54.中華皇帝覇道の系譜と明の『洪武帝』
紀元前、中国の戦国時代に、群雄を統一する大構想を描いた秦王政の夢は、政の果断な判断と政を補佐する宰相と名将達の協力もあって、実現し、秦王政は史上最初の中国『皇帝』として、全土に君臨することとなった。
広大な領域を統一した絶対的な権力者としての「中華皇帝」の姿は、彼以降の覇権を夢見る全ての権力者の人生最大の目標になった印象を、中国史を読んでいると強く感じる。
その反面、雄大なスケールの英雄的構想の割には始皇帝の発想には人間性に対する大きな欠陥を感じる人も多いと思う。
その何よりの証拠は、始皇帝没後、幾ばくもなく秦王朝自体が滅亡し、始皇帝の血統が暗愚な後継者自身と秦を占領した項羽によってことごとく抹殺されていることからも証明されよう。
万民に愛された王家と違い、極端な法家思想による超圧政国家だった秦は、国民全体から反感を買っており、王家の存亡に関心を持つ庶民は存在しなかったのである。
しかし、人生の富貴を求める覇者達にとっては異民族も含めて政の掲げた『皇帝』の魅力は巨大なものであった。始皇帝の後継を望む権力者達は何れも、自身が皇帝に即位し、富貴を享受できる身分になるだけではなく、自分の王朝が永久に続き、子孫がとこしえに繁栄することを究極の目標として思い描いたとしても間違いないであろう。
その結果、漢の高祖を含めて無数の歴代の覇者達の「皇帝位」への熱望と激しい争奪戦が中国史の中心テーマとして、現代まで連なっている気がしている。
始皇帝の抱いた中華の『皇帝』と呼ばれる存在に対し、現代でも密かに渇望している中国の支配層が存在するように何気ない社会事象に感じるが瞬間が時折あるのである。
その点、「易姓革命」を含む中国古代思想は異民族を含めた政権奪取を容認する基盤であると共に、政権奪取後の新政権樹立の際には、儒教集団による「階級制」を含めた新王朝に対する早期の朝政バックアップが期待できる背景も大きい。
そして、古代、完成度の低かった中華皇帝の姿も、「覇道」を根底に秘めた歴代中国王朝によって、始皇帝以降、長い道をたどりながら、一歩一歩完成へ近づいていった印象が歴代の史書から窺える。
その結果、逆に、ヨーロッパの諸王国のように、初代国王の系譜が曲がりなりにも伝えられているのに対し、中国の王朝の特徴として、滅ぼされた先行王朝の血統は徹底的に弾圧され、抹殺されるのが一般的だったのである。
その点、覇者の交代に慣れた漢民族にとって、その時の生殺与奪の権を握った大武力集団こそ、服従すべき絶対者であったのである。
加えて民族思想的にも一度確立された権力に対して、従順な思考を持っていることは自己保存的に中国人に必要な伝統であった。
その点、分立する西欧世界とは大きく異なるものだったのである。ヨーロッパの場合、中世・近世を通じて、「ローマ教皇」と各地の「国王」の権力が併存している時代が普通だったのである。
それでは、始皇帝以降の主な中華王朝の歴代皇帝が、皇帝権力の完成強化に心血を注いだ系譜と絶対的皇帝権力を確立させた明の『洪武帝』について触れてみたい。
(始皇帝の酷烈な「法家思想」の反省と「漢王朝」)
始皇帝の没後、同帝のあまりに酷烈な「法家思想」の徹底は、彼の帝国の急速な没落を招いた点は前述した。
群雄が全土に蜂起し秦の故地に劉邦や項羽が攻め込んでも、法の圧制下にあった人民は、命を賭けて祖国防衛に立ち上がることはなかったのである。
その様子をまのあたりにした漢の建国者劉邦は、穏やかな法政を求める人民の声を部分的に取り入れながら始皇帝の統治体制の都合の良い部分を取捨選択して、バランスのとれた政治機構を整備していったのだった。
この漢の高祖が採用した政権の手法は成功し、前漢・後漢を通じて約400年の長期間に渡って中国全土統治を達成することとなる。
しかし、後漢末の内乱を皮切りに「三国時代」から、「五胡十六国」の時代になると、歴代王朝の興亡は激しさを増し、北では異民族の王朝が、南では漢族の王朝が建設されては滅亡する短いサイクルを繰り返すのだった。
これ以降、中国では、複数の短命王朝が興亡を繰り返す時期と平均すると約250年程度の長期王朝が存在するのである。
漢に続く長期王朝は、「唐」によって建設されている。
唐は「律令制」に基づく中国王朝の基本的な政治行政機構が整備された時代でもあった。
(「隋・唐」に於ける「律令制」と「科挙」の実施)
中国らしい政治機構が本格的に整備されたのが「随」と「唐」による「律令制」と「科挙」の実施だった。隋の時代から始まった科挙を現代風に表現すると、「公開の国家試験による高級国家公務員の選出制度」であり、建前上は外国出身者も含めて誰でも試験を受ける資格があり、合格すれば大中華帝国の高級官吏に成ることが可能になる近代的な法制度の実施だった。
この時代を超越したユニークな国家試験制度を実施できたところに、世界最先端の国家としての「唐」の存在は偉大だった。
一方、政府内部の政治機構も「三省六部」にスッキリと整備されたのが唐代だった。
即ち、三省とは皇帝を補佐する「中書省、門下省、尚書省」のことで、中書省は起案、門下省は審議、尚書省は執行を司る機関であり、「六部」とは実務を執行する為の尚書省配下の行政組織のことである。
この三省六部体制が中国の皇帝制度を維持する基本的な政治機構として、清朝末期まで機能したのである。
それでは、この唐代に確立された三省六部制が歴代尊重実施されたかというとそうでもなかった。モンゴル人の支配した元代には、六部は尚書省を離れて中書省に移されたし、明の洪武帝の時代には皇帝直轄の組織とされ、独裁権の強い皇帝の意思が政治の末端まで早急に伝わるように改善? されたのだった。
この機構は満州族の歴代皇帝にも気に入られて、清朝でも採用されて近代に至っている。
(中国皇帝と日本の歴代権力者との違い)
話は変わるが、中国の歴代皇帝が目指した「絶対的権力者」の実像を本質的にヨーロッパ人や日本人が理解することは難しいのかも知れないと常々思っている。
西欧のフランスやイギリスの王家の歴史を概観しても、「絶対的王権」を確立できた国王の数は極めて少数だし、その王朝の存続期間の中でも短期間だった。
加えて、日本の場合は、更に別方向の権力志向だったように感じる。
平安貴族の中でも絶大な権力を掌握してやりたい放題な印象が強い関白藤原道長にしても、彼の日記からは、常に周囲に気を遣う「バランス感覚」の優れた人物だった感じを受けるし、鎌倉幕府の創設者である源頼朝にしても、意見の異なる関東武士団の中で、如何にして、自身の権力を確立できるのか日夜苦悩していた様子が吾妻鏡から感じられる。
そういう意味では、究極のお人好しは、室町幕府初代将軍の足利尊氏であろう。後醍醐天皇との望まない抗争も背景にあって、味方する将士には、惜しみなく望むものをバラマイタ結果、自身はもちろん、子の義詮の時代を迎えても室町将軍家の地位の安定は望むべくもない状況で、南北朝の争乱が収拾できたのは孫の三代将軍足利義満の時代だった。
二百数十年に渡る天下太平の世を招来した徳川家康にしても、自分に反抗した毛利家や島津家を滅亡に追い込まずに温存させた結果、幕府の力が衰えた幕末には、両家が中核となった討幕運動によって、子孫である徳川慶喜が「大政奉還」を行わざるを得ない苦境に追い込まれるのである。
最近の歴史好きに人気の高い、行動が果断で、日本人離れした冷酷さも併せ持った織田信長でさえ、日本人伝統の「和の文化」の中に生きていた点は明確であろう。
中華の皇帝の場合、金城鉄壁の首都の何重にも囲まれた城壁の中での生活が普通であり、無防備になる屋外では数万の大軍に護衛させる慎重さを常としたのに対し、大部隊の護衛もなしで一寺院に平服の家来と共に宿泊した信長の感覚は、当に君臣の「和」を信頼しきった民族の一員としか表現しようのない、余りにも無防備で欠陥だらけの行動だった。
同様の事件は、ヨーロッパでも起きている。今でも国民に人気のあるブルボン家の初代フランス国王だったアンリ4世は、パリ市内を少数の護衛と共に馬車で通行中、旧教徒の暗殺者によって命を失っている。
その点、始皇帝以来、歴代中国皇帝は、「絶対的な権力者」としての偶像を求め続けながらも、自身の身の安全には細心の配慮を徹底している人物が多かった。
自分だけの権力構造を探求した点では、唯一、オスマントルコの皇帝が似ているかも知れない。
いずれにしても、中国特有の個性ある独裁的な権力構造を確立した最初の皇帝が、明朝の初代皇帝『朱元璋洪武帝』ではなかったのかと個人的には感じている。
確立した皇帝権力保持の為に、猜疑心の赴くところに従って、生涯有力な官僚達を殺戮し続けたのも朱元璋だった。
(皇帝独裁制の完成者『洪武帝』)
明の次に中国の政権を掌握した満州族「清朝」の皇帝である順治帝やあの偉大な康煕帝が皇帝権力の完成者として、第一に挙げたのが明の太祖『朱元璋洪武帝』だった。
北方の少数異民族満州族がたまたまの明の内乱に乗じて紫禁城に入城して、そのトップが皇帝の椅子に安座しただけで、何もせずに中国皇帝の位に就くことができた幸運を清朝の歴代皇帝は強く感じていたと思う。そうした中でも、有能な順治帝や康煕帝自身が、中国の帝位に就いて最も恩恵を感じた人物が明の独裁的皇帝権を整備した初代皇帝洪武帝だったのである。
洪武帝は清朝の文人趙翼の表現によると「聖賢、豪傑、盗賊」を兼ね備えた複雑怪奇な人物だったらしい。
貧農の子として生まれた朱元璋は、元朝末期に中国各地で発生した反乱に乗じて急速に権力を掌握、南京を都とする「明朝」の初代皇帝に即位している。
即位後洪武帝は如何にも農民の子弟らしく「重農政策」を実施して国家の基本体制を固める一方、皇帝権力の専制化に注力している。
加えて、皇帝への反抗を防止するための「儒教道徳」の徹底にも努力したのだった。
その反面で、貧民から成り上がった朱元璋の心中は配下に加えて明の官僚にした元の同僚や諸先輩へ猜疑心で一杯だったのである。
出身が卑しく、容貌が怪異といって良い朱元璋の黒い猜疑心は年齢を重ねるにつれて益々深くなっていったのである。
その為、皇帝直属のスパイ機関である「錦衣衛」を設けて、恐怖政治遂行のよりどころとする行為は、大度な後漢の光武帝や宋の太祖から見たら皇帝らしからぬ暗黒面を強く持った絶対的権力者だった。
中国歴代皇帝の中でも猜疑心の最も強い皇帝だった朱元璋は建国達成と共に功臣派閥間の
抗争激化が激化した背景もあって、大軍師と呼べる「劉基」を除くと功臣達に対し粛正に次ぐ粛正
を実施、排除に努めている。
詳述すると長くなるので、建国以降の主な「粛正」とその際に断罪された人数を年代順位に列記してみよう。
洪武13(1380)年 胡惟庸の獄 1万5千人?
洪武23(1390)年 李善長の獄 3万人以上
洪武26(1393)年 藍玉の獄 2万人?
胡惟庸の獄の後には、皇帝独裁に支障となりそうな「中書省、都督府」を廃止した上、六部を自身直轄の機関として皇帝の意思の底辺への浸透を確実にしている。
洪武帝の恐怖政治は上記を含めて彼の生涯で約10万人を殺したと伝えられるほど酷烈な疑獄
このように、「洪武帝」は平和な現代に生きている我々が論評出来るほど単純な人格者ではないし、たぐいまれな成功者であると同時に、信じ難いほどの深刻な猜疑心に終生付きまとわれた孤独な権力者でもあったのである。
反面、歴代王朝の皇帝と異なって「絶対的権力構造」を確立した明朝の皇帝は有能である点が必須条件となったのである。皇帝の直轄下に置かれた官僚組織は、トップが初代洪武帝や第三代永楽帝のように有能であれば幸いだが、側近の宦官達やスパイ組織に情報を依存する軟弱な皇帝達にとって、有能な補佐機関を自ら排除した欠陥政治機構だったのである。
その悲劇的例を二つ挙げると、第六代正統帝の時代、モンゴルのオイラト部のエセン・ハンの通商拡大の要望に激怒した同帝は側近の無能な宦官王振の言動に唆されて、50万の官軍を直率して土木堡に出陣するも、エセン・ハンの攻撃に50万の大軍は瞬時に壊乱、王振は戦死、皇帝自身もオイラト部の捕虜となる屈辱を味わっている。宦官を重用する無能な皇帝の軍事指揮能力が悲劇を生み出す良い事例であろう。
二つ目は明朝最後の皇帝崇禎帝の例だが、李自成の反乱軍が北京に迫っても、皇帝の呼びかけ応じた官僚達はたった一人の宦官を除いて誰一人居なかったのである。
その一方で、異民族満州族の北京入場に際しては、明の高官達はゾロゾロと喜んで出迎えることを恥じとしなかったのだった。
洪武帝が完成させた絶対的覇権者である有能な皇帝にとって好ましい政治システムであっても、陋劣な後継者にとっては、自身の命や名誉を危険に晒す政治機能であることを上記の二例は如実に示している。
その背景には、国民の求めを拒否して、自己権力の追求を最大の目的とした、完成期の中国皇帝の政治的悲劇性と人間としての異常なほどの錯誤感を感じるのは私だけだろうか!
ちなみに、視点が違いすぎるが、日本の「太平記」で、あれほど暗愚と記述されている鎌倉幕府最後の執権北条高時が、鎌倉の東勝寺で自刃した際に殉死した一族は287人、家臣は870人、鎌倉全域で六千人あまりが討ち死にしたと伝えられている。




