27.征服王朝、「元」の中国統治
「金蓮川」という単語を最初に読んだのが何時だったか、余り多くの時間が経ってしまったので、その詳細を全く覚えていない。若しかしたら、フビライの祖父のジンギスカンの伝記の一節だったのかも知れない。
最初にイメージしたのが、初夏の小川の屈曲する流に沿うように咲く黄色の花の群落だった。調べてみると、この名前の由来は、キンポウゲ科キンバイソウの仲間の黄色い花が群生している草原の風景で、ネットの映像で見ても心地よい感触が伝わって来る癒しの空間だった。
実際に軽騎に乗って「金蓮川」を疾走した祖父ジンギスカンや孫のフビライにとって、騎馬軍団編成の為の理想の天地の一つだったのだろう。
フビライが、兄の第四代モンゴル皇帝モンケから南宋攻略の指令を受けて軍勢を整えたのも、この金蓮川だった。
(モンゴル帝国の首都「カラコルム」)
世界帝国の成長しつつあったモンゴル帝国に於ける都を明確に最初に定めたのは第2代皇帝「オゴディ」だった。彼によって、モンゴル高原の中央に帝国の首都として「カラコルム」が建設されている。
モンゴルの首都カラコルムがモンゴル高原の中央部に位置するのに対し、フビライの本拠地「金蓮川」はモンゴル高原の南部に位置していた。更に、フビライが皇帝と成って後に建設した大都との位置関係でいうと、現在の北京から金蓮川は北に275kmとネットに表示されている。
カラコルムはオゴディ以降の歴代モンゴル皇帝にとって政治的に重要な都市だった。その価値は第4代皇帝であるフビライの兄のモンケの時代になっても変わらなかったし、西方に連なる一族の国家群との関係を考えても、その存在価値と政治的な重要性は変わらなかった。
もう一つ、カラコルムの重要性を挙げるとすれば、オゴディによって実行された首都カラコルムから帝国各地のウルスへの駅伝網「ジャムチ」の整備である。ジャムチによってモンゴル皇帝の命令は直ちに広大な帝国の各地に伝えられたし、各ウルス(分国)の情報も迅速に皇帝の元に到達するシステムが構築されたのだった。
首都カラコルムやジャムチは第二代から第四代のモンゴル皇帝によって受け継がれて、モンゴル世界帝国発展のための大きな足掛かりとなっていたのだった。
そして、第5代皇帝フビライの活躍は兄モンケの突然の死から始まる。
(「フビライ」、人生最大の危機と漢人世侯の反乱)
第4代皇帝モンケは弟フビライと共に南宋征討作戦の遂行中に突然病没している。その時フビライはモンケの指示に従って南宋の領域深く侵入中だったのに対し、末弟アリク・ブケは都カラコルムに居て最も有利な立場にあった。
更に悪いことにフビライと共同作戦遂行中だった勇将ウリャンカダイは長江中流域を転戦中で南宋の中に孤立していたのだった。
当然、第5代のカン位をいち早く手に入れる為には、一刻も早く首都カラコルムに帰り「クリルタイ」を開いて、衆望を得てカンの位を手に入る必要があったのである。凡将ならば、間違いなく南宋戦線の味方を置き捨てて、側近の軽騎だけを率いて北帰したはずだが、フビライはウリャンカダイと確実に連絡が取れるまで北上を開始せず、辛抱強く連携が確実となるまで待ち続けたのだった。
友軍の無事が確認できるまで手元の遠征軍を動かさなかった行為によって、中国各地のモンゴル軍の信望を得たフビライだったが、首都カラコルムでは、弟のアリク・ブケがカン位への策動を開始していたのだった。
南宋から帰還したフビライは本拠地金蓮川に帰ると自派の「クリルタイ」を開き、皇帝に即位している。一方、兄達の南宋侵攻中、カラコルムに安居していた末弟のアリク・ブケも翌月、自派のクリルタイを開催、モンゴル皇帝に即位したのだった。
その結果、モンゴル帝国には同時に2人の皇帝が存在する非常事態が起きたのである。当初、首都カラコルムで帝位に就いたアリク・ブケの方が支持者も多く絶対的に優位だったようだ。
長子相続が確立していなかったモンゴルでは、往々にして末弟の家督相続は存在したし、何といっても皇帝就任に欠かすことの出来ないクリルタイ開催に於ける首都カラコルムの位置的重要性は否定できなかった。この時点で、金蓮川はフビライ個人の軍事的な根拠地にしか過ぎなかったのである。
歴代のモンゴル帝国のカンを決めるクリルタイはモンゴル独特の民主的な催しだったが、決定後に反対候補及びその後援者が平和で過ごせる絶対的な保証があった訳では無かったのである。
気性の激しいカンが就位したケースでは、反対派が歴史から排除される危険性を孕んでいたのである。
この第5代モンゴル帝国のカンの位が、フビライとアリク・ブケのどちらの手に入るか不透明なこの時期こそ、フビライの人生の中で最も危険な時期であったのである。事実、フビライのカン位がモンゴル帝国全体で認められアリク・ブケがフビライに降伏して2年後、アリク・ブケの存在は歴史上から消えている。一歩、判断を誤れば、フビライの名が地上から消えて二度と現われない可能性もあったのである。
このフビライにとって最も危険性が高まった時期に、フビライの本拠地近くで起きたのが漢人世侯「李たん(壇の編が王)の反乱」だった。
モンゴル軍の華北侵攻時に協力して広大な土地と軍権を含む利権を与えられて優遇されていた漢人世侯の一人、李たんだったが、同じ漢人である南宋の誘いに乗って、フビライが苦境のこの時期に反乱を起こしたのである。この行為は、間接的ではあったが、フビライ最大の敵である実弟アリク・ブケを支援する利敵行為だった。
この反乱は早期に鎮圧されたものの、これまで中国人に対して最も好意的に接し、優遇と大きな権限を与えてきたフビライの心の奥底に刺さった棘のように漢人への不信感を内在させることとなったと推定したい。
しかし、賢明なフビライは本心を隠し、従来のモンゴル軍では余り見せなかった寛容を中国人の降伏者に対して示している。その一例が襄陽で元軍に激しく抵抗した呂文煥将軍等への優遇であった。降将を許す度量が南宋の民心を得る早道になることをフビライは理解していたのである。
しかし、この李たんに始まる降伏漢人層に対する大きな拭い難い不信感は、フビライの各民族に対する慎重な観察の必要性を助長し、中国民族全体に対する不信感として蓄積していったように歴史的には感じる。
何故ならば、「元」による中国統一が完了した時点でフビライの明確な施政方針となって示されたからである。「元帝国」に於いて、第一位の民族はもちろん「モンゴル人」ながら、第2位の民族は漢人では無く、西方から来た「色目」だったのである。色目人とは鮮やかな色の目のイスラム教徒やヨーロッパ人だった。そして、第3位が旧金領だった華北の住人の「漢人」であり、南宋出身の江南人は「南人」として最下位に位置付けられたのだった。
フビライが、皇帝の位を手に入れるか、それとも反逆者として殺されるかの瀬戸際に居た時の一部漢人の豪族層の反逆を発端として、結果的にはフビライの中国人全体への不信感が増大した結果、旧金や南宋の国民にとって極めて高い代償となって跳ね返ったと個人的には考えたい。
それでは、フビライが、どの様にして中国支配を実施していったのか観察してみよう。
(「元号」の採用と「大都」の建設)
1260年、皇帝に即位したフビライはモンゴル皇帝としては初めて中国風の元号、「中統」を立てている
フビライにとってはモンゴルと同様、中国の北半分も既に自分の勢力圏に属する重要な支配領域だったし、華北を安定的に治める手段としての中国風の元号実施に抵抗は無かったのである。
更に加えれば、漢人の臣下から進言される古代中国伝統の習慣に対しても、実害が無い限り嘉納する皇帝としての度量もフビライは持っていたのだった。
フビライは中国統治中核の行政機構としては「中書省」を新設して行政府の最高機関としての機能を拡充させている。モンゴル族の権力基盤である軍に関する軍政に対しては、「枢密院」を設けて掌握し、監察業務の遂行機関としては「御史台」にその権限を与えている。
1276年、実質的に南宋を滅ぼして中国全土の統一に成功したフビライは、翌年の至元(1267)4年、己の大モンゴル帝国統治の拠点として「大都大興府」、現在の北京を建設して帝国支配を加速させている。加えて、愛着のあるモンゴル高原の金蓮川の名称を「上都開平府」と改めて夏営地としている。
騎馬民族として中国全土の征服者であり支配者となった皇帝フビライにとって、旧都カラコルムはモンゴル高原にある父祖の地ではあっても、彼が支配する全領域の中心地では無かったのだった。
結果としては、フビライは中国人官僚の勧める大都(現在の北京)の建設を急ぐ一方、狩猟民族であるモンゴル族との妥協を図る都市計画を大都で実施している。
当時の大都の平面図を見るとフビライの宮殿が区画の中心に置かれ、大都の城壁に囲まれた北半分はモンゴル族がゲルを建てやすい広々とした緑の草地だったらしいし、南半分には中国風の役所や住居は、宮殿の南側の地域に当初建設が許されたと読んだ記憶がある。
ゲルを住居として、気随気ままに移動を繰り返してきたモンゴル族にとって、定住を好む中国風住居は決して嬉しい生活環境では無かったはずだった。その妥協点の一つが大都の都市計画で、南北で生活環境の違う民族同士が共存できるように設計されたとも考えられる。
(モンゴル帝国の中国統治と問題点)
先に、中国統治行政の中核機関として「中書省」を設けたと述べたが、どうもこれは、征服王朝の先輩である「金」の統治システムから学習した様子がある。
この中国古来の「中書省制度」を元は中国全土統治制度の中核として用いただけで無く、地方毎の行政機関として「行中書省」を設けて地域統治の最高機関としている。この制度は、現在の中国の行政区画「省」制度のもとになった組織といわれ、今日、中国の地方行政単位で使用されている「省」は、この「行中書省」の「省」から来ているらしい。
この組織は地方の統治システムとしてだけで無く、軍事、例えば日本征服の為にも設けられており、「元寇」時の最高機関は「征東行省」と呼ばれて、高麗国王が兼務していた。征東行省府は二度の元寇の後になっても廃止されず、三度目の日本征服準備を進めていたのだった。
フビライの中国支配を概観するとモンゴル人らしい自由経済と東西交易の重視が感じられるのが、紙幣の採用である。
世界初の紙幣は、北宋の紙幣、「交子」の発行といわれ、次の金では、「交鈔」と呼ばれて継続されているし、南宋でも「会子」として運用されていた。
しかし、金朝に対するモンゴルの攻撃や、その後の混乱期に於いてモンゴル族や漢人軍閥が勝手に「交鈔」を乱発して経済の混乱を招いていたが、元は経済の安定化の為、乱発されていた紙幣「交鈔」の個別発行を禁止して、通貨を「諸路通行中統元宝交鈔」に統一し国家経済の安定を図っている。
ヨーロッパでの最初の本格的な紙幣の発行が、1661年、スェーデンの銀行が発行した銀行券だった点を考えると、北宋、金、南宋、元と続く、紙幣発行の通貨制度の実施は、ヨーロッパよりも数百年早く、東アジア世界が誇って良い経済的先見性の一つだと実感する。但し、紀元前の段階で古代エジプトのパピルス、カルタゴの革製の通貨が既に存在していたらしい。(笑い)
宋代や金朝から続く、先進的な紙幣の発行には長所も多かったが、問題点も多かった。有力諸侯による紙幣の乱発は帝国経済を混乱させるだけで無く、場合によってはモンゴル帝国崩壊の糸口となりかねない危険性を帯びていたのだった。
南宋から続くこの時代、隋以来の南北の大動脈である大運河の改修と整備、そして、外航船の発達による海外との交易港の整備が中国南部を中止に進んでいる。
更に、大運河の要として発達したのが、旧南宋の都だった杭州や揚州だった。また、海外貿易港と大運河の結節点としての泉州の発展も見逃せない。泉州は当時世界最大の貿易港として栄えた様子が今日まで伝えられているし、南の広州もこの時期から成長が認められている。元での海上交通の活発化の背景には、中東のイスラム圏の広い部分がモンゴル帝国のウルスになった点を見逃してはならない。世界帝国としての長所は海上交易でも有効に機能して、海からも多くのイスラム教徒が中国にやって来たのだった。
その背景には、元では、モンゴル人の次に重用されたのが色目人と呼ばれたイスラム教徒だった点も大きかったと思う。色目人と呼ばれた彼等は税金の徴税者としてモンゴル人に重用されている。
(東アジア初の世界帝国「モンゴル」と訪問者達)
モンゴル人が東アジア初の世界帝国を構築できた背景には、広大な支配領域での宗教的な寛容さが指摘されている。
ウルスの中でも、特に西に位置する各ウルスは地理的に、「イスラム教徒」が多く、各王家自身も後にイスラム教を信仰するようになった関係でイスラム教徒による東西交易が活発化している。その結果、続々とイスラム圏から中国を訪れる人の数が増加しただけで無く、遠くキリスト教圏からもローマ法王やフランス国王の使者を口切りに、商人達がモンゴル人の支配する地域に到着し始めるのであった。
中でも、「旅行記」を書いた14世紀の「イブン・バットゥータ」は、ヨーロッパ、スペインのグラナダから元の泉州、大都に至る記事を記載している。中国に関する記述は実際の探訪記事では無いとする見解もあるようだが、これまでの旅行記では不可能だった広範囲な未知の世界との出会いが記述されている。それが、可能になった背景にはモンゴル帝国の存在を抜きにしては考えられない現象であった。
南宋の併合により、元の東西交易国家としての基礎は完成し、遠く中国を訪れる異域の人々はイスラム教徒だけでは無かったのである。
日本人が元を訪れたヨーロッパ人として初めに思い付くのがベニスの商人マルコ・ポーロであり、彼が口述した「東方見聞録」である。特に、日本を含めた東方の数奇な未知の世界をヨーロッパに広めたマルコ・ポーロの功績は大きい。
けれども、モンゴル帝国を訪れたヨーロッパ人の中では、マルコ・ポーロは比較的遅い方で、ユーラシア大陸の東西に繋ぐ広い部分を占有したモンゴルに対して、最初に接触を試みたのはローマ教皇によってモンゴル人に対する偵察を命じられたフランシスコ会修道士のプラノ・カルピニだった。彼は、バトゥの元に派遣された経緯を「モンゴル人の歴史」と呼ばれる報告書にまとめている。プラノ・カルピニはバトゥの朝廷での待遇に報告書の中で不満を述べているが、バトゥ側は、どうも、一国の使節として丁重に待遇している様子が伝えられている。
初期偵察が任務だったプラノ・カルピニに続いて、フランス国王ルイ9世(聖ルイ)によってモンケ・ハンの朝廷に派遣されたのが、同じフランシスコ会修道士のルブリックである。彼はヨーロッパ人として中国に到達した初期の使節であり、彼の目的はルイ王によるイスラム教徒夾撃への協力要請だった。その大旅行の経緯について、「東方諸国旅行記」という本格的な旅行記の中に旅程や道筋を細かに記述されているというが、彼の初期の目的は残念ながら達成されなかった。
この二人に比べて大分後の時代になるが、最初のキリスト教の本格的布教者として活躍したフランシスコ会司祭モンテコルヴィーノを忘れてはいけない。1294年に大都に到着した彼は、中国に初めてカトリック教会を設立、中国に於けるカトリックの布教活動に尽力して、1328年、中国で没している。
マルコ・ポーロは、このモンテコルヴィーノとほぼ同時代の人だが、司祭が大都に到着する2年前の1292年に泉州から船で出発しているので、両者が相まみえる機会は残念ながら無かったと思う。
このように史上初めてヨーロッパのキリスト教圏と中近東のイスラム教圏、そして、東アジア圏の人々と文化が大々的に接触したのが、フビライの時代だった。その一端を挙げて、この稿を終りたい。
(東西文化の交流の一端)
何といっても元の東西交易による西方文化の中国への流入と中国文化のイスラム諸国への伝搬が、この時代を特徴付けている印象が強い。
元にもたらされた西方文化の多くは、先に挙げた襄陽攻囲戦に於ける大型投石機「回回砲」のように、「イスラム圏」からの物だった。
その中でも、後世に大きな影響を与えたイスラム科学に、古代ギリシャ以来の伝統に基づく「天文学」と先進的な「暦法」の伝搬がある。この最新の暦は、郭守敬(1231~1316年)によって「授時暦」として完成され、東アジア各国に大きな影響を与えることになる。後世の江戸時代の我国の暦の基礎も淵源を遡れば、この授時暦であることも、如何に朝鮮や日本に大きな影響を与えた精度の高い暦法だった点が理解できよう。
西からもたらされた最新の「材料」の一つに、イスラム圏からの「コバルト顔料」の導入が忘れられない。我国では「呉須」と呼ばれることの多い、この顔料によって初めて、表現力豊かな画題や文様が陶磁器の表面に描かれることになり、後世の東西の陶磁器愛好家を驚喜させる成果を現出させたのだった。
それまでの宋代までの中国の陶磁器といえば、「白磁」、「青磁」であり、表面の美しさや色調、器体の造形美の豊かさでは今日でも熱烈な愛好家が多い。しかし、このイスラム圏からのコバルト顔料の到着によって、それまで不可能だった陶磁器での絵画的世界が一気に花開いたのが「元の染付」であった。その技法は次代の明朝に於いて景徳鎮を初めとする生産地で更に発展して、圧倒的な量が輸出された結果、全世界の王侯に愛され、英語の「チャイナ」の語源の一つともなっていく。
一方、南宋の時代に発達した中国絵画は「イル・ハン国」に伝えられて、その精密で繊細な表現力が着目され、イスラム圏での精密絵画「ミニアチュール」発展を促す起爆剤になったらしい。
その他、古代中国以来の絹織物が船によって大量にイスラム圏、ヨーロッパ圏に輸出された時代も、この時代ではなかったかと思っている。シルクロードも歴史的に重要だが、船による大量輸送に匹敵する輸送手段を人類は今日でも持っていない点を考慮すると元によって開拓され、イスラム教徒によって発展した海の海上交易路は大航海時代へと続く重要の歴史の1ページだったし、ヴェネチアの発展を支えた香辛料「胡椒」もイスラム教徒の三角帆の輸送船「ダウ」によってヨーロッパにもたらされている。
そして、東方見聞録を現わしたマルコ・ポーロにしても、往路は陸上だったが、復路は海上から故国に帰っている。あれだけ、長年フビライに信頼されていたマルコ・ポーロが故国への帰還を急いだ背景には、独裁者の死による主従関係の崩壊を恐れた実情があった気がしている。イスラム圏への姫君の輿入れを名目にマルコ・ポーロは無事、故国に帰国することが出来たし、その結果、貴重な東洋の情報をヨーロッパに届けることが出来たのだった。
この稿を終るにあたって、イスラム圏からのコバルト顔料の到来によって、その後、大発展を遂げた「元の染付」の魚の絵の小壺か葡萄文様の皿でも出窓に飾って、それを眺めながら校了としたかったが、残念ながら庶民の自宅に高価な元の染付が存在するはずもない。(笑い)
仕方がないので、背面に、「元代の精拓」と書き込みのある唐の顔真卿の「顔氏家廟碑」の拓本を置いて眺めることにした。
拓本なので白黒反転ながら顔真卿独特の豊満な点画は十分に鑑賞できるし、加えて、モンゴル人の支配した元時代に中唐に建立された先人の書の大作の拓本をコツコツと写し取った漢人と思われる人物への感謝を込めて、この元の精拓を眺めることで我慢することとしい。(笑い)