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38.古代日本が拒絶した「宦官制度」

古代中国の文化や諸制度の中で、我々日本人の先祖が嫌悪感も含めて拒絶した制度に後宮の「宦官制度」がある。

この人間性無視の、人為的に実施された去勢によって造られた中性的奴隷制度ほど人類本来の明るさやおおらかさを大きく毀損する慣習は無いと考えている。

この当時の先進国中国の王朝システムとして組み込まれていた非人間的な「宦官制度」の国内導入を峻拒した古代日本人の感性は現在考えても素晴らしいと思う。

逆に、「宦官制度」を創造した中国人は、この制度を廃止すること無く、二千数百年に渡って採用し続けて、1900年代初頭の清朝末期まで連綿と継続したのだった。

それに、中国人が誇る「儒教」は、この人間性を冒涜した制度を正面から否定しようとする実務行動を一度として執らなかった点についても、中国文明の根本的な大欠陥であり、中国人の人間性欠如を証明する重要な歴史的事実として捉えたい。


一方、中国以外でも、この卑劣な制度を検討することなく、忠実に摸倣して国内化した朝鮮やベトナムの歴代王朝に、嫌悪感を覚える。

一説には、家畜を去勢する習慣のある「牧畜文化」のある国が、異民族との戦闘で戦利品として獲得した奴隷に去勢を施して生まれたのが、「宦官」であったともいう。

古代から多民族抗争の中で国家や王朝が成立し、「覇者」が全ての実権を掌握している中国王朝にとって、絶対的強者である「皇帝」と宮廷内の最弱者である「宦官」の存在は、権力の歴史そのものであったのかも知れない。

それでは、まず簡単に中国二千年の「宦官制度」の概要に触れてみたい。


(二千年以上に渡って「宦官制度」を保持した中華帝国)

中国歴代王朝の中でも古い「殷」の時代には、既に、戦闘で獲得した異民族の俘虜を宮刑(去勢)にして、奴隷として使用する慣習は存在していたようだ。

やがて、「宦官」は覇権を握った絶対権力者である皇帝が多数の女性と暮らす後宮の管理人として重宝されるようになっていった。

それだけでは無く、皇帝に近侍する宦官は、秦の始皇帝の頃には、既に私設秘書的な機密に従事する存在になっていたのである。

初めての中国統一、万里の長城の建設、焚書坑儒等々の絶大なる権限を誇示した始皇帝だったが、始皇帝に重用された宦官超高の暗躍によって、後継者に指名した長子扶蘇は自殺を命じられ、不滅を信じた「秦王朝」の覇業は、始皇帝の死後、数年で崩壊させられたのだった。


このように、前稿で触れた官僚の国家試験制度「科挙」が中国歴代王朝の表の制度とすれば、「宦官制度」は、皇帝制度の裏の顔と考えても、それ程誤った見方にならない気がしている。

孤独な独裁者である中国皇帝にとって、人間の範疇に入らない個人秘書官的存在の宦官への依存は、権力放棄の最高の逃げ道でもあったし、王朝崩壊への選択の妙手でもあったのである。

しかし、その結果は、己の出す命令の絶対的実施を求めた秦の始皇帝の最後の勅令さえ、宦官超高によって、あっさりと闇に葬られたのだった。

「宦官制度」は、中国歴代王朝の殆ど全てに於いて採用され、清朝末期の近代まで実施されたのだが、歴代王朝の中でも、前漢や宋、清等の王朝は、宦官を制御して、宦官の政治介入を減らすべくコントロールしたのに対し、後漢と唐、明の三つの王朝の宦官の存在による弊害は大きかった。

一例として、宦官の横暴は目に余った明代について挙げてみたい。


(明国の例に観る「宦官政治の実態」)

そもそも、始祖洪武帝自身が猜疑心の塊のような皇帝だった為、己の独裁権を確立するために、昔からあった政府統括の為の中書省も廃止して、丞相以下の行政職を無くしてしまった結果、各省の大臣である六部尚書を直接皇帝が統率する組織に変更してしまったのだった。

確かに、洪武帝や永楽帝のような有能な君主の場合は、末端に致まで、皇帝の意志が明確に伝達・徹底される効率の良いシステムだったのかも知れなかった。

しかし、明朝の皇帝が実施した組織改革は、それだけでは無かったのである。表向き、衆議に掛けて最善の政策を実施する中国古来の政治システムの代わりに明朝の歴代皇帝が愛好したのは、錦衣衛きんいえいを初めとする司法(実質的にはスパイ)組織の活用と宦官の信任の二つだった。

更に最悪なことに、明朝の場合、司法大権の拡大による恐怖政治のうま味を歴代の宦官が入手してしまった所に、王朝の悲劇があった。

スパイ組織=司法の実権を手中にした歴代の宦官達は朝廷の官僚を自在に動かすだけで無く、個人蓄財と己の権力誇示に熱中した結果、万暦帝以降、明朝から人心が急速に離叛していったのである。


そうなると本来の人間として生存価値が認められていない宦官にとって、第一に、民間人では考えられないほどの国家レベルでの収賄による蓄財は魅力だったし、次ぎに、皇帝を己の手の平の中で操ることが出来れば、官僚以上の専権を振るう事も夢では無かったのである。明朝に於ける宦官の成功者は、歴代皇帝が皇帝権力の独裁化のために実施した組織的欠陥を最大限に活用して、この二つを手に入れた人物が多い。

そんな中、正統14(1449)年に起きた、「土木の変」の際の宦官王振の行為は、皇帝以上の権力を掌握しているとの錯誤による重大な判断ミスであった。

騎兵2万を主力として、明国に侵攻したオイラート部エセンの軍に対し、主君正統帝に対し、首都北京を出て、歩兵を主力とした50万の大軍を率いて親征することを進言している。

軍事的に素人の王振は、練達の機動力に勝る兵を率いるエセンに対して、明軍の大軍は、経験不足の上、機動力に勝るエセンによって各個撃破されて次々と潰滅している。

更に、明側は皇帝の親征もあって膨大な輜重車を帯同した結果、足手まといとなり、敗戦の混乱を助長している。

その結果、実態を無視した宦官王振の独断と専行により、戦意の低い50万の明軍は潰滅、王振自身は殺され、正統帝はエセンの捕虜となって北に連れ去られる、明朝最大の屈辱的な事変であった。


一宦官の越権行為による、この大明帝国にとって考えられないほどの政治的な大失策以降、明国の衰退は益々スピードを上げていくのだった。それに反比例するように、宦官達の蓄財への欲望と権力欲は、その激しさを加速させているように感じる。

 第16代天啓帝の時代、皇帝を傀儡にして悪逆な贈収賄の限りを尽したのが、明代宦官の「贈賄王」的存在だった魏忠賢である。

贈賄により朝廷の権力の全てを掌握して、内外に恐怖政治を敷いた魏忠賢は、最高権力掌握と共に、自身を「孔子」と並ぶ聖人として生祠に祭らせる所まで増長している。

幸いな事に、天啓帝の若か死によって、明朝最後の第17代の皇帝に即位した、「崇禎帝」によって、悪の塊のような宦官魏忠賢は死に追いやられて自滅している。

この一件によって、政治改革の端緒を示すかに見えた崇禎帝だったが、先祖に似て疑心暗鬼の塊のような崇禎帝は、清の策略にはまって国防第一の名将袁崇煥を処刑したのを初め、政府の要人や姦臣を見境無く処刑した結果、逆賊李自成の軍が北京に迫った時、たった一人の宦官(王承恩)を除いて、無数に居た朝臣も多くの宦官も、誰一人として孤独な皇帝の呼びかけに答える臣下は居なかったのである。

これが、洪武帝の目指した明朝皇帝独裁政治の悲惨な結論だった。


(朝鮮半島における「宦官」の存在)

 朝鮮半島の宦官制度が朝鮮民族本来の慣習だとは、とても思えない。

 個人的な印象だが、古三国時代の高句麗や百済、新羅の各国の人物達は男性的決断力に富み、勇敢であり、当時の各王家の主要人物の行動を観察しても陰湿な印象を全く感じないからである。

しかし、姓名を初め中国の摸倣と追従に舵を切った9世紀以降の「統一新羅」では、既に「宦官制度」が施行されていたという。

一方、日本の天皇家と異なり、統一新羅では中国皇帝ほどではないにしてもソコソコの大きさの後宮が存在していた関係もあって、沢山いた側室の身の回りの世話をする宦官の需要もあったようだ。


そんな中、王朝が高麗に替わっても中国に阿諛迎合する必要からか、朝鮮から進貢の形で「宦官」や「貢女」を歴代中国王朝に送り続けたのである。

この生きた人間の進貢は、裏面から両国の政治の円滑化に貢献した面もあっただろうが、消耗品扱いされ、奴隷以下の境遇に甘んじた朝鮮人の鬱屈は、さぞ、無念だったと想う。

この宦官の進貢は、朝鮮と共に科挙制度を導入した南の安南ベトナムからも送られているので、地政学的に朝鮮半島とベトナム半島の両国は、良く似た軌跡をたどっている気がしている。

それ以外でも、モンゴルに圧迫された高麗は王子を元の宮廷に人質として送るのですが、王族の世話係りとして宦官を同行させています。

それ以降も、朝鮮歴代王朝は「貢女」と「宦官」の進貢を中国王朝に続けていて、古くは高麗時代には蒙古以外でも、契丹に朝貢しているし、明になっても途絶えることは無かったのである。それは、李朝第一の国王世宗の時代にも変わることは無かった。

その従属関係は李氏朝鮮と清朝になっても変わらなかった。宦官はともかく、皇帝の寵愛を受けた貢女は一見幸福を享受したように見えるかも知れないが、皇帝が若死にすると、直ぐに彼女達は首を吊って自殺させられたという。彼女達の足下の台を冷酷に蹴ったのは宦官達だったが、中に李朝から献上された宦官達も混じっていたという。


(李朝に於ける「宦官制度」)

朝鮮半島の宦官制度は、王朝が李氏朝鮮に替わっても厳然と維持されますが、李朝の場合、中国歴代王朝と違い、宦官を王家の管理下に上手に組み込んで、宦官の国政への介入を阻止することにある程度成功している。

宦官達は「内侍府ネシブ」に所属し、定員も140名の大きな所帯で、国王や王妃の身の回りの世話だけでなく、重臣への連絡や宮廷の財貨の管理まで業務に含まれており、中国の宦官よりも広範な業務を与えられていた。

内侍ネジ」は内官とも呼ばれ、長官は従二品の高官であり、それぞれの内侍の人事考課も年に四回実施されて、実績が評価されると、従九品から正三品の位階が与えられ、宦官といえども民間では考えられない高位が与えられたのだった。

そうなると庶民では考えられない栄達も不可能ではないため、実の親が息子の将来の為、去勢して内侍にする行為や、本人自らの希望で宦官になる者が後を絶たなかったといわれている。

しかし、李朝の場合、内侍府ネシブの長官が、明朝の宦官王振のような専権を行使して、国王や国家に政治的大惨禍をもたらす状況を発生させた話も無いようなので、宦官による弊害を事前にコントロールする理性が李氏朝鮮の政治には備わっていた気がする。


それではもう一度、古代に戻って、何故、日本人が「宦官制度」を導入しなかったのか考えてみたい。


(何故、日本人は「宦官制度」を受け入れなかったのか?)

それでは、何故、日本人は「宦官制度」を受け入れなかったのか?

幾つかの説を検討してみよう!


一)古代日本を代表する歌集「万葉集」を見てみると、恋の歌である「相聞歌」の多さに驚かされ

  る。確かに、当時の日本は「妻問婚」であり、お互いの恋愛感情が一致しないと結婚は成立し

  なかった。そんな民族的婚姻形態の中で、中国風の巨大な後宮や高級管理の為の宦官制

  度が求められたとはとても思えないのである。

二)三国志魏志倭人伝によると、「その風俗、淫にあらず」とある。男女間のロマンスに対して古

代からおおらかだった反面、多淫な権力者が異常なほど発生する中国王朝的な背景が少なかったし、平安期の天皇家の後宮にしても極めて小規模であり、源氏物語等から受ける印象でも、男女間の垣根は低く、恋愛は比較的オープンだった。

三)騎馬民族や遊牧民族で日常茶飯事に行われていた家畜の去勢だったが、農耕民族である

日本人の場合、全く経験が無かった上、熱心な仏教徒である古代日本人にとって、人の身体に危害を加える行為そのものは、「穢れ」以外の何ものでもなかったのである。

四)武家政権になってからも、居住空間における表と裏の区別はあったが、中国のように厳重に

宦官に管理させて囲い込む程の意識は日本には存在しなかったし、そもそも、男女が節度を持って接するのが日本本来の中世からの慣習だったのである。


「穢れ」を最も忌み嫌う民族だった古代日本人にとって、男でも女でも無い人為的に造られた「宦官」の存在自体が、嫌悪感を際立たせる強烈な存在だったのかも知れない。

多分、これは妄想に近い想像に過ぎないが、彼の地(中国や朝鮮)で、宦官に会った古代日本人が居たとすれば、宦官と別れた直後に、自身で考えられる最善のみそぎを必ず行ったと考えたい。


(日本人の「民族性」)

長かった縄文時代と、それに続く稲作文化の定着した時代に古代日本人の民族性の基盤は間違いなく形成されたと断定しても過ちでは無いと思う。

今に残る皇室の「大嘗祭」等の諸行事や伊勢神宮等の古社の諸行事を見聞しても、日本人は、「忌み穢れ」を極端に嫌悪する傾向が強く、「清浄」な世界の維持に心を砕いて来た民族だったと考えたい。

その根幹には、自然災害を含めて、生活に禍をもたらす存在をも神と崇めて恐れ平伏しながら、国家・国民の安寧に対し天皇家を中心に一体となって祈念する自然発生的な国家神道を二千年以上に渡り信奉してきた貴重な歴史があった。

この「清浄」を重要な人間性護持の考え方の根源に置く「日本民族の精神性」と中国の「宦官制度」は、相容れない存在ではなかったかと思っている。

その一方で、尊敬して止まない先進国中国の王朝が古代以来、採用している「宦官制度」を素直に受容して自国なりに国体に合わせて王朝の組織の一部として採用した朝鮮の王朝があった。その点、李氏朝鮮王朝での宦官制度は、本家中国のような多くの弊害を防ぎながら、体制のシステムの一部として受容されている。


しかし、何度も遣唐使を派遣して唐の律令制度や中国文化の積極的な吸収に務めた古代日本だったが、「宦官制度」そのものが、古代日本人にとって、「イヤなものはイヤ」だったのではなかろうか!

この、「人間性本来の持つ倫理観の保持」によって、古代日本は、中国や朝鮮、ベトナムとは大きく異なる東アジアの中でも精神的な独立国の地位を保持できたのだと考えたい。

更に、付言すると、アジアの中でも独特の「人間性本来の持つ倫理観」を保持出来たことによって、西欧文明の持つ自由主義や自然科学を色眼鏡無しで近代に採り入れることが出来たのである。


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