44.『神道』を考える
世界的に観ても宗教的には極めて無関心な国民だと日本人自身が思っているところがあるらしい。友人と会話してみても初詣と七五三の神社参拝、お盆の墓参りとクリスマスイブのパーティが一年の内に混在していることに普通の日本人で違和感を持つ人は少ない。
弥生時代以来の古代の習慣に加えて、飛鳥時代以後に新しく入ってきた「仏教」や「遣唐使」が持ち帰った唐代の節句の慣例まで加えた上、近代に流入した西欧キリスト教文明の習慣まで拒否することなく組み入れる無節操な国民性の結果ともいえる慣習化をみていると日本には宗教が存在しないようにさえ感じられる。
確かに世界中でも最も宗教人口の多い『一神教』を信仰する人々と比べると宗教心は無いに等しい部分があるのかもしれない!
「イスラム教」の一日五回(シーア派は三回)のメッカに向かっての礼拝の習慣やキリスト教徒の日曜日の礼拝の内容を聞いただけで、自分にはとうてい無理だと考える日本人は筆者自身も含めて多いはずである。
そんな中、日本人は古代以来の緩い「多神教的」宗教世界に生き続けている世界的にみても希少な民族である気がしている。
そう言えば、古代ローマ人も多神教世界の自由度を十分に楽しんだ民族だった。神官も互選による就任が普通であり、確か、カエサルも神官職を一時期務めたはずである。しかし、そのローマ帝国もコンスタンティヌス帝の「ミラノ勅令」以降、「キリスト教」を国教として、キリスト教以外の宗教を禁止した結果、今日の西欧キリスト教世界が出来上がったのだと本で読んだ記憶がある。
(日本人の「宗教感覚」)
どの宗教も古代の人々の生き方や息吹を継承しながら各時代の宗教者や政治家、それぞれの国民の理想とする人生哲学等を吸収・発展してきた民族的色彩を強く持っていると思う。
『儒教』にしても孔子が理想としたふんわりとして温かい古代の儒学と前漢時代の政権密着型の儒学は相当異なっているし、それ以上に「仏教」や「道教」の強い影響を経験した宋代の朱熹の儒教は、「新儒教」呼んだ方が適切なほどに理論武装を整えた哲学になっている。
その点、日本の宗教感覚は列島の豊かな自然環境が生んだ古代人の相互意識から生まれたと考えても良いような気が個人的にはしている。
子供の頃、父に連れられて秋田県鹿角市の「大湯環状列石」を見に行ったことがあった。
この縄文時代後期に造られたとされる同心円状に配置された大きな列石の「円」を見ていると、縄文人の意識は対等で平等な関係をどこまでも求めていたような気がした記憶がある。
日本人の宗教感覚はこのあたりや大八洲の豊かな「自然崇拝」が出発点の一つになっていると説く人が多いらしく、個人的にも至極もっともな気がするが、どうだろうか!
弥生時代になって稲作が列島に普及し、列島のどこに住んでも豊で安定した食料供給が可能になった結果、自然災害や天候不順による穀物の減収は古代の人々の最大の脅威であり、生き死に直結する災厄だった。
その点、砂漠や荒野が多く人々が豊に生活できる居住空間が少ない中東の人々の持つ意識とは大きく異なっていた気がする。民族が一丸となって最適居住地を死守しなければ生存さえ脅かされる「荒野の宗教」と譲り合い協力して「自然と向き合う」列島の和の精神とでは、そもそも出発点が違いすぎたのである。
幸せなことに、太古以来の平等感を持つ「円と和」の日本人の精神性は、今日も脈々と生き続けているような気がするし、「列島の豊かな自然こそが」日本の神の姿そのものかもしれないとまで思うことがある。
(『一神教』世界と『神道』の世界)
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教等の『一神教』の世界では強力な神や預言者と共に極めて厳格な『掟』が教義として存在する。そのせいか高校時代に「旧約聖書」を読んだ時にユダヤ教は当に「荒野の宗教」だと感じた記憶が強く残っている。
その伝統は、ユダヤ教に続くキリスト教、イスラム教にも受け継がれており、中世ヨーロッパにおけるキリスト教異端派に対する迫害となって現れただけでなく、大航海時代の「異教徒への大虐殺行為」の正当化に用いられたのだった。
イスラム教に於ける異端派排除の意識は、「スンニ派」と「シーア派」の一千年以上に渡る抗争の歴史を見ても明らかである。シーア派がムハンマドの血統を重視したのに対し、スンニ派は現実重視派とでも呼んだ方が良いほど賢明な指導者の選択を重視している。
けれども、世界史上で重要な選択の時を迎えても中東諸国では、スンニ派とシーア派の抗争の方が重視されて、アラブ諸国の統一的判断が重視されることは少なかった。もし、アラブ諸国が一丸となって「パレスチナ人」を支援していれば、今日のような悲惨な事態を長期間経験することにはならなかったはずである。
しかし、宗派が違うといがみ合う人々ばかりではないようだ。
「同じイスラム教徒だから」
と、寛容な人々も多い。第一、凶暴な「十字軍」が占領する前のエルサレムはイスラム教徒とキリスト教徒、ユダヤ教徒がイスラム勢力下で譲り合って平和に生活していたのである。
日本の場合でも、戦国時代後期の「日蓮宗」と「浄土真宗」のように犬猿の仲の仏教徒も存在したが、一般的には日本の仏教界はフランスで起きた宗教戦争のような大虐殺事件に発展するような宗派間の激烈な抗争に発展する事態は極めて少なかった。
それ以上に、そもそも『神道』には一神教のような絶対的な「教え」が存在せず、自らが自然に学び取るように仕向けている親が子を教え導くようなやんわりとした世界なのかもしれない。
それも、子供時代の正月の初詣のように、親に連れられて、近くの神社に参拝して、「柏手を打って」、その年の平安を祈念し、「拝礼」して帰ってくる程度の極めて拘束力のない慣習から始まるのである。
増して、人々が参拝する神々は「八百万の神々」と呼ばれているくらい無数に存在する上、これからも増える可能性を秘めている多様性に富んだ神々なのである。
(「宗教空間」から観た一神教と『神道』の違い)
ヨーロッパの大都市を訪問して最初に紹介される一つに、その地の大聖堂がある。ゴシック期(12世紀後半~15世紀)、ルネッサンス期(14世紀~15世紀)、バロック期(16世紀末~17世紀初頭)のそれぞれに時代を代表する各地の大聖堂のファサードの高さと偉容に圧倒された記憶がある方も多いと思う。
先日尖塔が焼失したパリのノートルダム大聖堂やケルンの大聖堂、ミラノの大聖堂等々に代表される華麗な建築群はゴシック様式に始まり大航海時代を経て、世界中の富がヨーロッパ諸国に集中した時代に建設されたキリスト教の大建築群である。
これらの威容を誇る絢爛な宗教建築を見ていると一国のプライドと富を結集して長期間の歳月を費やして建築された熱情が伝わって来て、信じる宗教による国民の一体化が確立しているようにさえ感じる。
一方、イスラム教で最も尊崇されているメッカのモスク「マスジド・ハラーム」の映像を拝見すると、荘厳で神聖な神殿に囲まれて大競技場のような空間があり、中央に四角い「カアバ神殿」が建っている。世界中から巡礼に来た敬虔なイスラム教徒はカアバ神殿の周りを周回しながら礼拝している。その様子は一神教ならではの宗教的情熱の発露と昇華の瞬間を見ているようで、日本人の宗教観とは異質ながら人類として大事にすべき宗教による情念の方向性を感じさせる。
人々がカアバ神殿を目指す最大の目的は、預言者ムハンマドがカアバ神殿の東南角に埋め込んだ聖なる「黒石」への接吻が目的だという。しかし、希望する人の数が余りに多くの人々群集した為に、指さす行為に代えられて現代に至るらしい。
その他にも未だ対面する機会に恵まれていない代表的なイスラムの名建築は多い。イスタンブールの聖ソフィア寺院はキリスト教とイスラム教の双方にゆかりのある大建築だし、爽やかな青のタイルが鮮やかなウズベキスタンのサマルカンドブルー(タシュケントブルー)の建築群も実際に拝見したいイスラム教らしい空間の一つである。
これは神殿ではないが実見したインドのシャー・ジャハーンが愛妃のために建設した墓廟「タージ・マハル」のすごさには圧倒された。当に荘厳で華麗な世界一の墓標と呼んでも過言ではない存在感があった。
さて、本題の日本の神々の鎮座する空間はというと、太古、自然の丘や岩、湧き水や山岳等々が主なご神体だった関係もあって、荘厳な建築物群というよりは古代以来の自然が残る神域を護持しているケースが多い。
九州にある宗像大社の場合、玄界灘にある「沖の島」を含めた古代さながらの広大な空間を神域とする神社であり、沖の島の延長線上には朝鮮半島の「新羅」の存在が大きく関わっていたと思われる。その影響か、同社の国宝館収蔵品には、新羅製と思われる金製品の国宝も多い。
また、個人的な感想だが、奈良県に行くと香具山、畝傍山、耳成山の「大和三山」に次いで「三輪山」を想起する場合がある。
大和三山がいずれも200mに満たない海抜なのに対して三輪山は467mもあり、その円錐形の山容は雅な大和三山に比較して格段に堂々としていて、如何にも神の御座す存在感がある。
古代人もそう想ったらしく三輪山に関する伝説は多い。そして、山自体が大和国の一之宮である「大神神社」のご神体であり、太古の昔から「禁足地」であった。
即ち現代に至るまで同社には後世の神社のような本殿は存在しない。大神神社の拝殿に参拝して、背後の三輪山の姿を想像する時、古代日本人の宗教空間が垣間見られる錯覚に襲われるから不思議である。
同様のことは他の山岳信仰の対象である山々でも現代に伝承されている。例えば、青森県の岩木山神社でも山頂から見ると遥か下の麓の拝殿に額づく時、ご神体である岩木山の山頂の奥宮を目指して登ってみたいと意識するから不思議である。
(究極の「神殿建築」)
しかし、現在の日本の神社の殆どは和洋の神社建築の本殿と拝殿を持っている。これは、新来の仏教の壮大な寺院建築の影響に依るものであろう。良い物は直ぐ模倣する慣習を持つ大和民族は仏教寺院を真似て、神明造、大社造、住吉造、権現造、八幡造、日吉造等々の多くの神社建築の様式を創造している。
特に、我々の身近にある神社で本殿や拝殿の無いお宮さんを探す方が難しい位、神社建築は普及しており、敷地内に自家の尊崇する神社を奉った分霊の祠をお持ちの方も多いはずである。
それでは、究極の日本の神殿建築の姿はと考えると第一に指を屈するのが天照大神を奉る伊勢の皇大神宮(内宮本殿)である。
建築様式はというと「唯一神明造」と呼ばれる素木造りで、柱は掘立柱、屋根は茅葺きの簡素な日本古来の方法で造られています。同様の良く似た様式で内宮と対になる「外宮正殿」も造られております。
特徴的なのは、内宮も外宮もそれぞれに東西に同じ広さの敷地があり、20年に一度、「式年遷宮」と称して、古例のままにご社殿とご神宝を含めて全て新調する慣例があることです。
式年遷宮は古代以来1300年に渡って先祖によって守られてきた長い伝統性もさることながら、簡素でありながら清新な姿を好む如何にも日本民族らしい民族行事でもあります。
伊勢神宮に参拝した外国人は、想像していたよりも親しみ易い日本文化の一端に触れて帰る方々が多いと聞きますし、そのシンプルな本殿の美しさと神秘性に魅せられる知識人も多数存在するようです。
(未だに古代人の感覚が残る『神道』)
そういう意味では『神道』の場合、自然の広い宗教空間を神域としている神社も多いし、古代の行事を現代でも営々として続けている神社も多い。
即ち、皇室を始めとする現代日本の『神道行事』を観ても、未だに古代日本人が自然に対する恐れや尊崇の念を抱いていた頃の感覚が濃厚に残っていると感じる瞬間がある。
その一例が、神への勤勉な労働奉仕を重視する日本人の民族性であり、現代でも当に弥生時代そのままに天皇陛下自ら田植をなさっていらっしゃるし、蚕に桑を与える皇后陛下のご様子は時を超越した美しい日本の原風景の一つだと勝手に感じている。
豊かな自然に恵まれた列島に住み、稲作が普及したことにより勤勉な労働が日本民族の保証してくれるようになった「弥生時代」、古代日本人は『自然』の脅威(=神々の怒り)を恐れ、勤勉で誠実な生活態度を示すことほど八百万の神々が喜ぶ行為だと信じたのではないでしょうか!
古代に於いて列島の絶対的な権威を確立しつつあった「大和朝廷」にしても、中東を起源とする三つの「一神教」のように極端に排他的行為に走ることはなかったのである。
朝廷の尊崇する祖神「天照大神」への敬意さえ失わなければ、各部族や各地方の神々の存在と権威を大和朝廷自身が許容して吸収していったのだと思います。だからこそ、古事記や日本書紀に登場する「八百万の神々」が現在まで連綿と存在し続けて来たのだと感じる。
その結果、平安時代の菅原道真を祭神とする「天神様」を始めとして、明治天皇をお祭りする「明治神宮」等、日本の神様は近代になっても増え続けているのである。
それは、自然を大事にし、優れた先人を尊崇する古代以来の『神道』の精神が脈々と国民の間に息づいている何よりの証拠なのかもしれない。
現在では武蔵野の一部と呼んでも可笑しくないくらい見事に木々が生長繁茂した明治神宮の森の存在に、参拝する西欧人達も何かしらの感動を覚えるという。
このように、古代から続く日本独特の『和』の神域は喧噪の続く現代の大都市東京でも人々に清逸な空間を提供し続けているのである。
このところ『儒教』を中心したに東アジア三カ国の政治面や信仰面での影響を勉強してきた。その結論として、特に、三国の中でも朝鮮半島に於ける儒教の影響を強く感じた次第だが、その正反対の位置にいるのが日本の神道のようにさえ感じられる。
第一「神道には厳格な教えや一神教のような教義」は存在しないし、逆に、自然や親を含む人間同士の交際から自得するよう求められている宗教のようにも感じられる。
もっとハッキリ言うと「実態の見えない」懐の広さでは世界でも珍しい宗教?なのかも、知れないし、その背景には、古代日本の豊かな自然が生んだ今来の人々を拒むことのない包容力のある国民的文化なのかもしれないと想った。