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42.『儒教』を十分に理解出来なかった日本民族

北東アジアの中でも比較的自然に恵まれた半ば独立に近い列島に古代から居住していた日本民族は、古代、縄文時代以来の自然崇拝を基盤とした多神教の世界に生きていたと考えられる。その結果、新来の多様な外来文化に遭遇しても驚かない感性を持っていたし、それ以上に新しく海を越えて渡来する新文化に大きな興味を持つ民族性が育っていた気がする。

当時、「今来の才伎いまきのてひと」と呼ばれた帰化人の持ってくる新技術や海を越えてやって来た文物や学問に尋常ならぬ興味を寄せていた印象が強い。

そして、それらに対し自分達なりに取捨選択して吸収していったと考えられるのである。大きなところでは今日まで続く「漢字文化」がそうだったし、宗教面では「仏教」も同様であった。

その点、同じ東アジア世界の漢字文化圏に属しながら、『儒教』に関しては総本家である中国や儒教を尊崇して「小中華思想」を大切にして生きてきた朝鮮王朝とは全く別の道を歩んできたように感じる。

どうも、日本人は古来『儒教』を思想として十分に理解出来ていなかった可能性が高い。

韓民族が『儒教』に感じた宗教色の極めて濃い尊崇の観念から出発したのに対して、我が日本民族は種々の学問の一つとして「儒学」を尊敬する程度に止まったのである。

どちらかというと儒学は道徳的規範や人間としての倫理観の標語が記載された教科書として古代の日本人から見られていたのかも知れない。


(『儒学』の日本への伝来)

儒教の日本への明確な伝来としては百済から6世紀初頭の大和朝廷へ「五経博士」が遣わされた記録が最初のようである。

確かに、皆さんご存知のように五経には孔子の論語は含まれず、古代中国や朝鮮半島の儒学者達にとって尊崇すべき儒教の根本資料は孔子の「儒教」では無くて、「詩経」を初めとする孔子以前の中国古典の五経だったのである。

それでは後世になって、最も儒学で重要視される四書の一つ「論語」が何時日本に入ってきたかというと、余りハッキリしたことは解ってはいないが、5世紀頃には伝来したと考えられるから、儒教の伝来は仏教よりも早かったと考えられる。

では何故、儒学よりも仏教が日本社会に浸透していったかと考えると仏教と違って、「儒学」は日本では宗教と言うよりは「学問」として認識された上記したような結果ではないかと勝手に想像している。


仏教が当時の有力者蘇我氏の強力なバックアップもあって急速に日本国内で力を付けていった背景には、その荘厳な仏像や周辺の装飾、そして壮大な寺院建築の存在も無視できない物があったはずである。

その結果、「論語」は人間としての行動倫理や生き方の手本等の教科書的な採用に止まったのに対して仏教は天皇家をはじめとして豪族や一般庶民まで広範囲な人々の心を吸収していったのではなかったかと想像される。

それに、もしかしたら、当時、大和朝廷は隋や唐とは対立しないまでも、独立的な独特の国際的位置関係(我が国の遣唐使は中国の年号を記載した国書を持参しなかった)を維持したい背景もあって、中国発祥の「儒教」の宗教的受け入れに消極的だったのかも知れない。


(平安時代は人気の無かった孔子)

以前述べたように中国や朝鮮、ベトナムと違って「科挙」を採用しなかった日本人にとって、倫理面での参考書程度の意味だけしか「論語」等の儒学関係の古典は持たなかったようだし、同様に「道教」に対しても日本人は冷たい扱いだった。

加えて、仏教に於ける空海や最澄のような伝道者としての有力者が道教や儒教で現われなかった点も儒教が大きく発展できなかった背景にはあるような気がしている。

強いて、儒教関連で日本人が平安時代に大きな興味を持ったのは「陰陽道」くらいではなかったのかと思っている。道教や儒教から離れて平安時代中期には安倍晴明等の存在もあって人気を博し、人々の生活に溶け込んでいる様子は今昔物語を初めとする当時の説話集から受け取れる。


そんな中、「論語」は知識人の中でどの様に受け取られていたのだろうか?

まず、第一に気付くのが、平安時代や鎌倉時代の日本の古典に登場する論語等の儒教関係の書物からの引用が極めて少ない点である。

流石に清少納言や紫式部等の教養溢れる平安朝の宮廷貴族の女性達は論語を読んでいるようだが、白氏文集等に比較すると熟読した様子は見受けられない。

比較的、論語からの引用の多い古典に「今昔物語」があるが、孔子を聖人として尊敬するよりもまじめな孔子の行為をそれ程尊敬に値しない行いだと斜めから見ている様子が窺える記述が多い。


(「後醍醐天皇」と「朱子学」)

 古典の「儒教」に反応しなかった古代日本人だったが、中国から新来の「朱子学」を中心とした宋学に過敏に反応したのが歴代の天皇の中でも英明の誉れの高い「後醍醐天皇」だった。

後醍醐天皇は新しい儒学である「朱子学」の主張する「正義」に大きく共鳴する一方、天皇独裁権の強化と我子への皇統伝承の正統性を朱子学に求めた可能性が強かった。

その点、身分秩序を重要視し「大義名分論」に立つ朱熹の主調と後醍醐天皇の希求した天皇独裁政治ヘの理想は後醍醐の頭の中で大きく合致共鳴したのではないだろうかと個人的には思っている。

何と言っても朱子学の主調は国家を統治する側にとって極めて都合の良い論理であった。その証拠に、宋を滅ぼした「元」も元を滅亡させた「明」も、満州族が建国した「清」の何れの王朝も朱子学を国家統治の根本思想として採用しているからである。

朱子学の正義論に感動した後醍醐天皇は日本国の帝王である自分自身が親政を行う理論的な裏付けを得たと錯覚して、皇統の権威強化の手段とする理論はこれしかないと固い信念を植え付けられて倒幕行動に走った気が太平記を読んでいると紙背から感じられる。


「宋学」の影響は「神皇正統記」を著わした北畠親房や南朝の忠臣と称えられた楠正成を初めとする同時代の教養人の行動からも窺える。朱子学が示す正義の実行の為には、難敵と雖も倒すことを名誉として奮闘する精神的な背景を最新の宋学から親房や正成は得ていたのではないだろうか!

そう考えると小さな赤坂城や千早城に籠もって鎌倉幕府の派遣した数万の大軍を一手に引き受けて奮戦した楠軍の精神的背景が理解出来るような気がするし、親房顕家父子の奮闘も納得出来る気がしてくる。

しかしながら最新の宋学である「朱子学」で理論武装した後醍醐天皇だったが、長年政治の実務から遠ざかっていた公家中心の政治システムを根幹から改善する能力が完全に欠如していたのである。

実務政治を担いたい日本中の武士達にとって、気にくわない「鎌倉幕府」の滅亡は喜ばしかった反面、その一方で多くの武士の要望を満たしてくれる斬新な幕府の登場も求めていたのである。

南北朝争乱の結末として多くの武士達が求めていた結論は、「朱子学」理論による理想の天皇政権の樹立ではなく、如何にも日本人らしい、妥協の産物による武家主導の「室町幕府」の成立だったのである。


(儒学者「藤原惺窩」の登場と「徳川幕府」)

南北朝期に一時脚光を浴びた宋学を中心とした「儒学」だったが、その後停滞の時代が長く続いている。その壁を破ったのが桃山時代に登場した藤原惺窩だった。

惺窩は最初、儒学を学ぶために明への渡航を志すも失敗、慶長の役で日本軍の捕虜になった李朝の儒学者「姜沆カンハン」と親交を結んだことにより本格的な儒教を学ぶことが出来たのだった。惺窩は朱子学を中心に陽明学も含めて広く「儒教」全体を学んでいる。

一方、同時代に次ぎに来る大平の世の治世の指針として「儒学」に着目したのが戦国時代の勝者徳川家康であった。

徳川家康の勧誘に惺窩は弟子林羅山を推薦、羅山は二代将軍秀忠と同年代と謂うこともあって四代家綱まで歴代の将軍の侍講を務め幕府の官学としての儒学の存在を高めている。

しかし、代々大学頭を務めた羅山の系統は朱子学中心の儒学の重要性を強調する一方、同じ儒学でも陽明学には冷淡であり、日本古来の神道には理解を示す反面それ以外の仏教を含めた多くの思想や諸学には批判的な態度を示す傾向があった。


そのような時代、『儒教』が武士の教養の一つとして重要視されるようになった背景には第五代将軍徳川綱吉の存在を忘れることは出来ない。

儒学に心酔した綱吉は儒教の重視する「仁」と「礼」に基づく政治姿勢を尊重して、「湯島聖堂」の建立を行う一方、大名や旗本に儒学の講義を自ら行う熱心さを示している。

綱吉というと「生類憐れみの令」が有名だが、彼の本心としては国民全体に「仁政」を敷くという理想に立った政策だったと考えられる。残念ながら行きすぎた点が多くあったため後世批判の多い施策だったが戦国の殺伐とした遺風を排除して法令に従う平和な世の中の招来に貢献した事実を忘れてはいけない。


この後、日本も含めた東アジア三カ国は西欧の砲艦外交の脅威に直面する緊急事態の時代を迎えることになるのだが、そのテーマに関しては項を改めて勉強したいと思っている。

もちろん、その折には近代化と儒教の関係も触れてみたいと思っているので、先走りすぎるとは思うが幕末期の陽明学の影響も含めて、最後に日本に於ける『儒教』の影響に関して整理してみたい。


・古代日本人の殆どが舶載される書物によって中国文化を学んだ結果、多くの中国古典を聖人の書として理解した反面、中国人と直接接触の多かった李朝の両班達のように実生活の規範としての思想的な受け入れが出来なかった背景が日本人には強い。

・建武の中興を含めて『儒教』、特に「朱子学」の日本定着は大きく遅れ、徳川綱吉の時代を待たなければならなかった。

・逆に、幕末に於ける日本の驚異的な識字率の助けもあって、理想的な倫理観を記述している学問としての「儒学」の存在は武士を中心に庶民にまで浸透していたと考えられる。

・その点、朱子学に続いて出現した「陽明学」は実学的要素を含み、李朝よりも武士社会の日本で受け入れられた傾向が強い。極端な言い方をすれば、「武士道理論の一部は陽明学的な思想を含有している」とみる考え方も出来る。

・一方日本人は学問として「儒学」を尊重する一方、多神教的な国風から李朝的な『儒教』精神を排除し、陽明学や蘭学及び西欧諸国の新知識の導入に幕末期奔走するのだった。


                                                   以 上


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