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36.東アジア三ヶ国の『古代の歴史書』を比較する

この所、甲骨文字から始まる中国の『漢字』とその周辺について勉強してきたが、古代に於ける先進国の文字だった漢字の影響力の大きさと、東アジア世界に於ける古代文明の伝搬に決定的な役割を果たした実態が解ってきた気がする。

そこで、今回は中国、朝鮮、日本の東アジア三ヶ国の『古代の歴史書』の編纂時期とその後の歴史に対する捉え方の違いを学びながら、当時の東アジア三ヶ国の民族性及び、各国の政治家達の思考方向を探ってみたいと想っている。

詳細は後述するが、各国の歴史書の成立年代から推測される古代の政権主導者達の考え方には予想以上に大きな違いがあった気がしている。即ち、日本の古代人達は、想像以上に日本独自の考え方に拘る独立心の強い民族だったのである。


(ヨーロッパ古代史の黎明期)

唐突な言い方で恐縮だが、東西の歴史書で高校時代に最も深い印象を受けたのが、司馬遷の『史記』と『旧約聖書』だったし、同時期に出会ったのが古代ギリシャの長編叙事詩「イリアス/オデュッセイア」だったので、地中海世界の古代史の黎明期について最初に若干触れてみたい。

この長編叙事詩と共に読んだのがギリシャ神話だった関係もあって、古代ギリシャに於ける人間くさい神々と古代の英雄達の交流と葛藤の物語が歴史を補完しているように感じた。どうも、その点が謹直な『史記』との相違点で、その後のヨーロッパ史と中国史の違いにさえ感じる気がしている。

確かに、トロイアの遺跡を発掘したシュリーマンは、子供の頃に聞いた古代の物語を盛年になって事業に成功して得た資金を元に発掘して、伝説の実在を証明している。

この英雄叙事詩によって、世界中の人々が「古代ギリシャ世界」が身近に感じるようになったことは確かであろうし、シュリーマンの夢も実現したのだった。

一方、東洋の司馬遷の謹直で正統論に裏打ちされた論法は、後代の中国の知識人によって熱烈に指示された結果、時代や民族の枠を超えて中華の正統性を『儒教』と共に肯定する役割を果たしている。


その点、『旧約聖書』はユダヤ教とキリスト教の聖典であり多くの民族の信仰の基盤である以上、歴史書と表現するには異論が多いと思う。

一神教世界とは別個の多神教空間に生活の基盤がある高校生にとって、ヘブライ民族の信仰する唯一神探求の精神史と民族の遭遇した歴史叙述が交錯しながら記述されている旧約聖書はユダヤ民族の歴史と精神世界の記録書にしか感じられなかったのである。

今回のテーマは上記した通りだが、折角、『旧約聖書』に触れたので、東西の古代の歴史家達の感性の違いからスタートしてみたいと考えている。


 『歴史』という単語から、ヨーロッパ世界の歴史家で最初に思い出すのが古代ギリシャの「ヘロドトス」である。

『歴史の父』と呼ばれる「ヘロドトス」は紀元前5世紀の人といわれ、ギリシャのみならず、バビロニア、エジプト、アナトリア、ペルシャ等の歴史を広範囲に記述した著作を残している。彼の著書「歴史」は司馬遷の『史記』と共に東西文明に於ける古代の歴史書の双璧の印象が個人的には強い。

しかし、個人的に好みの歴史書はどちらかと問われれば、間違いなく『史記』を挙げたい。史記の記述には、ヘロドトスに後年のローマの著述家、タキトゥスやプルタルコスの文章の魅力を加えたような歴史上の登場人物の生き生きとした描写と歴史展開のダイナミックな記述に歴史家としての独特の情熱を感じるからである。


(古代に於ける東西の歴史家達)

しかし、ここで視点を変えて司馬遷と地中海文明に育った歴史家達の違いを探ってみると両者が立つ地盤に大きな差異があることに気付く。

ヘロドトスの視点の確かさは地中海のやや北東に位置する先進国古代ギリシャの住民だった利点に立脚して、バビロニアやエジプト、ペルシャ等々の先行する古代ギリシャ以外の文明や国家の情報を広範囲に理解するだけの情報収集力と多元的な頭脳を持って居た点にある。

その異文明を許容する国際感覚は、古代ローマ人にも引継がれ西欧文明は地中海という交易路を媒介に、広い領域の異質の文化と接触することによって成長した文明であることが、西洋の古代歴史家達の著作からも感じ取れる。


一方、東アジア文明の場合、『漢字』という利器を縦横に駆使できる黄河中流域の「中原」という環境が余りにも周囲地域に先行して発達した為に、古代においては、周辺諸国との文化的な発達の時代的な格差が余りにも大きかったのである。

それは、まるで文化的に成熟した大人と未熟な幼児のような中国と周辺諸国との関係であり、その結果、地中海世界のような対等あるいは、地中海というクッションを隔てた交易による国際関係の成長はなかったのだった。

即ち、先行する文明国家である中国は、紀元前の周王朝の成立段階で、ヨーロッパ中世に近い「封建制」が成立していたのに対し、朝鮮半島や日本を含めた東アジアの周辺地域では部族国家レベルの小国が分立している状態にあったのである。

特に、インドシナ半島のベトナムや朝鮮半島の中国と地続きの国家群にとって、中国統一国家の成立は、自国の脅威となるケースが多かった。

始皇帝の秦がそうだったし、漢帝国も朝鮮半島北部を自国の郡として設定し領土に編入している。

そうなると古代に於いては、朝鮮半島の歴史は中国の歴史書に中国の地方史として記述されるのだった。

それでは、まず、東アジア三ヶ国が現在残っている初めて歴史書を編纂した時期について比較してみたい。


(東アジア三ヶ国の『古代の歴史書』を比較する)

漢字発祥の地である中国の初期の歴史書と聞くと伝説の時代から始まる魏を中心とした歴史書「竹書紀年」や春秋時代に編年体で書かれた魯の国の歴史書「春秋」を思い出す。

しかし、何といっても中国を代表する古代の歴史書を挙げるとすれば、司馬遷の傑出作『史記』意外には該当する歴史書が存在しないと考えて良いだろう。

それ程、史記の歴史的な価値と存在感は大きく、後世の中国の歴代王朝への影響も深甚だったのである。

竹書紀年や春秋もそうだったが、それまでの古代中国の歴史書やヨーロッパの多くの歴史書が年代記形式の編年体で記述されたのに対し、「紀伝体」という東アジア独特の書式の歴史書を司馬遷が創出した結果、中国歴代王朝の歴史書の作成と編纂は、紀伝体方式が蹈襲されることになったのである。

史記に続く、「漢書」、「後漢書」、「三国志」と遙か後代の「明史」まで連綿と同じ書式の官製の正史が作成され続けている。


それに比べると朝鮮半島と日本の古代史は、自国の歴史書を持たない世界と考えてもあながち誤りとはいえない状況にあった。

もちろん、朝鮮半島の初期の歴史書として、「三国史記」が存在するし、日本では、「古事記」と「日本書紀」が編纂されている。しかしながら、古事記や日本書紀の前半は、神話の世界であり、同時代の中国の歴史書である漢書や後漢書、三国志等の中国の正史との相関関係も不分明な曖昧模糊とした世界の記述に終始している。

加えて、東アジア三ヶ国の歴史書の成立年代を見ると、その編纂された年代のギャップの大きさに一驚させられるのである。

以下に、三ヶ国に於ける歴史書のおおよその成立年代を示す。


中 国  「春 秋」     春秋戦国時代?

      「史 記」     紀元前91年頃 

日 本  「古事記」     712年編纂

      「日本書紀」    720年頃完成

朝 鮮  「三国史記」   1145年完成

      「三国遺事」   1270年代後半~1280年代前半 

      「東国通鑑」   1484年成立


やはり、文字と歴史の国、中国の歴史書の成立年代は断トツに古く、竹書紀年を含めて、全て紀元前の編纂であり、我が国が弥生時代の頃、諸子百家を初めとする多くの哲学書を含めた著作の存在は古代の黄河文明の充実度を現代の我々に主張しているような気がする。

中国に大きく遅れて編纂されたのが、我が国の「記紀」であり、成立年代は奈良時代8世紀前半である。

不思議なことに我が国に先進文化を伝えたと自負する朝鮮の歴史書が日本の古事記、日本書紀の成立年代よりも遙かに後代の日本の平安時代末期から室町時代中期の著作である点である。

次ぎに、日朝の古代に関係する史書の成立年代の差異について考えてみたい。


(日朝の最初の歴史書の成立年代を考える)

良く、「中国四千年」という表現を聞く一方、近年、韓国からは、「六千年の歴史の国」等々の表現が聞こえてくる。六千年前の建国というと、古代朝鮮が建国された時期は、紀元前四千年頃ということになる。

しかしながら、日本の歴史書「記紀」が両方ともに、我が国に於ける律令制が整備された奈良時代に成立しているのに対し、最も古い朝鮮半島の歴史書「三国史記」が我が国の平安末期の高麗の仁宗23(1145)年と遙か後代の編纂であり、それに続く、「三国遺事」が同じく鎌倉時代の13世紀後半、紀元前2333年の古代朝鮮建国を主張する「東国通鑑」に至っては、室町時代中期の日本の文明年間の著作である点が気になる所である。

上記の「東方通鑑」の主調する紀元前2333年の古代朝鮮建国を是認するとしても、とても、六千年前の建国とはならないし、それ以上に、建国から3800年以上経った時代に突如現われた建国時期を神話としてはともかく、史学として是認することは難しい気がする。


一方、日本の場合は、古事記と日本書紀という性格の異なる二つの歴史書が何故、同時期に編纂されたのか不思議な気がするし、神武天皇を初めとする神話時代の歴代天皇の寿命が古代人の寿命に比較して異様に長すぎるのも気になるところである。

それ以上に気になるのが、例えば、後漢の「光武帝」から下賜された有名な金印についても日中の歴史書間の相関が全く取れていない点である。

光武帝の時代といえば、日本の垂仁天皇の時代なのに、日本書紀にも全く記載が無いし、更に有名な三国志の魏書に記述のある「邪馬台国の卑弥呼」にしても、明確に該当する女王の記述は、古事記にも、日本書紀にも存在しない。


このように、東アジア三ヶ国の歴史書は、中国が遙かに先行して編纂されたのに対し、日本は8世紀近く遅れて聖徳太子と蘇我氏によって国史作成に着手しているし、朝鮮半島では、統一新羅に続く「高麗」時代になってから、漸く、「三国史記」を完成させているのである。

こうなった状況には朝鮮半島なりの背景がある。半島の古代の国々にも、もちろん、今では逸文となってしまったが、古記録の「百済記」や「百済本紀」のように古事記や日本書紀よりも古い時代の歴史書もあったし、唐の従事官の見聞録である「新羅古記」等の朝鮮に関する中国人の記述もかつては存在したのである。しかし、亡国の際の争乱や各種の戦乱による火災や略奪等によって、多くの貴重な文物と共にそれらの史書も残念ながら悉く失われてしまったのである。

外敵の侵攻を殆ど経験しなかった日本でさえ、内乱で貴重な古代記録を失った経験が無いわけではない。聖徳太子と蘇我馬子が編纂した貴重な古代の歴史書「天皇記」、「国記」も乙巳のいっしのへんによって蘇我蝦夷の邸宅と共に焼亡して今に伝わっていない。


(東アジア三ヶ国の『古代の歴史書』の後世への影響)

まず、最初に中国の偉大な歴史書である司馬遷の『史記』とその後継の官製の歴史書である班固等が執筆した「漢書」から見てみよう。

漢書は物語性では史記に大きく劣るが、正確さでは史記に勝り、「後漢書」以降の中国の歴史書編纂の基準となった書物との評価が高い。その後の歴代王朝は、史記と漢書を手本として歴代の官製の歴史書を作成している。それは、後の時代の「明史」に至るまで忠実に歴代王朝によって蹈襲されてた。所謂、「二十四史」である。

しかし、その一方で、歴史書を操作して勝者に都合の良い歴史書を作成する妙味を中国民族と中原を占拠した異民族は覚えてしまったのである。ヨーロッパのように、中規模レベルの国家群が鬩ぎ合うユーラシア大陸西端の地域と大きく異なって、東アジア唯一の超大国である歴代中国王朝の意見は正統な歴史として周辺諸国から認められるのが通例であった。

それは、北方の異民族により占領された征服王朝の場合も同様であったのである。晋朝後期以降、漢族の古郷である中国北部では、異民族による占拠が常態化した結果、淮河以北の中国の地から「漢族」の姿は消え去り、北朝の多くは異民族王朝であったのである。

異民族による圧倒的な支配は、「元」や「清」の時代に頂点に達したが、両朝による科挙によって採用された挙人達は、異民族支配の正統性を高らかに史書に記述するのだった。

即ち、後代の中国の歴史書は正統の王朝として異民族王朝を肯定する立場を貫かざるを得ない自己矛盾に陥ってしまったのである。


一方、地続き故に、東アジアの主権者である中国王朝の圧迫と侵略、懐柔を受け続けた高麗は、屈辱を何度も味わった上、異常な侵略者モンゴルによって徹底的に痛めつけられた結果、民族としての正義よりも王朝の存続に存在意義を見いだす鬱屈した強国信奉国家へと変身していったのである。

高麗に続く李氏朝鮮では、宗主国中国に跪拝きはいするための方便として儒教教育が徹底され国内の両班層に深く浸透していったのだった。

その流れは歴史に対する両班層の深層心理にも大きな影響を与えずにはいなかった。現実的な武力を理解しつつ妥協を繰り返しながら国の運営方法を修正していった日本の朝廷と歴代武家政権と異なり、李朝に於いては、政治的な主導権を握った朱子学者が全てを決定できると誤解してしまったのである。

李氏朝鮮では、その時の主権者に都合の良い歴史改竄は水面下で行われ常態化していった可能性が高い。

特に、それが激しくなったのが李朝の最末期で、国家の主権と独立性維持よりも、党派争いに血道を上げた結果、政治的な崩壊の道を歩んでしまった感が深い。

拡大解釈すれば、今日でも韓国と北朝鮮の政治家は、政権を掌握できた時点で、歴史は覆せると誤解しているのかも知れない。

しかしながら、古代以降の朝鮮半島の歴史書としては、「高麗史」と「朝鮮王朝実録」の存在は大きい。特に朝鮮王朝実録は1976巻、948冊の大部の書で、李王朝の拘わった各方面の資料を記載していて貴重である点を見ても、朝鮮は忠実な中国の弟子であり、歴史記述の重要性を理解していたと考えられる。


中国や朝鮮に比較して、官製史書の点で、最も腰砕けだったのは、我が日本であった。

「日本書紀」に続く、「続日本紀」、「日本後記」、「続日本後記」、「日本文徳天皇実録」、「日本三代実録」の、俗にいう「六国史」で官製の歴史書編纂は終了して、平安中期以降、日本での歴史書編纂が行われることは無かったのである。

その為、「吾妻鏡」や「徳川実紀」等が歴史の世界では代用される一方、明治後期から、「大日本史料」が刊行されて、その欠を補ってはいるが、官製史書という面から見ると、最も落第生なのが日本であった。

しかし、その反面、儒学、特に「朱子学」の正統論に大きく汚染されることも無く、日本独自の調整による現実対応路線を採る歴代政権によってバランス感覚重視の政治が維持されたのである。

江戸時代になると幕府の鎖国政策もあって、国民の識字率が西欧以上に改善された結果、開国による西欧文明の荒波を潜り抜けて短期間に近代化できたアジアで唯一の国家になることが出来たのである。


しかし、その背景には、表意文字である『漢字』、「漢文」の中国と、漢字と漢文を尊崇する余り、政治中枢の両班層の知識として固定してしまった李氏朝鮮の政治形態があった。

その点、我が国では、名も知らぬ庶民も含む多くの人々の詠んだ歌が古代歌謡集『万葉集』として結実しているのである。そこに書かれた文字は漢字でありながら、表音文字として使用されており、「万葉仮名」と呼ばれている。

そして、平安時代になると「平仮名」と「片仮名」が創製された結果、日本人は世界でも稀な「表意文字」と「表音文字」を併用する民族になったのである。

更に近代になって、「アルファベット」と「アラビア数字」を加えることにより、日本語の表現の自由度は更に向上したのだった。

この変幻自在で世界でも特異な文字は、全国民に正確な歴史知識を伝達する手段として、民族的な危機に際して、実に有効に作用して中国や李氏朝鮮の膨大な歴史書以上の働きをしていると信じたい。


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