46.皇帝の中国史
しばらく「儒教」から始まって日本の「神道」まで東アジア三カ国の国民に影響を与えた精神世界の一端を散歩してきた結果、自国に関しては少しだけ思考内容が整理されたような気がしている。しかし、残念ながら中国とお隣の国に関しては、如何に歴史的な知識に乏しいかを自覚する結果となってしまった。
特に痛感したのが、中国史自体が「歴代皇帝の記録」と置き換えても不思議でないほど、次々と出現する覇者の壮大な行動記録が残されている反面、「資治通鑑」に方向付けされたように極端な「中華思想」に汚染されて、他民族国家である中国の多様性に対する十分な分析と理解を我々日本人もしていないような気がしている。
そこで、余りにも初歩的ながら中国皇帝について素人なりに幾つかの視点から触れてみることにした次第です。
それでは、最初に異民族や異姓の多くの皇帝を生み出した原点ともなった中国古代の「易姓革命論」から始めたい。
(王朝の自由な交代を保証した「易姓革命論))
中国黄河流域で発生した古代都市文明はやがて「王朝国家」へと発展して史記に依れば、「夏」、「殷」、「周」へと主権者としての権威が伝達されている。
これらの古代国家はそれぞれ別の民族だったらしく、中原の狭い地域で王朝が交代を繰り返した初期段階から中国は多民族国家らしい多様性を持つ複合体だったようだ。
当然ながら異民族(異なる部族?)を征服する行為により自己の王朝を成立させた新しい帝王の「姓」は異なっていたし、宗教やそれに伴う祭祀も異質だった可能性が高い。
そこに都合良く登場したのが「易姓革命」という思想である。
この思想がいつ頃から唱えられたのか明確で無いが、周の武王が殷の紂王を滅ぼした牧野の戦いの頃から言い出された可能性があるという。
『徳を失った王朝に対し天帝はその地位を奪い、他姓の有徳者を新しい天子にする』
という強者にとって極めて都合の良い考え方であり、暴力による王朝交代を支持する新興勢力に便利な思想になっている。
この覇者に有利で現実的な思想の背景には、腐敗して弱体な王家よりも強力で安定した新興勢力の方が諸侯や民衆の安寧が得られるのではという願いが秘められていた気がしている。
(「中国の皇帝達」を分類する)
紀元前三世紀に出現した始皇帝から始まった中国の皇帝達の歴史は1912年の清の宣統帝の退位まで続き、「姓」も「民族」も異なる多様な皇帝の存在を中国は経験することになるのだった。
その点、「史記」に始まる中国歴代の史書は「中国皇帝」の記録と呼んで良いほど歴代の主権者を中心に記述されていて、後世の歴史学者の研究を助ける一方、日本の「万葉集」や「源氏物語」のように人間の情感や情緒の機微を内面から表現する感覚に欠ける印象が強い。
歴代中華王朝の皇帝達を大雑把に分類すると個人的には二種類に分けられるような気がしている。
一)「漢人王朝」の皇帝達
二)「異民族王朝」の皇帝達
第一に挙げられるのが秦の始皇帝に始まる「漢人王朝」の皇帝達である。秦、前漢、後漢、晋と続く歴代王朝の主役の皇帝には著名な漢の高祖や武帝、後漢の光武帝や魏の曹操、晋の司馬炎が居る。
それに続く「隋」や「唐」の皇帝達も若干異民族の血が濃い感じもするが一応漢人王朝系に入れられよう。
唐の滅亡後、「五代十国」の混乱の時代を経て「宋」が建国され、久し振りに漢人王朝が復活するのだが、「遼(契丹系)」や「金(女真族系)」の侵攻とそれに続く強力なモンゴル族の「元」の建国により宋は滅亡し異民族による「殖民地帝国」の時代を甘受することとなる。
そしてモンゴルの圧政を撥ね除けて建国した近代以前最後の中華帝国が朱元璋の「明」であった。
年代順に歴代の主な漢人帝国を再記すると以下のようになる。
「漢人王朝」 : 秦 ・前漢 ・後漢 ・晋 ・隋 ・唐 ・宋 ・明
これらの漢族王朝は短命王朝を除くと約200年から250年の期間、中国に君臨したのだった。どうもこの年数が中国王朝の寿命のようで、朝鮮半島の高麗や李氏朝鮮の存在した年数約500年の半分にしか過ぎないところが不思議な点である。
次に、二)に挙げた騎馬民族による代表的な「異民族王朝」はというと次のようになる。
「異民族王朝」 : 遼(モンゴル系契丹族)・金(ツングース系女真族)・元(モンゴル族)
・清(女真系満州族)
西晋以降、華北では多くの短命の異民族王朝が興亡したが、ここでは省略した。漢人王朝にとって驚異的だったのがモンゴル系契丹族によって建国された「遼」以降の存在であった。
遼の建国が916年、金が1115年の建国なので、10世紀から北宋は騎馬民族の強力な圧迫を受けた上、モンゴル族の「元」によって南宋は滅亡の時期を迎えている。
その後中国人によって創建された「明」だったが、度重なる圧政によって自己崩壊を起こし、人口比からみると少数の満州族の侵攻を受け、「清」政権の中国全土支配を許している。
以上が中国歴代王朝の大雑把な分類だが、初期の「漢人王朝」から、もう少し詳しく勉強してみたい。
(中国皇帝像を形作った「儒教」)
圧倒的な存在感を示した始皇帝だったが、始皇帝の没後「秦」は数年で滅亡している。その背景には余りにも法治国家に傾倒して人民を虐げ抜いた始皇帝への全国人民の強烈な反発があったと考えたい。
全国にわき起こった怨嗟の声を背景に勇将項羽に打ち勝って中国全土を掌握したのが庶民出身の寛容な漢の高祖劉邦であった。
高祖は不本意ながらも儒者の勧める「儒教」を朝廷内の運営システムに取り入れることによって王朝経営の円滑化に成功している。
王朝内での儒教の活用を更に勧めたのが漢の「武帝」だった。覇権好きな武帝が積極的に儒教を取り入れた背景には、皇帝(自分)を頂点とする「階層社会」の積極的な肯定と秩序化を推進する儒学者達の考え方が自身の帝政の強化に有益であるとの共感があった為と思われる。
董仲舒の勧める「五経博士」の設置や、法家好みの武帝の思想を儒家の考え方で柔らかに包む狡猾な手法は、皇帝権力と儒教の相互依存によって、長く中国王朝の基本指針となったように個人的には感じる。
そして、武帝以後の歴代漢王朝は、この儒教の「国教化」を推進した関係で、儒教が官学化する流れが出来上がったと考えられ、それはやがて「科挙」として定着することとなる。
これ以降、中国の歴代政権と儒教の関係は「不即不離」の間柄となり、「中国皇帝」と「儒教」は共に手を携えて二千年の中国史の中で成長していくのだった。
(その後の「漢人王朝」)
前漢に続く後漢王朝の末期になると各地の英雄が抗争を繰り返す有名な「三国志」の騒乱の時代を迎える。前漢末期には約六千万人に到達したと思われる人口が、度重なる戦乱と飢饉により三国統一が成った「晋代」初期には十分の一レベルの数百万人にまで落ち込んでいるところを見ても、如何にこの全国規模の戦乱が庶民に過酷な物だったのか想像出来よう。
あれほど繁栄した中原に人の影がろくに見えなくなったと当時の記録にはある。
確かに、中国史を読むと長期の騒乱の時代になる飢饉と権力闘争によって、人口が数分の一まで激減する現象が度々起きることに慄然とさせられる。
日本史でも長期の戦乱や冷害による飢饉によって人口が1~2割少なくなることは起きている可能性はあったが、中国のような元の数分の一を越す極端な人口激減は起きていないので、中国庶民の遭遇した歴史が如何に過酷なものだったか、想像以上のものがある。
晋代には漢人人口の大幅な減少に加えて同族同士の抗争の為に、有力な騎馬民族を傭兵として雇い入れた関係もあって北方の異民族が多数中原の主人として登場している。
この晋に続く時代を中国史では「五胡十六国」の時代という。五胡とは「匈奴・羯・鮮卑・氐・羌」の北方遊牧騎馬民族のことで、彼等が華北で次々と王朝を乱立させていった時代だった。
一方、漢民族は長江流域に逃れて「東晋」王朝を建設、南朝として北の異民族による北朝に対抗することとなったのである。
(「漢人王朝」の復活:「随」と「唐」)
長く続いた「五胡十六国」と「南北朝」騒乱の時代を制して273年ぶりに中国の再統一を成し遂げたのは隋の文帝だった。しかし、第二代皇帝を継いだ煬帝の失政により李淵・李世民父子の「唐」にバトンを渡すことになる。
この両国が後世に残した遺産は多い。
隋の最大の遺産は南北に北は北京から南は杭州を繋ぐ「京杭大運河」の建設だった。中国二つの大河「黄河」と「長江」を横断して隋によって整備された運河は、江南の豊かな穀物を含めた物流システムとして重要な役割を中国史で果たしている。
後に建設された元の大都(北京)にしてもこの大運河の存在無しには維持できなかった可能性さえあるのである。もちろん、明の新しい首都北京の存在にも重要な役割を果たしたことはもちろんである。
約300年に渡って中国を支配した「唐」は最初の国際帝国だった。その影響力は強烈で東アジア全域はもちろん、中央アジアや東南アジアにも及んでいる。
その影響を強く受けた国の中に当然ながら朝鮮半島の統一新羅と日本も含まれる。日朝両国に与えた唐の影響は大きく、政治(律令制)、文化、慣習等の多岐に渡っており、新羅は古来の朝鮮風の姓を捨てて唐風の姓に大改革を実行しているくらいである。日本はそこまで傾倒しなかったものの唐の時代の遺風は現代の中国よりも今日の京都に多く残っているとさえいわれるほどに歴代中国王朝の中でも唐の影響は大きかった。
その間、遣唐使によって多くの中国の知識がもたらされたが、天皇家を取り巻く大和朝廷の豪族達にとっても中国の「易姓革命」思想はとうてい受け入れることが出来ない暴論に聞こえたことだろう。
それでは、次に出身地(出身民族)からみた中国皇帝達を見てみよう。
(東アジアの地形から見た「中国皇帝」の出身地)
秦の始皇帝や漢の武帝と激闘を重ねた「匈奴」を挙げるまでもなく、漠北の騎馬民族の富裕な中国本土への侵略行為は古代から止むことはなかった。
中でも北宋はツングース系の金によって滅ぼされているし、残った南宋もモンゴル人の建国した元のフビライによって息の根を止められている。
そこで、この項では視点を変えて中国周辺の「東アジアの地形と居住する民族から見た中国皇帝の出身地」を考察してみたいと考えている。
北京から北、中国北東部に約1200kmに渡って南北に延びる「大興安嶺山脈」がある。大雑把に表現するとこの山脈の西側がモンゴル高原であり、東側が中国の東北地方(満州)になる。牧草地の続くモンゴルは放牧に適し幾多の遊牧民族が興亡を繰り返した故地で、中でもジンギスカンに率いられたモンゴル族の世界史に於ける活躍は有名である。
一方、東側の中国東北地方の地域は樹木も多く古来狩猟民の活躍の場であった。また、時代と共に南の漢族農耕民の北上もあって、ある時代から狩猟民と農耕民が混在する地域ともなっていった。中でも遼東半島に近い地域では女真人と漢人・朝鮮人が古から雑居していたのだった。
このように中国の北側の諸民族は生産性の低い地域に居住していた関係もあって、南の豊かな農業地帯に常に善望を抱くと共に侵略の機会を虎視眈々と狙っていたのである。
更に南方の現在のベトナムを含む諸国の場合、中国本土よりも気候的に温暖であり、農業生産性も高い諸国が多かった関係で、自国の独立には敏感だった反面、中国に侵攻して征服しようとする民族意識は低かったのである。
最後に、列島に居住する我が大和民族だが基本的には中国南方のベトナム等と同様に温暖で地味豊かな国土に居住していた関係で、新しい技術を持った来住者は大歓迎だったが、「白村江の戦い」まで、海を越えて大規模な外征を行おうとする意欲に欠けていたのである。
結論としてはモンゴル高原の草原地帯に居住する騎馬民族と狩猟民族である満州各地の民族が隙を見て中国侵入の機会を狙っていたと考えるべきであろう。
(異民族による殖民地帝国「元」の成立~「明」~「清」)
「五代十国」や「南北朝」から始まる異民族による中国への侵攻や小王朝設立は、この期間を通じて延々と繰り返されたのだった。
中国を再統一した「隋」や「唐」にしても、見方によっては純粋な漢人王朝というよりは「鮮卑系中国人」による混血王朝と呼んだ方が適切な印象を個人的には受ける。
晋末以降、数百年に渡る中原での混血が進んだ結果、多民族国家としての中国皇帝の実像は、特に北朝に於いて顕著で「異民族王朝」と呼べる王家が林立する状況を呈するようになったのである。
中でも本格的な中国侵攻を開始したのがモンゴル系契丹族の「遼」であり、「北宋」を圧迫して屈辱的な盟約を結ぶことによって毎年莫大な財貨を獲得している。
それに追い打ちを掛けたのがツングース系女真族の「金」で、度重なる宋の不誠実な態度に激高した金によって、北宋は滅亡させられている。
金は宋の華北を中心とした北半分の故地に建国して、本格的な「異民族王朝」を建設、漢人支配をスタートさせるのだった。
しかし、狼の後ろに虎が居るように、金を追うようにして中国進出を開始したのがジンギスカンとその後継者達だった。ジンギスカンの孫フビライが世界帝国の一部として中国に建国した「元」であり、「異民族王朝」の一つの完成形となったのである。
強大な勢力を誇示した元だったが、中国全土を統治した期間は約90年と意外に短く、草原の騎馬民族にとって農耕民族と市場経済の発達した中国での施政は予想以上に難しかったと考えられる。
やがて各地に起きた反乱軍の中の一人、朱元璋がトゴン・テムル・ハーンを北に追いやると、漢人王朝を復活させている。朱元璋の建国した「明」は長い中国の歴史の中でも希有な史上初めての江南で誕生した統一政権であり、彼自身は一家離散した貧農の出身であった。
明朝は皇帝独裁権の強化とスパイや宦官の政治への介入を深めると共に内部から弱体化していったが、それ以上に明が苦しんだのが「北虜南倭」であった。当に、北方からの騎馬民族と海上からの倭寇の度重なる襲撃に苦しんだ明国は万暦帝以降、膨大な軍事費の支出に国体が耐えがたい状況に陥り急速に衰亡していったのである。
その隙に乗じて北虜の中で中国進出を果たしたのが満州族の「清」であった。ヌルハチによって建国された清(最初の国名は後金)は順治帝の時、呉三桂の要請を受ける形で北京に入城、中国支配を開始している。
少数民族である満州族による中国支配は減税によって一般農民の得る一方、明の正当な後継者である立場を崩さず科挙制度の維持など知識階級の要望も巧みに採用することによって全国統一を速やかに実施している。
その一方で、「弁髪」の強制的な実施など満州族優位の手を緩めることなく多民族国家を上手に運営している。その背景には順治帝に続く、康煕帝・雍正帝・乾隆帝の三代がいずれも有能だったために国運は上昇、清は最盛期を迎えるのだった。
(歴代の中国皇帝から一人を選ぶとすれば)
ここまで漢民族、異民族出身を問わず多くの中国皇帝をみてきたが、歴代皇帝の中から一人を選ぶとすれば貴方なら誰を選ぶでしょうか?
前王朝を倒して新王朝の基礎を確立した初代皇帝やその王朝を代表する治績を残した皇帝の数も多い。漢の高祖(劉邦)、後漢の光武帝、唐の高祖(李淵)や第二代太宗(李世民)、宋の高祖(趙匡胤)、明の太祖(朱元璋)や第三代永楽帝、モンゴル世界帝国に中国を組み込んだ元のフビライ、清の最盛期を築いた康煕・雍正・乾隆の三代等々高名で偉大な業績を後世に残した著名な皇帝の数は多い。
しかしここでは敢えて異民族である満州族愛新覚羅氏の清朝第四代皇帝『康煕帝』を採り上げてみたい。中国史上で著名な皇帝達は常人にはない逸材が多かったが、中でも康煕帝は内政・軍事・外交共にそつなくこなす恵まれた才能と皇帝の職務を真摯に遂行する勤勉な素質を持った完成度の希にみる逸材であった。
八歳で即位し、十代で親政を始めると父祖の負の遺産である「三藩の乱」を平定し清朝の威光を全土に浸透させている。
続いて、当時侵略を強めてきたロシアとの間に「ネルチンスク条約」を提携、ロシアの南下を阻止して国境線を確定させている。実戦ではジュンガル軍との戦闘に勝利し、モンゴルからチベットに及ぶ広大な領域を自国の勢力圏としている。このモンゴル帝国にも匹敵する広大な国土は現在の共産党政権が希求する「大中国」の姿と考えても誤りではないと思う。
モンゴル人の祖母に育てられた康煕帝は満州語も漢語・モンゴル語いずれの会話も流暢で読み書きも完璧だったという。その結果、無数の異民族の臣下を信服させ、清の統治を完璧なものとしている。その結果、幼くして父順治帝の死去により皇帝となった雍正帝は治世61年に及ぶ長命な皇帝であると共に、中国史上屈指の名君と呼ばれた。
もし、歴代の中国皇帝の理想の姿が「儒教」との合作によって完成それたものだと仮定するならば、「康煕帝」の政務に対する勤勉な姿勢こそ、中国皇帝の完成形と表現しても大きな間違いではないような気がする。
中国の歴史が一般庶民にとって如何に過酷なものだったかは、前漢以来二千年の「人口の増減」をみると良く解るという。
確かに、前漢の時代から清初まで中国の人口は王朝の興亡につれて大きく増減しているが、前漢後期の約六千万人の人口から大きく飛躍して、二億人を突破することはついになかったのである。
清建国当初の人口も約六千万人と前漢の頃とそれほど変わらない人口だったと伝えられているが、康煕・雍正・乾隆の時代を過ぎた清国の人口は世の中の安定と発展に伴って前代未聞の四億人を突破している。
もし、平和の尺度の一つに人口増加があるとすれば、多くの漢民族政権が成し遂げられなかった偉業を異民族である満州族支配の清朝の治世下に実現できたことは、一般庶民にとって歴代漢人王朝の統治よりも幸福な状態が長く続いた証だったかも知れないと思った。




