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49.北宋「文治(ぶんち)主義」の東アジアに於ける影響

 東アジアでの「文治主義」と聞くと最初に思い浮かぶのが、なんといっても「北宋」の文治主義である。貴族主体の五代十国時代の混乱を収めて、中国を統一した宋は初代太祖(趙匡胤)、二代太宗の時代に「文治主義的政治体制」を急速に整備している。

宋の「文治主義」は唐代に節度使への権限移譲によって失ってしまった皇帝の独裁権と中央政府の権力の再構築を目的としていた。国家試験である科挙によって登用した多数の官僚(文官)の全ては皇帝直属の臣下であり、皇帝の意思を末端まで伝達できる新しい国家運用システムだった。

貴族を排除し、科挙合格者である「士大夫層」の強力な支持の元、皇帝独裁政治の理想的な姿を急速に整備していった宋だったが、武官の存在感が低下した結果、契丹や女真、モンゴルなどの騎馬民族の中国侵入を容易にした背景ともなっている。


しかし、従来に無い士大夫層主導の国家運営は近代的と呼ぶに相応しい時代感覚を感じさせる。この分野の先学である京都大学の内藤湖南博士がご指摘のように、中国の宋代は近世史に含まれる印象が強い。政治機構から観察してもそうだし、国民の文化レベルの向上からも、そのように感じる。

宋と聞くと朝鮮半島は高麗の時代であり、日本は平安時代後期にあたる。隣国の高麗王朝の場合、古代から中世に以移行中の印象が強いし、我が国の状況はというと遣唐使の廃止以降、漸く、日本独自の「和風文化」が芽生え始めた古代末期で律令制のほころびを令外官(律令制規定以外の臨時の官職)である関白や内大臣や参議等の官職が幅を効かせ始めた時代だった。

このように、当時の中国と朝鮮、日本では時代的な格差が大きく、日本では宋の文治主義を学習する基盤が国内的に不十分だったのである。

それでは、東アジア各国に於ける「文治主義」の歴史的な軌跡と影響について辿ってみたい。


(北宋の「文治主義」)

 中国美術史上屈指の名画である張択端ちょうたくたんの「清明上河図」を挙げるまでもなく、北宋の首都開封の殷賑と繁栄を想像するだけで平安期の日本や高麗に比較して、一時代文明が進んでいる鮮烈な印象を受ける。

 北宋では前述のように 「文治主義国家」建設の重要な手法として唐以来の官吏登用国家試験である「科挙」制度の全国的な体制強化を図り、最終試験として皇帝直接の試験である「殿試」を採用している。

 その結果、最上位の合格者である「状元」を始めとする最優秀な科挙合格者全員が皇帝の直接

採用という宋独自の官員採用システムにより、皇帝の文治独裁化は全国の知識階級(士大夫層)の賛意も得て国家機構に円滑に組み入れられたのだった。


反面、軍の指揮権を皇帝直属の枢密院に与えた結果、武官の発言力は急速に失われていっただけでなく、軍事力全体も時代と共に削減されたため、外敵に対する国家防衛力が急速に失われる文治国家独特の危うさも秘めていたのである。

第一に漢や唐と大きく異なって建国時の国域が最も小さな国家だった。五代の後晋が契丹族の遼に割譲した、今の北京を中心とした北部中国の「燕雲十六州」が異民族支配のままだっただけでなく、常に優秀な異民族の軍団が首都開封を長躯攻撃出来る位置に常駐している要注意の国家情勢での建国だった。

そんな波乱含みの北方情勢にも関わらず軍事力の強化よりも「文治主義国家」の整備を優先した宋だったが、燕雲十六州を足がかりとした北方民族の圧力は大きく、宋朝が選択したのが、毎年北方の異民族に対して財貨を贈ることによって購われる平和だった。

やがて女真族の金朝が遼に替わるが、夷狄を軽蔑する宋朝の度重なる外交上の不履行に怒った金軍の攻撃により1127年、都開封は陥落、太上皇熙宗、皇帝欽宗を初めとする皇族重臣多数が北方に拉致され、その殆どは再び帰国することはなかったのである。

欽宗の弟によって再建された「南宋」も約150余年続いたが、1276年モンゴル軍によって臨安を占領されて事実上滅亡している。

このように、科挙出身者による「文治主義政治」は自国内だけで考えると朱子学的に理想的な政治形態であったかも知れないが、飢えた狼のような北方騎馬民族に常に狙われている中華の地政学から考えると極めて不安定で安心できる政治システムではなかったのである。


しかし、宋代に確立した「文治主義」による中華帝国の運営方法は異民族を含む簒奪者にとって魅力的な政権運営の手段だったのである。

一度この中国という広範な地域を暴力的に占領してしまえば、異民族であろうと新興の暴力集団的勢力であろうと、その後の国家運営システムは占領された中国人知識層が自ら提供してくれる極めて都合の良い条件が準備されたのが宋朝以降だったのである。

第一に古代以来の「易姓革命」の思想が厳然と存在していたし、「科挙」を実施さえすれば異民族の皇帝に全面的に服従する知識階級が形成されていたのである。

モンゴル族の「元」にしても、農民反乱軍から成り上がった「明」にしても、満州族の「清」にしても、「文治主義」による政治手法は極めて巧妙な、政権交替や異民族支配のカモフラージュを提供してくれたのだった。


(異民族に徹底的に利用された中国の「文治主義」)

 上記のように古代中国で確立した「易姓革命」と共に、宋代に始まった「文治主義」は国家乗っ取りを企てた簒奪者と中国併合を図る異民族にとって魅力的な国政運用方法であり国家運用システムであった。

 その最も顕著な実例が少数民族国家の満州族が巨大な中国を植民地化した際の「文治主義」の大活用であった。

 明朝末期、崇禎帝の失政もあって李自成の率いる反乱軍によって北京は陥落、国境の防備に当たっていた明軍の将呉三桂は要衝山海関をそれまでの敵であった後金(後の清)の摂政ドルゴンに明け渡して、共に北京に進軍、李自成軍を撃破して北京入城を果たしている。

 1636年、第二代皇帝ホンタイジは満州族・漢族・モンゴル族三族の推戴を受けて清国の皇帝に即位したのだった。

少数民族の満州族は中国の統治に当たって中国の「文治主義」と自分達の武力を上手に活用、柔軟に中国統治を開始している。

本来、武力による異民族による併合ではあったが、優秀な清朝初期の歴代皇帝はできる限り武力の影を中国庶民に見せることなく科挙を初めとする中国伝来の「文治主義」を活用して、植民地化帝国化に成功している。

 内政的にも明に倣った六部制を採用する一方、漢人官僚を登用する一方、最大人口を占める農民に対しては減税や耕牛・農具の支給を推進するなど生産性の向上を図っている。

 しかし、その反面で漢民族の厭がる「弁髪」を全国民に強要すると共に漢族はモンゴル治世下と同様に最下層の人民として位置付けている。

 民族間戦争に於ける大規模な虐殺行為を最終的な手段としなかった点を見ても満州族の中国征服は幸せだったのかも知れない。中国歴代王朝の利用した「文治主義」による施政方針を一部踏襲することによって、滑らかに異民族支配が達成された世界史上でも希有の事例が「清」の建国だった。

清の英明な三代の皇帝の施政下で中国の総人口は急速に増大して、康煕帝24年には1億1千万人を超え、乾隆帝の晩年には世界最大の人口を持つ3億人の巨大国家となっている結果から観ても、中国庶民にとって異民族支配は不幸ばかりではなかったことが理解できる。

漢族政権だった唐、宋、明に於ける最大の人口が一説によると明の1億1千万人程度と考えられている点からも、強権を持つ異民族の植民地支配が、多民族国家中国にとって不幸ばかりではなかったし、その施政に古くからの中華帝国の「文治主義政策」が組み入れられていた点も若干幸いしたのかも知れない。


(朝鮮王朝に於ける「文治主義」)

 古代の朝鮮半島の人々の事績を辿っていると、そのおおらかさと尚武の心が充実している行動感覚を強く感じて、大和の人々と古朝鮮人の精神構造は殆ど同一の基盤から成り立っているようにさえ思うことがある。

 その一方で、高麗王朝の建国以降、現代に至るまで「崇文」が強調される反面、「武への蔑視」が極端に強調される「文治主義」社会が伝統的に建設されてきた長い歴史を持っている朝鮮半島の人々の精神的変化に驚くことが多い。

その点、平安時代後期の武家政権の成立以降、長期に渡る「武家政治」に慣れた日本人とは大きく相違する精神文化を形成してきた隣国なのだった。

 統一新羅時代から中国の忠実な生徒であった歴代の朝鮮王朝は高麗王朝前期から文治主義の象徴である科挙を採用しただけでなく、国立大学にあたる「国子監」を設立して科挙受験者のレベル向上を図っている。

文官第一とする文官の重用に武臣の不満が鬱積して大爆発を起こしたのが、1170年に起きた鄭仲夫らによる「武臣の乱」であった。年代的には日本での武士階級の勃興に重なる時期に起きた隣国の「武臣政権」の設立だったが、高麗の武臣政権の寿命は短く、高麗の明宗元(1170)年~元宗11(1270)年の約100年に過ぎなかった。

その後、モンゴル帝国による強烈な圧迫の時代を経て再び文官優先の時代となり高麗は滅亡、李氏朝鮮王朝の建国に至った結果、朝鮮半島では二度と武臣政権が復活することはなかったのである。

逆に、朝鮮半島に於ける本格的な「文治主義国家」の建設は李朝の建国者李成桂に始まるといって良い。時代的には中国は明朝初代皇帝洪武帝の時代であり、日本では室町幕府二代将軍足利義満から三代足利義持の時代だった。

従来の国家思想である「仏教」から「儒教」への大転換を図って「崇儒」を国家方針としただけでなく、李成桂は首都を現在の京城に移転し、同地に於ける国家の最高教育機関として高麗の「成均館」を継承した国立大学を設置して朱子学教育の徹底を図っている。

成均館には後に孔子を奉る「文廟」を建設、後に全国に建設された「郷校」も倣うことになった結果、今日でも郷校に行くと文廟での拝礼が慣習として韓国では強く残っていると聞く。

成均館を初めとする李朝の学校教育と「科挙制度」及び「両班制度」は相互にリンクして李氏朝鮮王朝の文治主義を維持する強力な国家制度として支配者階級の思考方向を規定している。

けれどもどのような崇高な哲学であっても万能な思想が存在しないのも現実で、「崇儒」と「朱子学尊崇」を国是とした李氏朝鮮王朝には近代化によって忍び寄る国際化の大波を受容し理解できる寛容性が欠如していたのである。


(現実無視の李朝「文治政治」の欠陥)

 李朝の両班制度で忘れてならないのが建国当初から王朝全期に渡って執拗に繰り返された左右両派の派閥抗争がある。両派共に朱子学を信奉する李朝の派閥抗争は、次第に現実から離れた細かなアラを探す現実無視の非難合戦へと次第に陥っていったのだった。

 その第一の良い例が豊臣秀吉の朝鮮出兵直前に来日した朝鮮通信使の派閥の異なる正使と副使の意見の相違であった。西人派の黄正使が「必ず兵禍あらん」と日本軍の来襲の可能性を指摘したのに対し、東人派の金副使は正使の言葉を強く否定する報告を行っている。

 当時、政権の主導権は東人派が掌握していた為、正しい意見を述べた正使の報告は否定され、日本軍に対する防衛策は殆ど採られないまま、日本軍の侵攻を迎える悲劇的瞬間となっている。国王である宣祖は明国との国境近くまで逃亡、朝鮮全土が長期の戦乱に疲弊する最悪の事態となったのである。


 第二の実例は、明と清の政権交代期に起きている。当時、政権を握っていた国王の光海君は勃興する後金と衰退する明朝の双方への中立外交によって半島の平和を維持していたが、「仁祖反正」によって光海君を追放した仁祖は、親明政策に転換、強大な武力を持つ後金(後の清朝)を正面から敵に回してしまったのだった。

 後金軍は直ちに侵攻を開始(丁卯胡乱)、屈服した仁祖は一時的な和約で糊塗するが、後金の圧迫は止まず、再度の侵略(丙子胡乱)が開始されたのだった。

仁祖以下の「清」の武力を無視した正義感は結果として、清の二代皇帝太宗の激怒を招き、壇上の太宗の前に土下座(三跪九叩頭の礼)を強要される醜態を招くことになるのである。蛮族である満州族の前で屈服する小中華の国王の姿ほど、朱子学を信奉する朝鮮知識人にとって屈辱的姿はなかったのだった。

その後、李朝は表面的に清の進貢国と成り下がったが、宮廷内部では清討伐のための「北伐」作戦の立案を停止することはなかったのである。しかし、実際には対ロシア戦に協力すべく清朝に動員されたのだった。


 小国であるヨーロッパのベネチアやオランダが国際競争で大国に競合できた最大の理由が外交情報収集力に優れた成果であったことは良く知られている。

しかし、小中華を自認する李氏朝鮮はひたすら朱子学の正義論にすがり、衰退する明国支持に固執した為、強大な武力を持つ満州族の国家「清」に屈服する惨状を招いてしまったのだった。

 その姿は、後年、大英帝国の海軍力を初めとする強大な武力を無視して「阿片戦争」に惨敗して国家利権を次々と失っていった清国の姿に重なるものがある

 同じ儒教でも、「知行合一」を説いた陽明学が中国や日本では盛行したが、李氏朝鮮では異端視され「党派党争」を激化させただけであった。

 それだけでなく、李氏朝鮮時代の派閥党争はその後も続き、国家が消失するまで止むことはなかったのである。この悪弊の後世への影響は大きく、隣国の大統領は退任すると共に在任中の諸悪を徹底的に追求されるのが慣例のようになっている。


(日本に於ける「文治主義」)

 隣国で早い段階で失敗した武臣政権と異なり、日本の武家政権は、鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府と継承されて近世末期まで維持されている。鎌倉幕府の成立が1185年と仮定すると明治維新が1868年なので、およそ日本の武家政権は680余年の長期に渡って日本の国政を「武断政治」で運営したことになる。

 この中朝二国との相違が、近代に於ける日本の方向を定める決定打になるのだから、歴史の微妙なさじ加減の機微といって良い。

それでは、日本の文治主義による国家運用が無かったかというとそうでもないのである。

日本の「文治主義」的施政は江戸時代前期後半の第四代将軍徳川家綱の時代から始まっていると考えても、それほど大きな間違いにはならない気がする。

特にその傾向は儒学を好んだ第五代徳川綱吉以降顕著になっている。因に北宋の建国が960年なので、仮に日本の本格的な文治主義国家建設が家綱の治世から始まったとすれば、家綱の将軍就任が慶安4(1651)年なので、宋の文治政策に遅れること690余年になる。この数字を批判的に解釈すれば、日本の近世は江戸時代に入ってと考えるのが自然であり、宋に遅れること700年近い時間差があったと考えるべきであろう。


 日本人は、科挙制度にしても宦官にしても戦国期のキリスト教導入にしても、よく考えてから自国のものとして採用する傾向が強いように感じる。中でも、国家中枢を掌握している指導者層にその傾向が強い。

 源頼朝による武家政権成立から長い「武断政治」の期間を経て、上記のように江戸期になって幕府中枢部が文治制度採用に踏み切った背景には、幕府内での「朱子学」の浸透と家綱将軍を補佐した叔父の保科正之の存在が大きかった。

加えて幼い将軍を補佐すると老中を初めとする合議制の成熟も大きかったのである。更に、将軍職を継承した綱吉の儒学好きが日本の「文治主義」浸透に大きく影響している。


その後、徳川幕府の施政方針もあって、「朱子学」は全国の諸藩に徹底され、各藩校教育の軸となっていっただけでなく「文治主義」は武家政権とは思われぬほど徳川体制や諸藩を支える重要な柱となっていくのだった。

武家の役職である戦闘対応の役職である「番方」よりも、行政職である「役方」への就任が時代の進行と共に善望されるだけでなく、経済官僚や能吏が幕府でも諸藩でも重用される時代を迎えるのである。

一旦、方向性が出た時の日本人の特性として、独自の効率的システム化が進行する傾向があるが、その傾向は江戸時代中期から後期に掛けての武家政権でも変わらなかったのである。

いつの間にか武断政権であるはずの徳川幕府も諸藩も実質的な「文治制度」へと変身を遂げていたのである。

加えて、儒教の影響を強く受けた文治主義にしても大陸に身近な李朝と異なり、朱子学以外の思考手段である「知行合一」を説いた陽明学の浸透も大きかったし、徳川吉宗による洋書の一部解禁の作用も時代と共に大きく作用している。

中朝両国とは異なる「蘭学」への小さな窓が開放されていた影響は大きく、医学を中心に洋学信奉の気風が知識人の中に浸透していくのだった。

特に、「阿片戦争」に於ける清国敗北の衝撃は大きく、西欧の軍事力や先端技術に対する先端知識人の渇望感は異常なまでに幕末に向かうに従って大きくなっていったのである。


 以上のように日中朝東アジア三カ国の「文治主義」一つを捉えてみても「宋朝」においては日本がまだ古代に属している平安時代に近世に突入して先進的な文臣活用を強力に進めているし、高麗も科挙を早い時期に実施して、文臣優位の国政を推進し、後継者である李氏朝鮮王朝は更に「文治主義」徹底の国策を身分制度の固定化と共にあらゆる方面で強力に実施している。

 その結果、「崇文」の気風は現代に至る韓国人の固定的国民感情となったといっても言い過ぎではないように感じる。

 所が、「武士道」を信奉する日本人にとっては倫理学の重要な参考書である「儒学」よりも、西欧諸国の「砲艦外交」に対する恐怖心の方が、より大きな関心事だったのである。


ヨーロッパの「騎士道」に似た要素を持つ日本の「武士道」にとって、戦争に於ける敗北は現在持っている物の全てを失いかねない恐怖感に直結する感情論に近い国民意識だったのではないかと感じる。

そのように理解しないと幕末から明治維新に掛けての狂気に近い日本人の爆発的な行動力を理解することは出来ないと思うのである。

 実戦場での冷静で正確な判断こそ、騎士道と武士道に共通する勝利に直結するリアリズムであり、「武断主義」を根底とする西洋思想の現実だったが、日中朝三カ国の中で、この西欧資本主義に早期かつ、明確に気付くことが出来たのは近世の日本だけであったのかも知れない。


(参考文献)

1)『物語韓国人』  田中 明   文春新書  平成13年


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― 新着の感想 ―
[良い点] 河井さま いつも歴史への深い考察大変参考になります。 「文治主義」の活用でスムーズに広大な領地を支える国家機構を確立した清、ある意味 中国歴代王朝で一番合理性に基づいていたのでしょうね。 …
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