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55.明の太祖『洪武帝』の心を捉えた『琉球中山王察度』

 秦の始皇帝から始まった皇帝権力確立を希求した歴代皇帝の歴史の中で、明の太祖洪武帝が勝ち取った「皇帝独裁権」の存在が大きかった点は、前稿で述べた。

政治的には、建国後に朱元璋が寵臣劉基の献策を入れて実施した「養民策」の効果もあって、「明朝」政権は早い時期に内乱で荒れた国内安定化の方向を示すことが出来たのだった。

しかし、貧民から成り上がった洪武帝にとって、自身を帝位に就けてくれた「淮西わいせい集団」を中心とした泥沼の功臣達の権力抗争による精神的ショックは大きかった。

加えて、明朝を支えている江南の富裕地主層と官僚の癒着は国政からは無視できない大きな問題だったのである。

朝廷の官僚も身近な側近も信頼できない洪武帝の心中には、次々と疑心暗鬼が生まれたとしても不思議ではなかった。

結果的には帝の生涯で合計10万人以上といわれる官僚や有力地主層への大粛正を何度も繰り返す、恐怖の時代を現出しているのである。


その反面、個人的には優れた先見性と学習能力を持つ洪武帝の頭脳は、新生の王朝である明朝の方向を誤ることなく主導していった。

その背後には、朱元璋自身が包容力のある愛妻馬皇后に支えられている恵まれた家庭環境があったし、優秀な子供達にも恵まれた人生だったのである。

強いていえば、信頼する皇太子の早世により、後半生の人生設計が大きく崩壊してしまった点が、官僚大虐殺に繋がったのかも知れない。

そこで、本稿では明朝の内部争いを離れて洪武帝朱元璋の小さな島国に対する温情溢れる小さな逸話を紹介してみたいと思っている。

後に、「琉球王国」となるその島は、当時、沖縄本島自体でさえ、「北山、中山、南山」の三つの王家が勢力を競い合っていたのだった。


(明の『洪武帝』と『中山王察度』の出会い)

 1368年、貧民出身ながら元末の混乱期を勝ち抜いた朱元璋は応天府(南京)で建国、国名を「大明」、年号を「洪武」と定めて皇帝に即位、即位と同時に安南、高麗、占城チャンパ、ジャワ等に入貢を即す「招撫使」を送っている。

そして、その四年後の洪武5(1372)年正月、朱元璋は今まで未接触だった小さな島国琉球に招諭の使者「楊載」を派遣している。

朱元璋としては、過去の王朝である「宋」や「元」の時代に中国王朝に進貢していなかった「琉球王国」を自分の時代の新たな進貢国に加えることによって、前王朝に勝る自国の権威付けと威光を内外に誇示したかったのかも知れない。

 打てば響くように、中山王察度からは、年も変わらぬ12月に弟泰期を使いとして臣下の礼である「表」を捧げると共に、「象牙や胡椒、蘇木」等の南方の産物を貢ぎ物として献上してきたのだった。


 いつの時代の国際外交でも、そうだが、タイミングと権力者の求める答えを積極的に提示できるかで勝敗は決まる。

 それまで朝貢のなかった中山王「察度」のタイムリーな応天府への使臣の派遣は、新帝国建設初期段階の洪武帝の心を鷲掴みにした可能性が大きかったのではないだろうか!

 そうでなければ、洪武帝の生涯に渡る小さな「琉球王国」それも分立する三山への並々ならぬ温情が説明できない気がするのである。

明の琉球に対する外交的厚情は、洪武帝亡き後も「祖法」として維持されただけでなく、明に続く「清」でも尊重され、約500年間の琉球と中国の関係を決定付ける国際外交の出発点となったのである。


 しかし、この両国間のエポックメーキング的な事件に関しては、読んでいて従来から違和感があったのだが、赤嶺守琉球大学教授の『琉球王国』によると「楊載」という重要な仲介者が存在していたようだ。

前年、招撫使として日本に派遣されていた楊載だったが、室町幕府の優柔不断により、成果の上がらぬまま日本から帰還する途上の九州で、未知の島国の存在を聞き及んだ楊載は急遽「琉球」経由で帰国、琉球の存在を洪武帝の耳に入れたのが発端だったとのご指摘を新鮮に拝読した次第である。

もし、そうだとすれば、事前に楊載と察度両者の間で綿密な打ち合わせがなされていた可能性があったと想像しても、大きな間違いではないように感じるし、察度としては以前から小規模ながら東南アジア相手の中継貿易に手を染めていた経緯も大きかったと推測される。


(未曾有の『洪武帝』の優遇)

  このタイミングの良さが洪武帝の『琉球』に対する優遇の発端であり、純粋な皇帝自身の感動に起因しているように結論づけたい。

数度に渡る官僚間の派閥闘争や有力地主層の搾取と不正を経験した洪武帝にとって、疑心暗鬼に捕らわれざるを得ない内政と異なって、未知の島国『琉球』の真心に満ちた真摯な国際外交上の対応に感動した結果の反応だったと推測したい。

 これ以降、小国『琉球』に対する信じられないくらいの数々の洪武帝の温情は続く。


 進貢に、小型の船舶しか準備できない琉球側の窮状が叡聞に達すると大型の進貢船を下賜している。進貢船の色彩豊かな勇姿は、沖縄県立博物館所蔵の「進貢船の図」からも生き生きとうかがえる。

 進貢船の琉球への下賜は、一度だけではなかったのである。洪武から永楽年間に30隻を数える隻数を中山と南山の三山それぞれに供与しただけでなく、船の運用に必要な人員や修理の為の専門職の派遣まで手配する手厚いものであった。

 その際、職能集団として琉球と中国間の交易に寄与した中国人の出身は「福健人」が主だったようだ。その結果、多くの中国人が琉球を訪れただけでなく、琉球国内に居住するようになった福健人も多く、中でも久米島に居住して進貢貿易や東南アジア諸国との交易に従事する人々の数も貿易量の拡大とともに増えていったのである。


 次に洪武帝が琉球に対して寛容だったのは、「朝貢不時」の適用だった。朝鮮半島の「李朝」や東南アジア諸国には、国によって、三年に一回や二年に一回等の進貢しか認めなかったのに対し、琉球にだけは「勘合」も不要で毎年の進貢を認めただけでなく、複数の港の使用を許容する温情が示されたのだった。

 この優遇処置によって、洪武年間だけでも中山が32回、南山が13回、北山が12回朝貢して他国に比較して格段に明の厚情に浴している。

 それに加えて、琉球側は下賜品の内容にまで注文を付けているが、明側は、小国『琉球』の要望を叶えているのである。

 鉄製農具使用の先進国だった中国や日本に比較して、当時、琉球での鉄器の普及は大幅に遅れており、生産性は低いままだったのである。

中山王察度にとって豪華な下賜品である絢爛な絹織物よりも、配下の農民に喜ばれる粗末な実用鉄器の方が好ましい品物だったのである。

 もちろん、鉄器の頒布は王の権威を高めただけでなく、王を守る武人達の装備の向上に繋がる一挙両得な要望だったのである。


 それまで、どの中国王朝にも頭を下げたことのなかった琉球が太祖の一声に呼応するように使臣を首都南京に送った事実は、太祖の威徳と明の国威を内外に示す重要な成果だった。

 特に、成り上がり者の朱元璋にとって、自身の尊貴を国内外に示す行為は、自身の地位を安定させる為に絶対に必要不可欠な国政上の最優先事項だったのである。


(琉球進貢に対する『洪武帝』晩年の評価)

 このように、琉球の中山王察度と洪武帝の進貢関係は順調に推移し、察度の没年までの24年間に25回の進貢が行われている。ほぼ、年一回の進貢であった。

 その間、中国系職能集団の沖縄在住も進み、琉球王国の三山の中継貿易拠点としての地位も明国の庇護の元、大きく向上したのだった。

琉球に数々の温情溢れる優遇処置を与え続けた洪武帝だったが、晩年、礼部の官僚に東南アジア諸国の進貢に関してしみじみと語って、

 「安南、占城チャンパ真臘しんろう、大琉球だけは進貢を継続しているし、大琉球の王と重臣は子弟を我が国の応天府の国士監に送って中国の学問を受けさせている」

 と、賞賛している様子からも琉球へ対する洪武帝の信頼の様子が窺えるのである。

 確かに、琉球側も明朝の信頼を保持すべく懸命な努力を継続している。

 洪武25(1392)年、中山と南山から南京の国士監に留学生が送られて以降、王朝が変わった清代にも、北京の国士監に琉球生は送られ、手厚い待遇に浴しているのである。


(「東アジア貿易」の優等生『琉球』の黄金時代)

 明代初期の東南アジア貿易を考える上で、最も影響が大きいのが、「倭寇」の行動範囲が朝鮮半島から中国の沿岸地帯に移動・拡大したことだった。

 その結果、 洪武帝は周辺諸国との朝貢貿易を認める一方で、国民には海外渡航を厳しく禁ずる「海禁政策」を強化しているのである。

 当然のことに、明国の貿易商の行動は大きく制限されただけでなく、東南アジアにおける明国貿易商の活動範囲は一段と小さくなっていったのである。

 逆に明の「海禁政策」を逆手にとる形で、「琉球王国」は、日本や明国の商品を東南アジア諸国に届け、東南アジア諸国の産品を明国や李氏朝鮮、日本へと供給することによって、琉球王国が、東アジアの国際貿易の中枢としての黄金時代を迎えるのだった。


 この明との「進貢関係」の維持と東アジアに於ける中継貿易のキーパーソンとしての存在こそが、14~15世紀に、『琉球王家』が絶頂時代を迎える基盤となったのである。

 中山王察度を含む「三山王家」は、やがて、「尚巴志しょうはし」によって統一され、彼の後継者による「第一尚氏王家」に受け継がれていくのだった。その第一尚氏王家も成化6(1469)年には、「第二尚氏王家」に取って代わられる運命にあったのである。

しかし、明朝との進貢関係の重要度を良く理解していた琉球王家側は、何れの政変の折も察度王の血脈が平和に継承されていることを装って、明朝側に報告しているのだった。

 もっとハッキリ表現すると、中国に対して、察度以降の琉球を代表する歴代の国王は、連綿と続く同一血統の王家として、「明」から「清」へと訴え続けたのだった。


洪武6(1372)年、洪武帝と中山王察度の間で始められた「進貢貿易」は明朝側の太祖の「祖訓」との言葉に守られて子孫に継承され、王朝が「清朝」になっても変わることなく交流は続き、明治12(1879)年日本の明治政府による「沖縄県設置」によって最終的な終焉の時代を迎えるのだった。

 この約500年に渡る東アジアの国際交易に貢献した『琉球王国』の存在は偉大で、「察度王」は「おもろ(沖縄の古い歌謡)」で、『宝庫の扉を開いた人』と後世までたたえられたのだった。


 本稿は、前期の赤嶺先生と次に挙げる原口禹雄先生の下記の著書無しでは触れることが出来なかった。沖縄の歴史にとって重要な「国際貿易立国」草創期について、その栄光の時代を回顧できたことは筆者にとって大変有り難く、厚く御礼申し上げたい。もし、文中に誤りがあるとすれば小生の責任である。

 

(参考文献)

1)『琉球王国』     赤嶺 守    講談社選書    2004年

2)『琉球と中国』    原田禹雄    吉川弘文館    2003年


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― 新着の感想 ―
[良い点] 河井さま 明と琉球の関係とは、初めて知る事が多く、大変勉強になりました。 特に三山時代の中山王と、第一尚氏王統の立てた尚 巴志王は、同性だったこともあり、中山が統一したように勘違いして覚え…
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