56.東アジアの巨星『中華帝国』の実態
明の洪武帝と琉球中山王察度の朝貢(進貢)制度を通じた両国の麗しい交流関係について記述しながら、途中で再確認してみたくなった中国歴史の疑問点があった。
それは、東アジア三カ国の歴史を振り返ってみると、三カ国の中で歴代中国王朝の寿命が極めて『短寿命』だった点である。
隣国の朝鮮半島の「統一新羅」、「高麗」、「李氏朝鮮」と続く王朝は何れも約五百年の期間王家を存続させているし、我が国に関しては国際的に周知の事実があるので、今更、議論する必要もないであろう。
それでは歴代の中国王朝の寿命はというと、主な長期政権だけを取り上げたとしても、『約二百数十年から三百年にしか過ぎない』短寿命国家の連続なのである。
世界中の王国や帝国を観てみると、古代ローマ帝国はいうまでもなく、それに続く「東ローマ帝国」にしても約一千百年を超える長命だったし、「神聖ローマ帝国」のケースでも、八百余年の歴史を刻んでいる。
そこで本稿では、東アジア最大の影響力を持つ巨大な王朝を何度も築いた歴代の中華帝国が何故、世界的に見ても短命だった点に的を絞って、力不足ながら勉強してみたいと思っている。
(古代中国で起きた『王朝交代時の反応』)
『史記』を読んでいると中国が黄河中流の『中原』と呼ばれる狭い地域で諸侯が覇権を競っていた古い時代の王朝である「夏」や「殷」の時代でさえ、王朝末期には熾烈な主導権争いが行われた記載に溢れている。
それ以上に驚きなのは、亡国の王である「夏の桀王」や「殷の紂王」に触れた記述で、一端、国が消滅すると、王朝の最後の王は、ありとあらゆる悪逆行為の推進者の如く史書に記載され罵倒され、筆誅を加えられる存在に落ちている点である。
近年の研究者の中には、桀・紂の残虐行為の殆どはでっち上げであり、捏造の可能性が大きいと指摘する人もあるくらい、現実とは思えぬ位悲惨な記録が列記されている。
その原因は、絶対権力者の絶頂時の権力の大きさと、凋落したときの反動から来る記述としか考えられない。
古代から異民族も含めた諸侯の係争によって、中原の最高権力者を決定してきた中国にとって、汚い言い方で恐縮だが、「暴力行為によって中原の『覇権』を掌握した者が勇者であり、正義の王朝の創始者」だったのである。
そのため、革命による新王朝の創始には古くから、中国なりの「王朝交代の際の政治的理論も確立されていた」のである。
詳しくは後述するが『易姓革命論』と『天命論』である。
一方、中原に安住した中華帝国にとって、四夷の民族との友好関係は重要な王朝維持の為の政策の一つでもあったのである。
特に北や西の砂漠地帯や牧草地帯の狩猟民族や遊牧民族に囲まれた豊かな農耕地帯の主である中国人にとって、野蛮な異民族と『朝貢制度』を通じて友好関係を維持し、莫大な下賜品を与えることによって、自分達の安寧を購ったのだった。
即ち、朝貢は歴代中華帝国の民族的『プライド』維持に必要な手段であると共に、国境の平和維持に有用な外交手段でもあったのである。
そんな背景も考慮しながら、歴代中国王朝の寿命を通観してみたい。
(超短命だった『秦帝国』が歴代の中華帝国の寿命を決定付けた)
「夏」、「殷」、「周」と政権交代を繰り返した古代中国の王朝だったが、「戦国時代」の乱世を統一して、歴史上我々が考える最初の巨大な『中華帝国』を建設したのは有名な秦王政、後の『始皇帝』だった。
しかし、秦の始皇帝は史上初めての大帝国を造り挙げる偉業を成し遂げ遂げると同時に、孤独な独裁者の持つ帝国の大欠陥を露呈させる誤りを犯してしまったのだった。
秦王に即位した紀元前247年から同221年に至る26年の歳月を掛けて、「戦国七雄」の他の六国を滅ぼした彼の偉業は、それまでの中国古代史に無い壮大なものであった。
始皇帝の構想の偉大さは、それだけではなかった。
群国の廃止と『郡県制』への移行、『貨幣の全国統一』、『文字の統一』等々を初めとする統一国家としての各種法制の整備を「法家手法」に従って実施していった点は、後世からみても評価の高い施策であった。
更に、北方防御のための「万里の長城」の建設は、現代にまで残る偉業として中国を代表する世界遺産の一つとして、人類の記憶として長く残ることであろう。
けれども、始皇帝の全国民に対する暴虐と専制を極めた「法家」的統治は旧六国のみならず、自国の民心おも完全に失った様子が史記の記述から感じられる。
英国のジャーナリスト:トム・フィリップスもその著書『とてつもない失敗の世界(禰冝田亜希訳)の中で次のように述べている(以下要約)。
『始皇帝には先見の明と卓抜した思想があったが、専制者ならではの大きな個人的欠陥も
持っていたのである。
第一に、反対派の哲学を禁じ、反抗する者を処罰しただけでなく、その絶対的な権力と情
報網を使って、「不老不死の妙薬」を探すために無用な指示を出した点にある。
始皇帝の死後、その王朝は続かなかったが、それでも、始皇帝がつくった国は今日まで大国であり続けている』
当に始皇帝によるそれまで中国史上になかった『天下統一』の偉業と短期間での『崩壊と滅亡』は、『天命(人民の信望)』を失った王家の断末魔と末路を後世に示す大きな出来事であった。
このショッキングで偉大な史実は、中国人に『中華帝国』という東アジア最大の帝国建設の素晴らしさを長く記憶させただけでなく、それと同時に、『どんな大帝国であろうとも、人心を失った暴虐な治政は短期間で滅亡に繋がる』ことを中国人の心に長く記憶させたのだった。
世の平安を望む人民の願望に背いた権力者始皇帝の子孫を根絶やしにしたのは、新興勢力の項羽であった。そして、始皇帝の子孫に対する大虐殺の血の乾かぬ内に、項羽自身も後ろに控えていた劉邦によって覇権を急速に失っただけで無く、その身体は劉邦配下の諸将によって、五つに分けて斬獲される悲惨な最期を遂げたのである。
このような秦末から漢初の大動乱期を見聞した漢民族にとって、『どんな権力であっても天命によって滅ぶ時は一瞬の時間にしか過ぎない』との、絶望的な歴史的諦観を伝聞させる偉大な力があったのである。
(中華王朝『交代理論の確立』)
この秦の勃興と秦末の動乱に続く「漢楚の興亡」は、多くの中国人に覇権の甘味さと中華帝国の脆さの双方を理解させる伝説となっていったのである。
古い時代から中国人の間で唱えられてきた、『易姓革命』の現実体験によって当時の中国人は自分達の創建する王朝の壮大さと脆さを実感したのだった。
その、最大の感得者が漢王朝の創業者劉邦であった。
「法家思想」に全面依存した始皇帝の政治的欠陥を是正すべく、劉邦は自身が嫌っていた「儒家思想」を漢王朝にあえて取り入れている。
更に、高祖の後継者の「武帝」は、「法家」と「儒家」の二本立てによる漢の政治体制を強化して、儒教を己の政治機構の中に於いて充実を図った結果、「儒教」は漢王朝にとって、政権安定の最重要思想として、位置付けられて行くのだった。
支配者である王が悪逆の限りを尽くすとき天帝の命(庶民の蜂起)によって王朝交代が起きる『革命』が行われるという思想で、儒家によって唱えられた交代理論のようだ。
王朝の交代には武力による「放伐」と「禅譲」の二つがあったが、いずれにしても新興勢力の簒奪者にとって誠に都合の良い理論であり、即位後直ちに儒者集団によって地位を固めることが出来る巧妙な理論だった。
逆に、儒教徒から観るとどのような王朝に交代しようと、直ちに新王朝に取り入ることが出来る「金科玉条」のようなものだったのである。
このように新興勢力による前王朝の簒奪と政権交代は中国史に於いて暴力集団による旧政権の打倒を保証しただけでなく、儒学者さえ味方に付ければ、いかなる非道な政権でも正当な新王朝に変身できる魔法の護符だったのである。
更に、時代が進むと漢民族同士の抗争以外でも、この正統論が適用されるのだった。「契丹族」、「女真族」そして「モンゴル族」等々の異民族の登場に対しても、漢族の儒者達の追従は民族の垣根を躍り越えて自由に飛翔する始末だった。
その政権奪取した暴力集団である異民族の正当化に貢献したのが、全国規模での国家試験で実施された『科挙』に合格した漢民族知識集団(士大夫層)の存在であった。
その背景には、『天命』や『易姓革命』を信奉する儒学徒の存在が大きかったのである。
科挙による儒教勢力の確立は宋代以降、歴代の政権によって保護され、異民族の王朝でも採用されたのである。その傾向は、現代の中国政府が世界中の国々に「孔子学院」の建設に邁進している現状を見ても、如何に中国人の根底に儒教が染みついているかが理解できよう。
極論すれば、『最強の暴力集団』である次の時代の覇権者が政権を掌握したと考えた瞬間から、賢い儒者集団は権力者の膝下に群集して自分達が如何に政情の安定化に貢献できるかを上申し続けるのである。
その結果、いかなる「異民族政権」が誕生しようとも、阿諛迎合する儒教徒の群れが存在する限り、新政権は安泰であり、歴代の中華王朝が『断絶に次ぐ断絶の歴史』となった一因と感じるのは、私だけであろうか?
(歴代中華王朝の『寿命』)
短命で終わった「秦王朝」の問題点を改善すべく、秦を打倒した「漢王朝」以降、歴代の王朝は自分達の王朝の長命化に涙ぐましい努力を重ねている。
漢が採用したのは前述した通り、統治の為の法制面で「秦」と同じ「法家」を採用しながら、政権運用面では、相反するような「儒家」の主張する『礼』の実施を心掛けた点だった。
覇権主義を顕著に現わす「法家」の酷烈さを「儒家」の『礼』で緩和するこの施策の採用は、「漢」が短命国家となる可能性を防止するために、偉大な効果を示したのだった。
更に、このやり方は、漢の第七代皇帝である「武帝」以降、漢政権の規定方針として強化され、「王莽」を経て、後漢の時代も国家運営の基本として、漢帝と貴族層を含めた政権上層部によって踏襲されていくのである。
この「法家」+「儒家」一体の国家運営システムは、漢に続く殆どの中華帝国で積極的に採用される。
その結果、巨大な中国大陸の中で、多くの中華王朝が興亡を繰り返したが、漢以降の著名な王朝の寿命は、始皇帝の王朝寿命を遙かに超える長命なものとなったのである。
以下に代表的な中国王朝の寿命を挙げてみよう。
・漢(前漢+後漢) 約410年間
・唐 約290年間
・宋 約320年間
・元 約90年間
・明 約280年間
・清 約280年間
このように、長命化の努力の割には、平均すると約280年で強大な中華王朝の寿命は尽きているのである。
どの王朝も申し合わせたように、建国から百年程度が最盛期で、後は下り坂となり末期には衰微して次の新興王朝によって滅ぼされるか『禅譲』という美名の元、放逐されて表舞台から去っているのだった。
その背景には、前述した中国古に生まれた『天命』と『易姓革命』理論が新興勢力にとって、極めて好都合で、王朝交代を促進する背景があったのである。
この二つの理論を拡大解釈するとき、どんな出自の庶民でも、異民族でも中華皇帝となれる道が開かれているといっても過言ではなかった。
そして、中国に於ける「王朝」の歴史が大きく変わったのが文治国家「北宋」末期からだった。
「契丹族」に始まり、「女真族」、「モンゴル族」と続く騎馬民族による中国本土侵入が本格化してきたのである。
最初の征服王朝である「遼」の場合は、そうでもなかったが、遼に続く女真族の「金」のケースでは、中国統治の為の「漢化」の傾向が著しく、その分、騎馬民族としての特徴が失われた末に「モンゴル」によって征服されている。
モンゴル族が建国した「元」は、唐以来の「中書省」の伝統を引き継いだ「六部」を置き民政と財政を統括しているし、一時停止されていた「科挙」もその末期には復活させている。
このように時代が進むと騎馬民族自身も中国統治の経験を積み積極的に中国の政治手法を導入するようになっていったのである。
漢民族最後の王朝「明」の後の「清」の時代を迎えると、その動きは益々顕著になっていった。
北京に入城して中国支配を開始した「清」は、前の漢人王朝「明」の制度を積極的に導入することにより、急速に国家体制を整備して、少数民族による「植民地帝国」支配を安定化させたのである。
大多数の漢人官僚層が何の抵抗もなく清に従った背景には、明最後の皇帝である「崇禎帝」の敵である李自成を清軍が討伐した実績が加味されただけでなく、明の「科挙制度」の存続が漢人知識人層の賛同を得た点も大きかった。
このように、漢代以降「儒家思想」が政治に直結する位置を占めただけでなく、随による「科挙」の実施によって、国家の主要官僚が「儒教学習者」である知識階級によって占有されてしまった影響も『中華王朝』の存立に大きな影響を与えたのだった。
「儒教崇拝」が国家政治機構の中枢に深く入り込んだ結果、政治の実務面でたとえ異民族の権力者よる政権奪取が起きようとも、良く言えば、『スムースに政権変更が可能な体勢が中国人側に備わった』結果と表現するのは過言であろうか?
(参考文献)
1)『とてつもない失敗の世界史』トム・フィリップス 禰冝田亜希 河出書房新社 2019年




