3.異質文化の融合(古代中国の成立)
紀元前の中国の歴史を考古学的データから見ていくと、どうも長江中下流域の稲作文化が最初にあって、少し遅れて黄河文明が発達していった印象が個人的には強い。
そこで、今回は、稲作栽培の長江文明に勝って黍や粟の黄河文明が中華文明の祖になった幾つかの理由を私なりに考えてみたいと思った。
まず、地形から考えてみた。長江の中流域や下流域は今でも風情が少し残っているが低湿地や水郷地帯であった。最近は急速に小さくなっていると聞く洞庭湖だが、古代は多くの湖沼群を従えた巨大な湖だった。洞庭湖以外にも水路や湖沼が複雑に交錯した水の迷路が古代の長江の中下流域だったと考えられる。当然の事ながら、近隣の村落に行くには道よりも舟による交通が主だったろう。稲作主体の農村はまとまりの良い地域共同体から成り立っていたのでは無いかと想像される。
それに、平坦な水郷地帯は世界中何処でも殆どそうだが、眺望が利く所は少ない。自分達が住んでいる村落から見える光景は、水田であり、良く似た近くの村であり、広葉樹の林であった。それが連続しながら徐々に小さく、遠くなるのが長江周辺の一般的な風景だったろう。
村々は、自給自足しており、籾を蒔く時期や稲刈りの時を長年の経験や天候から決定できる長老や物知りによって運営されていたかも知れない。もしそうであれば、古代長江流域の生活は武力抗争も多くない比較的平和な世界だった可能性が高い。
一方、古代黄河文明発祥の地について、まず、地図上の位置で確認すると今の河南省の北部、省都鄭州を中心とした一帯がそうである。鄭州の北、黄河を渡った安陽の近くには有名な殷墟がある。いうまでも無く中国古代王朝の中で明確に遺跡が確認できる最古の王朝商(殷)の後期の遺跡である。鄭州の西には後漢の首都洛陽があり、東には北宋の都の開封がある。
以前、山東省と江蘇省で食事をした折に鄭州の話をしたことがあった。古代からの雑穀農業の中心地であり、漢代以降は小麦栽培が普及した鄭州は、粒食文化の多彩な土地と聞いた。
饅頭、餃子、麺類はもとより、小麦粉をこねてねじり合わせて油で揚げた物等、色々あるらしかった。中でも、新鮮な羊肉を使ったとろみのある汁の麺は美味しいと伺ったが、残念なことに本場の揚州チャーハンと共に未だに味わっていない。出きれば、美味しかった広東麺や蘭州ラーメンと頭の中で比較しながら食してみたいものだと想っている。
現時点では、商の前の王朝夏の所在が確認されていないが、鄭州や安陽からそう遠くない地域に存在したものと思われている。
黄河からみると現在、洛陽、鄭州、開封は河の南側に、安陽は北側に位置する。この一帯から山東省に掛けて、古代は地理的、気候的に見てどの様な自然環境だったのだろうか?
■大平原の魅力
古代、この一帯は大黄河が無限の時間を使って運んだ黄土による肥沃な緑の大平原だったと想像される。そして、広葉樹の樹林の陰にはインド象やサイ、水牛が生息していたことは前に述べた。原始、気候は亜熱帯性気候だったが、伝説の夏王朝の頃から徐々に気温が下がり始めて、温帯化していったのである。
長江中下流域の水郷地帯とは全く異なり、黄河が形成した広々とした遙かに続く平原は、江南とは違って遠くまで見渡せた。徒歩や車馬で千里の彼方まで行ける豊穣な広野は住民に豊かな穀物をもたらし、安定した生活を与えてくれた。
肥沃な大地は多くの民族や部族を周辺の山間部から引き出し、引き寄せる魔法の力を持っていたと推測したい。
黄河中流の周辺地域の高地に立って、一望千里の沃野を見た古代の人々は、最初、どの様な印象を持ったのであろうか?
「緑野の中の最も肥沃な土地を最初に我が部族の土地としたいと望む」
だった、であろうし、平原の定住者が増えて、大きな富裕な村落の数が多くなってくると、
「自分達の部族が得意とする器物を携えて行き、穀物と交換したい」
と、考え交易のため、平原に集まってきた部族もあったろうし、中には、
「大平原の果てまで行ってみたいと冒険に出発する集団もあった」
かも知れない。
それに、古代の黄河はそこに住んでいる人々に恩恵だけを与えてくれたのでは無かった。高校2年生の頃、十八史略と史記を初めて読んだが、伝説上の歴代の帝王達は、黄河の治水で大変苦労をしている印象があった。平常は穏やかな黄河も、一端、大氾濫を起こすと凶暴な龍となって人々を苦しめた。
巨大な暴れ龍=大洪水を起こす黄河に対抗するためには、偉大な統率者による大土木工事が古代から必要だったのである。ここでも、人民の統率者としての王が必要だったのであった。
長江と黄河の両古代中国文明を比較すると後発の黄河文明が長江文明に対して急速に力を付けて行った背景には、この古代の緑の大平原の魅力を抜きにしては考えられない気がする。
もちろん、黄河文明が発達した理由は黄土大地の『大平原の魅力』だけでは無かった。
■異質文化の融合
古代に黄河の大平原で発生した最大の事件は、民族、部族毎の異文化の衝突では無かったかと私は考えている。黄河周辺の地域から生活習慣が違い、風俗の異なった民族が蝟集したことによって、当然ながら紛争や小競り合いも発生した。
黄河の平原が広いといっても、その時代の中心部はそんなに広く無かったはずであり、開けた場所で東西南北の複数の民族の文化が出合ったのであった。
長江域と違って平原での文化の出会いは、土地が平坦であったぶんお互いの持つ文化の優劣が直ぐに決した可能性が高いと想像する。
大航海時代前後のヨーロッパがそうであったように、古代黄河中流域でも、種々の異文化の衝突や競争、選択が起きたのではないだろうか? 大平原での異文化の出会いは、穀物の栽培であれ、青銅器の製造であれ、宮殿の建築であれ、各部族へ急速に優れた文化への選択を迫ったと考えたい。
その結果、異なった部族間の垣根を超えて異文化の相互交流が起こり、中原地域において急速な文化の融合が促進された精華として、古代黄河文明を形成していったと考えたい。
豊穣な大地が生んだ穀物の増産と食料の余剰は、部族内での権力を生まずにはおれなかったはずである。やがて、有力な村が都市国家的に成長を遂げると部族長の中の有力者が王となっていった。
当然ながら最初の古代の王は絶対的な権力持つ中世の王と異なり、神の声を聞いて政治に生かす王だったろう。抗争する両者の対立が深刻であればある程、人間では無く、天の神の意思を仰いで、天の声を代弁する王の存在が大きくなったと想像される。
異文化との混交による文明の発達も王権の確立を促進したと考えられる。
長江では個々の村落が半ば独立して存在していたのに対し、黄河流域では、平坦で眺望の良い大地が交易を即し、多種多様な人間集団を招き寄せる力を発揮した結果、黄河中流域では調停役あるいはもめ事を裁定する王が求められ、古代国家の夏が起こり、続いて商(殷)が成立している。
即ち、古代黄河文明は王の存在が中国で最初に確立された地域の一つであり、急速にその王権が大きくなった土地であった。
濃厚な呪術性を内蔵していたと考えられる商(殷)は神権政治を基本に中原を統治していた。殷は、亀卜によって天の声を聞いた。亀の甲や鹿の骨に神に聞きたい内容を書いて火に炙って占ったのである。良く知られているように神と人間の通信手段として甲骨文字の誕生である。当然ながら、甲骨文字は会話用の口語では無く、書く為の文字、文語であった。
■中原という地域
古代黄河文明による王朝の華やかな中心領域をいつしか人々は憧れを込めて、『中原』と呼んだ。
伝説上の最初の王朝、『夏』の実態はまだ、解っていないが、想像するに黄河中流域が多くの部族国家か都市国家に分かれていた頃の旗頭的な王家だったのだろう。
最近の研究では、夏、商(殷)、周の古代歴代王朝の出身民族に関して、歴史家の岡田英弘氏の説を始め同一民族では無かったと見る説も多い。
確かに、最初の王朝『夏』は南方系の東南アジア系民族の匂いがするし、その次の『商(殷)』は山東省寄りの東夷を勢力基盤とした部族のように感じる。商を圧倒して王朝交代と遂げた『周』は、後の秦と同様に西方の遊牧民族集団が中核となっている部族連合の有力者の印象がある。
商(殷)が亀卜に使用した象形文字が書かれた亀の甲や鹿の骨が、殷墟の発見に大きく貢献した話は有名だが、動物の骨を焼いて吉凶を占うのは、古代北アジア諸民族の習慣であった。商では、王自ら天を祭り亀卜で占ったところから見ると商は、北アジア系の民族が夏の東、山東省方面に移動してきて、夏を滅ぼして中原を支配した可能性もある。
もう一つ、商が中国本来の民族では無く、北あるいは中央アジア系民族である可能性の証拠が、オリエントに由来する戦車を権威の象徴として多数保有していた事実である。古代エジプトやペルシャでは王や貴族の象徴として二頭立ての戦車が戦闘や狩猟に用いていた。その戦車が殷墟で次々と発掘されたのである。オリエントの戦車の製造方法が中央アジアを通って中国の商の手に入り、商は戦車の戦闘能力を最大限に生かして、中原を制圧した可能性もある。
しかし、中原を占領して新しい王朝を建設した商は、中原の王家に相応しい文化面でも大きく貢献している。
商王朝の王が祭祀に用いた青銅器の完成度は、古代中国文明の中でも最高レベルにあったといわれている。確かに、後代の周や漢の青銅器に比較して見ても、時代的に古い商の器物の方が遙かに精巧であり、呪術的な表現力、例えば饕餮紋を始めとして神秘的な要素が随所に満ちている感じがする。
以前、中国古代の青銅器製作の鋳型は、細密な黄河黄砂があって初めて可能だったという話を読んだ記憶がある。確かに、黄河の岸で黄土の沈殿層を手で掘って、黄土を握ってみると、日本各地の土に比較して細かく、ねっとりしていて、精密な鋳型の原料としては最適なのかも知れないと思った経験がある。
夏や商の時代の王権の中枢の地は、いずれにしても安陽や鄭州等の河南省の北半分の黄河流域の地域の比較的狭い土地だった。
しかし、権力の存在するところ、常に抗争の萌芽が内在している。夏から商へ、商から周に王朝が移動すると共に古代黄河文明の中心域(中原)は徐々に拡大していった。
周は現在の西安の更に西の方の草原と広葉樹林帯が混在する地方の遊牧と雑穀農業に従事していた民族のようだ。商を滅ぼした周は、現在の西安付近の宗周と東の洛陽付近の二つの都市によって中原を支配している。その瞬間から中原は大きく拡大したのであった。
現代の中国の省で見ると河南省の北側、山西省の南部地域、陝西省の東側に広がっている。全体の面積も現行の省一個半程度の大きさになり、それが、当時の中国の諸侯があこがれる中原であった。
周は、先の王朝である商の先進的な文化である甲骨文字、精密な青銅器の製造技術等を吸収して自国の物としつつ、封建制という新しい統治手段も活用して領域の拡大に努めている。
その結果、先輩である長江流域を吸収して、周の時代には、黄河と長江の両流域を統合する無数の封建諸侯を有する広域な国家に成長した。周の朝廷において、本来先輩であったはずの長江文明諸国の楚や呉、越は中原諸国から野蛮な国、あるいは辺境の文化レベルの低い国と嘲られたのである。
■古代中国と古代日本
文字による歴史が始まる前の古代中国と古代日本の関係を考えると非常に実証的では無いが、どうも、この段階で、倭(日本)は、黄河文明よりも長江文明とより密接に繋がっていたと考えたい。誰が考えても日本古代の弥生文化の勃興は稲作と共に始まったと考えるのが素直であろうと思うからである。
長江文明と共に朝鮮半島との交流関係も半島南部の稲作地帯とより緊密な関係にあった事実は、半島南部での遺跡や出土遺物の倭との近似性によって証明されている。古事記や日本書紀の記述も稲作を抜きにしては成立しないし、今日に続く天皇家の大嘗祭の習慣も稲作への感謝無しでは語れない国家的な文化である。
弥生時代以降、稲作を古代日本人が精神生活の中の根底に据えたことによって、稲作地帯に共通の共同作業に協力的であり、集団の秩序を大事にする民族的習性が日本で育成されたように感じられてならない。
そのせいか、日本と共通の水稲栽培地帯であり、仏教国の多い、タイ、ベトナム、ラオス等の東南アジアの諸国の農村地帯を訪問すると国内の故郷に帰ったと同様の親近感を抱かせてくれる。
その点、中国は広く、秦の時代に既に南の稲作文化、北の雑穀文化、草原の遊牧文化が相互に干渉し合いながら、存在している大国家であった。
高い文化レベルを誇る中原からの影響は、秦の後の漢の時代になってやっと日本に到達し始めた感じがする。この点は、追々と述べさせて頂く。
これは、この項の関連では無く、別件の話だが、和の漢字音は長い間、南方の呉音であった。北方の漢音が急速に学ばれ出して普及していったのが随による中国の南北統一以後である。倭も遅ればせながら、遣隋使、初期の遣唐使以降に漢音の学習に努力して、習熟に努めている。