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29.「高麗仏画」

残念ながら、未だに、ほんの数点しか拝見する機会が無くて、もっと多く見たいと念じている美術品の一つに、「高麗仏画」がある。

古三国時代に朝鮮半島から我国に招来された古雅な諸仏とは大きく違い、「高麗仏画」は、画面のスケールも大きく、時代も日本の鎌倉時代から南北朝初期に当たる高麗後期に製作された品が多いせいか、絵としての完成度も高い。加えて、背景の描き方も「北宋画」の影響なのか繊細優美な印象を受ける。

絵としての完成度の高さから考えて残っている「高麗仏画」の殆どが同王朝の最盛期に描かれた仏画が殆どかと思って、色々調べてみたら、全く逆の現実を突きつけられる結果となった。

高麗王朝が安定して王と庶民が平安を謳歌していた時代の絵画どころか、20数年に渡る長いモンゴルの侵略に苦しみ全土が荒廃し国も崩壊寸前まで行った最悪の時代直後の絵が殆どだったのである。

驚くことに、抵抗も空しく王家は元に屈服し、元の間接的な苛斂追求の続く中、ささやかな小康状態の時代の高麗後期の「仏画」が殆どだったのである。

そのような背景を知って見ても、「高麗仏画」に描かれている観音菩薩像や阿弥陀如来像の慈顔と柔和な眼差しには強く引き付けられるものを感じた。

それでは、高麗仏画が描かれた歴史的な周辺と仏教から見た朝鮮半島の歴史的を振り返って見たい。


(「高麗仏画」が描かれた高麗末期までの大雑把な「朝鮮仏教」の流れ)

古代の朝鮮半島に「仏教」が伝来したのは、中国の「五胡十六国」から「南北朝」の時代だった。当時、朝鮮は古三国時代で、最も中国に近い高句麗には372年、続いて百済には384年に伝わっている。後に、国を挙げて仏教を信奉する新羅の仏教公認は528年だった。

古三国時代の朝鮮半島の信仰は、古代からの原始信仰と新来の仏教が混在する社会だったと想像される。仏教の流入と共に三国時代の各国では仏教への信仰が、徐々に高まっていった。

三国の中でも新羅での王家を初めとする仏教信仰は篤く、都慶州には壮大な仏教寺院が建設されている。当時を代表する建築に、善徳女王5(636)年に鎮護国家の象徴として建立された皇龍寺の宏壮な高さ80mの木造九層塔があった。

そして、半島が新羅によって統一された「統一新羅時代」、我々も良く知る代表的な新羅時代の寺院、「仏国寺」や「石窟庵」が建設されている。


統一新羅に続く、王権を始祖とする「高麗王朝」の時代も仏教は鎮護国家の宗教として手厚く保護されて八関会等の仏教儀礼も国を挙げて推進されている。この時代、招来された宋版「大蔵経」を元に、「高麗大蔵経」の初彫が行われている。この大蔵経刊行の噂は日本にも到達して、我国の東大寺や仁和寺も熱心に購入を働きかけて入手しているし、後年の室町期になっても日本から何度も大蔵経を求めて使者を送っている。

韓国の仏教宗派に関しては、殆ど知識の持ち合わせがないので良く解らないが、高麗後期には朝鮮半島に中国から伝わった多くの宗派の中で、「天台宗(日本の天台宗とは異なる教義)」と禅宗系の「曹渓宗(仏国寺等)」の二つが有力となっていったのではないかと勝手に思っているし、天台宗は王家と上流階級に、曹渓宗は中堅層と庶民に浸透? していったのではないかと考えている。


しかし、この仏教全盛の時代に突如、侵入してきた騎馬の異民族「モンゴル」によって、高麗の平安と隆盛を極めた仏教文化は一挙に崩壊する。

中国と地続きの恐怖を朝鮮半島の国民は、歴史上、何度も味わうことになるが、その中でも最も過酷で悲惨だったのが、この蒙古軍による30年近くに渡る略奪と破壊だった。その惨害はほぼ全土に及び、王家は都開城を捨てて、海上の江華島に非難する有様だった。

敬虔な仏教徒だった平安な高麗国民の生活は崩壊し、貴重な文化財の多くは火を放たれ、破壊されたのだった。

先に挙げた新羅以来の皇龍寺の宏壮な九層塔を初めとする多くの寺院が焼き討ちに遭って焼亡、収蔵されていた貴重な仏像や仏画と共に失われているし、隣国にまで知られた高麗の重宝、符仁寺の「初彫大蔵経」もモンゴル軍によって焼失している。この二つの素晴らしい文化財が永久に失われた原因が示すように、高麗朝前期の仏画が、今日、殆ど残っていない理由は想像に難くない。


その後、苦節の時代を経て、高麗王家は「元」のフビライの女婿となることに成功、束の間の平和を得ることになる。詳細は後述するが、この時代に描かれた仏画が、今日、残っている「高麗仏画」の主要な作品群である。

しかし、新羅以来、高麗王朝末期まで約一千年に渡って「仏教王国」だった朝鮮半島の時代は長く続かなかった。都の開城を中心に国家の支持を得て勢力を拡大した「天台宗」はやがて傲慢になり、堕落していったし、何よりも、モンゴルの強圧によって人民への苛斂追求が続いた高麗王朝の政治基盤が脆弱になり、政情が不安定になっていったのだった。


(「高麗仏画」製作の背景と称讃に値する完成度の高さ)

さて、本題の高麗時代の「仏画」に話を戻そう。

まず、今日、世界中で残っている「高麗仏画」の総数は、160余点といわれている。その内、韓国内に残る高麗仏画が、約20点、欧米に10余点、我国には最も多い約130点が伝存するらしい。

また、残っている「高麗仏画」の殆どが、モンゴル軍侵攻以降の高麗後期の仏画で、平和だった高麗前期の仏画は、数えるほどしか残っていない点は前述した通りである。即ち、残存する「高麗仏画」の殆どが、モンゴルとの長い抗争が終了して、講和が成立した1270年以降の時代の作品群なのだという。


それでは、1270年以前は、どうだったかというと、モンゴル軍の侵攻によって、多くの寺院や仏像、仏画を失った朝鮮半島の指導者(当時は「武臣政権」の時代だった)は、熱心に心の救済を仏教に求めて、最も貴重な「大蔵経」の復刻を目指したのだった。

当時の武臣政権の執権者崔氏は、戦乱の中にも拘わらず大蔵都監を設置して「再彫大蔵経」を完成させている。この再彫大蔵経の版木は韓国南部の大邱てぐの北西にある静寂な伽耶山の海印寺に今も大切に保存されており、膨大な数の版木の収蔵庫は見る人に感動を与え続けている。

この後、高麗王家は長く続いた武臣政権の圧制下を脱して、モンゴルと講和、モンゴル皇帝の女婿となることによって、王家の存続を決定付けている。

大モンゴル帝国の一翼を担うことになって、酷税に晒されてはいても、一時の平和を味わうことになった王家や宮廷の上層部では、壮大な仏画制作による国家安定の祈願や自身の心の救済を求める祈願が「仏画」作製の行為となって頻繁に行われたのだった。


多く残っている「仏画」の中でも時代的には、高麗王朝が英雄「フビライ」との国交に苦心した「忠烈王」から息子の「忠宣王」の時代の物に、傑作が多いという。

世子時代から元のフビライに仕えて苦労した忠烈王だったが、フビライの王女を王妃に迎えた最初の高麗王であり、忠宣王は、その息子である。また、諡にモンゴルへの忠誠を意味する「忠」の字を使用するように元から強制されたのも同王の時代からであった。

元の強烈な干渉下に置かれた高麗王室の束の間の心の平和の一端として「高麗仏画」を見るか、仏教に自己と一族の精神的な救済を求めていたのかは不明だが、今日、拝見しても「高麗仏画」の完成度の高さには驚かされるし、日本とは異なる仏教文明の垣根が有りながら、見る者の心を容易に引きつける崇高さと荘厳さに満ちている。


これらの「高麗後期の仏画」を拝見すると、一国の文化としての完成度の高さと高麗文化の豊穣さの一端を強く感じさせる傑作が多い点に改めて気付かされる。

そして、高麗仏画は大画面が多く、伝統の阿弥陀如来や水月観音像を描くと共に背景には、北宋後期の山水画の高レベルな表現を学んだ跡が顕著な山水画描かれていて、高麗の宮廷画家のレベルを感じさせるに十分な深遠な信仰心を満足させる名品が多い。その他にも十一面観音像等の隠れた逸品が沢山存在すると聞く。

また、残っている仏画の幾つかは、後宮の高貴な女性の発願によるものだという。当時の高麗女性の社会的地位は、後の「儒教」に染まった李朝期の女性達の低い地位と違って比較的高かったし、増して、モンゴル王家から来た后妃の依頼とあれば、宮廷画家も心血を注いで完成に努力したと思われる。

これらの高麗仏画と仏画の製作を依頼した願主の崇高で真摯な信仰と苦悩の時代背景を考えると、当時の人々の篤い菩薩行の姿が垣間見えるような気がする。


(「高麗仏画」受難時代の到来)

しかし、高麗後期に多数制作された仏画の傑作群もやがて、受難の時代を迎える。1392年の李成桂による「朝鮮王朝」の建設である。

「李氏朝鮮」と一般的に呼ばれる王朝の成立によって、朝鮮半島の「国家思想」が、それまで一千年に渡って続いた「仏教」から、「儒教」へと大転換が行われたのである。

新興の「明」に朝鮮という国名を決めて貰った李成桂は、明の信奉する「儒学」中心の国策の自国内での模倣と徹底を推進している。最新の朱子学を基盤とした「科挙」の実施は、王朝を支える新知識層である「両班」の賛同と支援を得て、瞬く間に浸透していった。


そうなると、今まで、「鎮護国家の仏教」として長年に渡って安住して来た「高麗仏教」は抑圧される、日本の明治維新に起きた「廃仏毀釈」と同様の事態が朝鮮半島全域で起きたのである。

高麗時代に国家的尊崇を集めた仏教は排除され、李朝は新しい思想である「儒教」を国政の基盤思想に据えて出発した結果、第三代太宗の時代には全国の寺院の数を高麗時代の約六分の一まで大きく削減している。

さらに、太宗の子の第四代の世宗の時代には、従来、七つあった朝鮮の宗派の数も禅宗と教宗の二つに統合させた上、都市部の仏教寺院は破却・収公されて僻地に追いやられている。

しかし、王妃を初めとする王室内の女性仏教信者の数は多く、世祖のように漢城内の荒廃した仏寺の再建と伽藍の整備に務める国王も出ている。


(後期「高麗仏画」が多く日本に残った背景)

しかし、李朝全体の流としては国家の思想が、それまでの「仏教」から「儒教」へ180度の大転換されたことにより、千年以上も尊崇を集めた仏教は圧迫されて、僧は都漢陽へ入ることを禁止された時期もあったのである。

その結果、今日の韓国では寺院は都市部よりも山岳部や地方に多く存在し、仏教勢力の中でも禅宗(曹渓宗)の勢力が最も強く残っているといわれている。


そうなると多くの仏像や寺院建築群が破壊される一方、持ち運びに便利な仏画を高額で買ってくれる相手を求めて、隣国の仏教国日本へ渡った可能性は高い。当時、東アジア諸国の中で、最も安定した仏教国は日本だったし、中国や朝鮮の仏教先進国の「仏画」を貴重な品物として招来する基盤があった為である。

特に、日本の大寺院や貴族層にとって、憧れの中国で描かれた「仏画」の価値は今日想像する以上に高く、素晴らしい高麗仏画が中国仏画と偽って輸出されたケースもあったようだ。

それを証拠立てるように、高麗仏画の幾つかは、中国からの伝来品として愛蔵されたケースが記録されている場合もあったようだ。

仏教弾圧により唯同然で入手した朝鮮の仏画が、高価な中国仏画として多くの日本の寺院へ納入された手品を今日、知る由も無いが、日本の存在が世界的に見ても貴重な「高麗仏画」の保存に役立った点は見逃してはいけないと思っている。

しかし、近年韓国では、これらの日本に伝存する仏画を「倭寇」による略奪品や秀吉による「壬辰の倭乱」等による強奪品としたい意見が出始めているようだ。

けれども、日本の諸寺の多くに伝来する高麗仏画の殆どが古い時代から継承されている伝承品である点からも、その可能性は低いと個人的には思っている。


それでは、どの様な「高麗仏画」が日本に残っているか見てみると、当に重要文化財クラスの傑作、名品のオンパレードである。現在でも縦4m以上の大な佐賀県鏡神社の「水月観音像」は、元の大きさは更に大きい5mを超える巨大きな物だったそうだし、大徳寺や泉屋博古館も同じ画題の「水月観音像」がある。その他にも根津美術館所蔵の「阿弥陀如来像」や鎌倉の名刹円覚寺の「地蔵菩薩像」等々、枚挙するのに困ることは無い。

これらの傑作を含めて日本の寺院や美術館には、世界中に現存する高麗後期仏画の凡そ三分の二が収蔵されているという。

これらの「高麗仏画」を拝見する度に、もし、長期に渡る高麗への元寇が無ければ、現存する高麗後期以上の高麗前期の傑作の「仏画」群が残っていた可能性は限りなく高かったと嘆息せずにいられない。


また、僭越ながら朝鮮半島に於ける異民族による侵略の歴史と国家思想の大変革による文化財への決定的な影響の大きさを思う時、古代以来の東アジアの文化財の最終的な収蔵庫としての日本の役割を思わずにはいられない。

「沖の島に残る古代文化遺産」もそうだし、「正倉院」に収蔵されている中国唐代の文物も世界的に見て貴重なことは論を待たない。

また、日本以外では、アメリカのメトロポリタン美術館やボストン美術館、サンフランシスコ・アジア美術館等に収蔵されている高麗美術も多い。自国の貴重な文化財が異国である日本やアメリカにあることは、朝鮮半島の人々にとって耐え難い苦痛を伴うかも知れないが、百歩譲って、この地上から儒教遵奉に伴う弾圧によって消滅したかも知れない「高麗仏画」を初めとする古美術品が、他国で現存することをなんとかご理解頂きたいものである。


(「儒教」では癒やしきれなかった李朝の人々の心)

李氏朝鮮時代、仏教は儒教を信奉する両班層を中心に特に都市部で圧迫される傾向にあった点は上記したが、両班の信奉する儒教は多くの朝鮮の人々の心を完全に癒す力を持たなかったようだ。

「儒教」の本質が、王を初めとする上流階級の秩序維持に都合の良い教義であり続けた結果、社会的な地位を低く位置付けられた女性や庶民にとって、本当の心の救済の手段とはならなかったようだ。女性や庶民は、新羅以来の「仏教」に魂の救済を求めたのだった。

儒教の本場中国でも皇帝を初めとする上層階級の秩序思想として「儒教」が定着しながらも、庶民を中心に「道教」や「仏教」が根強い信仰を集めたように、李氏朝鮮でも仏教に対する信仰が急速に衰えた訳では無かったのである。

首都漢陽での仏教寺院の圧迫はあったものの、今日でも韓国を旅行すると伽耶山の海印寺や慶州の仏国寺ではないが、静かな山の中に名刹が多く残っていて、庶民の信仰を今に伝えている。


それを象徴するように、現存する朝鮮半島の仏画の殆どは、李氏朝鮮時代の仏画であり、李朝前期の仏画が130余点、後期の仏画が数千点、残っていて、李朝は数量だけで見ると「仏画」の全盛時代の感がある。

この時代の仏教の崇拝の代表的な人物を挙げるとすれば、第13代明宗(1545~1567年)の母の文定王后ぶんていおうごうになるのかも知れない。幼い明宗に替わって垂簾政治を行った王后は、王家の安寧を祈って仏事を盛大に行い、多くの仏画を作製させて儒教信奉の官僚層から非難されている。

また、時代は少し後になるが、「壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮征伐)」や「丙子胡乱(清の侵入)」による朝鮮各地の寺院の荒廃や仏像、仏画の膨大な被害の復興も17世紀以降、盛大に行われている。

その様な訳で、儒教を崇拝し仏教が表向き抑圧された李朝時代だったが、平和な500年の間に製作された仏画の数は、想像以上に沢山あり、儀式用仏画や教化用の説話図が増えているのも李朝仏画の特徴だといわれている。

李朝時代に残された多くの仏画の依頼主である発願者や施主は上流階級層と庶民に別れるようで、宮廷周辺の人士から依頼された絵の生地は絹が用いられ、庶民からの物は「麻布まふ」と呼ばれる従来使用されなかった素材に描かれるのが、李朝前期の特徴であるらしい。

中には、大切な主尊仏の部分を絹に描き、周辺の眷属の部分を麻布とする、組み合わせた手法を用いた画幅もあるようだ。


(朝鮮に於ける「お茶文化」の衰退)

少し脇道に逸れてしまうが、仏教と共に東アジアに広まった文化の一つに、「お茶文化」がある。日本へは特に、宋からの禅宗と共に入ってきた印象が強いが、実態はどうだったのだろうか?

中国からの伝来初期の茶器といえば、何といっても「曜変天目茶碗」であり、「禾目のぎめ天目茶碗」、「玳皮たいひ天目茶碗」を思い出す方も多いと思うし、その後、寺院から上流階級に浸透した「お茶文化」は、千利休によって大成され、時代と共に広く庶民へと広まっていった経過は良く知られているところである。

日本でのお茶の飲み方や種類も生産地の拡大と共に抹茶だけでなく、煎茶やほうじ茶、麦茶等、と増えて江戸末期には、我国の国民文化として定着し現在に至っている。

一方、本家の中国の方はというと、如何にも中国人らしいお茶文化の深耕と拡大と遂げている。ここで詳細を述べる余裕は無いが、茶葉の種類の多さと味や香りの味わい方の多彩さでは、日本茶の遠く及ぶところではない。中国のお茶は、「白茶」を初めとする六つに分類されるようだが、以前中国で、六種類のお茶を飲みながらその説明を聞いた段階で、その全てを理解するのを諦めたくらいである。(笑い)


お茶文化が独自に発展した中国と日本に挟まれた朝鮮半島はどうだったかというと、高麗王朝時代と李氏朝鮮王朝時代では、お茶に対する受け止め方が激変している。

中国から伝わった喫茶の伝統が寺院中心だった点は、日本と同様だった高麗でも、お茶の栽培は最初、寺院で行われている。仏教の普及と国家宗教としての認定下に置かれた高麗では、上流階級を中心に喫茶が普及して、高麗末期には、相当面積の茶畑があったと想像される。

しかし、李氏朝鮮により、国教が仏教から儒教に大きく転換されると共に、寺院の衰退と喫茶習慣の減少が起きている。三代の太宗や四代の世宗の頃には、そうでも無かったが、時代が進むと共に茶畑は減少し、朝鮮内部では、「茶外茶」が普及していったのである。

当時、炊飯に石鍋を多く使った朝鮮では、石鍋のお焦げにお湯を注いで、食後のお茶替わりに飲むことが多くなったらしい。その他にも鳩麦茶や麦茶、トウモロコシを焙煎したコーン茶等々が、中国や日本のお茶の代わりとして朝鮮では用いられていた。


このように、「お茶文化」一つとっても、中国と朝鮮、日本の三ヶ国は異なる発達形態を歩んで来たのだった。

多彩にお茶文化を楽しんだ中国、「わび」と「さび」と様式美を追求した日本の「茶道」、国家思想の統制によって、「お茶文化」が衰退していった朝鮮、東アジアの隣国三ヶ国の「お茶文化」一つとっても、このように大きな差異を見るとき、東アジア各国独自の真の文化を学ぶ難しさを感じたのだった。


因みに現在の韓国の宗教別の人口比率を、ある集計によるとキリスト教徒が30%未満で最も多く、次いで仏教徒が人口の約23%であり、人口の約43%は無宗教であるという。

この数字からは、現代韓国人は心の救済を古代からの仏教と、第二次世界大戦以降に盛んになったキリスト教に求めていることが解る。

しかし、公私で韓国を旅行して韓国人の日常生活に接して強く感じるのは、李朝時代の「儒教」の影響が今でも大きく残っている鮮烈な印象である。

例えば、韓国人の若い人と年長者が混ざって飲酒や喫煙する瞬間に強く感じるし、テーブルを囲んだ食事の時間にも、ふと、気付かされる場合もある。このように、今でも韓国社会に於ける儒教の潜在的な影響力を無視出来ないと感じる瞬間に今でも出会うことが多い。


朝鮮半島二千年の宗教史を回顧すると、新羅から高麗に至る約一千年間が「仏教」の時代であり、その後の李氏朝鮮時代の約五百年間が「儒教」の時代だった。そして、解放後の約70年間がアメリカの強い影響を受けて、「キリスト教」の時代になったと考えられる。

即ち、その時代毎の強国の強い影響を受け続けた中規模国家朝鮮とその人民は二千年の歴史の中で、三度、思想と宗教の抜本的な変革を経験したのだった。

もちろんどの国も、同様の宗教的に苦難の時代を経験した過去を持っているケースが少なく無いが、これ程、明確に時代と思想が一体となって転換している国も少ない。


このように、第二の「国家思想」転換期に、最も影響を受けた朝鮮美術の一つが、今回採り上げた「高麗仏画」だったと思わずにはいられない。

これだけの美術品が世界中に散逸してしまった現状を思うとき、古代エジプト美術の散逸や日本の「廃仏毀釈」時の仏教美術の海外流出を想わざるを得ない。

確かに、異教徒の多いキリスト教国の美術館に展示されて「東アジア美術」の魅力を紹介する一助となった名画がある一方、隣国の熱心な仏教国である日本に安住の地を求めて招来された「高麗仏画」が、これからも永久に保存されることを祈りたい。


(参考資料)

1.韓国・朝鮮の絵画      別冊太陽     (株)平凡社   2008年

2.世界歴史大系 朝鮮史1 李成市その他編  山川出版   2011年


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