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41.『儒教』の呪縛と『小中華思想』に支配されてしまった韓民族

古三国時代の朝鮮半島の国家群は「仏教」崇拝の観点からも古代日本に近似した思想を国家も国民も持っていた印象が強い。

しかし、高麗王朝を経て「李氏朝鮮王朝」が建国されると国家思想も支配者階級である「両班層」の考え方も大きく変化している。

李朝以前の高麗王朝の光宗の時代から中国と同様の科挙も実施されてきたが、高麗の国家思想の基本は「仏教」であり、政治面での儒教尊重とは別次元の存在だった。しかし、南宋末期から元の中国統一の時代に「新儒学」と呼ぶに相応しい「朱子学」が伝えられ、朝鮮半島の知識人の国家意識は大きな転換期を迎えたのだった。

加えて、漢民族の王朝である南宋を征服した「元」が官学として「朱子学」を採用したショックは韓民族にとって強烈な印象を与えている。

それ以上に驚くべきなのは「華夷思想」を強烈に打ち出した朱子学が夷狄である元王朝によって採用された点であった。それだけ朱子学の示す「性即理」と階級秩序の肯定は支配者側であるモンゴル人の皇帝にとっても歓迎すべき論理だったのであろう。

その後「元」を北方に追った「明」も、明を滅ぼした異民族である「清」も朱子学を尊重して官学としての地位を確固たるものにしていったのである。

この様子をリアルタイムで観察していた韓族の知識人層にとって、「朱子学」の尊崇と学習こそ新しい時代に対応する好ましい国家思想に映ったことだろう。

この朝鮮半島に於ける思想の国家的大転換期である「李氏朝鮮王朝」の建国から考察を始めてみたい。


(「李氏朝鮮王朝」に於ける「国家思想」の大転換)

この国家の拠って立つ基本思想を「仏教」から儒教、それも「朱子学」への大転換を計ったのが、李朝の太祖李成桂と彼を取り巻く「鄭道伝チョンドジョン」を中核とする新鋭の知識人達であった。彼等は従来の高麗の中心思想である「仏教」を痛烈に批判して、「朱子学」を新国家の統治理念とすることを強く主張している。

この思想は、太祖及び第三代の太宗、第四代の世宗の歴代によって徹底されていくのだった。

小国だけに『儒教』の本家である中国よりも新儒学である「朱子学」に心酔して新国家建設の理想に燃えた李氏朝鮮王朝の場合、それまでの仏教に替えて『儒教』への大転換は徹底して行われた印象がある。それは、国王と側近の指導者層から始まり庶民を直接支配している「両班層」へと広がっていったのである。

ここに、神道と仏教の混在する思想を信奉する日本とは大きく異なる単一思想による強力な「儒教国家」が建設されたのだった。


(中国儒教の直弟子「李氏朝鮮の儒教」)

儒教の国内化に関しては高麗時代後期に国立大学である「成均ソンギュン館」を儒学専門大学にした経緯があり、高麗末には知識階級に中国と外交を続ける上での儒教の重要性、特に朱子学の比重の重さが充分浸透していた感がある。

その流れに沿った『儒教』による国家思想の統一と両班層の「科挙」による政治参加体制を確固たるものにして李氏朝鮮王朝の国家基盤は確立したのだった。

儒学教育の推進には最高学府である「成均館」を初め地方毎に多くの「郷校」が設けられて管理職試験である「科挙制度」の支援制度が整備されていった。

16世紀になると私塾である「書院」が各地に起こり、両班層教育の重要な機能を発揮していくのだった。書院の数は、時代と共に増大して正祖(在位1776~1800年)の時代には全国で650ヶ所に及んだという。

しかし、書院数の激増は反面では李朝の政治的癌である「朋党抗争」の影響であり、政治の健全性の崩壊を促進する側面も含んでいたのである。

問題はそれだけでは無かった。李朝の書院は如何にも朝鮮民族らしい書院専属の奴婢まで所有していたのだった。書院に関係する両班は、儒教関連の書籍の収拾に意を用いるだけでなく書院で使用する下層民である奴婢の確保にも気を配って自己権力の維持を図っていたのだった。

そこに、李朝両班層に於ける権力誇示の一端を見る思いがする。幕末に於いての日本の寺子屋の数も驚異的に増大しているが、奴隷的下層民を所有する寺子屋の存在を聞いたことは無い点に日韓の国民感性の大きな差異を感じる。


(優れた「朱子学者」の輩出)

儒教の本家中国人達が異民族征服王朝との議論や国内の政争に都合良く儒学を利用したのに対して、李氏朝鮮王朝の支配階級だった「両班層」の知識人達は中国から伝わった「朱子学」を純粋に探求して、優れた朱子学者を多数輩出している。

この点は、学問や倫理としての「論語」理解に止まった日本に対し、国家的儒教浸透であり、李朝中期には最早、国教としての『儒教』が李王朝全国民に行き渡ったと考えるべきなのかも知れない。


李朝の儒教を考える時、「宋明理学」と呼ばれる宋代及び明代から起こった新しい儒学である「朱子学」をベースに考える必要がある。李朝建国当初から学問的研鑽を重ねた李朝の儒学者達は16世紀に最盛期を迎え李滉イファン李珥イイの二大儒者を輩出している。

因みにこの二人は韓国紙幣の肖像画に登場して我々にとっても馴染みの顔である。李珥のお母さんは賢母としても女流画家としても有名な申師任堂シン・サイムダンで高額紙幣5万ウォンを飾っている。

その他にも多くの優れた儒学者を李朝は生んだが、反動として起きたのが『儒教』の強調する強烈な階級差別の徹底であった。

母国の中国でも年令や社会階級、性別によって身分差を区別していたが、この差別的階層差を更に強調して封建制搾取社会の社会秩序に適用したのが韓族であった。

特に最下級の賎民や奴婢は日常的に財物を搾取されるだけでなく、もし抵抗でもすれば重罪に処せられて殺される場合も少なくなかったのである。

女性の場合でも特に両班の婦女には儒教道徳の履行を厳しく求められ、外出も夜の10時から12時と規定されて、昼の京城の街も見たことも無い女性も多く当時は存在したという。

このように李朝での儒学は、人間の平等性を全く無視した弱者迫害の公的手段として五百年に渉って朝鮮社会に君臨し続けたのである。


(李朝の『小中華思想』)

その結果生まれたのが李朝の『小中華思想』である。中国の「中華思想」自体、蕃夷である周辺民族に対する漢人優位の全く平等感に欠ける思想だったが、李朝の知識人の間で唱えられ出した『小中華思想』は自らを中華と並び立つ存在の「小中華」として規定して、周辺の日本を含む自国以外の海東諸国を一格下の国家として自己満足して、自身のプライドを満足させたのだった。

李朝の両班達にとって理想とする中華国家「明」に次ぐ朱子学信奉の朝鮮は第二の中華思想を実現させた理想国家だったのである。

しかし、小中華思想に心酔していた朝鮮王朝にとって驚天動地の大事件が勃発する。朝鮮以下の蛮族と李朝が思っていた女真族の「後金(後の清朝)」が中華である「明」を滅ぼしてしまったのである。

更に、李朝よりも劣るはずの清の太宗率いる大軍に朝鮮の仁祖は屈服し、「三田渡」に於いて後金の太宗の座す檀の前で土下座する「三跪九叩頭さんききゅうこうとう」の屈辱的城下の盟を強要されたのだった。

更に後金からは、この事件と経過を石碑に刻んで永久に保存するように要求された結果、誇り高い「朱子学」崇拝者である李朝の国王以下にとって「三田渡の屈辱」は精神崩壊を感じさせるほどの大事件であった。


後金の強大な武力に圧倒されて心ならずも夷狄である満州族に屈従した李朝だったが、心中では宗主国である「明」が清を打倒することを秘かに希望するのだった。

しかし、現実には宗主国明の滅亡と清朝の中国本土全域の占領と統治となってしまったのである。

その絶望的状況の中でも『小中華思想』を遵奉する李朝の知識人達は北伐の準備を整えるのだった。しかし歴史的事実として益々強大化する清朝の前に、李朝には全面的な屈服の道しか残っていなかったのである。

それでも、プライドの高い李朝の人士達は心の奥底で本当の「中華思想」を護持している国家は残念ながら自分達の「李氏朝鮮王朝」しか存在しないとの固い信念を持って生き続けたのである。

更に、近代に於いて新興日本に遭遇すると、夷狄倭国を見下す『小中華思想』が復活し今日でもその残影を報道のそこここに感じる瞬間がある。


(李朝が形成した韓族の国民性と文化)

韓国のことわざに、「犬のように儲けて両班のように使う」ということわざがあるという。その大意は汚く儲けて綺麗に使うということらしい。いうなれば虚言を弄して詐欺に近い行為をしても金儲けに邁進すべきだし、地位と名誉を手にしたら口を拭って欺瞞に満ちた生活をしようとも外見的には清らかに見えるということらしい。

そういえば李朝時代から家計は奥様の専属事項だったと聞いているので、裏側での金銭拘わるもめ事の多くは家計を預かる女性が処理し、両班である当主は表向き何も知らぬ涼しい顔をして居たとも考えられる。

確かに、李氏朝鮮王朝では、左右両派の派閥闘争が数百年にわたって際限も無く続いて国力の衰退と社会の発展を大きく妨げている。それ以上の実害は、政権を掌握した方は、全てが正義であり、どんなウソでも歴史的に正当化されるという恐るべき歴史的事実の歪曲化が通る社会常識が国民の間に徹底されたのだった。


以上、李朝を中心に朝鮮半島に於ける『儒教』の影響を考察したために、どうしても辛口の評論になってしまい申し訳無かったと反省している。

もちろん、先進国中国に倣った歴代朝鮮王朝には本家中国や独自の道を歩んだ日本よりも優れた業績も多い。高麗朝がモンゴルの攻撃を受けて苦しい中で再彫させた「伽耶山海印寺大蔵経」や李王朝が歴代の国王の事績を記録した「朝鮮王朝実録」の存在である。

太祖以来、27代519年間に渉って編纂された同実録は災害や戦乱による消失を考慮して国内四箇所に収蔵されていた為、歴史の荒波に耐えて、今日ユネスコの世界遺産として現存している。これだけ大部で精密な国王の事績が残っている貴重さを韓民族は世界にもっと誇って良いと思う。

また、江戸時代の日本陶磁器の発達を考える時、朝鮮半島出身の多くの陶工の偉大な貢献を忘れてはいけないと思う。今でも、井戸茶碗の名品「喜左衛門」や高麗の翡色青磁の花生を見る時、その文化の奥深さに感動させられる日本人は多い。


(韓族の「国民性」に及ぼした『儒教』の影響)

日中韓三ヶ国の『儒教』からの影響を整理・比較すると現代に於いて国民生活に最も強く残っているのが韓国であり、政治外交面で中世的な影響が残存しているのが中国であり、和服から洋服に着替えるように最も容易に脱ぎ捨ててしまったのが日本のように感じる。

そう考えると、中国人の「国民性」に及ぼした『儒教』の影響のところで、テーマが大きすぎて直ぐにはまとまりそうもないと言い訳をさせて頂いた。

この稿でも諸書を参考に色々な方のご意見をピックアップして列挙してみたので皆さんのご参考にして頂きたい。


・高麗王朝と李王朝を合わせて約一千年の『儒教』学習の歴史は、「科挙」と「宦官」制度の採用もあって、「中国を最上位」とする隷従的思考の民族性を造ってしまった。

・北隣の中国東北部の女真族のように中国本土に侵攻して中国人を屈従させる気概は朝鮮人には無かったが、学習した「朱子学」を基とした「小中華思想」を重視することにより他民族、特に日本民族への優越感を満足させてきたのだった。

・朝鮮儒教の特徴の一つに、支配者に都合の良い「強固な身分主義」の押しつけと民衆への刷り込みがあった。

・約千年に渡る朝鮮半島での「科挙」制度実施の残影は、現代社会での「高学歴万能」崇拝となって色濃く残っている。

・常に地政学的な位置関係からくる圧迫を中国本土及び中国東北部の騎馬民族から受けた韓族は、自分達では打開できぬ恨みを朝鮮民族特有の「ハン」として心の奥底に内在させていくことが特有の民族文化的思考様式になっている。

・韓国近代文学の祖李光洙リ・ガァンスが指摘しているように韓民族には「虚言と欺瞞」の習癖ともいうべき民族性がある。

・特に、韓族が劣等民族と位置付けた日本人からの圧迫の記憶は大陸諸国からの侵略に比較して短期間に過ぎなかったにも拘わらず強烈な記憶となって民族の中に沈積している。

・李朝時代の弊害が現代に続く社会構造を造ってしまった一つに、「朋党政治」による派閥闘争の激化と政争に勝てば勝者は何をしても許されるという社会的慣習が出来上った点がある。現代でも保守派と革新陣営の政権交代の際、前任の歴代大統領は有罪とされ自殺者さえ出ている。

・また現代の韓国外交が、「憐憫の情を相手に求めるのは、次の攻撃のための足掛かりを造る為の準備段階」であると日本人は留意すべきであろう。 

                                                     以 上


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― 新着の感想 ―
[良い点] いつも興味深い話題、今回は時事のお話しを有難うございます。 朝鮮半島の文化を考えるに、元支配の影響は非常に大きいようですね。 高麗王朝忠烈王以降は、高麗王は「駙馬高麗国王」となり、実質 …
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