50.宋代における「近世」から東アジア三カ国を考える
中国歴代王朝の中で最も「文化国家」としての香りが感じられるのが「北宋」であり、有名な「清明上河図」を見ると既に近代的な都市機能と生き生きとした市場経済の発達した「近世」的な様子が都開封の詳細な描写から感じられる。
その近世的ともいえる都市の様相を見ていると同じ時代の日朝両国の国内事情はどのようだった、のか興味を引いたので、少し調べてみることにした。
当時の朝鮮半島の王朝は「高麗」時代で日本は平安時代の後期に属する。高麗の都は現在の「開城」、我が国は当然京の都であった。
朝鮮半島では「新三国時代」から「高麗」時代に入ると土を深く耕す「牛耕」も普及したし、綿花も広範囲に栽培されるようになっている。加えて職人による手工業のレベルも向上し、高麗独特の青磁や紙などの優秀な産業も育ち始めていた。
国内制度的にも、朝鮮半島の「高麗」は国が近いだけに、唐以来の「科挙」や「宦官」の制度も取り入れて官制面でも中国の従順な弟子を指向する傾向が顕著だった。
一方、遣唐使廃止以後の日本では、「唐様」の模倣文化から独自の「和様文化」推進へと大きく変わっていった。中でも国家体制的には唐に学んだ律令制が崩れ、院や摂関家を中心とした高級公家を領家とする独自の「荘園制」が進行しつつあったのである。
方や都では貴族社会を頂点とした需要に応えるべく、工芸品や高級紙、漆器、蒔絵、武具等が発達して宋に輸出するまでに成長していたのだった。
その反面、宋と同時期の高麗も平安時代の日本も、経済面では両国共に「物々交換」による古代そのままの官民の生活が続いていた。
その点、漢代から納税に「半両銭」を使用し始めた中国とは大きく国家経済が異なる相当遅れた経済状態に両国はあったのである。
「宋」自体も国家事業として市場を活発化させるだけの膨大な青銅銭「宋銭」を鋳造・供給した効果は大きく、余剰の出た宋銭は国内だけでなく、東アジア各国に交易品として輸出されたのだった。
そこで、本稿では「宋銭」を軸に日朝の国内が、何時、清明上河図が描いたような「北宋」の繁栄に比肩できる「近世」的な国家と社会を建設できたのかを探ってみたいと思ったのでお付き合い頂きたい。
その前に、「宋の時代」を近世的と考察された先学である京都大学教授だった内藤湖南先生のご意見に触れてみたい。
(「内藤湖南」の存在感)
日本から見た「東洋史」を考える時、京都大学の内藤湖南博士(1866~1934年)の存在と達見を抜きにして議論することができないように個人的には前から想っているし、それほど内藤博士の中国に対する思索の影響と痕跡は現代に於ける東洋史学に対してもでも大きな余慶を残しているように感じる。
江戸時代の漢学者達と異なり、湖南は実際に学術視察で中国を訪れており、つぶさに中国の伝統文化と変革期の中国の実情を肌で感じながら、近代的な感覚で中国の長い歴史を振り返ることが出来たのだと思う。
「中国の歴史家の多くが古代を標準に置いている」との先生のご指摘は、明・清時代の学問傾向を考えると正鵠を射ているように感じるし、湖南独特の「進歩的歴史感覚」は貴重な気がしている。
その成果として、湖南の唱えた「東洋文明論」は過去の日中関係の掘り起こしと近代に於ける東アジアの文化交流の可能性を指摘していると考えられる。
書物だけで学んできた江戸期の日本人が明確に理解できないでいた「唐」と「宋」の異なる時代感覚を明確に指摘したのも湖南だった。
古代から続く唐の貴族社会と異なりに科挙による「士大夫知識階層」が大きく進出したのが宋代だった。
士大夫層と平民知識層進出の背景こそ文治国家「宋」が繁栄した大きな原動力であった。そこには、旧弊たる古代世界が消えて、「近世」に突入する時代を実感できる首都開封の存在感が、生き生きと輝いていたのである。
そう考えると「六朝~唐~五代」までを中世とし、「宋以降」を近世とみる中国に対する湖南の新鮮な時代区分が良く理解できよう。
そこで、本稿では、宋代と同時代の日朝を比較ながら、日朝両国の「近世」が何時訪れたのかを勉強してみたいと思っている。
しかし、膨大な歴史量の東アジア三カ国の時代比較なので、端的に比較しやすい「貨幣流通」の各国比較を物差しとして主に用いることにして、高麗の時代的理解からスタートしてみたい。
(宋代の「高麗」)
宋代の朝鮮半島は高麗王朝の中期に該当する。時期的には11世紀から12世紀であり、高麗の国力が最盛期を迎えた時代だった。
新羅伝統の国家思想としての仏教崇拝を堅持しながら、光宗(925~975年)の時代から中国を模倣した「科挙」を採用、政治体制の中国化が高麗の政治に浸透した時代でもあったのである。
その一方で、新羅以来の大仏教寺院の勢力が国政にまで介入する状況が起きていたのだった。歴代の国王の庇護を受けた寺院は無税を良いことに、一般の経済活動まで横やりを入れるだけで無く、有り余る財産を用いて高利貸しまで始める始末だった。
日本で「奈良仏教」が巻き起こしたような仏教寺院の横暴が高麗ではそれ以上の惨禍となって起きていたのである。日本の場合、平城京から平安京への遷都によって奈良の旧勢力との関係をある程度絶つことが出来たが、高麗のケースでは宗主国中国伝来の「朱子学」が政治体制の救済策として反仏教的な知識人の間に浸透を始めたのだった。
加えて、宋との通交により宋の先進文明を身近に享受できた反面、北方の契丹と契丹を滅ぼした金の侵攻を常に受け続ける地政学的位置に高麗はあったのである。
特に契丹の侵入軍の略奪横暴は激しく、一時は首都開城が廃墟となる事態も生じている。
更に、契丹に続く金の圧迫は強烈で、高麗は金への屈服と臣従により、その矛先を回避するしか小国として生き残る対応手段はなかったのである。
外圧だけで無く、高麗自身の内政問題も大きかった。国王と文臣の余りの横暴に爆発した武臣達が文臣虐殺によって政治権力を掌握する大政変、「武臣政権」の出現が高麗後期前半に続いたのだった。
この後、先進国「宋」の文化を享受するよりも、自国の政策が目まぐるしく変わる政治不安定の時代に高麗は突入しただけでなく、金以上に恐ろしいモンゴルによる約30年続く強烈な圧迫の時代に突入するのである。
(宋と同時代の「日本」)
日本の時代でみると、中国の北宋時代は平安時代後期にあたり、日本独自の年代分類からみると「古代末期」にあたる。
宋代が近世だとすると日本は、未だに中世にも到達しない古代世界の空間に国家全体が漂っていたことなる。
さて、翻って日本の時代区分を観てみると、
中 世 : 鎌倉~南北朝~室町時代
近 世 : 江戸時代
と大雑把にいわれているので、湖南博士のおっしゃるように「宋代」が中国の近世であるとして、仮に、宋の八代皇帝徽宗が即位した頃の1100年頃と江戸時代初期を比較すると、およそ五百年も後に日本の近世は到来したことになる。
そのくらい、当時の先進国「宋」と日本の時代的格差は大きかったといって良い。
奈良時代に強力に推進された日本の律令制はこの時代、崩壊しつつあり「荘園制度」が国家体制を蝕みつつあった。かといって、新しい時代の「封建制度」はまだ、萌芽的段階であり、旧時代の摂関制度が強力な政治力を保持していた時代だった。
遣唐使の廃止以降、久方ぶりに統一国家となった「宋」との正式な国交は途絶していたが、高麗や宋の貿易船が日宋両国の民間交易を活発なものとしていた。
そんな時代の流れを受ける形で大成功を収めたのが平清盛による宋との貿易であった。当時、日本からの主な輸出品は、砂金、銀、水銀、硫黄等の貴金属や鉱物資源を中心に、螺鈿、蒔絵、扇子、屏風、彫金等の工芸品や刀剣や鎧などの武具であった。
宋からは多くの書籍や織物、青磁、白磁等の各種の陶磁器、そして「宋銭」が大量に輸入されている。宋の陶磁器は当時世界最高の水準にあり、太宰府や都だけで無く、遠く東北の平泉藤原氏の元へも送られていた状況は平泉の発掘調査からも明かであるように、先進国「宋」の事物に対する上流公家を中心とする貴族層の渇望感は大きかった。
(中国の貨幣事情)
古い時代の「貝貨」は置くとして、戦国時代には七雄それぞれが特異な形の「銭貨」を既に中国では古代から使用していた。
秦が統一を果たすと如何にも東洋的な中央に穴の開いた「「環銭」が流通したが、これが東洋の貨幣の祖型となっている。
青銅銭の鋳造は「漢」、「唐」と受け継がれて「宋代」に至っている。唐銭の中でも「開元通宝」は相当量日本にも伝来しており、国立民族学博物館の展示例で見ると「埋蔵渡来銭順位」の第五位を占めている。
しかし、なんといっても埋蔵渡来銭順位上位十位以内の過半数を占めるのが「皇宋通宝」を初めとする「宋銭」である。
北宋時代150年間の貨幣鋳造量は三億貫、年平均200万貫(一貫一千文)の膨大な量を北宋は鋳造・供給し続けたのだった。
その他に宋代になると「秤量貨幣」としての「銀」の流通が銭貨と共に活発になり、商品経済の発展に大きく貢献している。その背景には、銭貨の海外流出による流通量の逼迫があった可能性もあった。
宋に続く「元」の時代になると、更に近代的な「交鈔」と呼ばれる紙幣が中国では登場することになる。国際的な物流の活性化と共に、重すぎる「銭貨」や「銀鋌」よりも携帯に便利な「交鈔」が活躍する時代が来たのだった。
(日本の中世経済は「宋銭」で動いていた)
長い間日本では「物々交換」の時代が久しかったが、平安時代後期から流入した「宋銭」によって日本の物流と経済活動は一変している。
鎌倉時代から南北朝、室町、戦国と続く日本の中世経済は「宋銭」によって維持されていたと表現しても過言ではない気がしている。
中世の遺跡から続々と発掘される膨大な銅銭の殆どが皇宗通宝や熙寧元宝、元豊通宝等の「宋銭」なのである。その背景には物々交換による古代来の経済活動から近世的な流通経済に移行する貨幣経済が中国からの輸入銭(宋銭)によって維持されていた背景がある。
宋銭に日本人が飛びついた背景には、「皇朝十二銭」以降、国内で需要をまかなうだけの十分な銅銭が鋳造されていなかった点と長距離を輸送しても腐たり変質しない宋銭の性質にあった。
当時、日本は「荘園制」の最盛期を迎えており、遠距離からの穀物や布を含む特産物の輸送は、荘園の住民にしても領主にしても、大きな負担となっていたのである。
宋銭の普及は、両者の大きな負担を軽減する魔法の妙薬だったのである。平安時代末期から始まった宋銭による「貨幣流通経済」の普及は、鎌倉時代になると全国規模で浸透している。特に、南北朝期から室町期を迎えると大量の貨幣を所有する「有徳人」の出現が日本経済の変化を示すようになって、市場化も促進されていったのだった。
朝鮮半島に比べて、他国の貨幣の利用ながら日本での「貨幣流通経済」は鎌倉時代には既に成立したと考えて良いだろう。しかし、横着な上にしっかりした中央政府を持たなかった日本人は、数百年に渡って「宋銭」の代替えによる流通に満足して、独自の貨幣の鋳造に着手することはなかったのだった。
日本政府独自の本格的な貨幣の鋳造は徳川幕府による寛永13(1636)年の「寛永通宝」の鋳造を待たなければならなかったのである。
(朝鮮政府による「貨幣鋳造」努力)
日本同様に物々交換が主流だった朝鮮半島でも、高麗朝や李朝なりの貨幣鋳造への努力はしていた。
高麗では自国の貨幣の鋳造はなかったものの、唐の「開元通宝」等の鋳写を998年に行っているし、李氏朝鮮では、第三代国王世宗5(1423)年の「朝鮮通宝」の発行等、銅銭の自国での発行が試みられたが、国内需要を満足できる数量の鋳造が実施されることはなかった。その原因は素材となる銅や錫の国内生産量が少なかった点と「物々交換」に満足した支配層である両班や庶民の存在があったのである。
世宗の時代に朝鮮通信使として来日して、名著「海東諸国記」を書いた申叔舟が書中に日本に於ける「貨幣流通」の盛況な様とその利便性を述べている。帰国後、彼は世宗に李朝での貨幣流通経済の効能を進言しているが、李朝で採用されることはなかった。
「朝鮮通宝」の発行の後も、1401年には「楮貨」と呼ばれる紙幣が少量ではあるが発行されているが、この紙幣も李朝中期には消滅したと思われる。
李朝での安定した貨幣の発行が軌道に乗るのは、日本の寛永通宝の鋳造と時期の近い仁祖の時代の1633年の「常平通宝」の発行を待たなければならなかった。
18世紀中期~後期になると必要に十分な銅銭の供給の背景もあって、漸く李朝でも「貨幣経済」の発達が見られるようになり、市場経済も明るい兆しが見え始めるのだった。
以上、一通り日中両国の「貨幣」発行の経過に付いて触れたので、少し余分ではあるが両国の書籍の出版状況に付いて触れてみたい。
(東アジア三カ国の「書籍」の浸透と印刷技術)
宋代に科挙制度が普及・充実した背景には、四書五経を初めとする儒教関係の書籍の全国的な版行と内容の整備があった。
以前、上海の「文廟」に訪れた際に展示してあった宋代の儒教関係の書物は、後代の明代と比較しても丁重に扱われていた印象が強かった。同行した中国人にお聞きしても元に侵攻される前の宋代の書籍は貴重な感覚もあって、現代中国人も大切にしているとのことだった。
今拝見しても、宋代の書籍は、明代に比較して一回り小型の印象があったものの、日本の江戸時代の版木本を見るように文字も鮮明であり、凜とした風格を感じたのだった。
多くの人が資力さえあれば、自由に多くの本を読める環境が始めて整ったのが「宋代」ではないかと文廟を歩きながら感じた次第です。
そうした宋の高度な印刷技術と先進性を取り入れたのが隣接する高麗だった。その結果、版木による印刷はもちろんのこと金属活字による世界最初の印刷に挑戦したのも高麗だといわれている。
例えば、「ルネッサンスの3大発明」と呼ばれる「活版印刷」、一般にはグーテンベルクの金属活字による聖書の印刷が世界最初といわれているが、その実態は、中国の発明に遅れること数百年の後追い開発だったのである。
まず、「印刷技術」を例に挙げると中国では一枚の版木に一枚分を彫る製版印刷が古くから行われており、特に宋代には膨大な科挙受験者に十分行き渡るだけの印刷と供給が可能だったのである。
更に、宋朝では「木彫活字」による印刷が始まっていたのである。加えて、金属活字による印刷も13世紀の高麗王朝に於いて既に発明されたと伝えられている。
但し、残念なことに、記録には残っているものの金属活字の現存品が未だに発見されていないため、高麗朝を継承した李氏朝鮮王朝時代の金属活字印刷本が世界最古の印刷本ということになる。それでも、グーテンベルクの有名な聖書よりも約80年古い時代の印刷本となっているので、世界的に求められる日も近いと考えたい。
その点、誠に残念ながら我が国の平安時代は「筆写本」の時代だった。源氏物語にしても枕草子にしても先人達がこつこつ筆写した遺物によって、細々と伝達されてきたのが日本の書物であった。
一枚の版木に文章を彫刻する製版印刷の書物が一般庶民にまで普及したのは、日本の場合、遙か後代の江戸期になってからだった。
そういう意味では、大量の書籍を必要とする科挙がなかった上に、武家政権が長く続いた日本では宋代に書籍が普及した中国はもちろんのこと、高麗や李氏朝鮮にも遠く及ばない後進国だったのである。
しかし、「文禄慶長役」において、朝鮮から先進的な金属活字を初めとする大量の文化財の略奪によって、日本の出版関係は大きな刺激を受けたのだった。
加えて、長い江戸時代の鎖国は、日本の知識階級向けの書籍だけでなく、庶民向けの読み本「黄表紙」や「浮世絵」を発達させ、識字層拡大に大きく寄与している。
江戸時代末期には、江戸を含む都市部庶民の識字率はヨーロッパの先進国の都市部の庶民の識字率よりも高いレベルに到達していたと推定されるのである。
その点、漢文が読める科挙受験者層を中心とした明や清、高麗や李朝の両班層とは根本的に異なる日本人の広い読者層の形成により東アジアで最初に近代国家を建設する日本の基盤が整備されたと断定しても良いのではないだろうか!
後年の話だが、初頭教育の実施にしても日本は東アジアで最初に普及させたのだった。
大分メインテーマから横道にずれてしまったが、清明上河図に漸く匹敵しそうな日本の絵画が登場したのが、桃山時代に織田信長から上杉謙信に贈られた国宝の上杉本「洛中洛外図屏風」の登場を待たなければならなかったように、日本の近世は「桃山期~江戸期」の到来を待たなければならなかった。
桃山から江戸時代初期に掛けて漸く日本の市場経済も活発化し、寛永年間の「寛永通宝」の鋳造によって、自国発行の貨幣による流通経済活動が出来るようになったのである。
もし、そうだとすれば東洋の先進国中国の「宋代」の近世的経済活動に近づくまでに両国共に少なくとも約500年近い歳月を必要としたことになる。
しかし、強がりをいうと日本国の古代から近世に至る約500年の歳月は無駄でなかった気がしている。この点については、後日考察してみたいと思う。
一方、「宋銭」の国内経済に於ける円滑な長期間の流通を考えると「ある物は有効に使用する」日本人の特性と時の中央政府の無能さを指摘しない日本人の横着さを感じない訳にはいかない。
また、高麗王朝や李朝での世界最初の金属活字による印刷技術開発の経過を読んでいると、その先見性に敬意を表したい。
(参考文献)
1)『近代日本の中国観』 岡本隆司 講談社選書 2018年
2)『中国史 上』 尾形 勇・岸本美緒編 山川出版 2019年




