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40.『儒教』の総本家中国の儒教と「中華思想」

前稿で李氏朝鮮王朝の『両班』に関連して入門レベルの儒教を勉強してみたが、今一つ日中韓三ヶ国の国民生活に及ぼした『儒教』の影響に付いて十分に触れることができなかった物足りなさを感じている。

そこで、今回は『儒教』の実態とその及ぼした歴史的影響を僅かでも探ろうと昨今人気のあるケント・ギルバート氏の『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(2017年)や日中間に横たわる種々の歴史現象に独特の健筆を振るっておられた陳舜臣氏の『儒教三千年』を初め、相当数の関連書籍を読んでみた。

その中の一つに異彩を放つイタリア生まれの日本文化史研究家、パオロ・マッツァリーノ氏の『エライ人にはウソがある――論語好きの孔子知らず』(2015年)があったので、今回は、同書の読後感想をベースに「各国の国民性に及ぼした儒教の影響」に対する私見を記述してみることにした。

それでは、『儒教』の総本家中国からスタートしてみよう。


(未完成が幸いした本家中国の『儒教』)

高校時代、孔子の弟子達が愛すべき師匠の言行を記録した『論語』を読んでいると、その捕らえ所の無い内容に困惑した記憶がある。

確かに、二千年以上に渉って東アジア漢字文化圏の人々を中心に世界の知識人を魅了してきた名言、名句の数々が並ぶが、冷静に読めば読むほど現実から逃避する「古代崇拝者」である孔子の妄想の羅列に苦しめられた印象が強い。

行間からは、

「現代は何と腐りきった世の中だろう。昔は良かった。特に周公旦の時代は素晴らしかった」

と、孔子の溜息が聞こえてきそうである。

もちろん、孔子の生きた時代と周王朝初期の周公の時代には約五百年の時間差があり、周公旦の謦咳に孔子が接した可能性は全く無いし、周公旦に関連する貴重な文書を孔子が所有していたとの伝承も無い。


それに「論語」には文章の前後で矛盾を感じる箇所も多い。後年、宋時代や明代の儒者が仏教や道教の持つ体系的記述に較べて大きく劣ると感じた理論的な欠陥も論語には多分に含まれているという。

それなのに孔子は周公の定めた「礼楽」を理想の姿として弟子達との会話を楽しんでいる様子や、そんな師を多くの弟子達が愛していたほのぼのとした様子が「論語」の各所に感じられるのである。

このような教育者としての飛び抜けた素質と官人階級に対する挑戦者としてのおおきな挫折を経験した孔子の『儒教』が、どの様にして歴代中華帝国の中軸思想として変化して行ったのか考えてみると最大の要因が、『論語の完成度の低さ』にあったような気が個人的にはしている。

結果的には論語の「目的を持たない未完成の内容が幸いして」一神教であるキリスト教やイスラム教のように厳格な理論性と信徒に絶対的な服従を求める内容を全く感じさせないところに、各時代に対応出来る『儒教』の広大な拡張性を感じるのである。

即ち、多くの理想や疑問、可能性を提示しながらも、明確な理論的回答を与えることが少なかった『論語』は、後代の儒教崇拝者達によって時代の進化に合わせて都合良く解釈される可能性を秘めていたのである。

その結果『論語』は時空を超えて孔子の理想世界とは全く異なる中華帝国思想の支援思想である『儒教』として完成されたと考えたい。


(時代の変化と共に大きく変わった『儒教』)

宗教書としても哲学的思想体系の書物としても完成度が低かった『論語』は、孔子の没後から孔子を愛する弟子達によって信仰的崇拝の対象となっていたが、それ以上に『儒教』は、その優秀な後継者達によって大きく変質するのだった。

その第一段階が『孔子の聖人化』であり、第二段階が孔子には無かった『儒教の理論武装』の時代だった。

そして、更に儒教の政治的な地位を確立したのが宋代後期の「朱子」による『新儒教』の時代である。以下に、その三つの時代の概要を示す。

 

 (一)後継者による『孔子の聖人化』の時代

  孔子の没後、時間の経過と共に時代に合わなかった「理想主義」を標榜した

 孔子の「聖人化」が進行する。「礼」による統一国家樹立を試みようとする孔子

 の理想は、「法家」のように実戦的でない反面、国家が理想論として掲げるに

 は最適な表象だった。


 (二)「五経」重視による第一次理論武装の時代

    漢の時代になると「儒教」は徐々に脚光を浴び、皇帝権力の正当化の手段

   として国家によって重用された。しかし、この時代の儒学は孔子の言行録で

   ある「論語」が主役では無かったのである。漢代の儒学の教科書は孔子も

   重視した古典の「五経(詩経、書経、易経、春秋、礼記)」であり、論語は副

   読本的な扱いだったのである。


 (三)「朱子学」を背景とした「新儒教」の時代

   哲学や宗教としての完成度が低かった儒教を仏教の持つ哲学理論や唐朝

  の好んだ道教の思考方法も参考にして完成度を高めたのが宋代の儒者達で

  あった。その中で儒学者達が重視する儒教の重要教科書も朱子以降、古来の

  五経から「四書(大学、中庸、論語、孟子)」へと変わり、「朱子学」は儒学の本

  流となったのである。


そのように各時代を代表する後継者の出現もあって、素直な自己主張と弟子達への愛情に溢れてはいたが宗教書としても哲学書としても未完成だった『論語』が歴史の流れの中でゆっくりとその価値を高めて浮上していったのである。

そして、後代の儒学者達が時の政権と結びつくために熱を籠めて推進したのが、天命による「易姓革命」の擁護と新王朝による新しい「階層的秩序社会」構築への惜しみない協力体制であった。

中でも、軍隊による大量の殺人行為により政権を掌握した異民族王朝にとって、『儒教』による新政権の理論的な承認と政権強化の為の「新秩序」の肯定ほど好ましい協力はなかったのである。


(『中華思想』と『儒教』)

『儒教』と共に歴代の中国政権の殆どが愛して止まなかったのが、中国の誇る偉大な『中華思想』であった。

唐を始めとする歴代の中華帝国は周辺諸国との対等な貿易関係を認めず、「進貢制度」による宗主国と隷属国の関係を周辺諸国に求めているが、その最大の根拠が『中華思想』であった。

偉大な中華文明の主催者である中華帝国にとって、進貢を求める権利は議論するまでも無い当然の権利であり、夷狄である周辺諸国は素直に従うべき思想だったのである。


しかし、中国の歴史を読んでいると途中から大きく雰囲気が変わる瞬間がある。確かに「天命」により即位した天子による「易姓革命」が漢民族間で行われている時代は良かったが、漢に続く「五胡十六国から南北朝時代」や唐に続く「五代十国」の時代は、異民族王朝が乱立する乱世であった。

そんな折、久し振りに成立した漢人王朝「宋」の知識人の反発を文章にした「資治通鑑」が出現している。同書は宋の英宗の勅により編纂された編年体の歴史書で編集の責任者が儒学者の司馬光であった。司馬温公とも呼ばれた司馬光は編纂に当たって華夷の秩序と漢民族王朝の正統性に意を用いている。

その背景には「中華」と「夷狄」を峻別した漢人優位の「宋学」があった。漢族の優越性を強調する司馬光を初めとする宋代知識階級の根底には「中華思想」が厳然と横たわっていたのである。


しかしながら、歴史とは皮肉なもので「中華思想」で盛り上がった北宋も南宋も次々と滅亡し、モンゴル族による植民帝国「元」が建国されたのだった。

その元を北方に追いやって建国した漢民族の「明」も中国東北地方の女真族の一派満州族の侵攻によって国土を失い、再び異民族の植民帝国「清」が成立するのである。

しかし儒学は植民地化された元の中でもしぶとく生き残った上、「朱子学」は「元」によって官学として採用されて科挙試験の拠り所となっただけで無く、元に続く「明」そして「清」の歴代王朝で儒学の主流として継承されている。

その背景には覇権を握った強者を柔軟に追認する融通無碍な『儒学』の存在があった。


(何処か『倫理』に横着な中国人)

異民族政権であっても容易に許容してくれる儒教の存在ほど征服者にとって好ましく可愛い思想はなかったのである。

そう考えると中国人が乱世を生きて行く巧妙な手法の一つとして、孔子の教えである『儒教』の存在を重視していると感じる。

しかし、その一方で中国人の歴史的対応を観ていると、「富貴」や「財貨」に対する執着力が日本人に較べて異常に高いように感じる。

その様子は庶民層を中心とした「道教」への傾倒を観ても容易に推測出来る。道教の神々は日本の八百万の神々には及ばないものの少なくとも二百種以上に及ぶらしい。しかし、それ以上に注目しなければならないのが様々な信仰を取り込んだ神様の種類の多さである。

その種類は、無数の願望の全てが網羅できるほど多彩であり、これからも増殖する可能性さえ秘めている。天界の最高位に位置する「三清さんせい」を初め、天界と人間界を取り結ぶ「玉皇上帝」、女神の「西王母」、商売の神様「関聖帝君」等々が居並んでいるし、星座毎に神々が存在する一方、自然界の神々、冥界の神、女性専用の神、そして仙人の先達者まで無数の神々が圧倒的数の中国人民の要望に応えて存在していたのである。

その数は共産中国になってから極端に減少しているが、台湾では未だに中国古来の道教の隆盛を覗くことが出来る。台湾各地の無数の道教寺院を巡っていると、それらの豪華絢爛で多数の神を祀った伽藍が本来の中国人の要求への回答を示しているように感じた。


中国の歴史を振り返って見ると漢族は異民族支配者も含めた時の絶対権力者との交渉の道具として『儒教』を巧妙に活用しているように感じる。

良くいえば生殺与奪の権を持つ恐怖の支配者の心を穏便になだめる手段としての奥の手の一つとして『儒教』が存在した印象さえあるのである。

異民族の皇帝にしても自分達の秩序を全面的に肯定し、自民族が最上位を維持出来る階層社会を是認する儒教体制に異存があるはずも無かったのである。

けれども、そのような表層の倫理尊重で世界的に見ても巨大な人口を持つ中国人の過半数が納得していたかというともちろんそうでは無かったのである。

「道教」が国家宗教となった唐代以降、前述したように中国では「道教」の現世利益的な宗教観が一般民衆に溶け込んでいたと考えられる。それを促進したのが「宗族」以外信用できない繰り返される乱世と度重なる支配者の交代だった。

最後に中国人にとって信頼できるのは、例えば手の中の翡翠のように確実性の高い財物しかなかったのかも知れない。

最後に中国『儒教』に関してまとめに入りたいが力量不足の為、ご容赦頂いて以下に箇条書きにして終わりにしたい。


・「孔子」自身は、自身が見たこともない「古代周文化」の賛美者であり、周公旦の礼式再現を理想とした葬祭礼式学習塾の先生であった。

・初期の「儒教徒」は、墨子も指摘しているように「葬祭ディレクター」的な仕事を生業としていた印象が強い。漢代になって朝廷の宮廷儀礼に携わるようになってからその存在感を大きくしていたのだった。

・孔子によって語られた未完成の『儒学』は、哲学書や宗教書としての完成度の低さが幸いして、その愛すべき内容によって、重要な中国古典の地位を現在も維持し続けている。

・現実主義者の中国人はその時代に合わせて次々と『儒教』を再編集して解釈し直していった。その中でも最大の功績者は朱熹であり、彼の唱えた「朱子学」は新儒教と呼んでも良い革新性を持っていた。

・「天命思想」により前王朝を倒したばかりの新征服王朝にとって都合の良い階層秩序を常に与え続けたいが儒者であり『儒教』であった。

・逆の観点から見ると「朱子学」の持つ思想的な理論武装と革新性は、その他の思想体系を容易に許容しない偏狭性も含んでいて、中国の思想的近代化を未だに拒んでいる。

・その結果、現代中国の共産党指導者達は『儒教』を基盤とする古代の「中華思想」の妄想の中に生き続けている。

                                                   以 上


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