく影響し始めるのである。

地続きの朝鮮半島の場合、特に中国との国境線が不明瞭だった上に、紀元前1世紀、漢の武帝の時代には楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の「漢四郡」が半島内に設置された経緯もあって、漢やその後の随や唐の時代にも中国人にとって朝鮮半島は自国の領土であるとの意識が強かったのである。

このように古代に於いて、朝鮮半島北部が「中国領」になったり「朝鮮領」に変わったりした結果、地政学的な状況も加わって朝鮮半島国家に対する中華帝国の圧迫の淵源となった可能性は否定できない。

その後、朝鮮半島では「高句麗」、「百済」、「新羅」の三カ国が分立する『古三国時代』を迎えるが、民族的にも「女真族」ベースの高句麗と「韓族」から構成される百済、新羅とでは民族意識が大きく違い半島内部での抗争が長く続くのだった。

 そんな中、漢も隋も唐も歴代の中国王朝は朝鮮半島中部から北部は自国の領有すべき国土だと確信して攻め込んでいる。

現代に於いても、中国政府は高句麗が「中国の地方政権」だと主張して譲らないし、もちろん韓国側も高句麗が古代朝鮮王朝の中の一国であるとの主張を取り下げるつもりは国民感情として毛頭存在しない。


(戦いながらも『進貢』を続けた古朝鮮の英雄達)

 しかしながら、古代朝鮮の英雄達に感心させられるのが、「和戦両様」を適時に使い分けて大国中国と交渉している姿である。

 古代日本と同じように多数の小国分立時代を経て朝鮮半島の国々が、「高句麗」、「百済」、「新羅」の三カ国に統一された「古三国時代」、中国本体が南北に分裂し、「北魏」や「宋(後世の北宋とは異なる)」に分裂している状況は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅の三国を含めて「倭国」にとっても好ましい状態だった可能性が高い。

 中でも、中国諸国と隣接する高句麗は敵対的な戦闘行為と友好的な『進貢』の両面を使い分けて、国境線の維持・拡張に歴代努めている。

 結果として、各国は各々、「北魏」や「宋」に朝貢する見返りとして、自分達の欲する位階と身分を北魏や宋に求めて隣国との優位性を誇示すると共に、配下の人民への支配力強化に役立てようとしたのだった。


 その状況が大きく変化したのが、久方ぶりに中国統一を成し遂げた「隋」の登場であった。隋の圧力は強大で、高句麗に対して四度に渡って信じがたいほどの大軍を送って征服を図っている。

その苦難に、高句麗の英雄達は屈することなく、敢然と隋の大軍を大破・撃退して独立を維持しただけでなく、戦勝後には、使者を送って隋のご機嫌を伺う配慮も忘れることはなかったのである。

 しかし、「隋」に続く「唐」の時代を迎えると古三国の中の最弱小国だった「新羅」が唐と同盟に結んだことによって、「百済」と「高句麗」は滅亡の時を迎えている。

唐代以降、統一新羅や後継の「高麗」が中国の進貢制度に対応しながら国益を極力失わないように努めた痛々しい歴史が、中朝の古代から中世に掛けての外交の流れだった。


(漢族中国を超える『元』の強圧と「朱子学に頼る朝鮮の『文治主義』強化)

 「高麗王朝」では光宗による「科挙」の実施もあって、「文」を尊び「武」を軽視する『文治主義』が徹底されていった。

「儒学」による身分制の強調が武官侮蔑に過激さを増した結果、クーデターによる武臣蜂起による文臣の虐殺と約百年に渡る文治主義の否定と『武臣政権』が成立したのも、つかの間、モンゴルの度重なる侵入とモンゴルと結託した王家の暗躍によって武臣政権が破綻しただけでなく、それまでの中国王朝との関係とは全く異なる『元』への全面屈服といってよい『民族的屈辱の歴史』が始まるのである。


「元」は、それまでの中国王朝以上に高麗からの搾取を強化しただけでなく、騎馬民族の征服王朝ならではの全面的な隷属を高麗国王と国民に強要している。元の使臣からは高麗に派遣された元の軍人や役人への年若い処女供給の要求が繰り返されただけでなく、強制的な強奪も起きたのだった。

そして、一般庶民からの資産・人員の略奪も激しくなっていった。その頂点に達したのが二度の『元寇』時の高麗への協力の強要であり、朝貢レベルを超える膨大な隷属の諸要求だった。

朝鮮半島から日本に出撃した全ての軍船の建造と船を操るための水夫かこの準備、当然攻撃軍の一翼を担わされた高麗軍一万人以上の参戦と東路軍全体への食料の準備と国を挙げての略奪が行われたのだった。

国家の資材と人員の大半を日本侵攻の為に提出した高麗だったが、多くの兵員と水夫を失った上、返礼として受け取ったのが、高麗滅亡まで続く復讐心に燃えた「倭寇」による全国土への侵攻と止めどない略奪行為による村落の崩壊だった。


この朝鮮民族への骨身に応える圧迫は、久しぶりの漢民族国家「明」が成立しても何も変わらなかった。

モンゴル族が朝鮮に強要して得られた有利な進貢の数々を明も変えるつもりはなかったのである。

朱元璋自身、元の制度や習慣で自国に望ましい点は、何ら変更することなく新政権に組み込んでいるし、対外関係でも同様であった。もちろん、李朝からの『献上品』が軽減される可能性は少なかったと推察できる。

 「李朝」時代を迎えて、朝鮮民族に起きた重要な変化の一つに国家思想が「仏教」から「儒教」即ち『朱子学』に大きく変化したことである。

 朱子学の倫理観の徹底が「李氏朝鮮王朝」約五百年の現代に至る国民性と価値観に大きな影響を与えたといってもよいだろう。

朱子学の大きな影響の一つに、『階級の固定化』があった。

中国の「漢文」を読むことが出来る政治貴族である「両班層」と文字の読み書きがろくに出来ない庶民層の徹底的な差別である。

肉体労働を忌む朱子学の徹底は、文人優勢を助長しただけでなく、軍事力の低下を招いた結果、「壬申の倭乱」や「丙子胡乱」による国内の荒廃は、その後も国勢衰退の原因となって尾を引くことになっただけでなく、庶民文化の向上でも中国や日本に比較して大きく遅延する問題点を顕著にしていったのだった。

政権貴族である「両班」達による過度な「中国尊重」が継続された影響で、本来の『進貢制度』では考えられなかったモンゴル支配以来の過度な上納形態が正当化・維持された悲劇は甚大だった。詳述しないが明の過大な要求は朝鮮民族を近代に至るまで苦しめ続けたのである。

 

(大きく変わらなかった「李朝」の宗主国への『進貢』内容)

 太祖李成桂が明国によって国名『朝鮮』を与えられた経緯もあって、第三代国王太宗も名君と呼ばれた「世宗」もひたすら明国皇帝の威信にひれ伏す如き配慮を欠かすことはなかったのである。

 更に、国家思想としての「朱子学」の徹底は、両班層に自分達が第二中国人的な思いを抱く「小中華思想」を蔓延させたのだった。

 慕華思考を抱く朝鮮官僚の増加は、明王朝にとって極めて好ましい現象だった。

これは結果論だが、李朝建国の時期は、高麗王朝と元の隷属的な外交関係を修正できる貴重な時代だったにも拘わらず、古代朝鮮人の気概を継承するような行動は皆無で、太祖とその周辺の儒者達は「元」と「高麗」の進貢関係をそのまま引き継ぐ行動に終始している。

 その点、明国も巧妙で、「好餌」を小出しにして、李朝の歴代国王達から十分な献上品を得るための努力を惜しまなかったし、朝鮮人官僚達の中には自国の国王よりも明の宮廷の意向を重視する重臣達も出現するようになっているだけでなく、明国に阿諛迎合する官僚達には、明朝側もできる限りの便宜を図って、水面下でのパイプの維持を図ったのだった。

 その結果として、「元」と「高麗」の時代に国民の重い負担となった種々の『進貢制度』が、ほぼそのまま維持されて、近代に至るのだった。


(中国に支配され、自ら『第二中国人』の道を歩んだ李朝の人々)

 このように、『朝鮮』という国名を与えてくれた宗主国「明朝」に李朝政権の王と官僚達は限りない尊崇の念と大国への恐れを抱き続けていた可能性が高い。

 その確たる証拠が、李成桂から子の太宗、孫の世宗と続く異常なまでの明王朝への忠誠の歴史だった。

 その忠誠度は明王朝の力が急速に低下した明朝末期になっても変わることはなかったのである。 

明と対立する満州族「清」への限りない侮蔑が招いた「丙子胡乱」の際には、太宗の率いる清の大軍が侵入して、国王が土下座する屈辱を味わった後になっても、密かに清の滅亡を祈りながら、自国が明国の正当性を受け継ぐ唯一の中華国家である『小中華思想』を信じるしか両班達の孤独なプライドを保持できない危うい精神状態に陥ってしまったのだった。


 一方、強大な武力によって李朝を圧倒した清国は、「進貢」についても満州族らしい横暴を忘れなかったのである。即ち、異民族の「元」や漢民族の「明」同様に、満州族の「清」も李朝に対する横暴な要求を変えることはなかったのだった。

金や銀、朝鮮で産する各種の布製品、名産の朝鮮人参等の朝鮮半島の物産に加えて、宮廷で使用する宦官や愛妾の供給元としても李朝を徹底的に搾取したのである。

このように、中国古来の『進貢制度』の枠を大きく逸脱した横暴に耐え続けた朝鮮民族の悲劇を想うとき、地政学的悲劇の大きさに驚愕せずにはいられない。

加えて、これからの朝鮮民族の明るい未来を希求するとき、国際社会で多くの友邦が得られるように常識ある毅然とした態度を期待したい。


(参考文献)

1) 『朝鮮属国史』    宇山卓栄   扶桑社新書  2018年


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