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30.『漢字』と東アジア文化圏

ヨーロッパやアメリカの「ラテン文字系文化圏」に行くと、最初にしみじみと気付かされるのが、自分が、「東アジア文化圏」それも、『漢字文化圏』の人間である点である。

世界の人口の中で、「ラテン文字系文化圏」の人口が最も多く約50億人、第二位の「漢字系文化圏」の人口は約15億人といわれている。因みに、第三位は「アラビア文字系文化圏」の人々である。

けれども、ほんの少し前まで、「漢字文化圏」の国家であったはずの韓国やベトナムに行ってみても漢字文化の痕跡は驚くほど少ない。京城ソウルのユネスコ世界遺産である昌徳宮チャンドックンの建物の門や宮殿の扁額は別としても、繁華街明洞の通りを歩いていても、表示は「ハングル」全盛で、気が付いた範囲では首都である市内の道路標示でさえ、漢字との併記も行われていない状況になっている。

それは、古都の面影が残るベトナム、ハノイの街を散策しても同様で、文廟の石碑や古い寺院の扁額に「漢字」が僅かに残っている以外、千数百年に渡って漢字文化の国だった痕跡は想像以上に少ない。ハノイの町自体の表示も同様で、ヨーロッパ風のローマ字を用いた「クオック・グー」である。

両国共に、約百年前までは『漢字』の他に「科挙」を含めた政治システムを含めて、日本以上の完璧な「漢字文化圏」の中の一国だったはずなのだが、今日では大多数の国民が漢字を理解出来ない国に大きく変容してしまっている。


逆に、日本と同じ未だに漢字文化圏の都市である台北の町の旧字体の看板の並びを見ていると戦前の中国を見るような郷愁を感じる瞬間があるし、北京の明朝風の瑠璃厰大街を歩く時、何か心が落ち着くように感じる。また、上海や広東の町で「簡体字」の漢字表記に迷子を救われることも多い。

今回は、中国黄河文明が創出した象形文字の一種である甲骨文字から発展した『漢字』とそれに大きな影響を受けた「東アジア文化圏」の発展と盛衰に関して気が付いた範囲で調べてみたいと思っている。


(『漢字』と東アジア文化圏の成立)

紀元前、多くの古代文明が世界各地で誕生し、古代エジプトやメソポタミアでは、古い時代に「ヒエログリフ」や「楔形」の古代文字が出現している。しかし、多くの古代文字は、その後の歴史の変動の中で埋没してしまい、文字としての伝達機能が現代では消滅してしまったのである。

その良い例が古代エジプトの「ヒエログリフ」で、ナポレオンのエジプト遠征とフランス人シャンポリオンの解読に対する情熱がなければ、若しかしたら今日でも未読の古代文字として謎に包まれていたかも知れない。

その点、古代文明の一つ「黄河文明」が発明した象形文字から発達した『漢字』は、今日でも文字としての機能を保持して現代社会に生き続ける、世界史的に見ても信じがたいくらい長命な古代文字なのである。

現に、全世界で15億人を超える人々が古代文字の系列を引く『漢字文化』の恩恵に浴しながら、近代の情報社会の大きな変動の中で生き続けていること自体、奇跡のような気がする。(笑い)

何故、数千年に渡る漢字の生存と継続が奇跡的かというと、第一に、数十字、それも二十数字のアルファベットを学習すれば、直ぐに文章を読めるヨーロッパの「ラテン文字系」文字と異なり、日本の小学校6年生程度の教科書を読むだけでも、最低、二千字程度の漢字を学習・記憶しないと読むことも書くことも難しい、世界一学習に時間の掛かる反民主的な文字だからである?

(笑い)


では、何故、黄河流域の古代人は複雑で怪奇な文字を考えたのであろうか? 

それは、漢字が最初に歴史に登場した象形文字の形状を強く残した殷や周の青銅器に鋳込まれた古代文字を見る時、当時の人々が文字に込めた神の意志の伝達の重要さや王と諸侯の規約の重々しさを重視した様子から、その一端を理解出来るような気がする。

やがて、秦の始皇帝による文字の全国統一によって有力諸侯間で別々に成長した文字が「小篆」という形で統一整備されて、次ぎの時代である「漢」にバトンタッチされたのだった。

秦の次の時代である「漢代」こそ、今回のテーマの『漢字』が完成された重要な時代であった。

その理由は、改めてお話する必要は無いと思うくらい、現代に通じる『漢字』という表現が、それを雄弁に物語っている。

漢の第七代皇帝武帝の時代、漢帝国の勢威は周辺諸国に広く浸透すると共に、漢字も東アジア各国に拡散、普及していった。

本来、中原の漢民族の文字であった漢字が周辺の諸民族に普及したのは、二つの利点があった側面も無視できない。

甲骨文字から出発した漢文は、相手に意志を伝達するための文体がしっかりと古い時代から確立されていたし、表意文字である漢字は言語が通じなくとも(多少発音が不明瞭であっても)アルファベットと違い相互の意志を明確に疎通出来る利点があったのである。

この表音文字と異なる利点によって、東アジア地域に『漢字』は急速に広まって、北の朝鮮半島の諸国や南のインドシナ半島のベトナム(安南)へと普及していったのである。周辺諸国への文化伝搬の重要な手段となった『漢字』は、海峡を隔てた列島の島国だった「倭国」へも漢の楽浪郡や古三国時代の朝鮮を経由して伝わっている。

即ち、漢を中心とした「漢字文化圏」の成立である。


(『漢字文化』の普及と中国独特の試験制度「科挙」)

『漢字』を学習することにより、どの様な異民族と雖も最新の中国情報を容易に入手出来る幸せが頂点に達したのが「唐」の時代だった。

そうなると東アジア最新の唐文明の恩恵に浴したい周辺国は、出来れば漢文熟達者を進貢使節に選んだし、当然の結果として唐への留学経験者は出身身分に拘わらず帰国後、本国の高位者となる可能性が高く、政権の中枢を担うことも多かったのである。

日本も同様で、遣唐使や唐への留学経験者は、身の危険が大きかった分、優遇されている。


中国自身の『漢字文化』はというと、前漢以前の春秋戦国時代に既に漢文を用いた、有名な孫子を初めとする「諸子百家」による各種思想の開花の時期を迎えているし、更に時代が進むと、武帝の時代以降、朝廷での儒学重視の傾向が顕著になった関係で、儒教系の「五経」等の古典と漢文に熟達した人材の重要度が増している。後漢の時代には、史上初めての漢字字典「説文解字せつもんかいじ」が出現している。

古くからの有力貴族層の横暴と重臣層の既得権益を排除すべく考案されたのが、隋の文帝による「科挙」の実施だった。

国家官吏採用試験である「科挙」は、漢字文明圏ならではのユニークな中国独特の官吏選抜試験方法であった。この試験システムは、千数百年後の清朝末期まで、一時的な中断はあったものの殆どの歴代王朝によって採用され、支配民族が替わっても中華帝国政治運用システムの一部として生き続けることになる。


その特徴は幾つかあるが、第一に、基本的に漢文が書けて読むことが出来る人物ならば、誰でも受験できる国民的な平等制(実際には自宅で学習出来る貴族や多くの書籍を購入できる富裕層以外の受験は難しかった)に特徴があった。

次ぎに、広大な領土を持つ中華帝国の主である皇帝にとって、縁故関係の無い優秀な科挙出身者を臣下として採用することは、国家運営の効率化の点からも好ましいシステムだったのである。

第三に、科挙試験の内容は、王朝の秩序維持に最も都合の良い「儒教」から出題された上、時代の進化と共に、政府の正統性を強調した病的なまでに中華思想を堅持する「朱子学」から出題される傾向が強まっていったのである。

それでは、「東アジア文化圏」における各国の「漢字文化」の普及状況と官僚試験制度「科挙」について若干触れてみたい。


(「東アジア文化圏」に於ける『漢字』と「科挙制度」)

『漢字』が瞬く間に東アジア諸国に広まった様子は、周辺各地から出土する「木簡」や「竹簡」によっても容易に推測出来る。近代以降、敦煌や楼蘭から出土した各種の木簡や竹簡、紙に記載された文書の研究も進んでいる。

我国の場合も、平城京の長屋王邸宅跡から出土した3万点に上る木簡は、古代史研究の重要な資料として多くの研究者の興味を惹いているし、当時の我国に於ける漢字利用の実態を知る上で貴重なり資料となっている。

それでは、我国の「漢字文化」の勉強に入る前に、東アジア諸国の「漢字文化」がどの様に発展したのか簡単にピックアップしてみたい。


中国の周辺諸国の中では、約一千年に渡って中国によって支配されたベトナムの漢字導入は、

比較的早かった。どうも不確かで申し訳無いが、前漢や王莽の新の時代に既に漢字がベトナムに入っていたと考えるのが自然だろうし、後漢末期の交趾郡太守によって漢字が更にインドシナ半島北部で普及が促進された可能性もある。

唐は安南都護府を設けてベトナム支配を徹底、日本人の留学生阿倍仲麻呂が唐の官僚となって安南都護に任ぜられた逸話は以前、触れたことがある。中国支配の間、中国からの移民も増えた関係で、ベトナム国内に於ける漢字の識字人口も徐々に増えていったと考えられる。

ベトナムに於いて忘れてならないのが、「科挙」の実施である。ベトナムの科挙は李朝仁宗の1075年に始まり、途中、中断はあったものの本家の中国や朝鮮での科挙の廃止後も継続されて、最終的に1919年まで存続している。

ベトナムに於ける科挙は、李氏朝鮮の科挙に比べても、より本家の中国の科挙に近かったといわれているので、同国の漢字文化と儒教教育は中国に忠実に見習う形で行われた様子がハノイの「文廟」の科挙合格者の名前を記した石碑群からも推測出来る。


隣国朝鮮半島の北半分は、前漢の時代に楽浪郡、玄菟郡、真番郡、臨屯郡の所謂、「楽浪四郡」が設置された関係もあって、古代朝鮮民族は早い時期に「漢字文化」と遭遇する経験を持ったと考えられる。

後に、朝鮮半島と隣接する現在の中国北部は古三国と呼ばれる高句麗、百済、新羅によって分割統治されていたが、晋に続く時代、古三国は中国の五代十国の呉や南北朝の北魏と国交を結んで儒教を中心とした中国文化の導入に務める一方、新しく、北魏を中心に伝わった仏教の信仰が始まっている。

やがて、朝鮮半島統一が、新羅によって完成した結果、新羅は当時の最先進国「唐」の律令制度を中心にした文物の導入に努めている。

続いて、朝鮮の統一政権を継承した王権ワンゴンの「高麗」は、開城を都として、第四代光宗の時代、中央集権化に努力している。高麗の「漢字教育」を見ると唐の最高学府である国子監を参考にして自国での教育システムの充実を図っているし、光宗の時代に中国に習った「科挙制度」も始めている。

更に、高麗末期から国家の最高教育機関として、「成均館」が創設され、王朝が李氏朝鮮に替わってからも、開城の成均館と同様の施設が京城に設置されて、李朝最高学府の役割を担っている。「成均館」の名称は現在でも京城の名門大学の成均館大学として受け継がれている。

しかし、李朝中期になると官学よりも書院中心の私学が教育の場となり、有力な両班は優秀な講師の元、自宅での勉強に励む傾向が強くなっている。


一方、朝鮮半島の「科挙制度」が充実をみたのが、李成桂の建国した「朝鮮国」の経営が軌道に乗り、朱子学を中心とする「儒学思想」が国家の基軸に定まってからであった。

科挙合格者を中心とする国内知識層は「両班」と呼ばれ、朱子学を信奉することによって、政権中枢の官僚層を自分達のものとすることが出来た。

けれども、その結果、両班内での主権争いが激化、李朝独特の無価値な派閥闘争が500年に渡って続いた為に、外敵の侵入(「壬辰倭乱」や「丙子胡乱」)や対外抗争等の非常時に於ける欠陥を大きく露呈することになったのである。

そんな中、朝鮮国内では儒学者優先の思想が徹底された結果、自国を「小中華」と規定し、隣国の日本や新しく勃興した満州族の金国(後の「清」)を軽視する傾向が見られたのだった。


このように、中国で誕生した『漢字』と漢字文化を用いた官僚採用試験「科挙」を導入する国があった一方で、中国の国民性と異なる自国独自の民族性を強調して独自の「文字」を創造する国家も現われている。


(「漢字」の影響を受けた周辺国の文字と「征服王朝」)

 東アジアでは、朝鮮半島やベトナム、日本のように早い段階で漢字を導入して漢文による文書化と政治が一体化した国も多かったが、逆に漢字をベースにして独自の文字体系を構築した民族や独自の文字を創造する周辺国家も多数存在している。

これらの民族の中には、突厥系拓跋氏や北の契丹族や女真族、満州族などのように、中国に侵入して、中国北部をその支配下に置く強力な民族も現われている。

南北朝時代の混乱した中国を統一した「隋」や「唐」は、突厥系拓跋氏出身者の子孫が建国した王朝だといわれているが、隋や唐の王室は、独自の文字を使用すること無く、中国古来の「漢字」の愛好者として終始している。中でも唐の太宗の「晋の王羲之の書」に対する愛好は熱烈で、太宗の貞観の世を中心とする唐代の「書」は、今日、中国の貴重な文化遺産として多くの名品が残っている。


「唐」に続いて中国を再統一した「宋」の時代、北方民族を中心に中国の北辺に侵入して独自の国家を造る動きが激しくなっていった。年代的には、10~12世紀に中国西北部や中国北部を占領して独立国を建設した諸民族である。

西夏は北宋とモンゴルに挟まれながらも、独自の存在感を主張しているし、現在の中国東北地方を中心に活躍した契丹は「遼」を建国して宋を圧迫している。遼に続く女真族の「金」は、北宋を滅ぼして華北全土を占領したのだった。

これらの諸国は、中国の漢字から派生した「疑似漢字」とでも呼んだ方が良い文字体系を独立に確立した民族だった。

例としては、「西夏文字」、「契丹文字」、「女真文字」が挙げられる。その詳細は省くが、漢字を部分的に活用して漢字に似た文字を創作して自国文字を創造していったところに、民族としての気概や独立性が強く感じられる。


けれども、華北を占領した「金」と異なり、南宋を滅ぼして中国全土を支配下に置いたモンゴルは絶対的支配者としての権威で、宮廷内で使用する文字として「ウイグル文字」を最初に選んでいる。フビライの「元」の時代には、チベットの高僧パスパの創作した「パスパ文字」を使用したといわれている。しかし、パスパ文字は実用上の難が多く、やがて使われなくなったらしい。

元々、中国は漢字の生まれた殷・周の時代から多民族国家だったが、いよいよ「漢字」が多民族によって翻弄される時代に入ったのだった。

特に、「元」の時代は、中国人は人種的階級として、第三位と最下位の第四位に位置付けられる虐げられた時代でもあったのである。しかし、その反面、この時代から明の時代に掛けて口語体で書かれた「水滸伝」や「三国志演義」等の「白話小説」は活況を呈して、新しい時代の息吹を感じさせるのだった。


久方ぶりの中国人による王朝「明」だったが、明朝自身の内部崩壊と李自成の乱を好機として、北京入城を果たした満州族によって、再び異民族による征服王朝「清」が建国されたのだった。

「清朝」は、支配民族の関係もあって公文書に、満州文字、漢字、モンゴル文字の三体併記を基本として国政をスタートさせている。

確かに、北京の紫禁城を訪ねると宮殿や門の扁額の表記が様々に為されていて興味深い。満州文字と漢字の二通りの文字だけの扁額がある一方、ご丁寧にも、満州文字、漢字、モンゴル文字に加えて、チベット文字の四様の文字が並んでいる扁額に出くわすこともあるから不思議である。

これらの多様な文字の扁額に出会う度に、その宮殿や門が建設された時期や改築された時代の宮廷内の意向の影響が顕著に出たのではないかと個人的には思っている。

けれども、時代と共に満州語を理解出来ない満州族の数が増えて、かの西太后なども漢文以外、読めなかったと聞くし、満州族の王朝なのに清朝後半には、漢文の方が多用された様子も覗えるから不思議なものである。多分、少数の満州族が時代の変化と共に、圧倒的多数の人口を占める「漢人文化」に吸収されていったのが清朝末期の時代相だと感じている。


(「科挙」から中国史を見る)

一方、時間を元に戻して、中国独特の官僚採用試験「科挙」から、宋以後の中国史を観察してみると色々なことが解って来る。

最初に科挙の最も優れている点を挙げると、何と言っても隋・唐という古い時代から形式上は国民全部が応募できる国家試験が実施された世界的にも極めて珍しい官僚採用システムだったと感じる。

その内容は、繰り返すようだが、漢字を自在にこなすだけの教養と膨大な四書五経を含む儒学関連の経書を暗記する優秀な頭脳を必要とする試験ではあったが、多くの歴代中国の知識人を納得させるだけの開かれた制度でもあったのである。

けれども、平穏な時代に適合する暗記に強い博覧強記な人材からは、剽悍な北方騎馬民族の中国侵入を防ぐ臨機応変な国防策が出ることは少なかったし、増して、大軍を率いて国運を決する第一線指揮官が得られる可能性は皆無だったのである。


その「科挙」の大欠陥を露呈した最大の危機が北宋の徽宗の時代の「靖康の変」だった事は良く知られている。女真族金の侵攻に対して、皇帝と宋の士大夫層はなすすべも無く屈服、北方に拉致されて、首都開封は徹底的に略奪されてしまったのである。

それに追い打ちを掛けるように、南宋もモンゴルの強圧に抵抗できずに滅亡、中国全土が騎馬民族モンゴルの占領するところとなり、植民地帝国「元」の制圧下に置かれたのだった。

続いて、元末期の農民反乱の中から頭角を現わした異風な容貌の朱元璋によって建国された「明」は、中国史上、最も皇帝独裁権が強化された帝国だった。

国政は明国皇帝の意志が最優先される一方、軟弱な皇帝の下では科挙を経て官僚となった知識層と皇帝に近侍する宦官との力関係に政局が依存する危うさの中で国家が運営されたのである。

明朝後期には、徐々に宦官勢力が力を増して、宦官の運営するスパイ組織による科挙出身者の官僚の行動が拘束されるケースも多かったという。逆に考えると猜疑心の塊となった皇帝は、科挙出身者の重臣も側近の宦官も信じられない状況に陥った可能性がある。

最後の明国皇帝崇禎帝は、李自成の反乱軍が北京を包囲する中、全ての文武百官と宦官に見捨てられて側近の宦官一名を伴って紫禁城の北の景山に登り、縊死している。


少数民族ながら明朝末期の混乱に巧く介入して北京入城を無血で果たした満州族の「清」は、広大な中国全土を瞬く間に制圧している。

歴代の清朝皇帝とその補佐官は、漢民族に対してアメとムチを巧妙に使い分けて新王朝への忠誠を求めて短期間に成功を納めている。

もちろん、歴代王朝が採用した「科挙」も実施しているし、儒教への尊崇も欠かさなかったが、中国人全員に対する満州族独特の「弁髪」の強要も忘れなかったのである。

また、前述したように、「清朝」は、公文書に、満州文字、漢文、モンゴル文字の三体併記を基本として国政をスタートさせたのだった。


清朝に至り、数千年の歴史を持つ漢字は、満州族とモンゴル族、そして漢人が混在する帝国の漢人用の文字として存続が許されたのだった。

けれども清朝歴代皇帝の中国文化に対する傾倒と共に、「康煕大辞典」のような漢字文明を集大成する偉大な書籍も編纂されている。

しかしながら、武力によって漢民族征服に成功した満州族が、「漢字文化」に心酔する時、清朝政府の基盤である軍事力は急速に衰えをみせていったのであった。

その時世界は、世界征服とアジアの植民地化を目指す西欧列強による「砲艦外交」の只中にあったのである。「中華思想」とは全く異質の自由主義西欧文明勢力が東洋に接近して国際関係が緊迫する中、東アジアの『漢字文化圏』は如何に対応したのであろうか?

その問題を考える前に、寄り道ながら島国日本の『漢字文化』の成長過程に触れてみたいと考えている。


(参考資料)

1.中国史のなかの日本像      王 勇       農山漁村文化協会  2000年

2.文字の起源と歴史     アンドルー・ロビンソン 

                       片山陽子訳    (株)創元社    2006年

3.図説アジア文字入門  東京外語大アジア・アフリカ言語文化研究所

                               河出書房新社    2005年


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