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48.日本史に於ける『天皇家』の存在感

 古代日本では全国各地にある「名山」や「磐座いわくら」、「名水」が神だったし、そのような縄文時代や弥生時代の伝統文化が近代化の進んだ現代でも明瞭に残っている不思議な国が日本である。

 その古代からの神の系譜を継承すると伝えられている「日本の皇室」の姿は、世界的に観ても希有の存在で有り多くの国民から尊崇を受けて今日に至っている。ここまで、中国歴代皇帝の姿や隣国朝鮮半島の王朝の国王の歴史に軽く触れてきたが、この両者とは大きく異なる日本の『天皇家』の姿に関して、本稿では改めて学んでみたいと考えている。

 それでは、取り敢えず皆さんご存じの内容を古代から順に述べさせて頂くのでご容赦頂きたい。


(『天皇家』成立の時代)

 古代史もその他の時代と同様に詳しくないので、古代に於ける『天皇家』の成立過程も良く理解できていないが、きっと大和地域に於ける最有力豪族として早い時期に頭角を現した「祭祀」も兼ねた有力者だったのだろうと漠然と想像している。

 卑弥呼のように祭祀の比重が比較的高かったのか、それとも権力も相応に身に付けた豪族だったのか個人的には理解出来ていないが、歴代天皇の一年の始まりが元旦早朝の「四方拝」という神事からスタートするところを側聞しても天皇家の諸外国王家との大きな違いと有り難さを感じる。

 一方、古代の神話を最も良く伝えている「記紀」を読むと「皇室の正当性」を繰り返し記述しているように感じるし、中でも他の神々と異なる「天照大神」の一段高い存在を強調している印象が強い。


 但し、一神教の国々とは異なり、天皇家の信ずる神々である「天津神」を最高神に位置付ける一方、国内の有力豪族達の崇拝する出雲大神や諏訪信仰等の「国津神」達の有り難さも決して否定していないのである。

 どうやら、征服した豪速達の祖先神も否定することなく「地祇系の神々」として受容・吸収する柔軟性を天皇家の先祖達は示しつつ、国域の拡大を図っていったと考えられる。

中でも大勢力だった出雲の大神には大和に勝る巨大な神殿を認めることによって協調を図ると共に天津神の優位を認めさせることに成功したのだと考えられる。


 やがて、時代の進化と共に天孫系の正当な後継者としての『天皇家』が成立したのだったが、絶対的な武力を背景とした中国王朝の成立過程と異なり、天皇家を取り巻く大伴氏や物部氏や蘇我氏等の有力諸氏が政権の主導権を巡って争う時代へと入っていくのだった。

当時の天皇として記憶に残るのが我が国最初の女帝で蘇我氏と聖徳太子を補佐役として「十七条の憲法」を制定した第33代推古天皇のバランス感覚が印象に残る。

 群臣間の政争で最終的に国家運営の実権を手に入れたのは蘇我氏だった。皇族である中大兄皇子を中心とした革新勢力によって族滅されている。

その後、第38代天智、第40代天武、第41代持統の歴代天皇によって超大国唐に習った「律令制導入」に成功するのだった。

 律令制と共に奈良時代に国家をリードした思想が「仏教」だった。聖武天皇の建立した東大寺大仏殿の存在がその時代を良く表しているように感じるし、今に残る唐伝来の美術品と倭国製の文化財が豊富に残る「正倉院」の存在は次に到来する「神仏混淆」の和風文化の準備が整いつつある時代の様相を彷彿とさせる。

 

(古代日本の権力構造の変遷)

 第50代桓武天皇による平安京遷都により日本の首都はやっと定着したといっても良い。政権の安定は天皇側近の権力を増大させて、「摂関政治」への道を藤原氏に開かせてしまった恨みは残るが、明治に至るまで藤原氏主導の朝廷政治路線を方向付けた摂関政治システムの日本史上での存在は大きい。

 しかし、摂政や関白による政治主導に反発する天皇家は白河上皇(第72代天皇)によって新しい「院政」と呼ばれる引退した天皇主導の新システムを生み出して対抗するのだった。

けれども、それ以上に強力な政治システムとして登場したのが、鎌倉の「武家政権」だった。特に、源頼朝の後に幕府を掌握した北条義時は北条政子の強力な支援もあって、後鳥羽上皇(第82代)と直接武力で対峙する手段を選んでいる。

「承久の乱」である。

歴史上、後にも先にも朝廷を武力で圧倒した武家政権は北条義時だけであり、後世、天皇家を圧迫した織田信長にしても「本能寺の変」によって歴史から強制的に消失させられている。


それ以上に、鎌倉時代後期になると皇室内部の後継者抗争が激しくなり、幕府の朝廷により「両統迭立りょうとうてつりつ」の時代に登場したのが「第96代後醍醐天皇」だった。

英邁な後醍醐天皇は新来の朱子学に深く傾倒すると共に、両統迭立では無く、自身の子孫に皇位を継承させるべく朱子学を背景に政変を図っている。

確かに天皇の起こした「建武の中興」は後北条氏打倒に関しては大成功を収めたが、武士を含めた多くの人々の民意を掌握する力はなかったのである。

有能な思想家が理想的な政治家になれるかと考える時、必ずしもそうならないのが歴史の現実であり、後醍醐天皇の理想主義と足利尊氏の現実妥協型武家政治が激突した南北朝時代は、多数の武士階級の支持を得た足利将軍家の勝利となったのである。


(皇室の衰微と「みかどの覚悟」)

  南北朝合意により、一見平和を取り戻した応永時代以降、皇室の力は更に衰えて、室町幕府に頼り切りとなっていくのだった。

しかし、足利将軍家自身も応仁の乱以降、戦国期に入ると自己権威の失墜に苦しみ、守護大名クラスを中心とした有力大名層へ御教書を乱発するなど権威を失墜させる行為が多くなっている。場当たりの政治姿勢は多くの武士層や一般庶民への配慮が欠如しているケースが多くなり、幕府の存在意義が急速に失われる結果となっていったのである。

その影響は特に朝廷の財政面に大きく陰を落としている。第104代後柏原天皇は践祚してから即位の礼を挙げるまで実に26年の年月を財政難によって虚しく待つしか無い事態となるのだった。

同帝は財政的に朝廷として最悪の時期に在位した天皇だった。

財政的余力を失った幕府や管領は重要な同帝の即位の礼についても、出せないものは出せないと開き直ったのである。

最終的には朝廷経費の節約と本願寺からの献金により即位式を挙行できた後柏原天皇だったが、その苦しい治世の中で、財政難で廃絶した儀式の復興に努力する一方、戦乱に苦しむ庶民に心を寄せている姿に感動する。

困窮する朝廷の最高責任者である天皇家として同帝は、帝の務めとして平安時代の朝廷の姿に戻すことが理想であり、この国の帝王として庶民の困窮に思いを馳せる配慮が重要である点を理解されていたのである。

 室町時代においての皇室の衰微は喜ばしい事態ではなかったが、天皇家が国家に於ける最高責任者が備えるべき姿を正確に理解されていた点は、御所の築地も崩れ、日々の供御にも苦しむ窮乏の中だけに有り難く感じられる。


(「織豊期」から「江戸期」への転換期)

織豊期の天皇である第106代正親町天皇も践祚後直ぐに即位式を挙行することが出来ず、毛利元就からの献納によりやっと即位の礼を挙行しているし、その後の朝廷の維持も本願寺顕如からの少なからぬ献金によって漸く維持する窮状だった。

それでも、最悪だった朝廷の財政状態は、織田信長の上洛と後継者豊臣秀吉の朝廷崇拝を背景とした諸大名政策の実施により徐々に改善の方向に向かうことになったのである。

当時の武家の最大実力者である豊臣秀吉にとっても天皇家の権威を背景にした天下統一と関白としての天皇家への尊崇と奉仕は好ましい結果を導き出す最良の政治姿勢だったのである。

その様子はイエスズ会宣教師によって本国に伝えられており、『庶民は天皇を崇拝の対象としている』と報告されている。


正親町天皇の後は孫の第107代後陽成天皇が継承している。この天皇の時代は豊臣政権から徳川幕府への政権移行期に当たる。

 天下を統一した徳川家は「武家諸法度」によって諸大名を初めとする全国の武士の統制を強化したが、同様に皇室と公家衆の政治的行動も大きく規制している。

曰く、『天子は御学問のこと第一』とし、

天皇家と公家衆の公的活動を幕府が許可した範囲内に限定する元和元(1615)年の「禁中並公家諸法度」の制定である。

同法度は江戸初期の宮中の乱れた風紀を規制する側面も確かにあったが、幕府による朝廷全体の規制強化の役割もあった点も忘れてはいけないような気がする。

武家諸法度によって諸大名への規制を強化すると同様に京都支配を強化したい幕府は巧妙に交渉余地を多少残しつつ、家康、秀忠、家光の三代に渡って天皇家への圧力を強めたのだった。


(江戸時代から明治期の歴代天皇)

 幕府が禁中並公家諸法度を制定した第118代後水尾天皇から第122代明治天皇まで15代の天皇が在位されている。

 当時、「禁裏御所」とも呼ばれていた宮中は一般庶民が立ち入ることは厳禁の聖域のように記憶しがちだが、節分などの儀式や行事の際、大勢の京都市民で賑わったとの記録もあるので、

 京に住む庶民達と天皇の間の精神的な距離は、想像以上に近かったと考えられる。一方、幕府の出先機関である武家屋敷は主に二条城周辺に集中しており、二条城の後ろの壬生寄りの平地の殆どが農地でのどかな光景だった。

 もちろん、財力の関係もあって天皇家の生活全般に質素で、食生活にしても毒殺防止の為に銀の食器を用いている以外、現代から見ても豪華な食生活ではなかったのである。


 平和な江戸時代の宮中での大きな事件と言えば、第118代後桃園天皇が22歳の若さで突然崩御された事件であった。同天皇の近親に男系の皇族は皆無だったため、急遽分家に当たる閑院宮家から十歳に満たない光格天皇を継嗣として天皇家の存続を図っている。

 光格天皇の孫の第121代孝明天皇の御子が、あの有名な第122代明治天皇に当たるため、ペリー来航後の勤王と佐幕で国内が動揺する動乱の時代の歴代天皇はピンチヒッターとして急遽登場した光格天皇の系譜だったことになる。

 以上、古代から近代まで多くの天皇がご活躍されたが、並み居る天皇家の中からお一方を選んで日本の天皇家のまとめとしたい。

 

(日本の天皇家の誰を選ぶか?)

 世界最古の王朝である「天皇家」の歴代君主の中から、どの天皇を選ぶべきか逡巡するものがあったが、江戸時代の第119代「光格天皇」を挙げることにした。

第118代後桃園天皇が後嗣の無いまま22歳の若さで崩御されたため急遽、傍系の閑院宮家から祐宮9歳が後嗣となって即位したのが光格天皇である。候補者は祐宮の他にも数人居たが、後桃園天皇の残された生まれたばかりの欣子よしこ内親王との結婚相手として相応しい年齢の関係もあって同宮が選ばれたのだった。

傍系の出身ということもあって本来帝位から遠い存在であった祐宮を支えたのが日本最後の女帝(第117代)後桜町上皇であった。

桃園天皇の中継ぎとして立たれた後桜町帝はそつなく帝位を甥の後桃園天皇に引き継いだのも束の間、その後桃園天皇の急逝により、振り出しに戻った皇室を立て直す必要に迫られたのだった。

 仙洞御所にお住まいの上皇だったが、度々内裏に行幸して新しく践祚された幼い帝の教育に尽力されている。


 光格天皇が二十歳そこそこの頃、天皇の父閑院宮に対する贈位に幕府が反対し拒否された事件があったが、上皇は天皇の怒りを優しく諭して天皇が一歩引く感じで収拾させている。

一方、幕府の方も上皇への配慮を欠かさず天明の京都大火の仮住まいの折も上皇への配慮を怠ることはなかったのである。

 このように、しっかりした見識の上皇の存在は光格天皇の精神形成期に大きな支えとなって天皇の人格育成に貢献したと推測できる。

例えば、「天明年間の飢饉」に際して無策の幕府に対し、御所に詰めかける餓民の数が次第に増加する中、仙洞御所の後桜町院が率先して三万個の林檎を飢えた庶民に配った結果、側聞した各宮家や公家達も握り飯や茶を群衆に振る舞ったと伝えられている。


後桜町上皇と光格天皇の交流とお二人の考え方が良く解る光格天皇の宸翰がある。寛政11(1799)年のこの長文の書状は、上皇のご教示に対する返書と思われるが、次の一文があることによって現代人の我々にも天皇と上皇のご意志が奈辺にあったのか明確に感じることが出来よう。


『(前略)仰せの通り何分自身を後にし、天下万民を先とし、仁恵、誠信の心朝夕昼夜に忘却せざる時は、(後略)』


自身の富貴よりも万民への仁慈を優先する天皇の思いこそ「有るべき天皇像」として、幕末の激動期を乗り越えて明治維新を迎える目に見えない勤王の基盤となったような気が強くしている。

その一方で、光格天皇は江戸期の歴代天皇の中でも最も強烈な皇統意識を持たれていたと想像される。大嘗祭や新嘗祭の祭祀を平安期の天皇家が輝いていた時代の古制に戻すべく努力しているし、焼失した御所の再建に際しても古の時代の建築様式に戻すべく幕府に強く求められている。現在我々が拝見する京都御所は光格天皇再建時の建造物ではないが、同天皇再建時の姿を良く写しているとお聞きしているので、現代人の我々も天皇の求めた古の姿を実感することが出来るのである。


上記のように「天明の飢饉」の際も光格天皇や後桜町院は幕府の定めた「禁中並公家諸法度」に違背する行為ながら、武家伝奏を通じて幕府に窮民の支援を求める文書を通じて幕府に庶民救済のための米の支援を要望、幕府もそれに答えて1,500石の支援米を贈っている。

その背景には日本国君主としての光格天皇の強い自覚が内在していたのだった。

その他にも光格天皇は長く断絶していた古来の朝儀や神事の復興に尽力、朝廷の神聖の復活に努力している。

同天皇が復古させたのは禁裏の姿だけでは無かった。

江戸中期までの公卿達の生活は京都の一般的な庶民と類似した生活習慣の中に生きていたと伝え聞いているが、同天皇以降、公家らしい生活習慣の復古が求められた結果、公家達の意識は大きく変わって幕末に至ったと聞く。

各地から上京した藩士や勤王浪人達が接した公家達の屋敷の雰囲気や公家の態度や習慣は、光格天皇以後の復古した朝廷の姿だったのである。

一般には重要視されることの少ない傍系から天皇家を相続した、この天皇の存在無しには幕末の「尊王攘夷運動」の盛り上がりも無かった可能性があるくらい明治維新史にとって重要な天皇だと個人的には思っている。

そういえば、幕末に勤王公家達の議論の場として登場する「学習院」は光格天皇の御子、仁孝天皇の時代に貴族の子弟教育用の講堂として建設が着手された施設だった。光格天皇から孝明天皇に至るこの時代、国父としての天皇家の存在意義は着々と整備されていった印象が強い。

もっと率直に申し上げれば、あの明治維新の爆発的盛り上がりの背景には、光格天皇、仁孝天皇、孝明天皇三代に渡る君主としての弛まぬ努力があったと個人的には思っている次第である。


(宋の太宗の「日本感」)

 最後に中国「宋」の太宗の日本感を挙げて終わりにしたい。

 王朝が頻繁に替わった歴代中国王朝では、新王朝の建国と共に旧王朝の王族は地上から抹殺されるのが普通だった。例え赤子であっても将来の危険因子は抹殺しておくのが中国の知恵だったし、隣国の朝鮮でも高麗王朝を乗っ取る形で「李氏朝鮮王朝」を建国した太祖李成桂も前王朝の王族である王氏を謀って、巧言を用いて王氏一族を探し出すだけでなく、安全を保証すると一族を船に乗せて故意に沈没させるなど、あらゆる手段を用いて王氏の絶滅を図っている。臣下として高麗に仕えた太祖にとって、旧主筋の生存者の存在を許すことは出来なかったのである。

新王朝の皇帝や国王にとって自分の生命の保証と子孫の安寧こそが最大の願いに成っていた可能性は庶民と違い異様に高かった点は素直に理解できよう。


珍しい例としては、名君だった後周の世宗の子7歳の恭帝から禅譲された宋の太祖趙匡胤の逸話くらいしか記憶に無い。太祖は帝位を去った恭帝を鄭王に封じ、鄭王が若くして病死すると皇帝の礼を持って葬儀を執り行わせている。小説「水滸伝」でも同王の子孫が活躍する場面があるが、前王朝の子孫が殺害されずに生を全うできた希有な例であろう。その他、宋が滅ぼした亡国の君主達も処刑せず、諸侯として待遇して同様に生を全うさせている。

そういえば、太祖の弟の第二代皇帝太宗には日本に関わる逸話がある。

 宋の太宗は984年3月,入宋した日本僧を引見した際、僧より、


『日本の天皇家が万世一系であり、臣下も官職を世襲していると聞き』


古の王朝のあり方だと感激している。


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