47.朝鮮王朝の国王達
前稿で歴代の中国皇帝について少し勉強してみたが、何時ものことながら十分に学習できたか自信が無い。
それにもかかわらず本稿で、また「朝鮮王朝の国王達」について、無謀なチャレンジをしようとしている最大の理由は、少しでも東アジア三カ国の歴史に踏み込んでみたいというささやかな希望があるからである。
朝鮮半島に於ける歴代王朝の特徴は中国歴代王朝の寿命に比較してなんといっても長命な点である。
最初の統一国家である「統一新羅」が667~935年、続く「高麗王朝」が936~1392年、最後の王朝となる「李氏朝鮮王朝」が1392~1897年と歴代中国王朝と比較すると朝鮮半島の王朝の寿命は倍近く永い。
三国の中で統一新羅は短く感じるが、古三国時代から数えると高麗や李朝よりも長い約千年の長寿国だったし、高麗や李朝も約500年と長命であったところに、朝鮮の人々の宗主国中国の歴代王朝や周辺民族である契丹や女真族への配慮と巧妙な外交政策の成果を感じる。
朝鮮半島の歴代王家は中国の誤解を受けそうな「皇帝」の名を表向き名乗ることも無く、下位の「王名」で満足し、外見的にはひたすら国境線の維持と国内の安寧を祈り続けた結果と考えたい。
それでは、本テーマの前史である古三国時代の英雄達から話を始めたい。
(偉大だった「古代朝鮮の英雄達」)
朝鮮半島「古三国時代(高句麗、百済、新羅)」の国王や英雄達の事績を読んでいるとその気宇壮大さに感激させられる。
後代の高麗や李朝の国王や勇将に比較すると大中国に対しても対等の気概を矜持して正面からぶつかる姿勢に快さを強く感じる瞬間が多い。
後世の中国に対する進貢国に甘んじ、「儒教」によってがんじがらめにされてしまった朝鮮人とは全く別の人種の印象が強く、爽快で無尽蔵のパワーを感じる逸材ばかりである。
それらの古代朝鮮の勇者を一言で表現すると、
『国家の将来に対する明確な自己の責任を理解し、断固たる意思と気力充実した
颯爽たる印象を受ける逸材が多い』
その行動は善悪共に大胆であり、自己を信じて果敢に大国随の煬帝や唐の太宗の大軍と臆すること無く激突し国境の外に退けている。その超人的な姿に限りない爽快感を感じる韓国内外の現代人も多いはずだ。
そんな中、最初に歴史に明確に登場するのが広大な領土を手に入れた高句麗第19代国王「広開土王」である。この同王の有名な石碑は中国吉林省集安に現存し、我が倭国を含めた貴重な記録を今に伝えている。広開土王の子の長寿王の時代には都を今の平壌に移し、中国東北部と北朝鮮の広大な領域を統治する大勢力に成長している。
高句麗には国王ではないが上記のように随の文帝や煬帝を相手に対等以上に戦い、敵の大軍を潰走させただけで無く最終的には随滅亡の原因を作った名将乙支文徳の存在も大きい。
煬帝に続いて高句麗を攻めたのが中国史上の名君の一人唐の太宗である。名将李勣を総司令官に高句麗征討を企てた太宗だったが、対唐強硬派の淵蓋蘇文によって惨敗させられている。彼は唐と戦うために反対派の国王や重臣を一挙に葬る残虐な行為も厭わない果断の人物であった。
高句麗以外の古三国を見てみると当初、高句麗に対抗できる半島の勢力は百済だったが漢城付近にあった首都を高句麗に攻略されて南遷して以降、弱体化した国力を補うように倭国との国交を重視し同盟関係の維持に努めている。
同様に、高句麗や新羅の両国も古代日本に多くの学問や思想を伝えている。
一方、半島南東部の慶州を地盤とする「新羅」は当初古朝鮮三国の中で最も弱小な国家だった。その新羅を朝鮮最強の国家に育て上げて「統一新羅」建国の礎を作ったのが王族の金春秋(後の文武王)と義兄弟に当たる名将金庾信の二人だった。
風貌や会話が爽やかで外交官として卓抜な才能を有していた金春秋は訪問先の日本でも唐でも評判の良い貴公子だった。
始めに周辺各国との友好により自国の平和を達成しようとした金春秋だったが、淵蓋蘇文の高圧的な外交姿勢から、唐(太宗の子高宗)との連合を策し成功している。
唐との連合を軍事面で大きく裏から支えた義兄弟金庾信将軍の活躍は統一新羅建国の最大の原動力であった。
唐と連合して「百済」と「高句麗」を滅亡させた両者は、最終的には連合相手の強国唐の勢力を半島から追い出した新羅によって、史上始めて朝鮮半島全土の統一が成し遂げられている。
(「統一新羅時代」の終了と「高麗」の建国)
巨大国家「唐」との共同戦線によって長年の宿敵百済と高句麗を滅ぼし全国統一を成し遂げた新羅だったが王朝末期になると国政の乱れから国内各地で反乱軍の勢力拡大に苦しむことになるのだった。
中でも旧百済と旧高句麗の故地で有力勢力が勃興、「後三国時代」と呼ばれる新羅政権からの離脱と国内抗争再現の時代が始まったのである。
その結果、この三国鼎立の時代を制して新しい王朝「高麗」を建設したのが国内各地の有力豪族達との通婚や懐柔を背景にライバル後百済との抗争に勝利して全国支配を確立した「王権」であった。
王権は出身地開京(開城)を都に、「仏教」を国教として半島の再統一に成功している。
しかし、王権の新政権が安定したのは第4代国王に就任した光宗の時代だった。光宗は王権の強化策を進める一方、「科挙制度」の導入を図るなど高麗の国家体制の整備に努めている。
やがて、10世紀後半になると高麗は「契丹」の度重なる侵入に苦しむことになる。互いに勝敗はあったものの高麗国王が首都開城を放棄して避難する非常事態もこれ以降頻発する時代に入っていくのだった。
やがて、高麗政権は日本の武家政権に似た「武臣政権」に乗っ取られる時代に突入する。文臣に替わって政権を手中にした武臣の横暴は激しく、王権は急速に弱体化していくのだった。
そのような時代に契丹に替わって高麗侵入を長期に渡って開始したのが、あの強大なモンゴル帝国だった。
武臣政権は都を江華島に移す大胆な政策により徹底抗戦を図るが、モンゴル軍による長年の侵攻によって破壊された新羅以来の文化遺産は計り知れない。代表的な物だけでも慶州皇龍寺の九層塔、初彫大蔵経等があり、今日残っていれば間違いなく韓国の国宝の上位に位置する文化財である。
都を江華島に移して20数年に渡る徹底抗戦の後、武臣政権からに離脱に成功した「元宗」は1270年、都を開城に還都、フビライとの親モンゴル政策に踏み切るのだった。
これ以降、元宗の子忠烈王を始め歴代の高句麗王はモンゴル皇帝の婿となり忠実な協力者となったのである。モンゴル皇室の娘婿となった忠烈王は「文永・弘安の役」に於ける日本侵攻の積極的な進言者であり、侵攻のための兵船と戦力の一部を提供したのだった。
モンゴルへの忠誠は高麗の国力を疲弊させ、明国の勃興と共に国際外交の岐路に立たされた高麗政権内部は親明政策を掲げる「李成桂」によるクーデターによって崩壊することとなったのである。
(国家思想の大転換期「李朝建国」)
仏教を国家思想として一部科挙を含む儒教思想を部分導入した「高麗王朝」に対して、李成桂の「李氏朝鮮王朝」は腐敗が進んだ高麗仏教を排撃して、新しく南宋で生まれた朱子学を基盤とする「儒教思想」を国家思想として新国家建設を開始している。
この国家思想の大転換こそ日中両国とは大きく異なる朝鮮半島独特の「事大主義」と「小中華思想」育成の出発点となったと考えても考えすぎではないと思う。
この感覚こそ、地政学的に大陸の一部である半島国家である立地条件を忘失して哲学的理想論が時々暴走する論拠となった気がしている。
このような国民思想は、「超現実主義者」である中国人も民族的に持っていないし、遭遇した段階で良識的に最良の思想や技術を選択吸収する東洋では珍しい日本人という生物も持ち合わせ無い感覚だった。
儒教の国教化以降、現代に至るまで朝鮮半島の人々は悲しいことに新儒教の呪縛から抜け出せないでいるように感じるのは私だけだろうか?
なんといっても「儒教」の特徴の第一が社会階層の序列化の肯定であり、頂点に立つ国王を朝鮮独特の「両班」層ががっちりと支える構造が李朝数百年を掛けて出来上がったのである。
国王を支える両班層は中央政府の官僚であり、地方では有力な地主層を形成したところに李氏朝鮮の特徴があり、国家が発達しない根幹があったと考えても良い。
(苦節500年の優秀な国王達)
約500年続いた長命だった李氏朝鮮王朝の建国初期の三人の国王達はいずれも優秀だった。
初代李成桂、第3代太宗、第4代世宗である。不思議なことに建国初期に有能な国王が三代続いた王家は長寿命であり、始皇帝や後周の世宗、我が国の豊臣秀吉のように一代の英傑の存在だけでは家(国家)が短命に終わる印象が東アジア三カ国の歴史を通観してみると個人的には強く印象に残る。
太祖の創った李朝の骨組みを整備して「儒教思想」による国王主導体制をガッシリと組上げたのは太宗だった。その儒教の徹底利用による政治が強力に推進された背景には、朝鮮独特の「両班」の存在が大きかった点は上記した通りである。
両班の中でも徹底した文官の重視は、李王朝の国家支配の基本であり世宗の時代にはほぼその体制が整えられたのだった。
加えて、現在韓国民が使用している「ハングル」を創造し「訓民正音」として交付したのが第4代の世宗だった。ハングル抜きにして現在の南北両朝鮮の文化を語ることが出来ないほどの重要性を持つハングルの存在によって、歴代国王の中でも世宗の存在感は大きく、光化門の前に建つ大きな世宗の銅像を仰ぎ見た日本人も多いと思う。
その他にも歴史に名を残している李朝の国王は多い。
「壬辰の倭乱(豊臣秀吉の文禄・慶長役)」で苦労した宣祖、衰退する明国と勃興する清国の狭間で喘いだ仁祖、優れた政治手腕で派閥闘争を乗り切りながらも女性問題で歴史に名を残した粛宗、ユネスコの世界文化遺産に登録された「水原華城」を遺し、名君と呼ばれた「正祖」の近代性、王朝衰退期の国王「高宗」と父の「大院君」の存在等々、挙げればきりがなさそうである。
さて、それではここで、中国同様に歴代の朝鮮国王から一人を選んで観察してみよう。
(歴代朝鮮国王から一人を選ぶとすれば)
順当に選ぶと歴代朝鮮国王中随一の名君李朝第4代国王「世宗」になるところだが、朝鮮半島を取り巻く複雑な国際情勢を考慮して、本稿では李氏朝鮮王朝の第16代国王「仁祖」を選んでみたい。
仁祖を選出した最大の理由は大陸の王朝交代期の進貢国外交の難しさを最も身をもって味わったのが仁祖自身だったからである。
豊臣秀吉軍が攻め込んだ「壬辰の倭乱」で苦労した宣祖を祖父に、戦後の復興を担った光海君を伯父に持ち、本来仁祖は国王になるべき人ではなかったが、英明な弟を当時の国王「光海君」に殺された復仇もあって、反対派を糾合した仁祖の企てたクーデターは成功、世にいう「仁祖反正」である。
壬辰の倭乱の混乱期を生き抜いてきた光海君には親族間も含めて問題点も多かったが、同君の内政と外交には後世評価される点も多かったのである。
同君は長期の倭乱によって壊滅的な打撃を受けた朝鮮国内の混乱を収集すると共に焼けた王宮を再建し、徳川幕府との間に修好条約を締結して長期の安定した日朝関係の糸口を築いている。
更に、壬辰の倭乱を救援してくれた明国の出兵要請に答える形で満州族「後金(後の清国)」との争いに出兵しながらも、極力交戦を回避し、宗主国「明」と新興国「後金」と間で巧妙な二股外交を維持する国際感覚を持った国王だった。
一方、「反正」を掲げてクーデターを成功させた西人派は「事大主義」を掲げて従来からの親明に固執、折角光海君が路線を引いた柔軟外交を放棄して、後金第2代皇帝「ホンタイジ」の激怒を買う大失策を犯してしまったのだった。
ホンタイジは直ちに朝鮮に出兵して仁祖を膺懲、後金を兄とし李朝を弟とする条約を結んでいる。「丁卯胡乱」である。
しかし、1636年、「清」を建国したホンタイジは仁祖に臣下の礼を強要、12万の大軍を率いて南下する事態となったのだった。求前回と異なり江華島への脱出に失敗した仁祖は漢城に近い「南漢山城」に籠城するも兵糧不足もあって、屈辱的な降伏を遂げることとなったのである。
その場所は漢城と南漢山城のほぼ中間にある「三田渡」だった。壇上に南面して立つホンタイジに対して、仁祖は臣下としての「三拝九叩頭」の屈辱的礼を強要された他、全ての清国が求める要求を呑まされたのだった。
朱子学を深く信奉して久しい「小中華王朝の国王仁祖」にとって、夷狄である満州族の清に対する屈服は民族としての優越感を一瞬にして粉砕される驚愕すべき出来事だったのである。
更にホンタイジは屈辱の地である三田渡に「大清皇帝功徳碑」を仁祖に建設させて、李朝の恥辱を永久に記憶させるべく強要したのだった。
光海君の治世には王家を含め多くの反対派を粛清した内政の問題点もあったが、外交的には「明」の衰退期と「清」の勃興期を敏感に感じ取って、優柔不断な二股外交を行っていた形跡があり、清もその状況を暗に了解していた感触があった。
けれども、「反正」を全面に掲げて即位した仁祖を囲む重臣達は、新興国「清」を飽くまで文化的に劣る野蛮国に位置付ける一方、衰退期の明に頼る大失態を犯してしまったのである。
弱小国の外交姿勢は、時として不鮮明な方が好ましい結果を生む場合が多いのに対し、弱小の進貢国が大国並みの正義を標榜して国際競争に進出した場合、多くのケースで仁祖のような屈辱を味わうか亡国の惨状を経験するかのどちらかのケースが多かったのである。
この事件以降、「明」に対し朝鮮国王が歴代実施してきた「貢女」と「宦官」の進貢を夷狄である満州族の「清国」に忠実に果たすことを強いられたのだった。
満州族の清にとって宮廷内の宦官の存在を是認するものの、その出身種族は自分達の満州族では無く、漢族や朝鮮族であることが重要だったのである。貢女の中には幸運にも清国皇帝の寵愛を受けて紫禁城の中の高位に付く女性も現れたが、その女性達も仕える皇帝の死去と共に縊死を強要される運命が待ち構えていたのだった。
歴代強大な覇権国中国との国際外交に苦慮してきた朝鮮王朝は、「事大主義」と「小中華思想」を標榜することにより、できる限りの保身と自己保存に努力してきた様子は涙ぐましいものがある。
今回採り上げた「仁祖」の体験は以前も勉強したことのあるテーマだが、再度ピックアップした最大の理由は、巨大王朝の交代期に周辺の弱小政権が味わう苦渋の全てを凝縮して経験することに成ったのが仁祖のような気がしたからである。
外交上手な光海君の半分の才でもあれば幸いだったし、君主には無くとも近臣の中に緊迫する国際情勢を理解する柔軟な外交官が居れば、このような朝鮮史上希な屈辱を経験することもなかった気が隣国民の一人として感じている。
朱子学の説く「理」を尊重する余り、武力第一の清のホンタイジの強要に屈せざるを得なかった仁祖の無念さは十分に察することは出来る。
同様の惨劇は東洋だけでなく、状況は異なるもののヨーロッパでも起きいている。キリスト教諸国と東の強力なイスラム国であるオスマントルコに挟まれたバルカン半島諸国は、数百年に渡って両者の顔色を伺いながら自国の独立性を求める苦渋の選択を模索し続けたし、周辺を大国に囲まれた国の苦悩は半島部の国々だけでは無かった。
ヨーロッパ西北部の国ポーランドも東の強国ロシアと西のドイツに挟まれた地政学的関係で何度も国土分割の惨事に遭遇しているし、ほんの数十年前にもナチスドイツとロシアによって分割されたばかりなのも記憶に新しい。
そう考えると500年も続いた長命な高麗や李氏朝鮮王朝の存在は、朝鮮の人々の民族と国家を守る尊い努力の結晶として誇るべき成果だったと信じたい。
王朝の記録一つをとっても、「六国史」以降、正史の編纂が断絶した日本や異民族王朝の興亡が激しかった中国と異なり、27代、519年間に及ぶ大部な「朝鮮王朝実録」の存在は国際的に見ても一際近年輝きを増しているように感じるし、鼻息の荒いヨーロッパ諸国にしても朝鮮に比肩できる充実した史書を保有する先進国は存在しない。