52.『戦術』優先が続いた日本の歴史
ヨーロッパ各国の歴史やイスラム史、中国史等の世界史を読んでいると、近代に近付くに従って個々の『戦術』よりも国家『戦略』が殆どの場合優先して歴史を決定しているケースが多い。
古代中世の「東アジアの歴史」では強大な中華帝国の戦略が東アジアの国際情勢の大半を決定し続けたといっても過言ではない気がしている。
しかし、そうはいっても秦や漢代の「匈奴」以降、何度も北方騎馬民族が中原に侵入、特に華北では異民族による建国が続いたのだった。
その傾向は唐の滅亡以後、更に顕著となり、せっかく久方ぶりに全国を統一した「宋」も遼と金に圧迫された上、最後はモンゴル帝国のフビライによって亡国の憂き目を見ている。
その後、復活した漢民族国家「明」も満州族の「清」によって国を奪われて、長い殖民地帝国の時代を過ごすのだった。
その点、中国に隣接する朝鮮半島とベトナム半島の地続きの列国は巨大国家中国の王朝や北方の異民族から強烈な圧力に晒されることが常態化して傾向が高かったのに対し、対馬海峡を隔てた日本は、少数回の国際的な危機を除くと独自の歴史を積み重ねる幸運に浴している。
その結果、翻って我が国の歴史を振り返ってみても、国際外交上な戦略的決断を迫られる事態は、それほど多くはなかったというより。
どちらかというと大陸諸国に比較して少なかったと言えよう。
殆どの場合、列島内部での内乱程度で収束し、王朝が覆るほどの大政変とはならなかったのである。そう考えると古代日本に於いて『戦略的思考』が大発展する下地が歴史的に育たなかった気もしている。
(『戦術』優先が続いた日本の歴史)
世界史と日本史を比較しながら読んでいると「日本の歴史」に於いて最も大きく不足しているものの一つが、上記のように日本人の『戦略』意識ではないかと常々想っている。
もちろん、日本の各時代の登場人物の中には優秀な戦術家も戦略的思考に優れた政治家も存在しなかったわけではないが、世界的戦略家と呼べるほどの卓越した人材の存在は希薄な気がしている。
平家物語に颯爽と登場する源義経のように、「少数の軍勢で平家の大軍を打ち破る」人物こそが、日本人の好む圧倒的ヒーローとして古来絶大な人気を集めて来た伝統があり、鎌倉に居座ったまま京の後白河法皇と西国の平家を両にらみしながら武家政権草創期の戦略を熟考していた兄頼朝の戦略家としての人気は極めて低調な印象を免れない。
それに、「源平合戦」に続く「太平記」の時代の合戦や延々と続いた「戦国時代」の抗争を通覧しても、日本人の戦闘行動は戦略的というよりは戦術的な戦闘が多いと感じるだろう方々は私だけではないと思っている。
それでは、日本史上、国際戦略が大きく関連した三つの大事件を個人的に次にピックアップして、その簡単な経過と結末に触れてみよう。
最初の国際危機 : 白村江の大敗と唐・新羅軍日本侵攻の危機
元寇 と 日本 : 巨大帝国「元」と鎌倉武士の激突
大航海時代の日本 : 西欧海洋帝国の日本侵略危機
(唐と新羅の「国際戦略」に恐怖した天智天皇)
大和朝廷の国内政権としての権威が確立しつつあった時代、中国大陸の歴代王朝と半島の国家群の間では国の存亡を掛けた激越な国際戦争が続いていた。
中国全土を再統一した新興の隋の煬帝や唐の太宗が朝鮮半島北部から現在の中国東北部に広大な国土を持つ有力な国家「高句麗」を征服しようと何度も大軍を派遣したのである。
当時、朝鮮半島は「古三国時代」で高句麗と百済、新羅の三カ国に分立していたが、大和朝廷は長年、百済と友好関係を保つ一方、後に唐と同盟関係になる新羅とは疎遠だった。
しかし、唐の高宗の時代、友好国百済は唐と新羅連合軍の挟撃によって滅亡、斉明天皇と皇太子の中大兄皇子は友好国百済の再興を策して、建国以来の大軍を朝鮮半島に送り連合軍との対決姿勢を明らかにしたのだった。
これは、自国の戦力を過大評価した中大兄皇子の戦略ミスであり、東アジア最大の国際紛争への積極的参戦の明確な意思表示であった。
滅亡した百済復興を旗印に大国唐と新羅の連合軍に戦いを挑んだ日本軍だったが、百済の「白村江(663年)」において、水面を血に染めた大敗を招いた結果、敗残の日本軍と旧百済の残存貴族達は僅かに残って船で筑紫へと撤収したのだった。
当に、建国以来の大敗戦であり、精強な日本軍の大多数を異国で失う危機的状態がうぬぼれの強い大和朝廷を突如襲ったのである。
次に予想される最悪の事態は、「唐・新羅連合軍の日本侵攻」だった。
その後の中大兄皇子の行動を見ると、
『連合軍の日本占領の恐怖と自身の身の安全に対する危惧が巨大な恐怖』
となって、それまで平安だった大和朝廷を襲ったことが解る。
皇子は直ちに都を瀬戸内海に近い河内や大和から遠く離れた内陸の近江に移しただけでなく、百済の亡命者達の協力を得て、「朝鮮式山城」を対馬から筑紫を中心に建設、最終的には瀬戸内海各地から大和に至る要所の防備強化に狂奔したのだった。
その恐怖の様子は、対馬の「金田城」や太宰府背後の「大野城」、岡山県の「鬼ノ城」の広大で堅固な城塞群を実際に歩いてみると実感として肌に伝わってくるものがある。
特に、それまで日本に無かった堅固な城門跡の上に立って下の裾野から攻め上る眼下の大軍を想像する時、かすかな安堵感を得た当時の人々の息吹が伝わってくるような気がしてくるのだった。
結果的には、高句麗と百済の旧領を巡って、同盟関係にあった唐と新羅の両者間でどちらが主権を維持するかで対立した結果、従来の硬い同盟関係は破綻、両国共に大和朝廷と穏やかな外交関係を維持する方向を探った結果、同様の方向を模索していた天智政権との合意を得て、平和裏に妥協が成立したのだった。
無為無策だったとはいえないが、打つ手の少なかった天智朝の外交打開策を大陸の国際関係の大きな変化が救ってくれたのだった。
天智4(665)年、早々に「第5回遣唐使」を倭国が送っている行為を見ても、同朝が唐との早急な友好関係復活を急いだ背景が理解されよう。
その反面、「朝貢品」の献上に努めながら、唐朝の望む「冊封」を拒否して、遣唐使は唐の皇帝に対し臣下の礼をとることを公には拒否し続けたのだった。この大和朝廷の頑な姿勢は、幕末に至るまで歴代日本政府の外交方針として堅持されるのである。
(大モンゴル帝国と「鎌倉武士」)
次の国際外交上の衝撃的事件は二度に渡る「元寇」だった。
当時世界最大の帝国を建設しつつあったモンゴル帝国「元」のフビライが東アジア全域の海上交通の占有を目指した一環として、日本に食指を伸ばしたのが「文永弘安の役」だった。
当時両国には外交関係は存在せず、フビライも初期段階では友好を装った使臣を日本に数度に渡って派遣している。
日和見の朝廷に対し、幕府の若き執権「北条時宗」は断固拒否の強固な意志を明確にしていたのである。その背景には、南宋からの亡命者である「無学祖元」を初めとする帰化僧達からの生のモンゴル情報が重要な判断基準となった可能性が高い。
南宋に於いて、モンゴル軍の白刃に接した高僧の助言は、若い執権時宗にとって何物にも代えがたい助言となったはずであり、自分達鎌倉武士の武力を頼りに断固、拒戦の姿勢を明確にしたのだった。
最初の元寇である「文永の役」の時点では、南宋が江南を維持していたため、元軍の主力はモンゴル、契丹、高麗の混成軍だったが、日本は太宰府の街を荒らされた上、太宰府近くまで攻め込まれる苦戦となった。
しかし、夜に入ると元軍は艦艇に引き上げた上、何故か高麗へ帰還し、途中で暴風に遭って相当数の戦船を失って作戦は失敗に終わっている。
続く、「弘安の役」では事前に備えて博多湾沿岸に建設した「石築地」の効果もあって、蒙古、旧南宋、高麗連合軍14万余の大軍を上陸させず、鎌倉武士が小規模集団での突撃と小舟による襲撃を繰り返した結果、暴風雨の甚大な被害もあって、元の大軍は壊滅に近い状態で撤退している。
この大軍を恐れない果敢な武士達の戦術的勝利の積み重ねが最終的勝利を導いたといっても良い。
後日、現地の鎌倉武士団の奮闘を軽視して、加持祈祷を行った各地の寺社が「神風」の効果を声高に唱えた結果、後世に至るまで誤った印象を伝えてしまったことは、日本史に於ける戦略的観点から見ても悲しむべき現象に思えてならない。
歴史上に起きた大事件を如何に冷静に分析して、次の時代に伝えることこそ最も肝要な戦略なのだが、往々にして大勝利の後ほど判断を誤る結論が導かれる危険性が高くなるのである。
いずれにしても、「文永弘安の役」で鎌倉幕府が、全世界が恐れた大モンゴル帝国に勝利したのだった。
同様の事態が世界各地で、無敵のモンゴル軍相手に少数ながら起きている。マムルーク朝エジプトが「アイン・ジャルートの戦い」で勝ち、ベトナム陳朝がゲリラ戦で勝利を積み重ねた上、最終的には「白藤江の戦い」で圧勝している。
その点、同族的弓騎兵集団である鎌倉武士の勇猛さが世界的大軍団に勝利した戦術的勝利は大きかった。
(「大航海時代」に於ける天下人の思考)
15世紀後半、世界の海は海洋先進国ポルトガルとスペイン(イスパニア)が覇権を争って略奪と植民地化を推し進めていた。その背景には、1494年、ローマ法王の仲介によりポルトガルとスペインの間で締結された「トルデシリャス条約」があった。
この条約によって、ヨーロッパ以外の世界中の新領土を両国が自由に分割領有する権利が勝手に決められたのだった。
その結果、当時の世界中の殖民地の8割がスペイン領となっていたし、残りの部分はポルトガルの殖民地と化していたのである。この両「海洋帝国」は戦国期の東アジアにも同様に侵攻しており、戦国時代末期には、アジアの大半がスペインとポルトガルによって浸食され、残る完全な独立国は「明」と「李氏朝鮮」、「日本」くらいだったのである。
その尖兵となったのがイエスズ会やフランシスコ会を初めとする両国のキリスト教宣教師達だった。
布教に名を借りた宣教師達は、九州の戦国大名達を中心にキリスト教信仰者を増やし、自分達両国の宣教師が自由に出来る土地を増やし始めたのである。
次に、スペイン人達が策謀したのが、日本人のキリスト教徒に加えて、自分達のアジアの根拠地ルソン島から軍隊を呼び寄せた上での日本占領であった。
もちろん、ライバルのポルトガル宣教師団も負けてはいなかった。戦国期の混乱を巧みに利用して東アジアで積極的に進めていた奴隷貿易事業に日本で掠め取った従順な日本人奴隷を大量に送り込み始めたのである。
中でも、当時世界最大の隆盛を誇るスペイン王国の力を過信した宣教師ガスパール・コエリョはキリスト教武士団の力を背景に日本国内でのキリスト教戦力の拡大と自分達の武力の誇示に走ったのだった。
しかし、この段階で出現したのが織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と続く「天下人達」だった。
柔軟に宣教師の要望を叶えつつ、東南アジア貿易の成果を吸収して、火薬の重要な原料である「硝石」や銃弾の素材である「鉛」を積極的に輸入して自己戦力の充実を図って版図を急速に拡大、最初の本格的な天下人の座を築いたのが織田信長だった。
信長の後を継いだ豊臣秀吉は、九州征伐で筑前に着陣した段階で予想以上に九州各地で宣教師達が日本の土地を占拠しているだけでなく、キリスト教の力を軽率にも誇示するスペイン宣教師ガスパール・コエリョに接した驚きは大きかった気がする。
殆どの宣教師達が自分達の日本侵略の意図を糊塗して天下人秀吉に接したのに対し、スペイン宣教師ガスパール・コエリョは大胆にも秀吉の前で、自分達の所属するスペイン王国の強大さを力説すると共に、自分達の日本に於ける武力を誇示する目的で、平戸から大砲2~3門搭載の小型ガレー船である「フエタ船」を回航して秀吉に見せる過ちを犯している。
九州に於ける天下人の存在を無視したバテレン達の想像を超えた横暴を知って激怒した秀吉は、天正15(1587)年、筑前箱崎に於いて、「バテレン追放令」を発するのだった。
天下人と自負する秀吉にとって、
『全ての日本人は自分の意志に従うべきであるのに、異教の神の元、日本の土地や人心、まして異教徒の宣教師によって、日本人が掠め取られて奴隷として売買されている行為は!』
絶対に許しがたい悪行と映ったはずである。
イエスズ会やフランシスコ会等の布教禁止を始め、諸侯による日本の土地の寄進禁止、ポルトガル人による人さらいと奴隷として海外に売り飛ばす行為の禁止を含め、キリスト教徒の団結と反乱を恐れて、彼等煽動者である宣教師の海外追放を求めたのだった。
しかし、国際貿易を禁止したわけではなく、後年の禁止令に比較すると秀吉の禁令は極めて寛容な内容だったといわれている。
天下人秀吉に続く徳川家康も慶長19(1614)年、前年出した「バテレン追放令」に従って、修道士や主なキリスト教徒をマニラに追放している。
これ以降、徳川幕府はキリスト教徒の棄教と改宗を積極的に推進し、ヨーロッパとの交易もオランダと英国に限定すると共に、実質的な鎖国政策に移行するのだった。
この歴代の天下人による「キリスト教禁止令」が実施出来た背景には、戦国日本が蓄えたヨーロッパ諸国に匹敵する火縄銃の装備率と、それに習熟した強大な戦闘集団の存在があったのである。
個人的には、この二人の天下人による日本国内のキリスト教布教の禁止は、当時の国際戦略から見ても正鵠を射た判断だったと考えたい。
なし崩しに勢力を拡大する宣教師達の横暴を容認するとき、日本人が奴隷として海外に売られるだけでなく、キリスト教の膝下に国家全体が屈する危険性が垣間見えた瞬間においての天下人の判断だった。
(近代になっても変わらなかった日本人の『戦術的思考』)
長い鎖国の間も国政を担う幕府老中は「オランダ風説書」を中心とした外交文書等から阿片戦争の清国の大敗と悲惨な結末を正確に理解していた可能性が大きい。
あの、「黒船来航」も幕府上層部は薄々知っていた可能性が高いといわれている。
もちろん、幕府が国際戦略を縦横に駆使してアメリカ艦隊と渡り合うだけの準備が出来ていたとは考えられないが、清国の先例を学ぶことによって、幕府と外国艦隊の全面対決を回避出来たのは幸運だった。
しかし、古代から続いた日本人の戦術的思考は西洋文明と出会った近代になっても大きくは変わらなかった。
明治以降、ドイツ陸軍参謀本部の系譜に属する教育を受けた帝国陸軍中枢の頭脳を担った陸軍参謀本部のエリート達だったが、国家の基本である戦略そっちのけにして、個々の「戦術論」に血眼になって狂奔したのである。
昭和になると、曰く、
『北進か? 南進か?』
同様の事態は帝国海軍でも起きていたのだった。
陸軍と対立関係にある帝国海軍の出した答えも奇妙なものだった。
その典型例が、開戦劈頭の
『真珠湾攻撃』
だった。
戦術論としては理解できない訳ではないが、戦略論としては、相手を激怒させるだけの暴論だった気がしてしょうがない。この攻撃によって、米国民全体を一致団結させ、豊富な国力を結集させてしまった失敗は極めて大きい。
ある意味では、アメリカ大統領ルーズベルトの戦略的な勝利といっても過言ではないような気がするのである。