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53.秦の始皇帝の『大構想』

 前稿で、『戦術』優先だった日本の歴史に触れたところ、何人かの方々から種々のご批判を頂いた。東西の歴史を探ってみても民衆に評価の高い英雄は戦略家というよりは個々の戦闘や戦術面で顕著な功績を挙げた人物の方が多いとのご指摘があった一方で、フランスの英雄ナポレオンにしても第一次世界大戦後のドイツの劣勢を覆した総統ヒトラーにしても、彼等の提示した大戦略は惨憺たる結果を招き、最終的には彼等自身の死を持って終了したではないかとのご教示もあった。

 それでは、お隣中国に於いて「戦略」的思考の英雄は存在したのだろうか?

 そこで、本稿では、その疑問について考えてみたいと思っている。

 中国の戦略的思考を考えるとき、まず、第一に思い浮かぶのが「諸子百家」が輩出した戦国時代の多彩な諸氏とそれに続く大戦略家と読んでも可笑しくはない「秦の始皇帝」の存在がある。


 「戦国の七雄」の一つに過ぎなかった「秦」を率いて、史上最初の中華帝国を建設した始皇帝の行動とエネルギーは、その後の行動も含めて極めて戦略的なにおいを感じる。

 始皇帝の没後、後世に登場した中国皇帝の多くが、どこかで始皇帝を指標にして巨大国家中華帝国の運営を行っていた形跡がほのかに見えるように感じるが、気のせいだろうか?

 一瞬、『中華帝国皇帝』の構想と幻想の端緒の全てが、この人物から始まったのではないかとさえ想い込みそうになることさえ、個人的にはあるのである。

 そこで、本稿では「秦の始皇帝」に的を絞って彼の『戦略構想』の気宇壮大さと、その歴史上の後継者について触れてみたいと思っている。


(「秦」という国)

 中国で周代が始まった頃、「秦」は中原の列国に相手にしてもらえない辺境の勇猛な一部族にしか過ぎなかった。しかし、西周の滅亡時に東周の「平王」の擁立に奮闘した功績を認められて諸候に封じられた国だった。

 戦国時代になると歴代の秦公は有能な他国出身者を重用して国力の増進に努めた結果、「戦国の七雄」の一国として将来雄飛できる基盤が確立されたのだった。

 その時代の秦公である孝公は王権の強化促進のための中央集権を基本とした大政治改革を他国出身者である「商鞅」に託している。この商鞅の改革こそ法治主義による「変法」と呼ばれる改革であり、その後の秦の方向を決定づける大改革であった。

 この徹底した法治主義政策が歴代の秦公に受け継がれた結果、秦の国内生産性は向上し、「必勝必罰」の徹底により秦の軍事力は強化された結果、列国を圧倒することになるのである。

 そんな登り調子の秦国に、紀元前247年、若干13才で王に即位したのが「政(後の始皇帝)」だった。


(始皇帝の『大構想』と秦の名将達)

 政の即位後も暫くの間は、有能な宰相呂不韋ろふいに実権を握られていたが、呂不韋の失脚後、政は王権を確立し、李斯を宰相に任じると共に列国への攻勢を強めるのだった。その間、法家である「韓非子」と会話した影響は強烈で、韓非子に心酔した政は、これ以降、忠実な法家の徒となったのだった。

その結果、秦王政は自身の天下統一の大構想を達成すべく、秦の君臣一体となって全国統一に邁進することとなる。幸いなことに政を支える秦の官僚と諸将には優れた人材が揃っていたのだった。


この戦国後期の時代、秦には白起を初めとする名将、勇将が次々と登場して、列国との抗争に大きな功績を挙げて、秦の優位性を確立しつつあったのである。

呂不韋亡き後、宰相となった李斯も局面毎に臨機応変・的確に内政・外交を処理する能力があったし、強敵である六カ国を個々に攻略する秦の戦術レベルの指揮官にも優秀な将が多かったのである。

秦の諸将を全て挙げる訳にはいかないので、代表的な三人の将である白起、王翦おうせん蒙恬もうてんに付いて簡単に触れてみたい。

白起は昭襄王(政の曾祖父)時代の将軍だが、「長平の戦い」で趙の大兵を壊滅させたことで有名で、秦優勢の基盤を築いた名将だった。

自身の軍事指揮能力に確固たる自信を持っていた白起は、それが災いして、後に、王に疎まれて自殺させられている。強大な軍事力を掌握して戦場にある将軍は、常に背後にある君主の猜疑心に敏感である必要性が、白起将軍の最後からも推察される。

その点、次に挙げる王翦おうせんは強敵である趙、燕、楚を滅ぼしたことで名を挙げた将軍だったが、絶対権力者である秦王政からの猜疑心を逃れる心配りを忘れることはなかった。その配慮もあって、王翦は晩年を平穏に過ごしている。

始皇帝晩年の信頼の厚い名将(同将の最後に関しての詳細は後述)に蒙恬もうてんがいる。天下統一後、大敵匈奴との第一線の指揮官として重用される一方、「万里の長城」建設の総指揮を始皇帝は蒙恬に任せている。


秦王政自身の抱いた壮大な戦略構想達成のためには、自国の大兵を将軍達に託して難しい敵国の攻略に専心させる決断が必要だった。猜疑心の強い政だったが、有能な将軍達を適宜用いて一歩一歩目標に近づいていったのである。

韓と趙の滅亡に続き、魏が滅ぼされ、最後に楚と燕、斉の三カ国が攻略されて、紀元前221年、秦による中国統一が完成したのだった。


(皇帝の名称と『大構想』の実施)

 全中国の統一後、最初に秦王の臣下達が議論したのが、新しい秦王政の呼称だった。最終的には臣下からの奏上案に政自身が手を加えて、『皇帝』と号する結論に達した。

 中国史上初めての皇帝の誕生である。

 史記を読んでいても、どうやら六国を滅ぼした段階で、政は降伏した敵国王を殺してはいない様子で、最初の天下人織田信長の切迫した生き方とはどこか相違する精神的な大国としての余裕を感じる。

更に、感動するのは、六カ国の領土を自己の物とした段階で始皇帝の天下統一構想が終わらなかった点にある。

信長に続いて実質的に天下を統一した豊臣秀吉の将来ヴィジョンに欠けた晩年の生き方に反して、統一後の国家運用に対する考え方が始皇帝と李期を初めとするブレーン達は確固としたものを持っていた印象を司馬遷の記述から受ける。


六国を併呑すると全国を三十六の郡に分けて分割統治する一方、各郡には都から「守」を派遣して中央集権体制を明確に確立している。

それ以上に重要だったのは、それまで各国毎にバラバラだった「度量衡」、「文字」、「車の車輪の幅」、「貨幣」の整理と統合だった。

 それまで、七カ国は、それぞれの貨幣や度量衡、文字を用いており多様で複雑な使用状況は、列国民の苦労の種や弊害となっていた、真の意味での天下統一を果たすべく「秦」の従来の規制の延長線上で矢継ぎ早に改正させたのだった。

 これらの諸施策は、国土統合以上に重要な事業であり、真の意味での天下統一の実体化の為の最優先の国家事業だったのである。その点、豊臣秀吉の天下統一後の異様な数々の行動と比較するとその諸施策の重要性と戦略的価値が実感できよう。

もちろん、良い点だけではなかった。秦にとって有害な書物や人材も徹底的に排除する「焚書坑儒」という非常手段も併行して実施しているのだ。この非情で残虐な行為をみても、始皇帝の自己中心的で冷酷な人間性が明確に現れたと非難する後世の儒家は多い。


  中国史上初めて強大な権力の掌握と大帝国の建設に成功した始皇帝は、全土統一後、首都咸陽に阿房宮を初めとする大宮殿の建築と自身の墓となる後の「始皇帝陵」の建設開始する一方、有名な「万里の長城」構築に着手している。

 その一方で、秦帝国の方向性が定まると共に、始皇帝は頻繁に「地方巡幸」を開始、その回数は前後五回に及んでいる。

 しかし、五回目の巡航の途中で始皇帝は、現在の河北で薨じたのだった。


(始皇帝の早すぎる「大戦略」の蹉跌)

 晩年、不老を望んだ「始皇帝」の没後、皇帝の名称は始皇帝の長子扶蘇が継いで、それ以降も孫を経て始皇帝の子孫に永久に継承されることが、始皇帝の最後の願いだった。

 しかし、その願いは、側近の小間使いにすぎない「宦官」趙高によって、始皇帝の死の直後に粉砕されるのである。

 万里の長城を守備する名将蒙恬に託した長子扶蘇を後継者とする勅書は趙高によって、無視された上、逆に扶蘇には自殺を強要する文書が送られたのだった。

 この偽文書に重大な疑義を抱いた蒙恬は扶蘇に強硬な諫言と都への進軍を提言するが、父に従順な扶蘇は疑うことなく自死して、蒙恬も二世皇帝の命で服毒自殺する運命が待っていたのである。

 扶蘇の死によって、帝位に就いた末子の胡亥は若年の上、知力も劣る趙高にとって扱いやすい虚弱な君主にしか過ぎなかったのである。


 凡庸な二世と浅慮な宦官に指導された国政が崩壊するのにそれほどの時間を必要とはしなかった。始皇帝の覇権確立を補佐した重要な人物の一人である宰相の李期さえも趙高によって「族滅」の極刑に処されて歴史から除去されている。

始皇帝ほどの大皇帝でも、死後は一宦官の思いのままに長子扶蘇を殺され、信頼していた宰相さえ抹殺される政権崩壊の悲劇が待っていたのである。

 始皇帝の壮大な「戦略」は、始皇帝の死んだ瞬間、大空中分解を起こし、個人的欲望が生きる全てだった宦官の手中で崩壊の道をひた走るのだった。


(始皇帝の「後継者達」)

 しかし、始皇帝の大きな構想は始皇帝の後継者達によって、間違いなく継承されていったのである。

 その最初の歴史的継承者は、秦を滅ぼした漢の高祖劉邦だった。劉邦は皇帝の名称だけでなく、始皇帝の国家運用システムの都合の良い部分は極力踏襲して「漢」を建国したのだった。

 それ以降の諸王朝の歴代皇帝にとっても中国史上最初の『皇帝』を名乗った秦の始皇帝の存在は大きく、彼の構想した「皇帝戦略」は二千数百年後の「清朝」末期まで、歴代の崇拝者によって継承されたのだった。

 その観点から見ると、始皇帝の構想を根底から倒壊させた漢の高祖劉邦も含めて、歴代の全ての中国皇帝は始皇帝の大構想の後継者に当たるとみて間違いないように思う。

即ち、異民族の簒奪者も含めて、「中国皇帝」の座への憧憬と希求は二千年以上に渡って途絶えることがなかったといえる。


 始皇帝の無数の後継者達によって「中国皇帝」の覇権主義と絶対的中央集権体制は徐々に堅固なものと成っていった。

加えて、帝権の絶対性強化に不滅の貢献をしたのが『儒教』だった。

高校一年の頃「論語」を読んでいると、


「孔子の古代政治への素直な憧憬と弟子達への教育者としての愛情がヒシヒシと

感じられてひたすら感動した記憶がある」

 

 その後継者である「儒学者」集団が総力を挙げて絶対的皇帝権力の確立に走った結果、「中華思想」の中でも歴代の知識階級の絶対的な支持を受けて、不動の位置を確立したのが、「中華皇帝」の存在だった。


 話が飛びすぎる感があるが、東洋の「絶対君主制」とヨーロッパの「王政」の大きな違いの一つに西洋の「議会制」の存在がある。

 古代ローマ帝国初代皇帝の「オクタヴィアヌス(アウグストゥス)」にしても古からある元老院と協調しながら帝政化を進めているし、その後のヨーロッパ各国の国王にしても、国内の大貴族や有力商人等を議員とする「議会」の掣肘を受けながら、バランスのとれた国家運営の達成に努力している。

 その点、始皇帝以来、「孤高の絶対的独裁者」に位置付けられた中華皇帝は新王朝の創建時、何者にも掣肘されない存在で有り続けたのだった。しかし、儒教を基盤とする中央集権制は、建国当初から「多様な政治対応能力」に欠けているケースが多く、即決性に優れているものの、議会制民主主義に長期的展望で大きく劣る危険性を内蔵していたのである。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 少し気になる点として、始皇帝についてはプラス面を強調する一方で、信長や秀吉についてはマイナス面を強調しているような気がします。 信長は謀反を起こした弟や松永久秀を許したり意外と寛大な部…
[良い点] 河井さま いつも興味深い話題をありがとうございます。 以前は、共産党は農民反乱を持ち上げたので水滸伝のドラマに一生懸命でした。 今の中国政府は秦の始皇帝を持ち上げていますね。政府系映画や…
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