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34.古代倭国最大の敗戦「白村江(はくすきのえ)の戦い」と「朝鮮式山城」

卑弥呼に続く「大和朝廷」の時代、当時、倭国と呼ばれていた日本は高句麗、百済、新羅の「古朝鮮三国」を通じて、主に中国大陸の文化と接してきたのだった。

高句麗、百済、新羅それぞれと倭国は友好を保っていたが、中でも百済との関係が深かったのである。

儒教、千字文にしても、日本の古代の宗教観を一変させた仏教にしても、倭国と親密だった「百済」からの伝来であった。

何故そこまで百済が倭国に対して好意を示したかというと、その背景には北の高句麗による重圧を常に受けていたからだった。元々百済の都は現在のソウル付近にあったが、高句麗の攻撃によって当時の都漢城を落され、国王を失った経緯があったのである。

その様な経緯もあって百済は倭国の支援を期待して、大陸の重要な文物を倭国へ紹介したり王子を大和朝廷に差し出していたのである。

一方、三国の中で最も中国に近い高句麗は大国だけに中国の王朝と対立する機会も多く、抗争と和平を繰り返していたのだった。一方、元々小国だった新羅だが、時代が進むに連れて新興国としての実力を内外に示し始めていたのである。


(大陸情勢の大きな転換点「唐」の建国)

古朝鮮三国の力関係をもう少し詳しく分析すると、現在の北朝鮮を中心に中国の東北三省(遼寧省、吉林省、黒竜江省)の南東部を領土とした高句麗が三国の中でもずば抜けて強大な勢力を誇っていたのだった。現在の韓国の西半分を領有していた百済と東半分を国土とする新の二国は劣勢に立たされながらも分立を保っていたのだった。

しかし、中国で西晋末期から続く南北朝時代300年の乱世を久し振りに統一した「隋」の登場によって古三国の運命は大きく動くのだった。

隋は、広大な領土を持つ隣国の存在に不快感を示し、四度に亘って高句麗侵攻を図っている。中でも、煬帝による第二次侵攻時には、113万人の大軍を200万と呼称して高句麗の首都平壌まで兵を進めながら、最終的に大敗を喫して撤退している。

その後も煬帝は高句麗征討を諦めなかったが、度重なる大軍の編成準備と食料を中心とする国内での物資の強奪による国民の反発により、国家自体が崩壊、僅か38年の短命王朝として終焉を迎えている。統一国家隋の滅亡の原因は高句麗にあるといっても良い最後だった。


隋に替わって中国を統一した「唐」の建国は朝鮮古三国それぞれの命運を大きく分ける重要な歴史の転換点となったのである。

唐は太宗による高句麗征討に失敗したものの、太宗の子高宗の代に長安を訪れた新羅の王族「金春秋(後の武烈王)」の働きもあって、それまでの隋から続く唐の対高句麗戦略を大きく転換している。

その基本姿勢は、唐と新羅の同盟関係の樹立による強敵高句麗の殲滅にあったのである。そして、もちろん後付の理屈ながら、この後起きる歴史的な経過から推測すると唐新羅同盟軍の作戦計画の骨子は、次の三つの段階から成っていた可能性がある。


 第一段階 : 唐単独の高句麗征討から唐・新羅共同作戦ヘの変更

 第二段階 : 最も弱い百済に対する唐・新羅連合軍による夾撃

 第三段階 : 唐・新羅連合軍による南北からの高句麗の攻撃


この唐・新羅同盟の成立が、古三国の運命を大きく転換させる最大要素となったのである。この同盟により新羅は古朝鮮随一の強国に躍り出たし、百済、高句麗、倭国の三ヶ国の運命を大きく悲劇に導く歴史上の大転換点になったのである。


(「百済の滅亡」と復興軍の蜂起)

それでは、何故、唐が朝鮮半島でも弱小国の新興国「新羅」と同盟を結ぶことになったのか歴史の流れを辿ってみたい。

百済との戦いで、娘夫婦を殺された新羅の王族金春秋だったが、当時の新羅の国力では、到底単独で百済を滅ぼす力は無かったのである。

そこで、金春秋は連携先を求めて遙か倭国の大和朝廷を訪れている。倭国の君臣の間では、金春秋の優れた容貌と爽やかな会話能力が高く評価されたものの、海の向こうの国際紛争に協力しようとする雰囲気は当時の朝廷には無く、どちらかというと百済寄りの姿勢が目立つのだった。

倭国との連携を諦めた金春秋が次ぎに向かったのは長年の仇敵高句麗であった。唐の太宗との先の戦いに勝って意気挙がる高句麗最大の実力者淵蓋蘇文ヨンゲソムンは新羅との共同戦線構築よりも、漢江流域での高句麗の主張を優先して新羅に求めた結果、春秋はここでも倭国同様、同盟関係の成立を諦めたのだった。

倭国、高句麗との連携の難しさを痛感した春秋は最後の望みを託して超大国唐の長安に向かったのである。徒歩と馬、船くらいしか無い当時、倭国の大和、高句麗の平壌、唐の長安と東アジアの三地域を訪ねて国際外交を展開した金春秋は、古代東アジアでも卓越した外交官と呼んでも間違いは無い傑物だった。

本来、唐と新羅では国の大きさも違い同盟関係が成立する基盤も薄弱だったが、隋に続いて父太宗の高句麗攻略が失敗の後だけに、金春秋の情熱を込めた軍事同盟提案に唐の高宗が賛意を示し、唐と新羅の同盟は締結されたのである。


その結果、両国は最初の攻撃目標を強国高句麗から、古三国の中でも最も国力の低い百済に変更、百済滅亡後、南北から高句麗を夾撃する戦略に変更したのだった。

660年6月、唐の蘇定方の率いる13万の大軍は海上から、新羅軍は陸上から突如、百済を攻撃、翌月には早くも百済の都泗沘シピが陥落、降伏した百済の義慈王は海路、唐に連行されている。

亡国の民となった遺臣達は、百済各地で唐や新羅の軍隊に対して蜂起、倭国に滞在している義慈王の子余豊璋の本国送還と救援軍の派遣を求めてきたのである。もちろん余豊璋を次の百済王に推戴するための要請だった。

この百済復興軍の求めに対し、斉明女帝と中大兄皇子を中心とした朝廷は、救援軍と共に余豊璋の本国送還を快諾しただけで無く、変事に於ける緊急対応迅速化の為、朝廷の筑紫への大移動を決定したのだった。


(「百済復興」の為の救援軍派遣)

この東アジアの国際外交上の倭国政府の決定的なミスを主導したのは斉明の子中大兄皇子を中心とする豪族層だったと推定される。何故かといえば、筑紫について間もなく斉明は崩御し、中大兄皇子は即位しないまま「称制」の形で古代倭国の安危が掛かっている国政方針を斉明時代と何ら変更することなく遂行しているからである。

百済への救援軍は数次に亘って派遣されたようで、その総数も明確には解っていないが、初期段階の救援軍だけでも、3万人を超える古代倭国としては空前絶後の大軍だったと考えられる。それを率いる安曇比羅夫、安倍引田比羅夫を始めとする将軍は最終的に合計10人にも及んでいる点からも、倭国の総力を挙げた派遣軍の編成であった。

しかし、律令体制未整備で古代国家体制そのままの倭国として最大限奮発した出兵ではあったが、唐側からみても、それより国力の小さな新羅側からみても、対戦相手として問題になるほどの戦力ではなかったのである。

すなわち、当初の唐の百済侵攻軍だけでも18万人を数えたし、更に新羅が国力を挙げて5万人以上の大軍を百済戦線に投入している実情からみると倭国の派遣した救援軍は十分な数とはいえなかったと推定される。もちろん、中大兄皇子としては、唐・新羅連合軍との戦闘は百済復興軍が主力であり、倭国軍は補助的な戦力としての立場で十分と考えていたのかも知れない。


けれども、ここで百済復興軍内部に大きな齟齬が生じている。百済各地で優勢になった百済復興軍の中心的存在で将才にも長けていた王族の鬼室福信と帰国した百済王候補の余豊璋の反目であった。

短慮で現地百済の情勢に疎い豊璋は個人的な怒りにまかせて鬼室福信を襲わせ殺させたのである。

鬼室福信の死によって、彼が掌握していた百済遺臣団の人心を豊璋は失っただけでなく、祖国復興の大戦争を前に彼等の協力を削ぎ、敵を助ける絶大な効果を挙げてしまったのである。

愚かな指導者は往々にして敵の味方をするとは良く言ったもので、個人的感情に支配されて大局を見る判断力が欠如した百済の余豊璋の愚かさに驚かされる。

倭国滞在の長かった豊璋は百済の人々の心を十分に掌握も出来ないまま、強力な唐新羅連合軍との戦闘に突入することに成ったのである。そうなると余豊璋の頼る先は倭国からの救援軍しか残っていなかったといっても良いのかも知れない。

本来、倭国滞在が長かった余豊璋の人物をしっかりと見抜く時間が天智朝首脳部にはあったはずにもかかわらず、自己の感情を制御できない国王候補者を半島に送り込んだ失敗は、大きかった。

この百済軍内部の内輪もめによる混乱は、救援軍を率いた倭国の将軍達にとっても予想外のことだったと想像される。那大津なのおおつ出発の時点では、補助的戦力としての救援軍だったはずが、百済でのまとめ役だった鬼室福信の死により、倭国軍主力による唐・新羅連合軍との激突が目前に迫ってきたのである。

この事態に救援軍の将軍達は那大津の天智に更なる救援軍の増派を求めたようだ。天智2年の健児こんでい1万余の増派は、これに答える処置だったと思われる。


(「白村江」の敗戦)

古代倭国史上初の朝鮮半島への数万人(合計4万人以上か?)規模の大軍の派遣は、とうとう、倭国と唐、新羅の直接対決へとエスカレートしてしまったのである。

天智2(663)年8月、倭国と百済の復興勢力と唐新羅連合軍の全面対決は白村江(錦江)の河口近くで行われた。

蘇定方の率いる唐軍13万、新羅の武烈王(金春秋が即位)率いる5万に対し、倭国軍4万人強と数千の百済復興軍の対戦は陸上戦ではなく、船同士が戦う水上戦として行われた。

白村江で直接戦闘に参加した両軍の主力は、唐の水軍の大船170余艘と倭の船師ふないくさの小舟800余艘だったと推定される。

堅牢な唐の水軍の大船が河口に近い白村江の潮の干満の差を生かして作戦を準備していたのに対し、倭国の船師は現地に詳しい百済復興軍の支援も不十分なまま、勇気を奮い起こして戦闘を開始したのだった。しかし、四度戦いを挑むも、結果は旧唐書によると『海水皆赤らみ』と記述されているように、倭国の戦死者の血で水面が真っ赤に染まった潰滅に近い大敗だったと考えられる。

この戦いに於いて、倭国から派遣された将帥10名の内8名が戦死したと推測されることから考えても、損害の甚大さと史上最初の国際戦の帰趨は明らかであった。


翌月、倭国の敗残部隊及び百済の貴族達と亡国の民は倭国船師の残存部隊と共に筑紫に引き上げている。残り少なくなった敗残部隊の帰還は、当然ながら筑紫の朝廷に深刻な打撃を与えずにはいなかった。

現地に残った百済復興軍は抵抗を続けるが、唐の熊津都督府からの兵によって簡単に鎮圧されている。百済の復興を永久に不可能にした張本人の百済王候補の余豊璋は白村江の敗戦後、百済に留まることもなく、少数の近臣と共に高句麗に逃亡したと伝えられているが、その最後は明確ではない。

有史以来初の大陸連合軍(唐・新羅)との大戦争に於ける壊滅的敗戦は、天智と藤原鎌足を始めとする朝廷首脳部に深刻な打撃を与えただけでなく、連合軍の日本上陸への恐怖を生じさせるに十分で有った。

敵の大軍の倭国(筑紫)上陸は大和朝廷首脳部の存亡に拘わる危険性を十分に秘めていたのである

追い打ちを掛けるように翌天智3年、唐は郭務悰かくむそう等を筑紫に派遣、倭国への圧力を強めている。


(天智朝の敗戦処理)

大和朝廷始まって以来、初めての大陸国家との戦争に於ける大敗は、一瞬にして倭国全体に唐新羅連合軍上陸の恐怖と戦慄を与え、最悪の場合、瀬戸内海を通って大和本国を攻略される可能性も十分に考えられたのである。

今までは、豪族間の国内闘争が精々で、大王家の存亡に拘わる壊滅的な事態を予想することが困難なほど平和だった大和朝廷に初めて襲い掛かってきた国際外交上の重圧であった。

この時期、大王おおきみである天智の所在はハッキリとはしないが、個人的には那大津に止まって敗戦処理に勤しんだと考えたい。戦中時の緊急処理として最初に目に付くのは、天智3(664)年2月に行われた『冠位26階』の制定である。

この新しい冠位の制定については、専門家のご意見をお聞きしたいと思っているが、多分、白村江の敗戦で陣没した豪族層の補充も含めた、従来冠位を持たない層への昇進策拡大のための官人枠の増設だったのではないかと思っている。

叙任される豪族層の拡大は大王の権威の確立と命令遂行の円滑化を生んだ可能性が高いし、当然ながら、朝廷の支持基盤の底辺拡大へも繋がったと思われるからである。


朝廷が打った次の手は、戦時に於ける常套手段である唐新羅連合軍の倭国上陸に備えての防備策だった。

敵軍接近時の対策として、白村江の敗戦の翌年、朝廷は対馬、壱岐、筑紫に防禦のための「防人さきもり」の創設と配置、緊急時の通信手段である「とぶひ」の整備、筑紫の内陸部、現在の太宰府近くに巨大な防禦施設「水城みずき」を建設して唐との臨戦態勢の整備を急いでいる。

その間、上述したように唐の使者郭務悰の来朝もあって天智朝の緊張は極限に達したものと思われる。


翌天智4年、筑紫の大野城、基肄きい城、長門の長門城の築造を命じている。従来、倭国に無い大規模な防御施設、所謂、「朝鮮式山城」の建設である。

この山城建設は、2年後の天智6年の対馬の金田城、讃岐の屋島城、大和の高安城と続き、国境の島、対馬から始まり、北部九州、瀬戸内海沿岸、そして大和本国に及ぶ国家的な大土木工事であった。

この時建設された「朝鮮式山城」は、記録に残っているだけでも11を数えるといい、史書に記載の無い「神籠石系」と呼ばれる遺跡も加えると20箇所を超える全国規模の大建設事業だったことが理解出来る。それだけ、天智朝にとって唐新羅連合軍の倭国上陸の恐怖は大きかったのである。

この一連の「朝鮮式山城」の建設には、百済から倭国に亡命した重臣層を中心とした百済系移民に命じられたのだった。

平和な倭国には、それまで戦乱が続いた朝鮮半島のような大規模な城塞の存在は皆無だった。その結果として、百済亡命貴族達の知識と技術無しでは、大野城を始めとする諸城塞の建設は達成困難な事業であったと考えられる。


(「朝鮮式山城」を歩く)

それでは最初に朝鮮半島の対岸にある倭国の窓口「那大津なのおおつ」の背後を守る「水城」とその側面を防御する形で建設された「大野城」から見てみよう。

那大津があった現在の博多から太宰府市に向かうと左右の山が最も狭くなった地点に「水城」が建設されている。幸いな事に、全長約1.2km、高さ約9mの水城の大部分は現存していて、当時の偉容を容易に確認出来る。水城には那大津からの道が二本通じていて東西二門が設けられており、那大津側には、幅60mの広大な水堀が万一に備えて掘られていた。

そして、水城の背後を守るように博多から見て左側の山頂から山腹に掛けて建設されたのが、「大野城」である。大野城は全長約12kmの長大な一重の城壁を持った城で、その広大な面積は、この時期、建設された朝鮮式山城の中でも最大の規模を誇っている。

天智朝としては、那大津を守る根幹になる城塞として全力を挙げて建設した意気込みを感じる大城塞であった。


所で、今回採り上げた「朝鮮式山城」に興味を持ったのは相当古い話なので、これまでに幾つかの「朝鮮式山城」を歩くことが出来た。

実際に実物を見て最初に驚いたのは、1,300年以上前の建築とは思えない石垣の緻密な構築技術である。御所ヶ谷神籠石(福岡県行橋市他)の城門部分を見ても日本の戦国期の石垣とは異質の横積とでも呼んだ方が似合いそうな西洋のレンガ積に近い長手方向を横方向に位置させる積み方にも興味を惹かれたし、大野城(福岡県太宰府市)の雄大な「百間石垣」にも魅力を感じた。

高さ方向で最も感激した石垣は、金田城(長崎県対馬市)の石垣で、桃山時代の四国の今治城や伊賀の上野城の高石垣を見ているようで、心躍る瞬間だった。残念ながら時間の関係で金田城の建つ眼下の浅芽湾あそうわんの海上から金田城の石垣を見ることが出来なかったが、古代の海上からの眺めは、さぞ壮大だったと想像される。

これだけの朝鮮式山城を数年の短期間に多数、建築した古代の人々の労苦を考えると感慨無量になった瞬間が、朝鮮式山城を探訪している間に何回かあったし、古代に構築された壮大な石垣が、千年以上の歳月を経過しても崩れずに残っている朝鮮半島の石垣構築技術にも率直に驚かされた記憶がある。


そして、もう一つ古代の山城で驚かされた点の一つが、その城域の広さだった。特に大野城の場合、資料によると城壁の周囲の長さは約12kmに及ぶという。比較的小規模な御所ヶ谷神籠石にしても、周囲は約3kmとのことなので、中世日本の山城に比較すると実に広大な領域を持った城が「朝鮮式山城」といって良い。

広域に渡る城壁は、自然の山の傾斜や版築の城壁部が大部分ながら、中でも朝鮮系の特徴か谷間の水門を兼ねた城門部分の石垣は堅固で、防備の重厚さを感じさせた。

もちろん、それ以外の城門も厳重な守備体制を取っていて、岡山県総社市の鬼ノきのじょうで復元された城門を見ても、その意図は十分に感じられた。

唯、大野城の防衛ラインを見ても、千数百年経った今日では自然の傾斜と版築で形成された城壁との違いが素人目には判別出来ず、専門家の発掘結果を待たなければならない点が残念だった。


また、各地の朝鮮式山城の城門付近や水門、城壁の発掘調査は進行しているようだが、城内の建築物跡の発掘調査は、まだ充分に行われていな城も多いと聞く。

中世の山城もそうだが、臨時の籠城用の城なのか、地域の避難民を収容するための防御施設なのか、敵の大軍に対処するための軍団の根拠地なのかは、全体的な総合調査が終了しないと判断しにくい問題であると「朝鮮式山城」の場合も同様に感じた。

次ぎに、朝鮮式山城を歩いて素人なりに感じた疑問点を採り上げてみたい。


(「朝鮮式山城」の効果に対する大きな疑問)

幾つかの「朝鮮式山城」山城を歩いてみて感じたことの第一は、その守備線である城壁外周の長さであった。

特に筑紫最大の主要城塞とでも表現した方が適当な「大野城」の場合、前述したように外周12kmの長大な城壁に囲まれている。

例えば、城壁1m当たり1名の戦闘員を配置した場合、1万2千人の兵員が必要になるし、2m当たり1名としても、6千名の健児を最低限充当する必要がある。増して、城塞内に十分な予備兵力を存置する必要を考慮すると最大2万人の守備兵力を考える必要性があるのかも知れない。

加えて、この広大な山城の守備兵力1~2万名を超える人員に必要な食料を考えると膨大な量が必要になると思われるし、増して、平野部からの避難民を城内に保護した場合、その緊急時を想定した食料の備蓄量は想像を絶するものになりそうである。

いずれにしても、中世の山城に比較して、防御線が長すぎて十分な防御が出来ないことは明確である。攻撃側にしてみれば、「単郭式城塞」の場合最も弱い城壁の部分への攻撃に兵力を集中することにより、一箇所を突破するだけで、落城の目的を容易に達成出来ることは世界史での攻城戦の常識といっても良い。

それを考えると後世の日本の城郭の殆どが、本丸の他に二の丸、三の丸等の複郭を設けて、一箇所の城壁を突破されても城郭全体の失陥にならないよう考慮されているのと大きく異なる設計思想だったと考えられる。


それから、朝鮮式山城を探訪してみて気が付いた二点目は、各地の山城が建設されて立地条件の不思議さである。

まず、最初に対馬の金田城から考えてみたい。

金田城は標高275mの城山に築かれた山城で対馬最大の都市厳原からも相当離れた山の中にある城で、侵攻してくる唐新羅連合軍が、金田城を無視して行動した場合、孤立した山上の城がどれほどの効果を示すのか疑問になる。そうなった場合、金田城の役割として残るのが、通信手段としてのとぶひの発信基地、あるいは中継基地としての機能くらいになってしまいそうである。

強いて言えば、浅芽湾に侵入した敵の水軍に壮大な石垣を見せることによって、その存在感を示す位の効果しかないと思われる。

同様の事は、岡山県の鬼ノ城に付いても考えられる。鬼ノ城の城門付近の高所から平野部を見渡しても、海岸から遠い平地を敵が行軍する可能性は低く、万一、眼下の平地を敵軍が進軍中としても、気付かない場合や無視される可能性もあったと思われる。

鬼ノ城に登った翌日、鬼ノ城の下の総社市や岡山市の平地から鬼ノ城のある山を見上げてみたが、地元不案内の人間には、鬼ノ城が何処にあるか、明確には判別できなかったくらいだった。


このように、山上の城に多数の兵士を配置して非常時に備えたとしても、敵である唐新羅連合軍が無視して行動すれば、全く軍事的な効果は期待できないし、単郭防御の山城では攻城戦に慣れた大陸や半島の攻撃に、いつまで耐え得るのか大いに疑問を感じた。

強いて「朝鮮式山城」の効果を挙げるとすれば、緊急時の避難先としての効果しか望めない気がしてくるが、それならば、香川県の屋島城や奈良県高安城の位置関係を考えると中途半端な印象を持ってしまう。

要するに、天智朝政府は、想定される唐新羅連合軍の侵入ルートである、対馬、筑紫に始まる瀬戸内内海ルートと本拠地飛鳥を守る地点に「朝鮮式山城」の鎖を構築したのだが、その戦略的な意図が不明瞭に感じるのである。

この事実を明確に証明しているのが王宮の移転で、667年、飛鳥岡本宮おかもとのみやから、安全で、最悪の場合、東国への避難に利便性もある近江大津宮おおつのみやへの遷都である。

これを見ると天智は、各地の「朝鮮式山城」に唐新羅連合軍の進撃スピードを遅らせる効果位しか、冷酷な政治家として期待していなかったのかも知れない。

これ程、天智天皇の唐新羅侵攻軍に対する恐怖心は大きく、我が身の保全を希求する明らかな国家政策が「朝鮮式山城」の建設だったのであろう。


(その後の東アジア情勢)

幸いな事に、唐新羅連合軍の倭国侵攻は実施されなかった。

最初に述べた三つの段階の内の第三段階の実施に唐も新羅も直ぐには着手出来なかった為である。何といっても大国高句麗との開戦となると高句麗内部の隙が必要だったのである。

この朝鮮半島に於ける唐の征服戦争の一時休戦期間の間に倭国政府は一呼吸付くことが出来たのだった。

唐としても倭国が海の向こうで静かにしている分には、無理に事を荒立てる必要は無かったのである。

その間に、天智朝は律令国家としての国家体制の整備を急速に進めることが出来たのだった。天武称制7(668)年正月、即位した天智は大和朝廷古来の大王おおきみの呼び方を改めて、新国家に相応しい「天皇」の名称を用いている。

時期は不明ながら、この少し後から倭の国号を止めて新しい「日本」の国名を用いている。日本を使用し始めて間もなく、日本の国号は隣国新羅でも認識されている様子が、三国史記の中の新羅本紀に見える。

東アジアの強国に対抗するためにも、中国皇帝に対抗出来る「天皇」の名称と斬新な「日本」の国名が是非とも必要だった事情が垣間見られて微笑ましい気がする。

この年、10月、隋、唐と巨大な中華帝国に抵抗を続けた高句麗が政権内部の権力闘争による内紛につけ込まれる形で、唐と新羅の攻撃を受けて滅亡している。


しかし、高句麗の滅亡によって朝鮮半島情勢は安定化の道を歩むことはなかったのである。今度は、勝者の唐と新羅の間で高句麗と百済の旧地の争奪戦が起きたのだった。

唐は両国の旧地に都護府を置いて、直接支配体制の確立を急いだのに対し、新羅は朝鮮民族としての意識を喚起することによって、半島の統一を目指したのだった。

そして、高句麗と百済の人々は異民族である中華帝国の支配よりも同じ半島の住人である新羅の支配に賛同したのであった。

そして誕生したのが、朝鮮半島に於ける初めての統一国家、「統一新羅」であった。


鬼室福信が死んで2年後の天智4年、福信の子または近親と思われる鬼室集斯きしつしゅうしは、小錦下に叙任されている。小錦下は後の位階の「従五位下」に相当し、役職は「学識頭(後の大学頭)」を与えられたのだった。

そして、大国唐との間の「遣唐使」による交流の活発化によって、徐々に大野城を始めとする「朝鮮式山城」の存在も人々の意識から忘れられていったのだった。

最後に少し付け加えると、今回、「朝鮮式山城」と「神籠石系城郭」を一体のものとして記述したが、両者を別系統の山城として区別されている方も多く、古代城郭愛好者の一人として近い将来、両者の比較検討が進んで明確な結論が出ることを期待したい。


(参考資料)

1.天智朝と東アジア   中村修也     NHKブックス    2015年

2.別冊歴史読本:城郭研究最前線 1996年10月号、P94~99、「御所ヶ谷神籠石」


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