45.日本民族の感性と共に成長した『神道』
前稿で『日本人の宗教感覚』を少しでも理解したいと『神道』を中心にした日本人の宗教意識に関しておぼろげながら触れてみた処、親しい五反田のOさんから多くのご教示と好ましいアドバイスを数回に分けて頂戴したので少し長くなりますが引用させて頂きたいと思います。
第一のご教示は日本の宗教全体に大きな影響を及ぼした明治維新政府の新宗教改革に等しい「神仏分離」政策による神道路線の変更に付いてでした。大変適切な内容でしたので若干長くなりますが以下に引用させて頂くことにします。
『さて、神道の事ですが、私も色々調べていたものなので、私見をご参考まで。
神道は宗教なのかという問いの、明確な答えを私はもっていません。
神職自身も、宗教では無いという人と宗教だと言う両方を知っています。
その理由を掘り下げて判った事は、明治政府の宗教政策にゆきつくと思います。
明治政府は政教双方の管理を目指し神祇官を復興しましたが、政府組織の教部省へ変革。
結局、宗教統制は出来ずに、宗教者が抜けた抜け殻のような内務省社寺局に縮小。
政府による宗教政策は無理となり、法的には宗教で無い「国家神道」を作ります。
(大戦で宗教的傾向を帯びた事は、簡略化の為に、とりあえず脇におきます)
神社形式の宗教は教派神道となり、出雲大社などは、この流れになります』
そして、ご教示頂いた第二点がGHQの強大な影響力とその余波に付いてでした。現在も続く「政教分離」に関する靖国問題が含まれています。
『今の非宗教な神道は、国家神道の末なのでしょうが、それが敗戦によるGHQの神道指令で更に捩じれて、日本が主権を取り戻しても戦前にも戻れず、宗教としてもドグマが無い不明瞭なものになったと思います。
靖国問題の根っこも同じで、戦前は国の施設として内務省管轄でお役人が戦死認定で御祭神に、非宗教施設だったから政教分離問題無し。
それが戦後 GHQの神道指令で、「宗教法人」として生き延びたので宗教扱いになり、「政教分離」原則に反して参拝が政治問題になりました』(以下略)
第三にお教え頂いた内容は、伊勢神宮を含む神道の江戸時代と明治以降の大きな変容についてのご指摘でした。
ご教示のように、江戸時代に於ける国学者の輩出や水戸学の勃興、賴山陽の書いた「日本外史」の全国的大流行の影響もあって、明治維新政府の神道重視の姿勢とその影響力はO氏のご指摘のように非常に大きなものがあったと想います。
『(前略)江戸期の伊勢信仰は、明治以降 消滅しましたので、これも典型的な近代の産物です。
江戸期は、御師による伊勢講が全国から参拝者を集め、近代農業、商業による収入増加で一般庶民が旅をして参拝し、御師を介在させ神に直接願うという、ある意味 民衆と結びついた信仰でした。
一方で江戸後期から発展する国学イデオロギーは、これに否定的で「伊勢神宮は皇室の祖先を祀る場なので、一般庶民が参るのはけしからん」との考え。
明治維新になり、明治政府は伊勢神宮を皇室の氏神に据え、全国の神社の頂点に位置づけ。
従来の伊勢信仰を支えてきた御師は解体、冨士講、熊野講、八幡講などは御師屋敷が残っているのに、伊勢には殆ど無いのは、そのような理由があります。
現代の伊勢神宮は、天皇の祖先を国民が敬うという形での信仰で、一見 民衆の直接結びついているようでありながら、本質は未だに天皇家の氏神を祀る場で、そこで本来の祭祀が出来るのは皇室だけなのです。 そうした違いは一般に判らないようにされており、参っている側も直接 神に願っているようでありながら、伊勢神宮など、明治以降の官幣大社は違うのです。本当の祭祀が出来るのは皇族であり、代理の勅使だけなのです』
以上のように、近代史や現代史の知識と情報に疎い小生の盲点を鋭くご指摘頂いた内容で、現代の日本神道に大きな影響を与えることになった明治維新と敗戦後のGHQ行政による歴史的な変動期とその結果を的確に指摘されていると感じました。
『神道』は古代以来何度も大きな変革期を経験して来ましたが、特に時代が近いだけに明治維新や戦後の影響は現代神道にも色濃く残っていることも確かだと私個人の勉強不足を含めて強く感じた次第です。
友人であるO氏にご教示頂いた諸項目に関しましては、何れ研鑽を重ねた上、お答えできる機会を準備したいと思っておりますが、宗教と政治の相関関係を何時も無視して勝手気ままに歴史を散歩している小生としては、相当の時間を必要としそうな現状です。
そこで、O氏へのお詫びを兼ねて、神道に関連する次の四項目について個人的印象を附記させて頂きたいと思っておりますので宜しくお願いします。
一) 自然への恐怖から出発した古代日本人の宗教感覚
二) 日本民族特有の清潔感と「穢」、「禊」について
三) 「仏教」の伝来により「神道」との棲み分けが進んだ
四) 神社参拝方法について
それでは、古代日本人の「自然への恐怖から出発した古代日本人の宗教感覚」から入ってみたいと思います。
(自然への恐怖から出発した古代日本人の宗教感覚)
全世界的に古代信仰の重要な要素に「アニミズム」があることは良く知られている。日本でも特定の山や岩、大木などがご神体とされてきた例は多い。
その中で最高の自然崇拝の対象として太陽である「天照大神」が奉られてきた経緯も天候に左右される農耕民族としてなんとなく納得できる。
情報の溢れている現代でも冷害や台風による作物収穫量の激減や疫病の大流行による予想もしない大量の感染者の発生に困惑するケースに遭遇する場合がある。
増して情報の乏しい、古代では天災による収穫物の激減は人々の死活に直結する想像以上の恐怖だったはずであり、治療手段の乏しい古代の疫病流行は神に祈る以外方法が無かったのである。
その結果、自然を恐れ、自然を敬いながら、自然と共存して生きる『神ながらの道』が古代日本で生まれたような気が個人的にはしている。
自然も含めて、周囲と穏やかに共存して生きたいとする思考は古代日本人の心の中で大きく息づき始めた印象が強い。そのせいか、「日本の神道には一神教のような厳然たる教え」が存在しないし、古代の人々も帰化人も含めて土地を分け合って自然に逆らうことなく共存する方向を選択していたように感じる。
古代日本を征服した大和朝廷にしても各地方に厳然たる権力を保持し、その地方毎の守護神を崇拝する豪族達を全面否定すること無く地方毎の神々を含めた既得権を尊重しながら条件付きで全国制覇を達成していったのだった。
ただ一つの条件とは朝廷の尊崇する「天照大神」の存在を最高神として認めさせることだった。
その様子は、先学の方々のご指摘のように朝廷支配下の全豪族の暗黙の了解の中に「古事記」や「日本書紀」が作成された段階で、八百万の神々の順位と豪族層の序列が整えられていった気がしている。
(日本民族特有の清潔感と「穢」、「禊」について)
神々の間の序列の整合が進む一方、「万物に神が宿る」とする民族意識は「清潔感」を重要視する伝統を芽生えさせていったと考えられる。
至る所に神様が居る以上、常に清浄を心掛ける意識が「禊」の習慣も含めて定着していったとのではないだろうか!
そうなると物質的な汚れはもちろんのこと、精神的な「穢」に対しても清める行為が必要になっていった結果、神事としての「禊」が次第に重要視されるようになっていったのではないかと勝手に思っている。
どうやら日本人のこの感覚は自然に対する恐れと共に民族的な特徴として日本人の精神面を支配して現代に至っている印象が強い。同じ東アジアの民族である中国人からも日本民族の特徴の一つとして着目されている。
即ち、人の死や穢れた行いに接した場合、早く「禊」や「祓」を行って元の清い姿に復帰することを願った様子は「古事記」の伊弉諾の死についての記述からも垣間見られる。
やがて、穢れに遭遇した場合に対応策として行った「禊」は広く神事として古代人の間に定着していったと想像される。
今日でも、祭礼や神事を開始する前に海や川の水で身を清めることによって、罪や穢れを洗い流す「水垢離」行為が定着している様子を見ても、古代の伝統が近代日本の中に脈々と息づいている様子を見聞する機会は多い。
その習慣は簡易的に現代でも継承されており、例えば葬儀に出席した後の帰宅時のお塩による「お清め」などはその典型例である。
その「禊ぎ祓い」の行為にしても、古代人の「死」に対する恐怖を完全に払拭する力は無かったのではないかと個人的には推測している。
当時の神道(まだそのような表現方法はもちろん無かった)に欠けていた一つが、死者に対する十分な対応方法と先祖に対する具体的な供養方法だった気がしている。その不足部分を埋めることが出来る新来の文化が「仏教」だったと勝手に想定して勉強を進めたいと思う。
(「仏教」の伝来により「神道」との棲み分けが進んだ)
死を含む苦の輪廻から解脱することを目的として古代インドで生まれた「仏教」は大乗仏教の形で先進国中国に伝わり、更に整備された形で朝鮮半島を経て6世紀に日本に伝来している。
それまでの日本古来の神々とは異なり、それまで日本に存在しなかったキラキラと輝く仏像や、それを捧持収納するための荘厳な寺院建築、明確な悟りのための体系の整った経典の数々は、天皇家を初めとする中央の大豪族層に驚異的なショックを与えたのだった。
その結果、新来の仏教を信仰する蘇我氏と大和の神々への信仰を大事にしたい物部氏の二大豪族の抗争を経て仏教は徐々に日本人の心に神道と共に浸透していくのだった。
その背景には、「人間の死」や死に伴う穢れに関する強力な対応策を持たない神道とインド仏教哲学による透徹した死生観を持つ仏教の棲み分けが進んでいったと個人的には考えている。
飽くまでも自然体の神道は「神ながらの道」を尊重するものの大切な肉親の死に対する対応策に不十分なものを感じている人々の心に「仏の教え=仏教」はいつの間にか静かに音も無く浸透していったのではないかと勝手に推測している。
(何故、神と仏が仲良くなったのか!)
原始以来未だに明確な教えも無く、一神教のような厳格な教義も存在しな『神道』なのに今日、全国にある神社の数は8万社以上に及んでいる。
方や、教義のしっかりしている仏教寺院の数は7.7万以上と文化庁の集計にあるようで、両者が拮抗するほどの神社と寺院が日本全国隅々まで分布している。その背景には千数百年に渡る両宗教の日本独特の精神的融和の長い「神仏混淆」の歴史があった点は明確である。
他国の場合、中でもキリスト教で統一されたはずのヨーロッパ諸国では、一方が完全に排除されるか勢力均衡のとれた状況が得られるまで、宗教(宗派)上の争いは収束しないケースが多いが、古代日本では国民性というべきか抗争よりも共存と融和の道を選択していったのだった。
そうなった背景には、神道が十分説明できなかった死への恐怖に対する解決方法や亡くなった先祖に対する具体的な供養方法を仏教が提供できた点が大きかったのではないかと思っている。特に「密教」系の仏教の場合、恐怖を打ち消すための呪術も含めた解決方法を周到に準備していたし、後に、古からある山岳修験道とも密教系仏教は結びついていった経過を見ても、その印象は強い。
それ以上に、如何にも融和を好む日本人らしく神道と仏教の良いところを結合させるべく「神仏習合」と表現されている解決策を模索するのだった。
飛鳥時代になると、「習合神道」、「本地垂迹説」等では仏が神の姿をとって仮に現れる世界を提示している。例えば、天照大神は大日如来の仮の姿と理解されるように古代日本人自身に都合の良い処まで融合が進んでいくのだった。
時代の経過と共に神社と寺院の習合関係は進み、大きな神社に付属する寺院が現れる一方、大寺院の境内にも鳥居を持つ神社が存在すること自体、当時の日本人にとって普通のことだったのである。
例えば、日光東照宮に行くと寺院建築であるはずの広壮な五重塔が今でも残っている点からも奈良から江戸時代末期までの長い期間、「神仏混淆」は古代、中世、近世の日本人にとって普通の事象であり、説明を要しない一般的風景だったのである。
それでは、次のテーマの「神社参拝方法について」触れる前に、前置きとして仏教伝来以来、千数百年続いた日本の「神仏混淆」を打ち破った「廃仏毀釈」について考えてみよう。
(近代に於ける「廃仏毀釈」の影響)
「王政復古」の大号令と共に「神仏混淆」だった日本の宗教界は激震に見舞われる。具体的には、明治2年、新政府は神祇官という古代の亡霊のような役所を太政官と共に政府の最高位の基幹機関として設置し「廃仏毀釈」を強行したのだった。
標的となった寺院では無数の貴重な仏像や仏画が破壊または売却されて、首を切られた石の仏像だけでも恐ろしい量に及んでいるし、全国の廃寺となった寺院の数も信じがたい数となってしまったのである。
一方、長年、神仏混淆によって相互に扶けあってきた神社側は、一部国学者の意見が大きく採り上げられた結果、突然独立を迫られる大変革の時代を迎えることになり、寺社双方にとって激動の時代を迎えることになるのだった。
その一例を挙げると、法隆寺を初めとする奈良や京都の伝統ある大寺院が辟易するほどの攻撃を受け、東大寺、興福寺、法隆寺に継ぐ大寺だった天理市の「永久寺」に至っては完全な廃寺となっている。
維新の大勢力だった鹿児島県のように寺院が壊滅に等しい打撃を受けた県や伊勢神宮のお膝元の三重県のように激しい廃仏毀釈によって二百ヶ寺近くの寺院が県内で廃寺となったところもあったのである。
この全国的な過激な実施行為は新政府の意図するところを超えて広がっている。その背景には江戸幕府が実施した宗教統制の一環としての「寺請制度」に対する反動が根底にあったのかもしれない。
この全国的な暴挙に最も驚いたのが新政府自身だった.なぜならば、「神仏分離は廃仏毀釈」を意味するものでは無いとさえ言い訳を繰り返して鎮定に努めているからである。
そのような背景もあって数年後には穏やかに収まっているケースが殆どだが、一度分離した神社と寺を改めて元の通り合体復帰する行為が行われることもなかったのである。
一般的な国民感情として、古代以来、千数百年に渡って習合して信仰してきた「神道」と「仏教」を全く別個の存在として、一方だけ信仰し、他方を拒否する過激な行為に走りたくなかった流れのまま、今日に至っているのである。
かといって、廃仏毀釈の影響が全くなかった訳では無い。明治維新を好機として神社側の体制整備に利用された節もあるのである。その一つが神社への参拝方法の全国的な統一である。
(意外に新しい神社参拝の固定化)
そもそも、古代日本では諸書の記録によると天皇や貴人に対して中国のような「拝跪礼」では無く、手を拍って貴人に敬意を表する習慣があったという。
やがて、中国との文化交流が進むと宮中では拝礼が主に行われるようになった結果、旧来の拍手は神前の作法として残ったとの説がある。
その他、神様に対しても仏様同様に、合掌してお参りをしていた地域も多かったらしいし、神社によっては「再拝」を主にしたり「拍手」を行ったり、あるいは、その回数も各地の神社で個々ばらばらに行われていたという。
言うなれば、宗教的に自由で寛容の国らしく江戸時代末期までは各神社の参拝方法も尊崇する各社毎にバラバラだったと聞いている。
中には出雲大社や弥彦神社のように、「二礼四拍手一礼」を古礼とする神社もあるし、八幡宮の総本家宇佐神宮のように、「二拝四拍手一拝」を古儀とする神社も存在する。一方、同じ八幡宮でも鎌倉の鶴岡八幡宮の場合、一般的な「二拝二拍手一拝」だと聞いている。
それほど明治以前の日本の各神社は自由な空間の中に存在していた感があり、神道としての統一された意識さえ若干希薄だった可能性さえ想像される。
しかし、明治維新以降、それまでの何事も各地の神社の自主性に任されてきた祭式や参拝方式に関しても官幣社の祭式に習うようにとの指導があり、「再拝拍手」と定められている。
更に、礼拝方式に関しては戦後、「二礼二拍手一礼」の礼拝方法に再度改められて今日に至っているが、未だに出雲大社のように独自の方式を継続している神社も多い。
では、何故、このように明治維新やGHQの諸政策によって大きく神道における参拝方法が変動したのかと考える時、古代以来明治維新まで民族性と表現しても良いほど日本の『神道』は古代以来の自由な慣習の中にあったと考えられる。
民族全体が「精神的な清らかさを好み」、「穢」を恐れ、慎ましい節度を持って共生している社会では、厳しい教条を作る必要も無かったし、神社毎にバラバラの古代以来の参拝慣習を維持していても、誰も不思議と思わなかったし、本来、日本古来の宗教感覚は細事にこだわらない一方、清浄で厳粛なものだった。
その結果、明治維新以降の「神国思想」を含む一部狂信者による神道の鼓吹は「軍国主義」のお先棒を担ぐ歴史的失敗となってしまったのである。
その結末は言うまでも無い先の大敗戦となり、GHQ司令部の圧力による日本古来の宗教事情や国民性も大きく干渉されることとなってしまったのである。
以上、日本の神道に関して個人的に感じている四点ほどに触れてきたが、先考であるO氏のご指摘にお答えできる内容で無いことは、前述した通りです。
しかし、今回の勉強内容が全く収穫に乏しかった訳ではなかった気がしている。中国、韓国を含む東アジアの諸民族と日本人の国民的行動規範を比較するとき、「民族的清潔感」をこれからも大事にする必要を痛感させられた気がしている。