28.異民族支配への中国人の反発
古代から「宋代」に至る千年以上に渡って中国人が夷狄と卑しんで来た北方の諸民族によって、中国が北部から次々に蚕食され、最終的には中国全土をモンゴル騎馬軍団によって征服された経緯は前稿まで略述した。
その結果、誇り高き中華の民は夷狄の征服王朝の「元」に隷属する下層国民に成り下がった訳だが、プライドの塊のような漢人知識層が何もせずに、手をこまねいていたとは考え難いと思っている。
今回は、「北宋」時代に「資治通鑑」を編纂した司馬光と国土が半分になってしまった「南宋」時代に「朱子学」を創始した朱熹の二人の知識人の活動を通じて、古代から宋代末期に至る漢人独特の思考回路が導いた中華哲学の一部に触れてみたいと思っている。
但し、最初からお詫びして置くと中国人独特の異民族を全て夷狄と蔑視するスケールの大きな中華論を個人的には未だに理解できていない状況にある為、現代中国人も主張する全ての夷狄が最終的に中華文明に吸収・合体されていく歴史的な流の話にはなりそうも無い点をお断りして置きたい。
司馬光が編纂した「資治通鑑」も朱熹の造り上げた「朱子学」も理路整然とした中華思想の美しい結晶の一つだと感じる。
しかしながら、中国という国家自体が、ヨーロッパ諸国や日本のような「封建時代」を経験していないせいか、庶民を含めた全国民が時代の真実に向き合うという根本的姿勢に欠けているように感じる部分が筆者にはある。
現実には、北宋にしても南宋にしても異民族の軍事力に屈従を強要された時代だったが、最初にモンゴルに降伏したのは庶民よりも各地の軍閥や将軍達だったのではないかと疑える節が無くは無いからである。
それでは、契丹族の遼が中国の一部支配の根拠とした「燕雲十六州」の異民族への割譲が始まった時点から軽くお復習いをしてみたい。
(異民族による本格的な中国侵攻は、「燕雲十六州」の譲渡から始まった)
古代中国文明の偉大なピークである「唐」の滅亡後、雑多な胡族が中原を目指して侵入して短命王朝を設立した「五代十国」時代後期の後晋の時代に「遼」、「金」、「元」と続く征服王朝の種が蒔かれたと考えてもそう大きな間違いでは無いと考えている。
936年、後唐を滅ぼして後晋を建国した石敬瑭が後晋支援の見返りとして、契丹族の「遼」に現在の北京周辺の「燕雲十六州」を割譲した行為は、半農半牧の異民族「遼」にとって、漢人支配領域進出の好機となったのである。加えて、元々、支配下に農耕民を抱えていた契丹族は狩猟民と農耕民の「二重統治体制」の経験者でもあったのである。
遼は後晋から割譲されて、新しく領土となった中国系定住民の多い燕雲十六州の経営を無理なくスタートすることが出来たと考えられる。
一方、敵国に勝つためとはいえ漢人定住の農耕地域だった燕雲十六州を夷狄である遼に譲渡した行為は中国人の自意識を大きく傷つける重大事件であり、五代十国最後の王朝、「後周」の世宗にとっても悩ましい問題だった。
英傑世宗は残念ながら、この重大問題を解決することなく若くして没した為、中国北方に関するこの重要な国際問題は、久し振りの中国統一政権、「宋」にバトンタッチされることとなった。
宋の太祖趙匡胤時代には、中国統一が最優先した為、北方の燕雲十六州奪回まで手が回らなかったが、国家としての体裁が整った第二代皇帝太宗は50万の大軍を動員して、この北方領土問題解決を図っている。
しかし、流石の太宗も契丹軍に大敗、数年後再起を期して大軍を動員するも、またもや惨敗している。
これ以降、この問題は宋の歴代皇帝と重臣層の間の精神的なストレスとなって悪夢のように残ったのだった。しかし、現実には、宋朝は軍事的解決を抛棄して、前述したように莫大な「歳幣」を贈って平和を購っている。
その結果、宋は繁栄と平穏な時代へ突入して行くことになるのであった。
(「科挙」重視の宋の文治政治)
「宋朝」の創始者趙匡胤は馬術が得意で、騎射にも優れた武将だったが、北宋中期の政治の実務を主導した士大夫達の中には乗馬も満足に出来ない文弱な人々も多かったという。
宋朝に於ける「科挙」の実施は、政治の主導者が唐代の貴族層からより広範囲な知識人層である士大夫層への移行を如実に示している。五経を読み四書を暗唱した儒学者が朝堂に増えたことにより、宋は急速に文治国家的な政治体勢に移行している。
広袖のゆったりした衣を着て肉体労働を蔑んできた宋の上層部の人士が、異民族騎馬軍団の本当の怖さを理解出来ていたのか、その後の歴史的な経過を見ると極めて疑わしい。
現実的に、「科挙」の広範囲な実施は、北方民族と対決できるだけの人材、それも将才のある指揮官の出現を徹底的に妨害していたのである。
夷狄「遼」との間の安寧は、莫大な財貨を遼に贈る「歳幣」によって、辛うじて保つことが出来た極めて危険な状態だった。
しかし、北宋は、もう一つ危険な騎馬民族国家を西方に抱えていたのだった。それは、現在の甘粛省とその周辺を領土とする西夏だった。
北宋は遼と共にこの国との交渉にも苦労している。しかし、この方面では、宋代には珍しい文武両面での名臣「范仲淹」の赴任によって平和を確立する幸運に恵まれている。
范仲淹は後の時代の明がとった「万里の長城」政策の前段階のような城塞による拠点防御主義を用いて西夏との国境線を堅守したことにより、西夏の李元昊は北宋に和を求めている。
范仲淹は、「天下の憂いに先んじて憂い、天下の楽しみにおくれて楽しむ」の名言でも知られるが、彼のように敵国と正面から向き合う国境線の守備の大任を任せられるような文官の数は、北宋では極めて少なかった。
いずれにしても、北宋から南宋の時代、国運を託せるほどの名将は遂に出現しなかったのである。
(「宋朝」国家財政の逼迫と内部抗争)
少し先に戻ると、太宗の二度に渡る遼への遠征失敗は、必然的に北の脅威に対する宋の常備軍の人員増となって国家財政を圧迫したのだった。
それに加えて、莫大な財貨を遼に贈る「歳幣」によって、平和を購った点も財政の健全化を阻害している。この二つの大きな問題点の他にも宋の経済を圧迫した原因が、「科挙」による官僚の肥大化とそれに充当するための莫大な報酬であった。どの国でもそうだが、一度利権の味を占めた官僚や宦官は、国家が崩壊する遠因となろうとも、己の利権を手放すことは無かったのである。
この国家規模の財政危機に向かって立ち上がってのが、第六代神宗と王安石のコンビによる「新法」による国家財政の大改革だった。
しかし、王安石の新法実施により、従来の官僚利権の多くを失う可能性に遭遇した重臣層、士大夫層の反発は予想以上に激しかったのである。
北宋中期から後期の政界は、北方の異民族「遼」ヘの軍備よりも、「新法派」とそれに反対する「旧法派」の政治的な内部抗争に多くの時間が奪われていくのだった。
司馬光が歴史に登場するのは、革新的な政策「新法」を掲げて神宗の下で活躍した政治家王安石のライバルの旧法派としてである。司馬光は切れ味の良い才人だった王安石に比べて、どちらかというとまじめで実直ながら極めて保守的な人物だった。
しかし、後世の中国人に与えた影響の大きさでは王安石以上の存在が司馬光の編纂した歴史書「資治通鑑」である。
(中国知識人の反発、「資治通鑑」)
学生時代の初めの頃、「史記」と「資治通鑑」の両書は読了したが、史記の圧倒的な文章力に感動したのに比較すると、資治通鑑の記述は淡々と年代を追っている点で、ヨーロッパの年代記を読んでいるような印象しか残っていない。
しかし、「元」以降の後世の中国知識人に与えた影響は、史記以上のものがあるように感じている。
それまでの中国の正史は、「史記」や「漢書」に代表される「紀伝体歴史書」だった。紀伝体とは各王朝の歴代の皇帝の経歴と事績を「本紀」とし、諸侯を初めとする重要人物の伝記を「伝」とする歴史の記述方法であり、王朝創業者の人物像や歴史上の重要人間の相関関係を鮮やかに読者の元に届けてくれる長所がある。
一方、「資治通鑑」は宋の英宗の勅によって治平2(1065)年に着手され、元豊7(1084)年に完成した編年体の全294巻の歴史書で、司馬光によって完成された。
記載されている年代は、紀元前403年の戦国時代から始まり、宋建国前の後周の世宗の959年に至る1362年間の主な出来事が年代順に記載されている。
この新しいタイプの歴史書の編纂に当たって司馬光は儒学の重要な古典の一つ「春秋」から学んだ哲学的背景を十分に生かして完成させた節がある。
司馬光が編集方針に採用した、「春秋の筆法」とは平等で厳しい批評を貫きながらも、熟読すると深い真意が汲み取れるような文章を差し夾で編集されている手法だと参考に調べた解説書にあった。
司馬光の資治通鑑編纂の根底には、どうも夷狄と中華を峻別する一方、漢族による正統王朝を強調して記述する強い意志が内在していたように感じられる。その為、「華夷の別」に飽くまで拘った編集であり、歴代王朝の正当性に関しては峻厳な態度を貫いている。
そうなると、「漢」や「唐」等の堂々たる漢人系統一王朝の場合は良としても、「五胡十六国」時代や「南北朝」、「五代十国」期のように、漢人系王朝と異民族が建国した王朝が南北で混在した場合の記述に司馬光は相当、苦慮したと考えられる。
その中でも、南北朝期の場合、南朝を正統中国王朝と記述して、北朝の王朝を夷狄の王朝として峻別して記述している。
しかし、である。最終的に南北朝時代の中国統一に成功したのは、司馬光が夷狄とした北朝系の「隋」であった。
その結果、隋の文帝の中国統一達成までは、文帝を「隋主」と格下で記述しているのに対し、隋の統一達成と共に正統な中国王朝の皇帝に格上げする異様な記述で無理に整合性をとっているのが資治通鑑なのである。
結果的には同時期に複数の王朝が並立している場合、極力、漢人王朝を正統王朝として記述し、中国全土の統一王朝が出現したケースでは、瞬時にして、統一王朝の側を正統王朝として記述する如何にも中国人らしい豹変振りを示しているのが資治通鑑であった。
司馬光の資治通鑑の記述は前述のように、「宋」の前の王朝である「後周」の世宗の時代で終了している。
その為、「宋」の建国当初からの旧敵、「遼」との関係に関する記述に言及すること無く資治通鑑を終了出来た司馬光は幸せだったかも知れない。
もし、宋代の歴史に触れた場合、『宋の第二代皇帝太宗は遼に完膚なきまでに大負けしているし、宋の真宗は遼の聖宗との間で屈辱的な「澶淵の盟」により「歳幣」の約束をしている上、この時の約束で遼の聖宗は真宗を兄として尊重し、真宗は聖宗を弟とする内容であったのである。即ち、中国と中国北部に同時に二人の正統皇帝が並立する、中国人にとって矛盾に満ちた約束だったのである』
夷狄と中国を峻別して、遼を野蛮人と心の奥底で密かに想定していた宋の知識層にとって、同一時期に二人の正統皇帝が出現する政治状況は決して許せる事態では無かったのである。
(文運隆盛の「北宋」と異民族「金」の中国侵攻)
大きな対外戦争が終了した北宋の時代、首都開封を初めとする南北経済の活性化と庶民の生活レベルが大きく向上している。文学的にも唐代の漢詩の盛行に比較して、「散文」が時代を象徴する文芸の印象がある。
皆さんが北宋時代の文化人として最初に思い浮かべるのが、有名な唐の韓愈を筆頭にした唐宋の名文家八人、所謂、「唐宋八大家」の中の蘇軾を初めとする宋代の六人であろうか!
文運急上昇の宋代の六人はと見ると、欧陽脩を初め日本では号の蘇東坡の方が有名な蘇軾、蘇洵、蘇轍の親子三人に曽鞏、そして新法推進者の王安石が入っている。
文学面の詳細はご専門の方々に譲るとして、当時の政争の焦点だった新旧論争で今挙げた宋代の六人を分けると、欧陽脩、蘇軾、蘇洵、蘇轍の四人は旧法派であり、曽鞏もどちらかというと新法に批判的であった。宋代の文学の世界から見ると新法推進者は王安石一人であり、どうやら、北宋の知識階級の多くは保守的な人物だった感じがしている。
中でも蘇軾は、詩、散文共に優れた宋代を代表する文豪であった。しかし、文運の隆盛を喜べないほど国家としての北宋の危機は身近に迫っていたのである。
国内的には中国歴代皇帝の中でも最大の芸術愛好家であり政治音痴の徽宗の即位であり、対外的には女真族の勃興であった。
満州に於ける女真族の勃興と遼の中国化による弱体化を奇禍として、「宋」は女真族が新たに建国した「金」と海を連絡路として夾撃する盟約「海上の盟」を結んだのだった。
しかし、金の目覚ましい進撃に比べて、宋が、軍事的に大きな成果を挙げることは無かった。けれども、出兵も迅速に行えない文弱な国家「宋」だったが、戦利品の分け前である「燕雲十六州」の北宋への譲渡だけは厚顔にも金に要求している。
殆ど独力で遼を滅ぼした金にとって、一人前の軍事協力も出来ない宋の十六州返還要求は検討に値しない要望だったのである。
けれども、夷狄からの十六州奪還に固執した北宋の徽宗と重臣達は、金からの返還の可能性が薄いと判断すると、今度は金の敵である遼との同盟を策す背信行為に走る愚かさだった。
度重なる北宋の違約に激怒した金の太宗は優柔不断で決断力に欠ける徽宗とは正反対の勇猛な上に果断で実行力に富む人物だったのである。
1125年、遼を滅ぼした金軍は余勢を駆って南下、首都開封に迫ると徽宗は恐慌状態となって息子欽宗に譲位、金への報奨金の増額と領土の割譲を条件に再度、盟約を結んだ為、太宗率いる金軍は翌年3月に撤退している。
ところが、である。金軍の撤退と共に夷狄との約束など漢人が守る必要は無いとの強硬派の暴論が北宋宮廷の主流を瞬く間に占める驚くべき事態となったのである。
この軍事的切迫感が完全に欠如した度重なる北宋の裏切り行為に金の太宗は激怒。同年の内に首都開封は再攻撃され陥落・崩壊している。この、北宋が滅亡した「靖康の変」の経緯は前述した。
北宋の滅亡によって唯一金に捕われなかった王族の「高宗」によって再建された「南宋」は中国人の正統王朝を誇りに失った華北奪回に邁進するかと思いきや、前稿の忠臣岳飛と宰相秦檜の項で述べたように仇敵「金」に臣従して多くの歳幣を贈る屈服の道を選んだのであった。
歳幣によって平穏の時を得た南宋で創生されて後世中国社会に大きな影響を与え続けたのが朱熹による「朱子学」であった。
(「朱子学」)
朱子学勃興の背景には、唐代における道教の躍進とそれに伴う儒学者の危機感と反省があった。漢代に盛んだった儒教も新しく流行した仏教や道教の敷衍と共に見劣りする古くさい秩序体系と見られる傾向が出てきたのである。
唐以降、盛行した道教が万民向きの哲学性を帯びていたのに対し、秩序と礼儀を優先した旧態依然たる儒教は知識階級を納得させるだけの哲学と体系的な理論武装をまだ確立できていなかったのである。
その古い儒教の革新に一役買ったのが、宋代に勃興した新興地主層を基盤とする士大夫層であり、漢や唐の頃の五経を中心とした訓詁学的な儒教に飽き足らない人々だった。
仏教の理論体系や道教の哲学的思弁も参考にして、儒教の体系的な再構築を目指したのが「宋」の時代の儒学だったのである。
そんな折、金によって臨安に追われた「南宋」に生まれたのが、朱熹(1130~1200年)であった。彼の父は、金に迎合して忠臣岳飛を謀殺した秦檜の反対側の官吏だった為、朱熹も生涯、政治的に不遇だったが精神世界では、その後の中国の儒学の歴史的な方向性を決定付ける「朱子学」と呼ばれる偉大な新儒学思想を構築している。
若い頃、儒学と共に禅宗や道学を学んだ朱熹は、仏教や道教の持つ哲学性や理論的背景の重要性を理解していたし、吸収した長所を学習することによって、それまでの儒学の体系を一変させる大改革を成し遂げている。
朱熹が主に学んだのは、北宋の五子と呼ばれる「宋学」の先輩達、特に程頤の説だった印象がある。程頤とその周辺の先学の考え方を継承整理して発展させた朱熹は、天地万物には秩序や法則である「理」があり、一方、万物を覆う「気」とは互いに単独では存在する事が出来ない「性即理」の関係にあると説いている。
更に朱熹は、「気」よりも「理」に重要性を見いだして、「天理」の存在の優位性を君臣関係の秩序にまで広げている。この点が後世の歴代王朝によって、「朱子学」が皇帝を初めとする重臣層に支持された因子になっているような気が個人的にはしている。
また、朱熹によって大きく変わった点が儒教の教科書の選択にあった。
孔子以来、儒学では古代以来の「五経」を最重要の教科書として尊重していた。古い時代の周の文公を敬愛していた孔子としては当然の流れだった。しかし、朱子は、それに大きく反発して孔子以降の「論語」を中心とする「四書」を最重要の儒教学習の書籍として推奨している。
その為、朱子以降の儒学の学習では、それまでの「五経」に変わって「四書」が重要視されて、歴代の科挙の試験問題も「四書」を中心に出題されることとなったのだった。
その結果、朱熹の生存中には南宋中央から認められなかった彼の考え方も、朱子の没後、時間の経過と共に尊重され出すと国家が管理する官吏採用試験である「科挙」において、従来の「五経」からでは無く、朱子の尊重した「四書」から重点的に出題されるようになるのである。
朱子学が後世、普及した背景には、朱熹と呂祖謙によって編纂された朱子学の入門書、「近思録」の効果が大きい。近思録は江戸後期の日本でも多くの人々に愛読されて、頼山陽の「日本外史」と共に明治維新の見えない原動力の一つになっている可能性があるくらいである。
その結果、朱熹の出現によって、「元」の科挙を受ける者も、元の後の「明」、「清」の科挙受験者も、「四書」の丸暗記から受験勉強を始まることになったのである。当に、「博覧強記」こそが、科挙合格の必須条件であり、暗記力に乏しい、独創性に富んだ臨機応変型の頭脳は、中国では長く必要とされない現象が起きたのだった。
(古代以来の中国文明の崩壊)
金と南宋の間で結ばれた平和な国際関係は、モンゴル軍の中国侵入によって瞬く間に崩壊し、第五代モンゴル皇帝フビライは本格的な南宋攻略に着手している。
その後、5年に渡る「襄陽包囲戦」の成功によって本格的征服王朝「元」による「南宋」の首都臨安府の陥落が決定付けられた点も前述した。
首都陥落後も南宋の忠臣「文天祥」達の抵抗は続いたが、2年間の抵抗の後、中国全土はモンゴル軍の馬蹄の下に屈したのである。
「元朝」の南宋征服によって、古代以来連綿と続いてきた中国文明の系譜を引く中国人王朝が完全に消滅した歴史的現象の衝撃は大かった。
宋が誇った士大夫層の育成を果たしてきた「科挙」も全面的に廃止された上、華北の「漢人」も江南の「南人」も人種として下等の第三等や最下等の第四等に位置付けられる屈辱を味わわされたのである。
「元」に於いて最大の人口を有する中国人は、支配者であるモンゴル人はもちろんのこと支配者の手先であるイスラム教徒を主とする「色目人」にも劣る人間として規定されたのだった。
これまで、太古以来、延々と続く中国の覇権抗争と王朝末期の凄惨な政権交代の実際を中国人は、「天命」と「易姓革命」という都合の良い表現を用いて綺麗にカモフラージュしてきたのだった。
「天命」を美しく表現すると、無能な天子に変わって、『天命を受けた新しい天子が天下を統治する』と表現される。「易姓革命」についても、広辞苑によると、『天命によって有徳の人が位につき、天意に反する者は位を失うこと』とあり、王朝の姓も新しい有徳の皇帝の姓に時代と共に切り替わる訳である。
しかし、この有名な古代からの中華思想の根底には、「天命」にしろ「易姓革命」にしろ、天命を受ける者は漢人、あるいは中国人が大前提となっていたはずだった。
所が、である、「金」、「元」と続く異民族征服王朝による中国統治により、漢民族系王朝による天命の授受は完全に崩壊してしまったのである。
異民族による征服王朝が成立してしまった結果、「有徳の天子」が中国人の忌み嫌う夷狄の首領になる異常事態が、「金」と「元」の両朝によって出現したのである。
これは当に古代以来の「中華秩序」の崩壊であった。
確かに、宋の時代に完成された「資治通鑑」や「朱子学」の流れを汲む「大義名分論」が現代に至るまで中国人の根底に流れる重要な思想の一端を担っている点は理解できる。
けれども中国人の好む「大義名分論」では、如何に説明しようと説明不可能な非情な現実に全中国人が遭遇したのが「元」の時代だった。
「元」と明の後の「清」による長期間の異民族支配を経験することになる中国人は、偉大な中国文明の系譜に連なりながらも、やや歪んだ精神構造を持った民族になってしまったように感じる。
そう考えると、「元朝」の武断的支配に抵抗して、当時の中国人有力武将や知識階級出身者が立ち上がることは最後まで無かった点も理解し易いように感じられる。
元の末期、異民族征服王朝の収奪に絶えかねて各地で蜂起した多くの農民暴動の領袖の一人である最下層の貧民階級出身の朱元璋が次の中国人王朝「明」を起こすことになるのである。
(参考資料)
1.中国文明の歴史 岡田英弘 講談社現代新書 2004年
2.人物中国五千年6 西野広祥 PHP研究所 2001年