39.『両班(ヤンバン)』と『武士』
この所、日韓両国の近代を勉強しているが両国の現在の国民性を決定付けた重要な要素の一つに中世から近世に掛けて両国の政治を主導した『両班』と『武士』階級の行動原理が大きく拘わっているような気がしている。
そこで個人的な勉強も兼ねて、未だに十分な知識が欠如している李氏朝鮮王朝の『両班』とその周辺について学習してみることにした。
『両班』の言葉自体は李朝の前の王朝である「高麗朝」時代から使用されているが、本格的な両班体制が国家運営と国民生活に直結する階層システムとして確固たる位置を確立したのは李氏朝鮮王朝になってからの印象が強い。
その為、両班を勉強しながら日韓の身分制を比較する上で日本の『武士』に関して江戸期の武士階級を採り上げてみることとした。
(『両班』とは!)
中国「唐」の律令制度を日本よりも早く学び、「科挙」や「宦官制度」もいち早く採用した韓族は唐を摸倣した国家体制の整備に成功、国を発展させている。
更に時代が進んで高麗に替わった李氏朝鮮王朝は、その勃興期から前期に掛けて第三代太宗、第四代世宗、第七代世祖と有能な国王が続いた幸運にも恵まれ、当時の先進国明に忠誠を誓った国際外交上の成功もあって建国後の国家体制整備を順調に進めることが出来たのだった。
それに加えて、前王朝の高麗が国家を挙げて信仰した「仏教」を廃棄して、李朝では儒教の中でも「朱子学」を国家の基軸思想として国政をスタートさせている。
従来の思想を一新した清新な「儒教尊崇国家」として新王朝をスタートさせることができた新王朝の姿は、当時の人士にとって大いに新鮮に映ったことだろう。
その「朱子学」を担ったのが李朝の政治基盤を支えた『両班』層であった。両班階級は朱子学を信奉・探求することによって李朝政治の主導権を把握できたし、支配者層としての地位を確固たるものにしていったのである。
それでは両班を含む李朝国内の当時の階級制度はどの様なものだったのか振り返ってみたい。
李朝時代の身分制度は王族を除くと次のようになる。
両班 > 中人(科挙下級試験合格者) > 常民(農民・商人) >賎民(奴婢、白丁)
身分上最上位に位置する『両班』の実像は良く解らない所も多いが、政治に関わることが出来る官人の「文班」と「武班」を合わせて両班と呼んだらしい。実際は科挙試験に合格した文官と武官を一族に持つ小貴族階級に相当する支配者層と科挙受験資格者を含む階層のことらしい。
両班を含めて「科挙」受験資格を持つ中人、常民は「良民」と呼ばれていたが、両班と常民との身分格差は驚くほど大きかったし、「賎民」は同じ民族なのに奴隷として扱われていた。
中でも「白丁」は賎民の中でも最下層に位置付けられており、白丁は人間と見なされず、理由無く白丁を殺しても李朝時代は誰も罪に問われることは無かったのである。
丁度、中世のイギリスでアイルランドの白人奴隷が搾取の対照とされて、同じ白人なのに徹底的に虐げられていた歴史的な事実と同様のことが韓民族内でも起きていたのである。
加えて、李朝第三代の太宗の時代になると、着衣の色による身分規定を厳格化している。庶民と奴婢の区別を遠くからでも明らかにして、両班上位の李朝の身分制度の厳格化を図ったのである。
古代日本でも官位の上下を「官位12階」のように冠の6種類の色によって識別した時代もあったが、戦国乱世の時代を経て桃山時代を迎えると自由で奔放な個人的演出が流行するようになって着衣の自由度は大きく増していった印象があり、今に残る当時の屏風絵を見ても、色彩とデザインの自由度は目を見張るものがある。
確かに、日本では昔、「士農工商」の身分制度があったことを学校で習ったが、近年、この制度の実態は以前考えられていたほど大きな身分格差では無く比較的ゆるい関係だったと解釈されている。
更に、江戸中期に商品経済が大幅に発達した結果、豪商や豪農の経済力が大きく向上し、大名と雖も借金先の蔵元を粗末に扱えない時代が到達したのだった。
この日本独特の商品経済の発達は、手仕事や肉体労働を卑しんだ儒教国家体制の李朝では到底考えられない現象だった。
少し古い話で恐縮だが、室町時代に日本に来た通信使が、日本で庶民が使っている「桶」や「水車」の機能に驚いて、帰国してから国王に自国での桶や水車の採用を進言しているくらいである。
両班階級には頭脳を別として、自身の肉体を使って世の中を良くしようとする意識が根本的に欠落していたし、国家経済を活性化することが国全体の発展に大きく貢献する手段だという見識も抜けていたのだった。
地続きの明国に使者として派遣された両班は多かったが、経済的視点で中国を観察する能力に欠けた人材ばかりだったと考えられる。第一、両班には現状の問題点を探して改善しようとする分析力や意識が大きく欠落していたのである。
(李朝を牛耳った『両班』達)
更に、李朝の両班の特徴として儒学を学ぶ科挙受験資格者階級としての地位の他に地主制度と結びついた朝鮮独特の社会的な地位があった。政治家になれる国家試験受験資格者身分に加えて、地方の地主階級である両班の立場は極めて強固だったのである。
増して、一族に朝廷の高官である領議政等が居れば、良民以下にどの様な横暴をしようとも苦情の来る可能性は少なかった。
「朱子学」に傾倒した李朝の知識階級である両班によって、「性理学」を探求する学者が次々と誕生したのが16世紀の李朝であった。中でも、明宗の時代に活躍した「李洸」達の著書のレベルは高く、その一部は江戸時代の日本でも復刻されて広く読まれている。
しかし、その反面、朱子学を信奉する儒者集団としての両班内部での抗争は激化し、16世紀後半には、「東人」、「西人」の両派に分かれた李氏朝鮮独特の朋党争いが発生したのだった。
李朝の激しい派閥争いは連綿と続き、歴代の国王も悩ませるほどの過激さで国力の伸展を妨害しつつ李朝滅亡まで続くことになる。
特に、「朋党対立」が激化した17世紀後半から18世紀前半に掛けては政治の健全性が大きく損なわれて国王の苦悩も大きかった。
一方、同じ頃の日本の政治を主導した武士達はというと漢文もろくに読めない文盲に近い集団だったと両班側から指摘されても、そう可笑しくない程漢文の素養に欠ける集団だった。
鎌倉時代から室町・戦国時代に掛けての日本の教養人としては、五山を初めとする禅僧に代表される僧侶達であり、この時代の朝鮮半島その他との外交文書の大半は、彼等によって起草されていたのである。
即ち、日本の実質的な支配階級である武家は、教養面では李朝の両班に後れを取っていた反面、武士達の政治組織や行政方針は極めて実務的であり、簡素でありながら充実していたのである。
後に天下を統一した徳川幕府の老中や若年寄を中核とした政治機構にしても、小さな地方豪族だった時代の松平氏の農村経営時の村の年寄り機構を拡大したに過ぎなかったといわれている。
重厚な中国文明を十分に理解していなかった日本の武士達にとって、実務的で効率の良い政治機構を直感で選ぶしか無かったのかも知れない。
しかし、この李朝両班には無い「朱子学」を含めた中国文明に対する無教養さが、幕末の動乱期に日本を救ったともいえるのである。一瞬の誤判断が戦場での生死を分ける武士達にとって、有り難い「儒教」の教えも李朝の両班達ほど親身になって探求する価値を感じなかったのである。
しかし、江戸時代も平和な第五代将軍徳川綱吉の時代を迎えると、将軍が率先して孔子を尊崇し、「儒教」の普及を図っている。けれども良くいわれているように、李朝では「儒教」として普及したが、日本では「儒学」として広まった感が強い。
李朝では儒教は「国家理念」であり、生活を含む全ての行動原理であったのである。この傾向は現在でも韓国人の行動を支える心の深奥のそこここに儒教の影響が垣間見られる気がしている。
一方、我国での「儒学」は、倫理規範であり、尊敬すべき学問の一部でしか無かったのである。江戸時代の日本人にとって生活ベースには「神仏混淆」した仏教があり、狭いながらもオランダを窓口とした西洋の新知識も捨てがたい魅力であったのである。
(『両班』の財産意識と両班社会での「奴婢」の重要性)
もう一つ、財産的観点から『両班』と『武士』を観てみよう。鎌倉期の武士達の遺産相続に関する遺言状の多くは、土地の相続が中心となっている。当時の「一所懸命の地」という表現が示すとおり、土地こそが一族の財産の中心であり、何としても子孫に伝えるべき至高の財物だったのである。
一方、朝鮮に於ける15~17世紀の「分財記」によると「奴婢」と「土地」が財産分与の主要な対照物となっている。有力な両班の相続の場合、時には数百人の奴婢が財産として一族に分け与えられている。
確かに、日本でも豪族内での土地分与の際、その土地を耕している農民も同時に移行される現象も起きていたかもしれないが、農民の生殺与奪の全権を領主である武士が持っていたとは考えがたい。圧倒的な苛斂誅求が続くと農民達と雖も他国に逃散する集団的な抵抗運動を実施した記録は少なく無いのである。
耕す農民の居なくなった無住の土地は武士階級にとっても何の価値も生み出さない無用の存在であり、支配者である武士と耕作者である農民の暗黙の妥協で日本の中世社会は成り立っていたと個人的には考えているし、多忙を極めた農繁期には、下級武士の多くは農作業に加わって、一粒でも多い米の収穫を期待して汗を流したのだった。
それに対し「朱子学」を尊崇する両班達は、自分達の肉体労働を極端に忌む傾向が強かった。その為にも農民や奴婢は両班の必需品であり、奴婢を所有しない貧しい両班達は、その社会的対応を同じ両班から拒絶されるケースもあったという。
また、両班の感情に逆らった奴婢は親子、兄弟、夫婦の関係を無視して売買されることも少なく無かったし、奴婢を殺しても傷つけても主人である両班の罪が追求されることは無かったのである。
日本でも江戸時代の武士には「切り捨て御免」の超法規的な行為が許されていたような解説も多いが平和な時代が成立した江戸時代中期以降、人を理由無く傷つけた武士が全く無事で済む可能性は社会倫理的に急速に少なくなっている。
人をむやみに傷つけた場合、武士と雖も謹慎や閉門、場合によっては長の暇による永久追放が待っていたのだった。
このように江戸時代中期以降の支配者である武士には、「儒学」に基づいた厳しい倫理観が「武士道」として求められるようになっていったのである。
(「両班階層」の膨張と李朝崩壊の予兆)
江戸時代の日本武士階級は江戸時代初期も幕末期も一割に満たなかったといわれていて、大雑把な全国平均は7~8%だったらしい。
しかし、支配者である武士階級のこの比率は、きわめて必要な実務人数に対して過剰だったといわれている。その最大要因は、戦国時代の戦闘体制のまま、多くの余剰人員を抱えた状態で平時の藩組織に移行したためであった。
その結果、明治維新による新政府や新しく出来た県庁その他の地方行政組織が必要とした人員は、全国の武士の総数に較べて極めて少数だった。その際失職した武士達の不満が「西南戦争」その他の暴発となって噴出した歴史的経過は良く知られている。
日本の支配者層だった江戸時代の武士階級の人口比率と李朝前半の両班の人口比率は良く似ていて、総人口の一割以下だったが、それでも、明治維新の際に必要になった役人の実数については上記した。
それでも、李朝前期には大きな破綻も無く国家運営が行われていたところにも東アジアの国家群に於けるルーズさが感じられる。
しかしながら、李朝前期に全人口の一割以下だった両班層だったが、李朝後期を迎えると異様な大膨張期を迎えるのだった。
17世紀後半まで人口の一割に押さえられていた両班人口比率が、18世紀になるとどうやら一割を突破する急激な増加を示している。
けれども、両班の急激な増加現象はそれだけでは無かったのである。18世紀を通じて増大し続けた両班の比率は、19世紀初頭には四割を超えてしまったのである。そうなると支配者と被支配者の正常な関係を維持できる社会構造的正常値を遙かに逸脱して「社会不安」を増殖させる危険性さえ内蔵する数値といって良い。
誰でも貧民階級よりは支配者階級を望むのは人間としての自然な欲求だとは思うが、それが賄賂により簡単に実現できるのが李朝末期の恐るべき実態だった。役人自ら社会機構の根幹を破壊する行為を暗黙の内に行っていたのが韓族の実態であった。
この社会機構の破綻を予兆させる「両班層の増大」は更に続き、19世紀中頃には五割を突破しただけで無く、一説には1867年の段階では七割に迫る急膨張を遂げたのだった。
そうなると、支配階級と被支配階級の人口比の逆転現象を招いてしまっている。その背景には、賄賂に弱い役人達と経済力を付けてきた下層階級の有力者の暗躍があったのである。国民の半数以上が支配者階級である『両班』を主調する異常事態は、「儒教的王道政治」を崩壊させるに十分な力を持っていたのだった。
この社会矛盾の頻発により、19世紀になると朝鮮半島各地で「民乱」が勃発、没落した両班や不遇の中人達をも巻き込んで社会不安は拡大する一方だったのである。
(朝鮮半島に於ける近代化の遅延)
全人口の一割でも支配者の横暴が一般庶民の苦痛の種であったのに、民衆の数より多い支配層の出現は朝鮮半島の近代化を阻止する大きな要因となった。
時あたかも、「阿片戦争」に続く、列強の東アジア進出の時代とも重なって、国内的には「勢道政治」と呼ばれる一部の有力者による独裁政権が出現した背景もあって、民乱が朝鮮各地で頻発する事態となったのである。
このような国家的危機を迎えた時期、李朝の政権を握ったのが李朝最後の国王幼い高宗の父である「大院君」であった。しかし、大院君自身にしても李朝独自の鎖国政策である「海禁策」を保持することによって、国内の安定が可能だとの近視眼的な妄想に近い外交政策しか思い付かなかったのである。
このように李氏朝鮮王朝を長年支え続けた『両班』とその思想的支柱だった「朱子学」は、砲艦外交が激化した19世紀後半には何の訳にも立たなかったし、両班が狼狽を繰り返して混迷を深めるだけの存在だったのである。
その様子は、西欧列強の強圧に遭遇した日本の心ある武士達が挙って欧米の最新科学と自由思想の吸収に邁進して国防に全勢力を傾注した姿とは大きく異なっていたのだった。
自分達が500年に渉って信奉してきた中国的秩序理論である「朱子学」が、ヨーロッパ文明の多様性とは相容れない致命的な欠陥を持っていることさえ、彼等は十分に理解していなかったのかも知れない。
その結果、「日清日露戦争」を経て「日韓併合」に至ったことは、両国にとって限りない不幸の種を撒いてしまった可能性が高い。
短い文章で李朝の『両班』制度の歴史的な流れと、その影響を学ぶのは不可能だとは思ってはいたが、興味に負けて本稿で学習してみたところ、案の定、
「短足の猫のようなバランスのとれない冗長な内容になってしまったことをお詫びしたい」
しかし、僅かな収穫が無かった訳では無い。
朱子学発祥の地である中国人よりも朱子学、特に「性理学」と正統論に傾倒した『両班』層を中核とする李朝の知識人達が研究を続けた成果が究極の『小中華思想』だったと感じた点である。
世界の中心国家「中国」と規定し、それに次ぐ小中華である「韓民族国家」である自分達、そして、全てを韓民族が教えてきた劣等国の「日本」の存在と位置付けこそ、彼等韓族が到達した東アジアの真の姿だったのであろう。
悲しいことに今日の韓国政府から聞こえてくる諸報道を整理すると、その様にしか聞こえてこないのである。
もし、そうだとすれば、出版されて時間が立ってしまったが、ハーバード大学名誉教授D.S.ランデスの『強国論』を一読して国際的な平衡感覚を取り戻すことをお勧めする。
(参考文献)
1.『両班』 宮嶋博史 中公新書 1995




