32.怒濤の「西欧近代文明」から「漢字文化圏」を救った『和製漢語』
日本では、「黒船」の浦賀来航が西欧列強の脅威を実感させた最初の大事件だったが、清国の場合、「アヘン戦争(1840~1842年)」の惨憺たる敗北と香港の割譲が、中国の半植民地化への最初の警報だった。
東アジアでは、アヘン戦争の半世紀前の乾隆帝(在位1735~1796年)の時代、清国は最盛期を迎えていたし、アヘン戦争勃発の少し前に当たる日本の文化文政期(1804~1830年)も江戸文化の最盛期だった。
乾隆帝は、「十全武功」と呼ばれる十回の外征によって清国の領土を最大規模まで拡張して国威を発揚しているし、日本の化政期(文化文政期)前後の江戸文化の成熟期に関しては、皆さんよくご存じの鳥居清長や東洲斎写楽、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重等の現代でも世界に通用する錚々たる浮世絵師の名前が浮かんでくる時代だったという説明だけで十分であろう。
しかし、18世紀後半、イギリスの産業革命から始まったヨーロッパ列強の工業力と軍事力の急激な膨張は、それまでの歴史から考えられないほどの大きな力を地球上で持つことになった。列強帝国主義の植民地政策推進の時代の幕開けである。
その流れで、19世紀、アフリカとインドを手中に収めた西欧列強は、その強大な軍事力を背景に東アジアの大国、「清国」への進出を本格化させたのだった。
「アヘン戦争」の勃発である。
(「アヘン戦争」前の鎖国日本の実態)
この近世に於ける東アジア最大の事件に入る前に、当時の鎖国時代の日本の実情について軽く触れてみたい。
当時、日本は鎖国政策の中とは言え、桃山時代からの唯一のヨーロッパの友好国オランダからの情報によって国内に居ながらも、幕府の老中達は、最新の西欧情報を入手していた。
それ以上に驚異的だったのは、「アヘン戦争」に先立つ約50年前の、寛政3(1791)年に、幕末の日本海防政策の出発点ともなった警告の書、林子平の「海国兵談」が刊行されている。
このように、当時の日本の一部の先覚者達は、殆ど国際外交から孤立していたにも拘わらず、海外情勢に無知ではなかったのである。
そんな化政文化華やかな、文化元(1804)年に長崎に入港して通商を求めたのが、ロシア使節レザノフ一行であった。結局、幕府は国是である鎖国を盾に「通商拒絶」を回答したが、その後、ロシア政府は樺太と蝦夷地を中心に南下政策をとり始めて行くことになるのだった。
ロシアの軍艦に続いて、文化5(1808)年の英国軍艦フェートン号の長崎港侵入事件もあって、幕府は、従来の中国語通詞と「和蘭陀通詞」以外の英語やロシア語の必要性を感じて、少しずつ通詞の多言語化対応に舵を切ることになる。
けれども、残念なことに幕府が積極的な多言語対応を加速するのは、日米和親条約締結以降であったといわれている。
度重なる外国船による開港要求に対して、多くの先覚者が警鐘を鳴らしたが残念なことに、アヘン戦争の前年の天保10(1839)年に実施された幕府の言論弾圧事件「蛮社の獄」によって、その声は圧殺されている。
(西洋文明との対決、「アヘン戦争」とその影響)
清朝の最盛期が終って約50年が過ぎた頃、中国からの紅茶を初めとする嗜好品の輸入超過に苦しんだイギリスはインドで栽培したアヘンの中国への不法輸出によって貿易収支の改善を図る違法手段を公然と実施したのだった。
当然のことに清国は林則徐を欽差大臣として広東に派遣、アヘンの没収と焼却を実施している。
「アヘン戦争」の勃発である。
しかし、不法にも、英国は「砲艦外交」により自国の行為を正当化して、広州、厦門、上海と艦隊を北上させて清国軍を撃破、屈服させている。その結果として「南京条約」による屈辱的な香港の割譲を含む上海以下五港の開港に清国政府不本意ながら同意している。
更に、アヘン戦争に続く「太平天国の乱」と「アロー号事件」で清国政府の弱体化は進行する。1860年に結ばれた典型的な不平等条約である「北京条約」により、西欧列強による清国の分割と半植民地化の流れが決定的となったのである。
不平等条約の締結は、「中華」を自負する清国にとって大きな衝撃を与えずには置かなかった。しかし、当事者である清国政府首脳の一部では、アヘン戦争後の英国への香港の割譲は、広大な国土の辺境の小島を貸し与えるだけの小さな問題と捉える官僚も多かったといわれている。
そんな中、自国の将来を憂うる知識人の一人に、林則徐の友人の「魏源」がいた。
(魏源の「海国図志」とペリーの来航)
「アヘン戦争」に於ける列強の武力侵略に脅威を感じた「魏源」は、敵であるヨーロッパ諸国の情報収集に務め、当時の世界主要国の地理書とでも呼べる「海国図志」を刊行している。
初めに、1843年(日本の天保14年)に全50巻で出版された同書は、何度も改訂されて最終的には、充実した内容の100巻の定本となって広まっている。
同書の内容は、イギリス、フランス、アメリカ、ロシアの欧米有力四ヶ国を中心にした各国の地理、歴史概要や政治システム、軍事、外交、産業等の他、西暦との対照表や西欧の宗教に至るまで広く記述された時宜を得た良書で、当に孫子のいう、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の為にあるような書籍であった。
この西欧文明に関する啓発図書に着目し、重要性を認識したのは、実は清国人よりも、日本人だったのかも知れない。その蹶起となったのが、1853年のペリー提督率いるアメリカ艦隊の来航だった。
当時、日本の知識人は、漢文に句読点を施すだけで殆どの人は中国の出版物を読むことが出来たのである。その安易さと非常事態の緊急性から、魏源の「海国図志」は、ペリー来航の翌年にあたる嘉永7(1854)年、日本で翻刻されている。今日の緊急出版といって良い。
これを命じたのは、幕府の海岸防禦御用掛だった川路聖謨だったが、川路以外にもこの本の重要性に注目して出版した人々が多かった点からも、この時、日本人が抱いた危機感と切迫感がヒシヒシと感じられる。
出版後、多くの憂国の士がこの書籍を読んでいるが、中でも、幕末の気鋭の洋学者佐久間象山や長州藩志士の教育者として有名な吉田松陰は、この本から強い影響を受けたのだった。
彼等が、この本から清国に次いで日本が迎えようとする外国からの脅威に対処するための、敵国を知る貴重な知識を得たことは間違いなかったし、その他の幕末の志士達にとっても、当時の海防策を立案する際の有益な指針を暗示してくれたのだと考えたい。
そして、魏源は「海国図志」の中で、
「夷の長技を師として以て夷を制す」
という、自身の哲学を記述していると同書の研究書に記載されている。この視点は、幕末日本に於ける「和魂洋才」の出発点になったような気もしている。
清国も日本も、最初に着目したのが、西洋の産業革命による優れた先進技術に対する憧れだったのである。
換言すれば、西洋の最新技術と兵器さえ有れば、「中華思想」や「大和魂」を持つ、清国や日本は、最終的に欧米に勝ると当時のアジア人は考えたのだった。
(「和魂洋才」と)
しかし、西欧列強と正面対決した「薩英戦争」や四ヶ国艦隊の「下関砲撃事件」によって、薩摩や長洲の西国雄藩は大砲だけでは勝つことが出来ない西洋帝国主義の強烈な洗礼を受けたのだった。
その結果、先進的な雄藩の指導者達は、外見だけの軍艦や兵器の数だけでは西欧帝国主義に到底立ち向かえない難しさを痛感し、列強の最新軍事技術を基礎から学習する必要性を痛感したのだった。
攘夷による交戦後の実質的な敗戦を受ける形で、両藩とも交戦相手である敵国に研修生の派遣を早々に決め実施している。
英国に派遣された両藩の留学生や幕府が先に派遣した渡米使節とその後に派遣された渡欧使節によって得られた最新情報から、最新の産業技術や兵器製造技術を学ぶだけでは、西洋文明を吸収できないとの実感を強く感じた段階で、日本は「明治維新」を迎えることになるのである。
ヨーロッパ文明に現地で接触した侍達は技術習得だけで無く、西欧社会の思想や哲学、政治機構や軍事制度の重要性を痛感したのだった。
この如何にも武士らしい率直な態度は、幕府の有識者と薩長の指導者達の共通認識だったようで、明治維新政府が、明治5(1872)年に欧米に派遣した「岩倉遣欧使節団」の姿勢に良く現われている。
明治維新直後の揺籃期の新政府の首脳が、足掛け2年に渡って欧米の主要国を長期間訪問した成果は、実に大きな物があった。
最初の訪問国が、ペリー以来の友好国アメリカだった点も幸運であったし、同国に約7ヶ月に渡って滞在してヨーロッパ列強訪問の準備が出来た点も、その後の日本の立ち位置を決定する上で重要だったのである。
結果として、キリスト教と国際貿易に未だに否定的だった清国と異なり、西洋文明を受け入れる姿勢を全面的にアピールできた日本の立場に、同じ東アジアの一国ながら大きな差異を生じている。
加えて、使節団が、当時、満6才だった津田梅子を初めとする弱年の留学生を帯同した一行に対するアメリカ国民の好意も記憶して良い気がしているし、ドイツでは宰相ビスマルクが日本の成長と清国の没落を予想した有名な逸話も使節団は残して帰国している。
(「明治維新」と怒濤の「飜訳事業」の開始)
海外の色々な国の人々とお会いした場合、特にアジアの国々で良く質問させて頂くテーマの一つに、
「貴国の最高学府の教育が自国語で、どの程度行われているかどうか?」
がある。
欧米を主とした先進国の場合、当然ながら自国語の大学教科書も充実している場合が多く、それに加えて、その分野の先進国の専門書が併用されているケースが多い。
ところが、旧植民地だったアジアアフリカ諸国の場合、未だに、旧宗主国の言語での高等教育が行われているケースを耳にする。海外の教育事情に詳しい米国の友人に聞いたところ、それが世界中で一般的だと教えて貰い愕然とした遠い記憶がある。
インドを初めとする旧植民地を体験した諸国では、文字的には、未だに自主独立することが難しい現状があるのである。
そんな中、敢然と国家を挙げてヨーロッパ文明の最新の用語の「飜訳」立ち上がったのが、未熟な日本国であった。
古代中国から学んだ象形文字による『漢字』をベースに、全く異質なヨーロッパ文明を理解して、自国の言語への大転換を図ったのが、幕末から明治に掛けて怒濤の『和製漢語』による「飜訳事業」だったのである。
(『和製漢語』による怒濤の「飜訳事業」とその成果)
幕末から始まった『和製漢語』によるヨーロッパ文明の多くの近代用語は、明治維新以降、日本人の総力を挙げた怒濤の「飜訳事業」として急速に実施されていく。
飜訳された語彙の多さと短時間、大特急で行われた行為は、現在調べてみても明治人の熱情と緊迫感を強く感じさせる。
翻訳者も広範囲で古いところでは、杉田玄白辺りから始まって、福澤諭吉、西周、中江兆民等が存在するし、後年では、明治の文豪森鴎外や夏目漱石等も加えて良いと思う。それこそ、有名無名の多くの人々によってヨーロッパの無数のアルファベットで書かれた用語が『和製漢語』に飜訳されて、新聞その他を通じて日本国民全体に普及していったのである。
日本での飜訳の範囲も極めて広範囲で、最新技術や兵器等だけでは無く、ヨーロッパ文明の根幹を成す、思想や芸術、政治体制、組織編成等に及んでいる。今日使用されている文明関係の分野の代表的な『和製漢語』を挙げるだけでも、次の、
文明、文化、思想、感情、意識、芸術、美術、文学、感情
等があるし、政治や国家のシステムに直結する分野に於いても、
法律、政策、内閣、経済、資本、国債、警察、郵便、政党、民主
等を挙げることが出来る。主な科学用語をピックアップしても、
科学、物理、化学、理論、光線、電波、原子、分子、質量、固体、液体
等があって、数え上げれば切りが無い状況である。多分、当時の翻訳者も、どうすれば良いか頭脳を絞って新しい分野の用語を創造したのだろうが、その努力に酬いる言葉を知らない!
そのやり方には、幾つかの方法があったようで、古くから有る中国古典の熟語に新しい意味を付加した用法である。例えば、
共和、自由、革命、福祉、観念、権利、愛
等である。特に、「愛」ほど、明治以前の用法と近代での使用法が大きく変化した単語も無いかも知れない。近年では、愛情や恋愛的な用い方が多用されているが、個人的な印象では、古くは、「いつくしむ」的な用法が主流だったように感じている。
しかし、古典からの転用では、多くの用語を飜訳することは出来なかった。そこで考え出されたのが、漢字を新しく組み合わせて造りだした「新造語」であり、先に挙げた多くの「和製漢語」を含めて、その範疇に入る熟語は多く、
観念、哲学、科学、銀行、代数、郵便、野球、恋愛
等がある。
このように、明治維新後、急速に西欧風の近代化に舵を切った日本では新しいヨーロッパの思想や近代技術が『和製漢語』を使用することによって、急速に国内に広まった成果は今日我々が想像する以上に大きい。日本国民の多くは、『和製漢語』によって、西欧近代文明を学んだのであった。
その一方で、東アジアの超大国「清国」との確執が朝鮮半島を挟んで拡大していったのである。
(日中両国の軍備近代化と「日清戦争」)
「アヘン戦争」後、西欧帝国主義の脅威を十分に味わった清国だったが、「洋務運動」によって陸海軍の近代化は日本の明治新政府に先駆けて行われた。
中でも、李鴻章の率いる北洋海軍と陸軍の近代化は素晴らしく、ドイツ製の新型装甲艦「定遠、鎮遠」を中核にして編成された海軍は、規模からも主砲の大きさからも帝国海軍の脅威となっていたのである。
しかし、日清戦争の黄海海戦では、小型劣勢ながら軽快高速の我が連合艦隊に重装甲で30cmの巨砲を持つ定遠、鎮遠は惨敗しているし、陸戦でもドイツ陸軍式運用法を忠実に採用した帝国陸軍の敵では中国軍は無かったのである。
この大きな差は、政治、経済、社会組織、軍事制度を含む広範囲な近代化を目指した明治政府首脳に対して、西洋の近代技術は採り入れるが思想は古来の伝統を維持するという「中体西用」思想に従って、艦船や兵器などの近代化のみに注力した清国首脳部の思考方向の相違が表れた結果であった。
思想哲学を含む西欧資本主義の基礎から学習を始めた近代日本と現代でも世界中に「孔子学院」建設を広範囲に進めている中国人の思考方向の大きな差異を感じる歴史的な大事件が「日清戦争」であった。
ここに至り、「日清戦争」以降、東アジアの同じ「漢字文化圏」である清国からの日本への留学生が激増、日本各地の大学や学校に於いて、『和製漢語』に飜訳された多くの西洋思想や近代科学を学んで帰国している。
明治も後半になると、中国自身も同じ「漢字文化圏」である日本ヘの留学を奨励しているし、「日本留学者」は科挙試験合格者同様に清国政府によって任用されて、日本留学の機運は益々高まっていった。
飜訳による『和製漢語』の東アジア文化圏ヘの急速な普及は、日本の多くの知識人による、清国、朝鮮を含めた東アジアの近代化連携を模索する結果となっている。代表的な人物を挙げると福沢諭吉がそうであり、やや時代が遅れるが、内藤湖南がそうであった。
しかし、明治の先覚者福沢諭吉も含めて、日本人と朝鮮人、中国人が共同歩調を取る難しさと失望感を味わった日本の知識人や政治家は多かった。
古代から日本を下に見る「華夷思想」は近代になっても根強く、同じ「漢字文化圏」である日本からの『和製漢語』の利用には拘泥しない人々が多かった反面、同じ東アジア人として強力な同盟関係を設立して西欧諸国に対抗していこうとする根本的な熱意に中国も朝鮮も欠けていた結果、日本の知識層の意識した「東アジア連携」の夢が実現することは無かったのである。
(東アジア近代の「漢字文化圏」に貢献した『和製漢語』)
しかし、東アジア圏での共同戦線化は実らなかったものの、日本で『漢字』に飜訳された『和製漢語』が東アジア世界の「漢字文化圏」に与えた近代化に対する影響は計り知れない。
「日清戦争」以後の近代化に於いて、日本に一歩も二歩も遅れを取ってしまった中国だったが、同じ「漢字文化圏」である利点を最大限に生かして、「横文字」からの直接の理解では無く、親しみやすい『漢字』を用いた『和製漢語』による西欧近代文明の吸収は、多くの中国人にとって有益であり、貴重な時間短縮に貢献した点は明確だった。
しかし、中国人にとって夷狄である野蛮な倭国からの『和製漢語』の導入は中華を自負する民族にとって侮辱と考える人達も多く存在したのである。中には、彭文祖のように、和製漢語導入を「亡国滅族」とまで厳しく批判した人物も存在したのである。けれども清国全体の流れとして、『和製漢語』は好意を持って迎えられ急速に清国内に普及していった。
導入賛成派の人物を挙げると、文人の魯迅や革命家の孫文を初めとする改革派の人々が多かったし、毛沢東もその一人だった。
確かに、現在普通に使用されている「中国共産党」にしても「中華人民共和国」にしても、『和製漢語』の訳語無しでは絶対表現できない事が明確だからである。
それは、言うまでも無く、「共産」、「人民」、「共和」のどれを採っても、『和製漢語』だからである。このように、現在の中国語として使用されている近代的な言葉の過半数が、『和製漢語』であり、和製漢語抜きで今日の近代的な中国語は存立しないと一部の人が言っているのもなるほどと感じられるからです。
古代、特に「唐代」を中心に中国にお世話になった「東アジア漢字圏」の恩返しを、日本は千年の時を隔てて、近代になってから『和製漢語』によってお返ししたと誇りを持ってお話出来ると思います。
明治維新前後の短い時間で信じ難い程の無数の『和製漢語』を創造した日本人の柔軟な造語能力に脱帽せざるを得ないと我が民族ながら強く思う次第です。
更に現代では、「平仮名」と「片仮名」、「ローマ字」を変幻自在に使いこなしている異様な文字国家日本が実在している不思議さは、一種異様と表現しても可笑しくないかも知れません。(笑い)
この背景には、新来の文化に対する自由自在な異文化摂取の姿勢を古代から持つ日本という特殊な国と国民の存在無しには考えられないと想っている。
しかし、明治が終ってからだけでも既に百年、自国文化に固執する中国でも『和製漢語』は中国文化の血脈となって活用されている現状を鑑みても、東アジア世界の近代に於ける「漢字革命」は気が付かない内に成功裏に終了したと考えたい。
古代日本に『漢字』が伝来してから約二千年近い歳月を隔てて、東アジアの「漢字文化圏」全体に大きく貢献する、古代に受けた恩義を返す機会に恵まれた日本は幸せだった。
もちろん大げさだと思うが、一説には、今日、中国で使用されている『和製漢語』の数は、「○○的」とか「△△式」、「XX型」、「凸凸率」等の用法を含めると優に一万語を超えるという。(笑い)
その位、近代に於けるアジアの「漢字文化圏」での、日本語による「翻訳語」の影響力は強烈だったのである。
振り返って考えてみると、縄文時代から二千年近くに渡って独立を維持出来た邦は日本を除くと世界中でも極めて少ないと想う。その独自の歴史が、『漢字文化』の蓄積を可能にし、加えて古代末期に「仮名」を生み出し、柔軟な国民性が多くの『和製漢語』を創製することにより、中国を含む隣国に古代に漢字を伝えて貰った恩義を返したと胸を張って表現できそうである!
近代に於ける東アジアの「漢字文化圏」の可能性の扉は、日本人によって開かれたと言っても過言では無いと『和製漢語』によって飜訳された近代ヨーロッパの無数の熟語を見ていると強く胸に迫るものを感じる。
(参考資料)
1.日本の感性が世界を変える 鈴木孝夫 新潮社 2014年
2.日本と中国における「西洋」の発見 銭国紅 精興社 2004年
3.〈通訳〉たちの幕末維新 木村直樹 吉川弘文館 2012年
4.近代日本の成立 西村清和・高橋文博編 ナカニシヤ出版 2005年




