33.世宗の夢「訓民正音」
黄河文明の偉大な発明品である『漢字』から派生した東アジアの「疑似漢字」の数は多い。思い付くだけでも西夏文字、契丹文字、女真文字、ベトナムのチュー・ノムがある。
古代日本では漢字自体の変形は行わずに、漢字をそのまま用いて日本語の読み方に対応させようとした「万葉仮名」が最初に登場した経緯は前稿で述べた。
隣国の朝鮮でも、古くから漢字を用いた「吏読」という朝鮮語の表現方法があったが、独自の表音文字は直ぐには現われなかった。
当に、韓半島の朝鮮でもインドシナ半島の大越でも、そして、列島の国家日本でも優れた文章表現力を持つ「漢字」と自国語の音声表現方法の違いに長い間悩み続けたのだった。
しかし、象形文字である「漢字」を表音文字で使用する壁は大きく、打開方法を求めて各民族なりに解決策を探る苦闘は長く続いたのである。
更に時代が進むと日本では平安期に漢字をベースにして表音文字としての「仮名」と「片仮名」が出現している。仮名や平仮名が歴史の流れに磨かれて自然発生的に日本民族の中で結実した状況は幸せだったと考えたい。仮名や平仮名が無ければ、源氏物語を始めとする多くの平安文学の傑作は出現しなかったといっても言い過ぎでは無いと思う。
そういえば、世界中の言語の中で日本語と主語や動詞を含む単語の語順が同じ言語が隣国の韓国と北朝鮮で話されている朝鮮語だけだという。しかし、兄弟の言語の割合には日韓両国人が会話しても人名や地名を除くと共通の単語は極端に少ない。(笑い)
しかし、言語の配列に共通性が多いということは、「漢文」に遭遇した場合の難しさや自分の民族の持つ言語との違いのギャップに対する違和感も、両民族にとって共通する内容だったと思われる。
それでは、古代の日本人が、仮名と片仮名を創出することによって解決した問題点を朝鮮半島の人々が、どの様に解決したのか調べてみようと思う。
それは、多くの人々の共同体内部の暗黙了解によって出来たような日本の仮名と大きく異なって、傑出した一人の王の英断によって創製されている。
高邁な理想を掲げて、新しい文字の創製に挑んだ王の名前は、李氏朝鮮王朝第四代の王、世宗であり、その新しく創造された誇るべき文字を『訓民正音』という。
ソウルに行くと景福宮の光化門前の広場の一際目立つ場所に世宗の大きな座像が建設されていて、その左手には、『訓民正音』の本を広げた堂々とした姿で現代の人々に何かを訴えているように見える。
その位、現代韓国の人々にとっても朝鮮半島を統治した、統一新羅や高麗王朝、李氏朝鮮の歴代の国王の中でも新しい文字、『訓民正音』を創製した世宗は最も尊敬に値する崇拝すべき王なのである。
因みに、日本の海上自衛隊の最新鋭イージス艦に対抗すべく韓国で建造された強力なイージス艦にも「世宗大王」という新鋭艦が存在する。
(『訓民正音』の登場)
李朝、第四代の国王に即位した2年後の1420年、世宗は、まず王国の英知を集めた「集賢殿」を設立している。これは、自身の治世を支える重要な知的機関としての働きを期待した行為であった。
父太宗の初政のバックアップもあって治世が安定すると、世宗は自国語を表現できる新しい言語の研究を優秀なブレーンに指示したのだった。
その成果として、1443年に『訓民正音』が造られている。短い期間に創製された文字ながら、『訓民正音』の完成度は極めて高く、漢字と違って縦書きでも横書きでも可能な筆記方法は、現在の世の中を見通していたかのようである。
世宗は、その内容の詳細についても、1446年に刊行された『訓民正音』によって明確な目的の開示と文字創製の全容と利用方法の詳細を示している。
その全文は、今日でも見ることが出来て、拝見すると世宗の自国の文字を創造した熱意と真情が吐露されている気がして、肌立つ思いがする。
それでは、何故ここで『訓民正音』を採り上げたかというと、前稿で『和製漢語』の近代に於ける東アジアの「漢字文化圏」に対する大きな影響力に付いて触れたので、本稿では、李朝に於ける「漢字文化」と『訓民正音』の長い歴史に触れることによって、韓民族の中の知識層に於ける「漢字文化」への篤い信仰と世宗が願った『訓民正音』の庶民層への普及の葛藤の経過に触れてみたいと思ったからである。
両班層のプライドの根源を成す「儒学崇拝」と「漢文」の読み書きができるエリート意識は、国王の意志と雖も簡単には覆せない深刻な問題だったのである。中華思想の全ては「漢文」によって伝達されてきたのに対し、小中華である朝鮮が独自の文字を使用するなど、両班階級にとって、到底容認できない暴挙だったのである。
この知識層(=官僚層)の虚栄心から出た拒否感こそが、『訓民正音』が、直ぐには広まらなかった実相だったのである。
(『訓民正音』を読む)
平凡社の東洋文庫で世宗御製の序文から始まる『訓民正音』を読んでみると、今までに無かった朝鮮民族独自の新しい二十八文字創造の目的と使用方法が詳述されており、多くの臣下の反対を押し切ってまで、完成させた世宗の並々ならぬ熱意を感じさせる。
世界中の文字の多くは、民族個々の必然性から自然発生的に登場して、時代と共に成熟・完成した文字が多いのではと、素人なりに勝手に思っている。(笑い)
従って、その初期の姿は粘土に刻まれた楔形文字や、骨や甲羅に彫刻された象形文字として残未完成の発達途上の姿で残っているに過ぎない。
しかし、『訓民正音』の場合、誰が何の為に、どういう目的で創造されたかを、文字自身が語りかけるように文字創作の過程と利用方法が『訓民正音』の中で詳述されている、世界でも希有な登場方法だったのである。
訓民正音の正音解例を見ても如何にも漢字文化圏の国家らしい、陰陽五行から始まって「正音二十八字」の子音字母の解説が口や歯、喉の形を象徴的に使用して示している。
それから内容は、「初聲解」、「中聲解」、「終聲解」と続き、字母と音韻について詳述している。そして、「合字解」では、初聲と中聲、終聲の三要素を組み合わせて一文字を造るハングル独特の合字の手法について述べ、それぞれの要素を書く位置についても親切な記述が続く。そして、最後に具体的な文字の使用例を挙げて、より理解が勧むように配慮されている。
加えて、訓民正音解例の末尾に、後世、「鄭麟跡序」と呼ばれる「まとめ」の文章が記載されている。
この序では、我国(朝鮮)古来の話し言葉に対応出来る文字が無かった点を指摘した上で、国王殿下が創制した「二十八文字」は学び易く、会話を始め、色々な音さえも容易に書き取れる点が強調されている。
当に、至れり尽くせりの新しい文字に対する全国民に対する真摯な提案書であり、世界的に見ても奇跡に近い恩情の書である。
この一書が存在することによって、世宗の大きな銅像が光化門の前に建設された背景が覗えるし、朝鮮語を話す全世界の朝鮮民族が永久に誇りとするに足る約600年前の画期的な提案であった。
以上、『訓民正音』の概略を述べたが、言語学的な知識がないまま『訓民正音』を通読した素人の記述なので、目隠しして未知の動物を撫でるような文章になってしまったかも知れないが、ご容赦頂きたい。
それでは以下、分かり易いように、『訓民正音』を1900年代以降、近代になって一般に呼ばれている『ハングル』で表現を統一して学習を進めたいと思っている。
『訓民正音=ハングル』が創製されたのは、高麗王朝が滅亡して、「李氏朝鮮」が成立してから26年が経ち、漸く李朝も安定期を迎えた時代だった。
「世宗」の治世は日本では、足利第四代将軍義持から第六代義教の頃に重なる時代である。
(遅々として進まぬ『ハングル』の普及)
一国の歴代の国王の中でも英主とされた世宗の優れた提案の『ハングル』だったが、世宗の希望した庶民一般への普及は遅々として進まなかった。
ハングルが日本の室町時代初期に提案されてからも世宗の希望した庶民へ普及しなかった原因の一つに、李氏朝鮮王朝最大の暴君「燕山君」のハングルに対する禁圧があったと伝えられている。
ハングルが公になって約60年後の1500年代初頭、第10代国王燕山君の命令によってハングルは突然廃止されたという。原因としては賜死した燕山君の母親の廃妃尹氏に関係した為とか、燕山君自身がハングルをその関連で憎悪していた等の原因と唱える人が多い。
しかしながら、近年の研究では、そうした内容の記述は暴君だった燕山君を必要以上に貶めるための捏造事件だったと説く研究者も多い。
実際、世宗に続く世祖、成宗時代に書かれた書籍の中にハングルが使用された本も多く、燕山君以降の年代の中宗や明宗時代にハングルを使用した書籍の数は、更に増加しているところをみても、徐々にハングルは浸透していったと考えられる。
しかし、国民の知識層の中核である両班層における漢字文化尊重とハングル拒否の症状は重く、公式に近い両班同士の手紙に漢文以外を使用するケースは少なかったと想像されているし、増して、公の場での公式文書でのハングルの使用は、漢字文化圏の国の人士としてのプライドが到底許さなかったのである。
実際、李氏朝鮮王朝体制が健在の内は、「漢字」以外の文字であるハングルの公文書での使用を考える両班は存在しなかったのである。小中華思想を国是とする李氏朝鮮にとって中華の「漢字文化圏」からの離脱を意味する独自の文字ハングルの公式での使用は、許しがたい程の反逆行為だったのである。
(『ハングル』の普及)
このように、世宗28(1446)年に『訓民正音』が公にされてからハングルは少しずつ浸透して、中でも弱年者の初等教育用の文字として徐々に用いられるようになっていったと考えられる。
初めて教育を受ける幼子は、最初の段階として母国語であるハングルを学び、やがて上達すると漢字で書かれた論語を始めとする「四書五経」等の書物を与えられて学ぶようになっていったのである。
しかし、何度も繰り返すようだが、最初の頃ハングルは飽くまで補助的な文字であり、女子や私人間の手紙に使用されたり、幼児教育の一環として用いられる程度だった。
世宗の時代から約170年が経過した17世紀前半になって、ハングルで書かれた幾つかの小説が登場している。これらの小説は、表向きには女子供の楽しむ小説だった。
もちろん実体的には、日本の江戸時代後期の黄表紙が、男女両方の読者に好まれたように、これらのハングル小説も双方の愛読者を相手に供給されていた点を見逃してはいけない。
その一方、宮廷の女官や王族の女性の間では、ハングルの普及が進み、時代が新しくなるに従って、王が王族の女性に宛ててハングルの手紙を送ることも珍しく無くなっていったのである。
王宮に居住する王族の女性やその周辺の女官へのハングルの普及は、彼女達と接触の多い両班の男性や商人達の間にもハングルが益々普及する促進剤となったと考えられる。
けれども、世宗が心から希求した一般庶民への全国的な普及と浸透は李朝末期になっても十分に達成出来なかったようだ。
その背景には、江戸時代後半に日本で起きたような大都市での経済の興隆と庶民文化の発達による識字率の向上や諸藩の城下町に於ける庶民を含めた文運の発展が無かった点が大きかった気がする。李朝では、飽くまでも両班階級を中心とした漢字文化が主流を占めて、一般庶民の識字率は近代を迎えても低いままだった。
その一方で、海外に対してもハングルの存在を紹介する目的の「日朝辞書」が、17世紀後半には書かれているし、日本の雨森芳洲の朝鮮語学習書等の稿本もこの時代に成立している。
このように、日本の江戸時代後期に李朝で在位した正祖の時代になると多くの実学書や学習書にハングルが用いられて書かれるようになってハングルの普及は一層加速したのだった。
正祖といえば李朝22代の国王で、「イ・サン」の名で日本でも良く知られている王だが、以前、ソウルの景福宮、宗廟と歩いていた時に、韓国人のガイドさんと会話していて、悩んだことがあった。
それは、会話の中で正祖のことを「チョンジョ」と読んだり、「ジョンジョ」と呼んだり、会話の途中で、呼び方がコロコロ変わることである。
大変不審に思ったが、折角、正祖について詳細に説明してくれるガイドさんの好意を無にするようで、その場では、遂に質問できなかった。日本に帰ってから、ハングルが少し分かる家内に聞くとハングル(朝鮮語)の場合、同じ単語でも会話の流れで、濁音になったり清音に戻ったりするとのことだった。
日本語の同じ字でも「音」と「訓」では読み方が異なることは良くあるが、同じ字の読み方でのハングルの場合、会話の流れによって濁音になったり、清音になったりする相違を知ることによって、同じ兄弟の言語でも、分かれてからの長い歳月を感じた瞬間であった。
思わず脇道に逸れてしまったが、李朝自身が庶民教育としてハングルを推進する前に、日本の明治以降、李朝を取り巻く東アジアの国際情勢が急速に変化して、内外共に変革を求める機運が醸成されてくるのだった。
李朝の宗主国「清」と日本の間で戦われた日清戦争の結果、外部からの圧力によって清国の中華体制から脱却した韓国は、自主独立の時代を迎える。
500年に及ぶ「李氏朝鮮」の時代、階級制度は、大きく、「両班」、「中人」、「常人」、「賎民」の四つに大別されていた。国民の大多数を占める常人と賎民は長い間、両班に都合の良い文盲として放置されてきたのである。
この時代、開化派の動きの一つとして、漢字からの独立の動きが出始める。その顕著な現れの一つが、1886年に発刊された「漢城週報」の記事の記述方法であった。まだ、不安定ではあったが、漢字と朝鮮語であるハングルの混合体による表現が登場したのである。
その流れは、更に進化して、1894年の「甲午改革」では、従来漢文だった公文書が、「漢字とハングルの混合体」で書かれるようになったといわれている。
そして、1900年代に入ると初等教育の現場で、「ハングル」あるいは、「漢字とハングルの混合体」が登場して、朝鮮半島始まって以来の「言文一致」の学校教育が登場することになったのである。
自分達の話し言葉と書く文章の一致、この「言文一致」の世界こそ、世宗の求めた「ハングル」普及の大目的だったと勝手に想像しているが如何なものであろうか!
(「ハングル」全盛の時代)
しかし、日韓併合の時代を経て、ハングルは朝鮮全土に普及する時代を迎える。「文言一致」の使い良さもあって、文章上の表現利用に止まる異民族の使用する「漢文」と異なり、話し言葉イコール書き言葉の便利さを全ての朝鮮民族が享受出来る時代がやって来たのである。
それにしてもハングルは不思議な文字である。
第一、世界中で使用されている文字の中で、ハングルのように、造られた年が、1443年と明確に解っている文字は希有の存在だと見て良いと思う。説明するまでも無く、殆どの文字は、発生の過程や成長の経過についても詳細が不明で、気が付いたら使われていた可能性が高い。
その点、創製された段階で、高度な完成度を持っていた「ハング」は、蒙古文字やパスパ文字、漢字の強い影響があったとしても、世宗の「朝鮮文字」創成の情熱がヒシヒシと感じられる「民族文字」といって良い文字である。
唯、朝鮮半島二千年の漢字使用の歴史は重く、韓国語の中に漢字用語の占める割合は非常に高いにも拘わらず、近代になって韓民族が殆どの漢字を抛棄した結果、ハングルの多い韓国語の表現は、同音異義語の多さで苦労すると聞く。
日本は、幕末以降、西洋文明導入に当たって、漢字を用いて飜訳した『和製漢語』を多用して、国民の知力向上に資してきた流れがあったが、韓国での古から続く漢字の現代での大幅な使用制限は、自国の伝統文化の全面否定とは言わないまでも、伝統文化自体の否定に繋がりかねない危うさを内在しているようで、他人事ながら心配している。(笑い)
日本人は、異文化を蓄積し、咀嚼して吸収融合させる点で優れていると世界的に認められていると自己満足を感じている人も多いようだが、一方の韓国では、優れた文字としての「ハングル」の優位性に心酔している人が多い。
その流れのせいか、漢字の使用を最小限に限定したいとする要望が強く、今日の韓国の新聞の紙面に於ける漢字の縮小に繋がっている感じがして、民族感情としての陰影の強さを感じさせる。
そんな印象は、ソウルの街を歩く際に特に強く感じる。北京や上海、台北の町を歩く際に目に付く漢字の多い環境での親近感と違い、ハングルのみの疎外感は、到底、数十年前まで、東アジアの「漢字文化圏」に属していた国家とは思えないくらいで、寂しい想いを抱くことが多い。
日本の文化を「積み重ねの文化」と表現する人もいるが、確かに、古代に漢や唐から伝来した無数の中国文明で、既に中国で失われた物や習慣が現代日本に伝承されて残っているものは多い。『和製漢語』の稿で述べたように、千数百年前に伝わった「漢字」や中国古典を総動員して、ヨーロッパの近代文明の用語数千を短期間に飜訳した日本人の臨機応変性は、どこから来たのだろうか!
その点、朝鮮半島の文化は、どの様な文化か考えてみた。
統一新羅の時代、「仏教」が国の根幹を形成していたのに対し、李氏朝鮮では、「儒教」が国政の基軸に大きく変化しているし、第二次世界大戦後の独立と近代化に当たっては、アメリカナイズされた風俗と「キリスト教」が多くの国民を魅了して、今日では、キリスト教徒の数が国民の半数を占めていると聞く。
当に時代と共に民族と政府自身が地政学的影響を受けて、時流に適応して変身を続けている印象が強い。
民族の貴重な文字『ハングル』にしても、中華圏の「漢字文化」の呪縛が解けた瞬間、一気に開花して、大量の漢字を一気に追放する迫力は、伝統文化を大切にしている保守的な日本民族の良くするところでは無い。
しかしながら、ハングルと漢字の混用比率の問題は、ハングルを開発させた世宗の問題ではなく、今日の朝鮮民族の文化レベルの問題といっても良いと思う。
韓国では10月9日を北朝鮮では1月15日を「ハングルの日」と定めて国民の祝日として、世宗の偉業を称えている。
(参考資料)
1.訓民正音 趙義成訳注 平凡社 2010年
2.ハングルの成立と歴史 姜信沆 大修館書店 1993年
3.ハングルの誕生 野間秀樹 平凡社 2010年