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37.「漢字文化」の国日本が採用しなかった『科挙』

現在、日本文化の『言語』に関する相当部分の骨格が漢代から唐代に古代日本に伝わった「漢字」によって成り立っている点は、今日、良く知られている。

平仮名や片仮名もそうだが、漢字の音読み、訓読みにしても、ベースに中国の漢字文化の伝来がなければ、日本で表音文字が生まれる時期は大きく遅れたように感じる。

どうも、個人的な印象で申し訳無いが、日本人は民族的に文明の基盤になるような零からの「文字の創製」や「国家戦略的発想」が不得手な感じがする。

所が、逆に、ベースとなる文字(漢字)や(自然科学を含む)思想を与えられると、それをベースに自由自在に変化させて、自分達に都合良く融合して使用する傾向があるようだ。

終には、文字を造りだした本国である中国にヨーロッパの最先端文明を飜訳した「和製漢語」を輸出する一方、近年では、科学研究の本家である欧米諸国を驚かすような発明を連発する驚異的な素質を持った民族でもあるのである。


そこで、本稿では本家中国の中華的な国家運営システムの中核を形成していた官僚試験制度『科挙』について、その歴史的経過と日中韓の東アジア三ヶ国に於ける受け止め方の相違について考えてみたいと思っている。

歴代中国皇帝が望んだ、皇帝に何処までも忠実な官僚を選抜するための試験制度、『科挙』を発明した中国、科挙とその根底にある儒学を忠実に採用した朝鮮歴代王朝。科挙を形ばかり模倣した「貢挙」を実施して、やがて、その存在さえ忘れてしまった日本。

それぞれの東アジア三ヶ国に於ける『科挙』に対する対応と経過を観察しながら、科挙を基盤とする官僚制度が近代に於いて、西洋文明と遭遇した時に、どの様に対処出来たのかも本稿で探ってみたい。


(『科挙』の始まり)

良く知られているように、『科挙』が本格的に実施されたのは隋の文帝からだが、それから、約1,300年、清朝末期の1900年代の初めまで中国歴代王朝によって科挙は実施されている。

これだけ長い期間に渡って国政の中軸の制度として『科挙』が採用されてきた背景には、独裁者である皇帝の意のままに動く官僚層を創り出すという覇権国家ならではの目的が有ったのである。

世界初の国家官僚試験制度である『科挙』は、建前的には人民の誰もが受験できたし、合格者は、何れ一国の政治を左右する地位に到達することも不可能では無かったのである。

この自由競争が建前の科挙は、隋以前の中国政権の歴代皇帝が苦しんだ、貴族層の政治介入を遮断する効果が大きかったし、皇帝の意のままに動く優秀な重臣を科挙によって選別できたのである。

科挙の試験問題は時代によっても異なるが、中国古典及び儒教関連の書籍から出されるケースが多く、合格には数十万字に及ぶ丸暗記が必要とされ、超人的な記憶力を要求されたのだった。それに加えて、漢詩や説得力のある作文能力を求められる一方、能筆である点も重要視されたという。現在残っている清代の科挙の最終答案の画像を見ても、その品格の高い字体に感動を覚える。

そんな訳で科挙は世界史上で最も難しかった試験といわれているが、科挙に合格した日本人が皆無だったわけではない。唐代の科挙合格者の一人に日本人の阿倍仲麻呂の存在が挙げられる。


宋代になると科挙出身者の地位が安定して、「士大夫層」が形勢されて政治の中核層として確固たる地位を占めるようになる。即ち、儒学を学んだ「文官」の全盛時代が訪れたのだった。

しかし、北宋が成熟期を迎えると共に、科挙出身の文官が権力を掌握した結果、武官の地位は急速に低下し、儒学を背景とした政治志向によって、自国と周辺国との国際関係の冷静な把握に失敗してしまい、遼や金による侵攻が重なった結果、最終的には、「靖康の変」によって亡国の道を歩むことになるのだった。

しかし、北宋の滅亡と共に南に逃れた高宗によって臨安に再建されたのが南宋だったが、この時代、北方民族の軍事力に圧倒され続けた南宋の内部で、知識人層を覚醒する動きが拡大している。

「朱子」を含めた新しい視点を持つ儒学者達によって、古典的な儒学が再生されて、論語を含めた思想体系を再構築した新しい儒学、「朱子学」が歴史に登場したのである。

即ち、「朱子学」を含む中華思想によって、中国の当時の知識人達は辛くも異民族支配王朝である「元」の治世下にプライドを保ち、次の明代へバトンを伝達するのだった。


(朝鮮王朝の『科挙』)

 朝鮮半島の高麗で本格的な科挙が実施されたのは、第四代国王光宗の時代といわれている。高麗の国教は「仏教」だったが光宗以降、高麗は仏教と相反する思想が内在している儒教の国内導入と儒教関連の書物の普及に務めた結果、知識層を中心に儒教への理解が浸透していった。

高麗に続いて太祖李成桂によって建国された李氏朝鮮王朝は、従来の仏教思想から儒教思想、特に新来の「朱子学」に国家の基本思想の大転換を図っている。

科挙の厳格な実施と科挙出身者の政治的優遇を明確な施政方針としたのだった。この行為は、科挙出身者を基盤とした朝鮮独特の身分制度「両班層」の形成へと繋がっている。

その結果、李朝約520年の歴史は朱子学を信奉する科挙出身者によって方向付けられたといって良い。


しかし、李王朝の安定と共に科挙の形骸化は進み、両班の有力者間での情実採用や試験の際の不正も激しくなっていった。

それ以上に深刻だったのが李朝に於ける「朱子学」への激しい傾倒と党派争いだった。例えば、「壬辰の倭乱」直前、日本に派遣した使者の報告にしても、緊張関係にある相手国の実情を正確に本国に持ち帰るよりはライバルの報告内容を否定することに主軸を置いて上申されたため、日本との紛争対応を大きく誤る結果となり、両国に大きな惨劇を生じている。

また、朱子学の信奉は自国の「小中華」としての自尊心の培養に貢献しただけで、従来、夷狄と馬鹿にした野蛮国「清国」に三田渡さんでんとで国王自ら「三跪九叩頭さんききゅうこうとう礼」の屈辱的な臣礼を強制される国家的敗北感を味わわされている。

それ以上に悲惨だったのは、西洋文明と直接向き合うことになる近代において、朱子学に凝り固まった科挙出身者の李朝官僚は、派閥間闘争を繰り返すのみで、日本という有力な参考にすべき隣国が在りながら、混迷を極めた結果、不本意な日韓併合への道を歩んだのである。


(日本に於ける「科挙制度」と中韓と異なる選択)

中国の科挙制度が独裁者である皇帝の意のままに動く官僚層育成のための予備軍を創り出すことを目的としていたのに対し、日本では、律令制国家を指向した天武朝以降になっても天皇専従の官僚群の育成には至っていない。

即ち、古代天皇制自身が、天皇と有力豪族の合議制で国家運営を円滑に図ってきた歴史もあって、中国的絶対権力者一人に権力が集中する政治機構に不慣れでもあったのである。

増して、古代豪族層の権力構造を継承した律令貴族達にとって、自分達に替わるかも知れない人物を選出する『科挙』の実施は、既存権益妨害以外の何物でもなかったのかも知れない。

そんな訳で、古代日本では中国的な『科挙』の本格的な実施は見送られ、貴族層によって骨抜きにされた「貢挙こうきょ」という形で実施されている。


「貢挙」の受験者は、官位五位以上の貴族や、その子弟が優遇される極めて不平等な試験システムであった。それ以下の下位の階層の出身者は、合格して、如何に努力しようとも容易に高い身分に登る事が出来ない村社会の不平等システムだったのである。

その上、藤原貴族政治の進展と共に貢挙制度自身もやがて形骸化して消滅してしまい、『科挙』という用語自身が日本人の記憶から消去されていったのだった。

その結果、明治に至るまで、日本では、自由で公開された官吏登用試験は実施されることは無かったのである。


(東アジア文明の大転換期)

『科挙』によって最高権力者の為の官僚補給システムが完備されたかに見えた清国と李朝、阮朝ベトナムの各政府に衝撃を与えたのが、「阿片戦争」であった。

結果論だが、数十万字を暗記できる驚異的な記憶力によって『科挙』に合格した各国の官僚群だが、近代兵器による「砲艦外交」を振りかざす西欧諸国の暴力的外交の前に全く無力だったのである。

千年以上に渡って、中国皇帝の覇権維持のために整備されてきた『科挙制度』だったが、ヨーロッパの近代的国家群の武力と遭遇した瞬間、一瞬にして、その存在感を失ってしまったのだった。


「阿片戦争」の恐怖に最も衝撃を受けたのは、「朱子学」の正統論を身にまとった科挙出身者ではなく、浮世絵を愛し、掛けそばや鮨を好んだ庶民と旧態依然とした武士が暮らす日本だった。

東アジア各国が次々と西欧による植民地化の魔手に飲み込まれて行く現実に直面した日本人は官民挙げて、1,800年以上に渡って尊敬してきた中国文明の一員であることを抛棄して、ヨーロッパ文明の一員に加わるべく、大馬力で行動を開始したのである。

相手が自分達よりも優れた文明を持っていると悟った瞬間、日本人は古代も中世も近代も関係なく心から信服して、真摯に学習を開始したのだった。


その点、自己を偉大とする「中華思想」や自分達を「小中華」と位置付ける中韓両国人の政治家達の異文明に対する学習姿勢とは大きく異なったのである。

そして、新来・異質の文明を学ぶ姿勢も中韓両国とは日本は大きく異なっていた。一部の知識人が西洋文明の学習の必要性を強調し、兵器や最新技術を導入する方向で中韓両国人が努力したのに対し、日本人は国民の総力を挙げて自分達と全く異なる異文明を基礎から理解吸収するために全力を挙げたのだった。

その例証の一つが、西欧の最新用語を翻訳した無数の「和製漢語」であった。この和製漢語ほど日中韓三カ国の一般国民の初期の西洋文明理解に貢献した事例はなかった気がしているし、東アジアの近代化を支えた貴重なツールであった。

逆の側面から見ると『中国文化二千年の恩恵を日本人は近代に和製漢語によって返した』と考えても良いような気がする。


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