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31.『漢字』と日本人

この二千年間の日本語に於ける和文の発達を考えると言語学的素養に全く欠ける一人ながら、中国から伝来した『漢字』の大な影響力と漢字を大和言葉と融合させる為の日本人の長い努力を考えざるを得ないと常々思っている。

少なくとも二千年前に古代日本人が漢字と接触していた証の一つに、後漢の光武帝から倭の奴国の王が賜った「漢委奴国王かんのわのなのこくおう印」がある。この金印の文字の意味を正確に理解する能力が当時の倭人にあったかは定かではないが、少なくとも文字の存在と、その意味するところのおぼろげな概要は理解出来ていたと考えたい。

日本に『漢字』が伝来した初期の段階で古代人が遭遇した難しさの一つに、倭国の言葉「大和言葉」を漢字で表現する難しさだったのではないかと勝手に思っている。

そのチャレンジの成果が今日一般に、「万葉仮名」と呼ばれる漢字で表現された大和言葉だった。けれども、万葉仮名によって一端、解決したかに見えた問題も、漢字が「表意文字」であり、「表音文字」では無い原則的な違いによって、十分な解決とはならず古代日本人の苦悩は続いたのだった。


万葉仮名を使用しながらも、民族独自の表現方法を模索した成果が、日本独自に平安時代に開発され「平仮名」と「片仮名」である。

「仮名」の創出によって大きく前進した日本語だったが、「漢字」と「仮名」の双方の利点を生かした日本語独自の「文体」を完成させるには、更に、予想以上の長い時間が必要だった。

古代の正式公文書が「漢文」から出発した関係で、自分達が会話する「大和言葉」と文字の整合に苦心惨憺した様子が、今に残る各時代の多くの公式文書や和歌集、個人の日記や物語、説話集から覗える。

それでは、古代の日本人と『漢字』の関係から初めてみたい。


(『漢字』による「大和言葉」の表現方法に苦しんだ時代)

前述の後漢の光武帝から金印を贈られた後、いつ頃から倭人自身が文字を書き始めたのか不明だが、1~2世紀頃には文字を書くのに使用したと推定される硯が福岡県から出土(2017年11月15日付け読売新聞記事)しているので、その頃にはものを書く習慣が既に始まっていた可能性が高い。

金印に続く貴重な資料としては、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した「国宝金錯銘鉄剣」がある。この鉄剣には漢字を用いて、「獲加多支鹵わかたける大王」と日本書紀にある雄略天皇の名前を倭国風に記している。また、同剣にある辛亥の年は一般に471年と考えられている。

辛亥銘鉄剣に続くのが、5世紀の物とされる熊本県の江田船山古墳出土の「銀錯銘大刀」である。これらの出土品その他から、漢音を借りて、我国の言葉を表現しようとした先人達の苦労の跡が覗える。

また、埼玉と熊本の古墳からこのような象嵌銘のある剣や大刀が出土しているところをみると大和朝廷の支配が九州から関東まで5世紀には浸透して、意思伝達や権力を誇示する手段の一つとして、象形文字から出発した表意文字である『漢字』を用いながらも、「表音文字」としての使用が、既に古墳時代の倭国の広い範囲で始まっていたと素人なりに考えたい。


更に、時代が進むと大阪市の難波宮跡から発掘された652年以前の木簡等から総合して、7世紀頃には、我が大和民族は表意文字である漢字を「音節文字」として、相当の程度まで使いこなし始めたと研究書にはある。

しかし、そこには、「漢文」を最も正しい、「東アジア文化圏」の文章表現とする一方で、自分達なりの「大和言葉」を織り込んだ文章表現も欲しいとする二つの欲求が日本民族の内部にあったような気がしている。

隣国の「統一新羅」のように、唐王朝の律令制度を初めとする先進文化を王朝全体で受け入れようと熱烈な意思表示をしようとする余り、朝鮮半島古来の自分達の苗字を捨てて、中国風の「金」や「李」等の一字姓に国中で変更した国もあった。

その結果、韓国では現在でも中国風の一字姓である、これら二つの姓に「朴」、「崔」、「鄭」の三姓を加えるだけで、全人口の過半数を超える独特の苗字形態の国が出来上がっている。

その点、日本の場合、藤原や源、平等の本姓よりも地名等から発生した「苗字」を重要視した関係で、主な苗字だけでも1万を越える世界でも最も苗字の多い独特の国になっている。

大分、主題の『漢字』から横道に逸れてしまったが、次ぎに、古代の日本人が正統な「漢文表現」に拘った「日本書紀」と大和言葉の表現も加味した「古事記」について、素人なりに考えてみたいと思う。


(「日本書紀」と「古事記」の表現の違い)

奈良時代になると不思議なことに二つの日本国史が成立している。和銅5(712)年の成立とされる「古事記」と養老4(720)年に編纂されたとする「日本書紀」である。

この神代の時代から始まる日本最初の二つの歴史書は古代史に対する捉え方も、記述内容も、各々、異なる特徴を有するが、その詳細について、ここでは触れない。

ここで注目したて置きたいのは、両書の『漢字』の用い方に対する姿勢である。

「日本書紀」は、京都産業大学の森博達教授のご研究によると、同書の内容は正確な漢文が多い「α群」と倭習が強い「β群」の二つに分けられ、α群は中国語が母国語とする人の記述、β群は日本人の執筆と推定されているらしい。

同教授のご指摘から解るように、「日本書紀」は、記述者は二つの群に分かれるものの、対外的に見られることを想定した、出来るだけ正式の漢文で記述しようとした国史だったのではないかと考えられている。

それに対して、「古事記」の文章はというと、序文は漢文で書かれているものの、本文の方は、「和様化した漢文」で記述されていると、ものの本にある。

加えて、大和言葉の歌謡を多く含んでいるといわれているので、これらの点を総合すると「古事記」は、対外的というよりは、内向きの天皇家を中心とした国史と捉えるべきかも知れない。

そう考えると「漢文」で書かれた編年体の日本書紀に対し、神話時代も含めて、ストーリー展開がシンプルで物語性豊かで「和化漢文」で書かれた古事記は国内豪族向けだったのかも知れない。

更に、日本書紀は史書としては、特異なくらい異説併記が多く、逆に見れば相対的な記述が多い歴史書なので、若しかしたら唐や統一新羅が持つ情報との整合性を図った、対外アピールの強い歴史書だったのかも知れない。(笑い)


(「万葉仮名」と「万葉集」)

このように唐の律令制を採り入れた天皇家の権威が確立しつつある時代に漢文が尊重される一方、大和言葉をより正確に表現しようとする「和化漢文」の存在も大きくなっている状況が、「古事記」と「日本書紀」の二つの史書に現われているように感じられる。

そういう意味で、古代からの長い伝統を持つ日本の古代歌謡を集大成したのが、古事記、日本書紀に次いでまとめられたのが日本古代歌謡集の傑作「万葉集」である。

万葉集の場合、専門家によると成立時期が若干異なる歌集をまとめ上げた関係で、変体漢文で綴られた部分も混在するようだという。

この歌集の優れた点は沢山存在するが、何と言っても、当時の天皇から始まって、名も伝わらぬ(詠み人知らずと表記)地方の庶民の和歌まで、当時の人々に感動を与えた古代の名歌が広範囲に収録されている点にある。

「詠み人知らず」と記された人々の殆どは、万葉仮名を読んだり書いたり出来なかった庶民だった可能性があるが、誰が詠んだか不明ながら大きな感動を広範囲に与えた和歌を後世に伝えたいと考えた収録者の努力によって、今日に伝えられているのは嬉しい限りである。

このことは、単一民族ならではの感動の波が古代から現代まで途切れること無く伝わっている明確な証明であり、古典中国文からスタートした日本の書き言葉が独自の日本的表現に使用された、この時代の記念碑と考えたい。

中国古典では、「詩経」が日本の万葉集に相当するように思えるが、詩経の場合、後世の中国人儒学者達が儒学正統論に立った理屈っぽい注釈を無理に押しつけているので、残念ながら万葉集のようなおおらかな雰囲気で読むのは難しいかも知れない。(笑い)


(「平仮名」と「片仮名」の完成)

 縄文時代の言葉が「大和言葉」のどの程度含まれているのか、素人には想像も付かないが少なくとも弥生時代から古墳時代の倭人が、『漢字』を用いて当時の日本人の使用する重要な言葉を表現してきた流れから出現した「万葉仮名」の重要性をヒシヒシと感じる。

その後、「万葉仮名」は、平安時代に至って、「平仮名」と「片仮名」として完成して今日に至っている点は前述した。

当時、カタカナは漢文訓読用の知識人や男性の仮名として用いられ、漢字の一部の草書体から出発した平仮名は「女手」とも呼ばれて上流階級の女性を中心に普及している。しかし、律令制下の朝廷で官僚が使用する文書は全て漢文であり、内々で女性を中心に使用される「平仮名」は公の席では認められない存在だった。


そうした中、大和言葉の表現から出発した万葉仮名の完成形である「仮名文字」の独立宣言とででも評価すべき存在が、紀貫之が監修編纂に参加して、延喜5(905)年に成立した勅撰和歌集「古今和歌集」の序文であろう。

同和歌集の和歌は、「仮名」で書かれているが、序文には、「仮名序(和文の序)」と「真名序(漢文の序)」の二つが存在する。

中でも、紀貫之によって書かれた「仮名序」は、日本最初の歌論としても知られている。

更に後年、当時漢文による記述が貴族層男子の慣習だった時代に、最先端の文化人紀貫之が土佐日記を書く際に、作者を女性に仮託して平仮名を用いて記述した功績は大きかった。

このように平安時代前期は日本語にとって模索の時代だったが、仮名の完成によって、中国から伝来した漢文だけで無く、仮名による和様の文章も次々と出現して、独自の日本文化「国風文化」を発展させた微笑ましい時代だったのである。


その金字塔が紀貫之の「土佐日記」に続く、平仮名文学の傑作である清少納言の「枕草子」であり、世界最初の人気女流作家である紫式部の大恋愛小説「源氏物語」である。

やがて、平安時代後期から鎌倉時代に掛けては、「和漢混淆文」による今昔物語が登場したし、次には、「和文体」の宇治拾遺物語等の多くの説話集が登場して、庶民の中に和文体が浸透して、徐々に日本独自の漢字と仮名の整合が時代と共に進んでいる。

その一方で鎌倉時代には漢和辞典、「字鏡」も登場しているところから、長い年月を掛けて採り入れた漢字と和訓の関係の整理も進展がみられると考えられる。

話が飛ぶが、辞書といえば、桃山時代の慶長年間になると宣教師と日本人信者協力による日本語とポルトガル語の対訳辞書「日葡辞書」が出版されている。但し、この辞書は、日本語をローマ字綴りで記しているので、ヨーロッパ人のための辞書であり、日本人単独による辞書では無い所が残念である。(笑い)


(日本に於ける「科挙」と「宦官制度」)

 このように、中国の「漢字文化」の強い影響を受けたのが東アジアの中国に隣接する諸国だった。中でも、朝鮮半島の歴代王朝とベトナムの諸王朝では、「漢文」と「儒学」を重要視した中国独特の官僚採用試験「科挙」を採用して国政の基軸としている。

「科挙」の推進は、李朝とベトナム国内に於いて独自の知識層を形成して行くことになるが、特に、その動向が顕著だったのが李氏朝鮮だった。

王朝が実施した科挙合格者にとっては自己顕示の最たるものであり、一門にとっても権勢を王朝内に確立するための絶好の機会となったのだった。そして、結果的には「両班」層が形成されて、漢学の知識層と政治家層が一体となった李朝独特の上流階層が形成されることになったのである。

それでは、日本での「科挙」の実施状況はどうのようだったかとみると、日本でも形式的な科挙は律令制の初期に実施されたものの、古代豪族の既得権益に対する強い執着心もあって、健全な官僚育成システムとして朝廷の中で成長すること無く、衰退、終了している。


また、「漢字文化」とは少し懸け離れているが、朝鮮半島で李朝末期まで宗主国中国同様に行われていた宮廷の「宦官制度」も日本では採用されていない。

昔から「通い婚」だった日本では、平安時代の宮中の奥向きへも比較的自由に公家達は出入りしていたようなので、宦官を置く必要性が殆ど無かったのかも知れないし、陰湿な宦官制度そのものがおおらかな古代日本人の感覚に合わなかった可能性も大きい。もちろん中世、近世の日本でも同様だったのだろう。(笑い)

この「東アジア漢字文化圏」の特徴的な「科挙」と「宦官制度」の不採用は、両方共導入した李氏朝鮮と国風文化との間に大きな歴史的差異を生じる事になるのだった。

「科挙」の採用は、国内での少数の知識階級の育成には好ましい成果を挙げた可能性はあったが、日本の江戸後期のような庶民レベルも含めた国全体の識字率の向上に寄与したかと考えると、その可能性は限りなく少ない気がしている。

人間性を全く無視した「宦官制度」に関しては、

「よくぞ日本民族として全面的に拒否してくれた」

と、感謝したい気持ちで一杯である。この二つの制度を採用するメリットよりも、断固拒否した日本人の感性が、大きな国難の場で勇武で着実な日本人らしい判断を導く結果になったと個人的には固く信じている。


(東アジアで異質の日本独特の「封建制」の歴史)

それ以上に、平安時代末期以降、日本は東アジアの中で独自の歴史的発展を遂げることになる。それは、日本独自の「武士」の登場と「封建制」の発展である。

「封建制」という単語で、西欧と中国、日本を比較してみると次のようになる。


 西 欧 : 君主と騎士の「双務契約」的な主従関係で、中世~近世

 中 国 : 氏族的、血縁的な関係で、古代殷周時代に終了

 日 本 : 主君のご恩と臣下の忠義に基づく関係、鎌倉~江戸末期


即ち、ヨーロッパの封建制は、封建領主である国王と貴族や騎士、あるいは自治都市との間の相互契約的な主従関係が主となって発達している。そして、時代的にもローマ帝国滅亡後の古代から近世に至る長い時代に形成されたヨーロッパ帝国主義の骨格を形作った社会システムであった。

一方、中国の封建制は紀元前の殷周時代の短い時間で終了して、始皇帝以降の歴代の王家は独自の東洋的な皇帝独裁国家の建設と衰退した前王朝の破壊を繰り返している。周辺アジア諸国に対しても、進貢制度による東アジア世界全体の形式的な支配を図って満足しているに過ぎなかった。

けれども、鎌倉時代から室町期を経て江戸時代末期まで長期に渡って続いた日本固有の「封建制度」は、島国独自の政治機構と侍文化を含む日本文化を育成することになったし、ヨーロッパ諸国に良く似た日本独自の経済システムや政治機構を形作ったのだった。


その結果、『漢字文化』を基礎とする「東アジア文化圏」の一国でありながら、ヨーロッパ封建主義に近い日本独特の権力及び経済構造と長期に渡る江戸時代の平和により、庶民も巻き込んだ日本固有の文化が育つことになるのであった。

最も、中国や李氏朝鮮と異なる日本人独特の気風の一つに、「労働を卑しまない気風」がある。

中国では、儒学の基本として肉体労働を極端に忌む傾向があるし、特に兵役に従う人間を最下級の人として見る傾向が強かった。

 例えば、「科挙」で選抜された最優秀の頭脳労働者である士大夫が国政を牛耳ることになった「宋」の場合、屁理屈では勝っても、武力第一の北方騎馬民族の侵入に抵抗できず、北宋、南宋と連続して亡国の憂き目を見ることになったのだった。


日本の場合、武家の統領である将軍家が、武道を卑しんで肉体の鍛錬を怠るようであれば、部下の将士は戦場で誰も将軍家に従わなかったろうし、今日の天皇家でも、田植えや稲刈り、養蚕を天皇皇后両陛下が手ずからなさっている。

さて、そろそろ本題の『漢字』に戻らなければならないが、鎌倉、室町時代の日本の漢字関係の書物を採り上げて分析する力はもちろん持ち合わせていないので、代わりというと変だが、昔、小学校で悩んだ「音訓」についての溜息混じりの思い出を述べさせて頂く事にする。(笑い)


(「音・訓」の難しさ)

 表音文字としては使いにくい『漢字』を長年使い続けた日本人の苦労の痕跡は、漢字の読み方の「音訓」となってハッキリと残っている。

確か昔、小学校で習ったのは、「音読み」が漢字の字音による読み方であり、一般にカタカナで表示され、「訓読み」が大和言葉風の読み方で、ひらがなで表記されるくらいだった。

実は義務教育の頃は、この音訓の読みを正確に理解していなくて、後年、漢和辞典を引くようになってから、漸く理解したような訳で(笑い)、その顛末を以下に述べる。


大きな漢和辞典を引くと「音読み」のところに、「呉音、漢音、唐音」と注記してあるのに気付く。調べてみると「呉音」とは、古い時代に伝わった中国でも南方系の音で、一説には百済経由の発音との説もあるようだ。

次の「漢音」は、漢の時代の発音と紛らわしいが、7~8世紀の遣唐使時代の中国でも北方系の音らしい。最後の「唐音」も時代的には日本の鎌倉時代、中国の宋の時代の音であり、それも、禅僧や貿易商人によってもたらされた関係で、中国でも南の江南や浙江の発音らしいとのこと。

だから、「和尚」という言葉一つにしても、呉音では、「ワジョウ」と呼び、漢音では、「カショウ」、唐音では、「オショウ」と読み分けるのだというし、日本の経の殆どは古い時代に伝来した呉音で読まれているが、中には、漢音や唐音で読む経文もあるらしい。

資料によるとこの三つの音読の中では、比較的中国語との対応が良く出来ているのが唐の時代伝わった「漢音」とのことである。


このように我国の「漢字」の音読の内容一つとっても、漢に続く古代から唐、宋と長い時間を掛けて日本に伝わった中国語の読みが、蓄積されたまま現代に伝承されていることが良く解る。

当に、日本語の中には、東アジア文化圏の「漢字文化」の集積が見られると表現しても大きな間違いでは無いような気がしてくるから不思議である。

それに加えて、同じ漢字の読み方に、日本古来の「大和言葉」から来た「訓読み」が加わるから余計に複雑になっていく。

先にも触れたように訓読みは、「ひらがな表示」することによって日本人は混同を避けてきたようだが、いずれにしても繊細に分別したものだと感心させられる。

しかし、多くの漢字が音訓双方の読み方があるのに対し、訓読だけの読み方の漢字もある。それは、「とうげ」や「はた」、「さかき」等の和製漢字で、その数は意外と多い。

また熟語の場合、古代や中世の日本人は、音読と訓読を厳正に分けて用いてきたが、時代と共に、その様な習慣が崩れて、「重箱読み」と称せられる訓読と音読を混用した、熟語の上下で読み方が違う用法も近世以降では増えてきている。

例としては、「重箱」や「縁組」が挙げられるが、これらの最初は特異だった読み方も時代と共に日本文化の中に吸収されて自然に用いられるようになった様子から、日本人独特の良く言えば融通性のある国民性が覗えるし、悪く表現すれば実益を求める余り基本原則軽視の民族性が垣間見られる気がするが如何であろうか?


(江戸時代は「近代日本語」の始まりの時代)

このように『漢字』が伝来して以来、長い間、漢字を用いた書き言葉に対する「大和言葉」との整合性への努力を日本民族は厭わなかった。そして、漸く、音訓も含めて日本語としての形式が整ってきた折に、訪れたのが江戸時代の出版界(書肆)の隆盛だった。

「江戸時代」と聞くと約260年の太平の世の間に、近世から近代の階段を急速に登った時代の印象が強いが、江戸時代初期の書物の世界は特権階級の専有物と呼んでも可笑しくない状況にあった。

例えば、室町時代までの書籍といえば筆写本が我国では主流で、それに、「宋」や「元」、「明」などから輸入した舶載の高価な印刷本であった。

しかし、桃山期以降、「活字印刷本」も現れて寛永の頃まで製作されたし、それ以降の本といえば、版木刷りの「木版本」が主流になって書物の大衆化が急速に進行している。


ここまで書くと西洋で活字の普及による印刷本が主流になっていったのに対し、何故、我国の出版界は、活字本から大きく後退した手彫りの「木版本」が主流になったのだと、疑問を持たれる方も多いのでは無いかと思う。

しかし、日本で活字本がヨーロッパと違い、直ぐに普及しなかった最大の理由は、『漢字』にあったのである。アルファベット26文字の活字に若干の数字や記号の活字を用意すれば、容易に文章を印刷可能な「ラテン語系文字」のヨーロッパと違い、日本人の好きな中国古典の刊行も考えると最低でも1万字以上の『漢字』活字を常備しないと日本での書籍の刊行は困難だったのである。

そこで登場したのが、一枚の板に必要な2ページ分の文章を彫刻した版木摺りによる「木版本」だった。膨大な量の漢字を使用する中国古典はもちろんのこと、漢字と仮名を混合して使用する「和文体」の場合も版木刷りの和本は臨機応変の対応が可能であり、器用な職方と識字層の厚い日本人には、好適な製本システムだったのである。


更に、時代が進んで江戸時代後期になると、器用な日本人は文字だけでなく文章に合わせた絵も挿入して本としての庶民の興味を一段と向上させている。安永頃には、その様に文章と絵が合体した「黄表紙」が江戸を始めとする多くの庶民の読者層を獲得しているし、堅苦しいはずの武家の子女達も虜にしている。

余談ながら、従来単色だった浮世絵にも豊かな色彩の世界が、明和から文化初年頃になると加わり、多色刷りの「錦絵」と呼ばれる豪華なものになっていった。この東洋の新鮮で鮮やかな感覚の「浮世絵」は遠く近代ヨーロッパの絵画に大きな影響を与えたように、書籍にも多色化の波が押し寄せるのだった。

当に、江戸時代の出版界は、明治という近代化の波が押し寄せる前に既に、近代化への準備を整えていた感がある。


その背景には、三都(京、大坂、江戸)を中心にした国民の知識レベルが向上して、江戸庶民の識字率が当時のヨーロッパ諸国よりも高かったという説もあるくらいである。確かに、当時人気の滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」や十返舎一九の「東海道中膝栗毛」を今読み返してみても、十分我々を楽しませてくれるし、その頃、武士や知識階級の間で大流行した頼山陽の「日本外史」は、日本人としての意識統一に大きな役割を果たしたと考えられる。

しかし、日本語が近代化を迎える前に巨大な試練が待ち構えていた。それは、西洋近代文明との予期せぬ激突であった。

それでは、未知の異文明との遭遇の前に、幕末当時の日本語の状況について一応、考えてみたい。


(日本語の持つ「柔軟性」)

『漢字』と千数百年に渡って無意識に格闘し続けた日本民族は、日本語に「表意語」である『漢字』と「表音語」の融合した柔軟性を持たせることによって時代に適合する書き方を手に入れ点は前述したが、新しもの好きの国民性は江戸時代後期になっても変わっていなかったのである。

鎖国によって情報量は少なかったが、僅かに長崎を経由して入ってきたローマ字の「アルファベット」やオランダ語の「左横書き」も新しい物好きの諸侯や数寄者の間では理解され始めていた。文化年間には、日本語の文章を伝統の「縦書き」では無く、西欧風の「左横書き」にする斬新な人物さえ現われている。

鎖国による長期間の平和がもたらしたものは、それだけでは無かった。独自の算学で西洋の算数同様に、微分や積分を解く先覚者や日本固有の為替制度を実際に運用する経済人や組織も現われていたのである。それらの広範囲な新分野を独自に創造して運用するだけの「柔軟性」を当時の日本人と日本語は持っていたと考えたい。


この如何にも日本民族らしい融通無碍の柔軟性は、次ぎに来る西欧文明の怒濤の到来時期に当たって、信じ難いくらいの対応力を発揮している。

全く新規のヨーロッパ諸国の横文字に対する恐怖に打ち勝った上に、西欧文明の吸収に必要な新来の用語の和訳と理解に全力を挙げるだけの力を日本人は気付かない内に蓄えていたのである。

その要因の一つに、日本語の書き言葉は習得に多くの時間と難しさが伴う一方、『漢字』を基盤とする象形文字系列に位置する為、一度記憶すると瞬間的伝達力に優れている点が挙げられる。

例えば、皆さんが、朝、新聞の第一面を見た瞬間を想像して頂きたい。大きな紙面の主な漢字や仮名を拾うだけで、その日の主要記事の傾向は直ちに理解することが出来る、アルファベットには無い『漢字』独特の伝達力の凄さである。

それに加えて、漢字、平仮名、片仮名の三容の表現は、更に、その読者の判断を補助する高い能力を内蔵しているのである。

このように、世界で最も内蔵する情報量の多い言語である「近代日本語」の祖型が江戸時代後期にほぼ完成していた結果、次ぎに来る西洋文明の大津波に対して、優秀な翻訳者達の努力によって重要な用語を瞬く間に「和訳」出来たのである。

その結果、日本民族全体が横文字の原文を読むこと無く、「和文」によって、ヨーロッパ文明の概要を理解・吸収できたのだった。


(参考資料)

1.日本語の歴史            今野真二  河出書房新社   2015年


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